プロローグ1
煉獄の最奥から降り立った鬼、誰もがそう感じた。
戦場を地獄に塗り替えた剣鬼。
一太刀払うだけで、名のある武士たちが沈み逝く。
全ての動きは彼の罠であり、わざと開けられた空間に武士たちは誘われる。
そして、獲物を狩るかのように刀は彼らの首元へ、一瞬にして命を刈り取る。
全ては彼の戦術で、彼の望む戦況に落とし込まれていく。
余りにもに高い技術。
研ぎ澄まされた感覚と肉体。
何人たりとも、攻略の糸口さえ見出せず殺されるその光景を、人はこう呼んだ。
『剣鬼』
空間把握が余りに高く、神の視点から状況を判断し、敵陣を乱し、陣形を破壊し、勝利する。
常軌を逸するその剣の技術は正確無比に首を刈り取る。それを支えるのは並外れた感覚、才能、経験、肉体、修練。
挙げ出したらキリがない。
戦場はたった一人に操られていく。
剣客の最高傑作。そして人が彼を『剣鬼』と呼ぶ所以である。
◆◇
身体が、思うように動かない。
まるで訛りのように重く、節々に痛みを感じる。
人間五十年と言われるこの世で、六十半ばまで生きれたこと事態が幸運なことであるのだ。これ以上は高望みだというもの。
そんなことを思いつつも、女々しく木刀に手を伸ばし素振りする。
できることなら剣客としてこの一生に幕を閉じたかったが限界なのだ。
戦いで左腕を無くし、思うように重心を移動することも叶わない。
それは第二の武器を奪われたのと同じことだ。
眼の衰えも目まぐるしく感じている。
病にも伏すことが多くなった。
木刀がメキメキという音を立てて折れ始める。
この老人は確かに今の実力は全盛期の一割にも満たないだろう。
ただ、彼の中では、病弱で刀も振れず弱くなった自分に嫌悪しているだけだ。
実際常人なら耐え難い頭痛と老いに苛まれている。
それでもなお、彼は強い。
途轍もない倦怠感に襲われる。
もうずっとこんな調子だ。
幾つもの地を巡った。
剣客として流離う様に、自由奔放な無頼者として。
弟子をとることもあまりなかったため、己が築いた剣術が誰にも伝わることなく朽ち果てることがなんとも寂しく思う。
一刀流、新陰流、新当流、示現流、夢想流。
まだ常人には理解できる範疇の剣の極意たりうる流派。
しかし、孤高の強さと異常さを持った宮本武蔵の二天一流と同様に、彼が作り出した独自の剣術、体術を駆使した戦闘理論は、例え数百年に一人現れるくらいの天才だとしても理解の範疇を超えている。
その眼は、捉えられた光景を瞬間的にそして全体的に把握する。
その情報は脳に行き届く前に身体全てに共有され零に等しい反射速度で行動が反映される。
人は普通、物事一つにしか集中できないが、度重なる訓練によって視覚に入った空間全ての情報が細かく整理されるが、彼の行動全ては未来の先取りをしているのだ。
敵味方の位置、方向、あらゆる重心への観察は次の行動を予測し長年の経験により絶対的な最適解を割り出す。
目まぐるしく移り変わる空間全てを、彼は刹那にも満たない時の中で理解してしまうのだ。
これが実現できるようになるのは、無数の経験と、極限の肉体、至高の技術、超越した五感。それらを全て兼ね備えることが必須と思われる。
ここまでなら稀代の大天才なら辛うじてできる範囲内だ。
しかし、果たして人間に十以上の思考を同時に巡らすことができるだろうか…
無意識の状態で動くことが可能だろうか…
それが出来るのならば、
ようこそ、ヒトデナシの領域へ。
『剣鬼』白蓮 光永 と同じく人外まったなし。
彼の強さの秘訣を盗もうと彼に弟子入りした才ある剣客たちは挑戦したが、習得するのは剣鬼以外不可能とお墨付きまである。
彼の剣術や体術には己の魂魄が心が深く現れる。
型は無く自由無尽な流派ではあるが、まごうこと無く剣術の神髄にある。
◆◇
『お、よお久しいな兄ちゃん。こりゃ随分老けてらぁ。』
目が覚めると、桜と竹林が広がる幻想的な空間に己はいた。
目の前に居るのは……
『ありゃ、忘れちったか?俺は……まあ名前なんていいか。ここは黄泉の国みたいなもんだ。』
「自分は死んだということか?」
『嗚呼そうさ。』
目の前の男は笑いながらそう言った。
「あんたは何故ここに?」
『俺は悔いがあるからここに残った。』
「嗚呼、そういうこと…」
鍔口を弾き、臨戦態勢に入る。
『ほんまに有難う。』
目の前の男は生きていた頃に出会ってきた名だたる剣客達を遥かに凌駕している。
一閃。
二つの刀は弾かれ合う。
閃光が飛び散り、眩い音が耳に触る。
しかし…男の持つ刀が折れ、袖の部分が切れていた。
『強いなぁ…勝ったら名乗ろうと思うてたが、かないそうにない。』
敵わなかったし、叶わなかった。
男は次第に薄くなっていく。
「あ、おい!」
彼の身体は崩れ始め光となり、己の身体に吸われるように消えていく。
『人間にはそれぞれ我がある。魂があり心があり、肉体がある。魂が折れてしまったら…いずれは崩壊してしまう。そういう運命っちゅうことだ。』
男は刀を鞘にしまい一礼する。
もう諦めたかのような表情で…
『魂が折れない限り…本当の意味で死ぬことはないんだがな…俺の本懐は兄ちゃんを打倒することだった。でもな、俺はこの美しい世界で一万回ほど冬を迎えてるんだ。』
「そうか。」
『嗚呼…悟れなかった自分が腹立た………ぃ、』
目の前の男の断片が光となって消えていった。
随分と詫びしそうに逝きやがった。
「漢ならば、笑って逝けよ…」
魂の崩壊。
本当の意味での死を、彼は迎えたのだ。
彼は、自分を超えたかったはずだ。
だからこそずっとこの場に停滞していた。
本来なら進むことのできるこの場所で。
自分が来るのをずっと待っていた。
「はあ……」
苦汁を歯で噛んでいる気分だ。