シャンプーの甘い香り
翌日。
一日がかりの撮影を、俺とソフィアは無事乗り切ることができた。
もちろん思いがけないスタッフの指示や急遽追加されたシーンなどもあったが、すべてやり切った。
あとは写真集用に追加で撮影があるかもしれないと言われたが、恐らくそれも問題なくこなせるだろう。
すべてをやり遂げたソフィアは安堵と疲れからか、俺にもたれ、眠っていた。
俺とソフィアはマンションに戻るため、田中さんが手配してくれたタクシーに乗っていた。
ソフィアの寝顔を見ていると、自然と眠たくなっていた。
なにせ昨晩はあまり眠ることが出来なかったからだ。
あの練習の後、明日は早いからといつもより早く休むことになった。
俺も明日に備えしっかり休もうとベッドに横になったのだが……。
枕にはソフィアのシャンプーの甘い香りが残っていた。
その香りを感じた瞬間、ソフィアがここに横たわっていた事実に切ない気持ちになった。
あの時、睫毛を震わせ、組んだ手に力が入っていたソフィア。
あのままおでこにキスをして、優しく抱き寄せたら、ソフィアは……。
余計なことを考えてしまい、なかなか寝付くことができなかった。
魔界にいた時も、ソフィアは秘書として俺のそばに常にいた。
だが今のように一緒に食事をしたり、風呂上りの姿で会話したり、寝顔が見られるような状態ではなかった。
城で接している時はそれぞれの公の立場があり、そこを逸脱することはなかった。
だから心も乱されることがなかった。
でも今は……。
すべてにおいて距離が近かった。
このような状況下でどれだけ気持ちを抑えることができるのか……。
頭の片隅で、もう、いいのではないかと思うことも、最近は増えていた。
もはや魔界から落ち、俺は悪魔でも魔王ではないのだからと。
だがソフィアは……。
タクシーが少し揺れ、ソフィアは目を開け、慌てて身を起こした。
「すみません、マティアス様。居眠りした上に寄りかかってしまい……」
「いや、構わないよ。今日は一日頑張ったんだ。疲れて眠くなって当然だ」
「マティアス様……」
「……そう言えば、昨晩の撮影の練習の時、二人で正面から抱き合おうシーンがあっただろう?」
「はい」
「あの時、ソフィアは今にも泣きそうな表情で……まさに迫真の演技だったと思う」
「……そうでしたか」
「やっぱりあーゆう時は何か感情を込めるために工夫をしているのか?」
「そう、ですね……。求められた感情を表現するために、それに近い感情を想起する場面を思い出していました」
「なるほど……うん?」
あの時のシーンは魔王の存在に気づいた婚約者が令嬢に無理やり迫るという設定だった。
まさかソフィアは誰かに無理やり迫られたことがあるのか……?
「あ、マティアス様、勘違いしないでくださいね。私が誰かに無理やり迫られたとか、ないですから。ずっとお城にいて、今もマティアス様のおそばにいるんです。そんな私に迫る人なんていなですから」
言われてみればその通りだ。
「その……今だから話しますが、私、ロルフから聞いたんです」
「何を……?」
「エミリアさんのところに転がり込んだ日の夜、隣の部屋から声が聞こえて目覚めてしまって……」
もしや……。
「エミリアさんが現れて、マティアス様が部屋を出たのに気づいたんです」
……。
「どうしたんだろう、と思って、マティアス様が部屋を出てから私も起き上がったんです。でもロルフが私のことを止めて、『あれはマティアス様がオレ達を路頭に迷わせないために、エミリアが出した条件を飲んだんだ』って教えてくれたんです。
エミリアさんは悪い人ではありませんが、人間の社会をよく理解している方でした。何かを得るためには対価を払う必要があるって。当然ですよね、それがこの世界の仕組みなんですから。私がお店に出ない代わりにマティアス様が……」
そこでソフィアは言葉を切り
「小説の令嬢は父親が亡くなり、家の存続のために、力をつけてきた有力者の男と婚約していました。自分を犠牲にし、家を、みんなを守ろうと。マティアス様も私たちを守るために……。そのことを思い出したら……」
俺は堪らずソフィアの肩に腕を回し、抱き寄せていた。
できることならこのことはソフィアには知られたくなかった。
余計な心配をかけたくなかったし、何よりも俺がエミリアと……。
「……ロルフが言っていました。マティアス様はどんなにエミリアさんに迫られようと絶対に落ちないって。千年に渡る誓いは伊達じゃないって」
……ロルフの奴、そんなことまで話していたのか⁉
いや……話してくれて良かったのかもしれない。
そうでなければソフィアは、俺とエミリアがそういう関係を持ったと信じていたことだろう……。
「……ロルフの言う通りだ。エミリアはその当てつけに俺にドラッグストアで変な買い物をさせたりしたけどな」
「……あ」
思い出したのかソフィアの頬がバラ色に染まった。
「でも今は住む場所も確保できたし、仕事も見つかった。もう心配はないよ、ソフィア」
俺の言葉にソフィアは笑顔になったが、すぐ真顔に戻った。
「エミリアさんからマティアス様を一刻も早く解放しなければと思い、マティアス様にいただいたブローチを売ってしまい、申し訳ありませんでした」
「……そうなのか?」
「え……あのブローチのこと、覚えていないんですか?」
「……そうだな。いつも身に着けているから気に入っているのだろうとは思っていたけど……」
「……」
「そんなに気に入っていたのか? というかいつ……」
そこで俺は思い出した。
ソフィアが城で暮らすようになって、俺の秘書として働くことになった時……。
その身分を示す証としてあのブローチを、確かにソフィアに贈っていた。
「思い出しましたか?」
「……ああ、思い出した。でもあれはソフィアが秘書であることを示すためのものだった。今はもう魔界はなくなり、俺も魔王ではないし、ソフィアも秘書じゃない。あのブローチがなくても……」
「そうですよね……」
ソフィアは一瞬寂しそうな顔をしたが、すぐにいつもの表情に戻った。
「家にはまだつかない。眠かったら寝ていいんだぞ、ソフィア」
肩に回していた腕を元に戻すと、ソフィアは俺にもたれ、目を閉じた。
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次回更新タイトルは「元悪魔、○○を演じる」です。
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それでは明日も学校、お仕事、頑張りましょう‼
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