吊られた男 1
詐欺師を撃退したあの日から、何年もの月日が流れていた。
魔法紋のことは伝えたが、七歳児のヨタ話としか男を連行に来た憲兵たちには受け取ってもらえなかった。
あれ以降、アンネリーゼが解決した事件らしい事件はゼロ。
だが彼女とて無為にその時間を過ごしていたわけではない。
信じてもらえなかった悔しさをバネに、いつか来る日のために爪を研ぎ、牙を磨いていた。
学問、魔法、一般常識や教養、貴族の暮らしに平民の暮らし。社会情勢まで学びに学んだ。勉強熱心な娘に両親は喜んで援助した。
メイド服の護衛、エリヤに格闘技も教えてもらい、いざと言うときに自分の身を守れるぐらいには強くなった。
キャラ造りにも余念がなかった。
幸い整った顔立ちに生まれていた。白くなめらかな肌と癖のない黒く艷やかな髪を活かして、ミステリアスなお嬢様になろうと努力した。
服装は黒を基調としたもの。レースやフリルは好きなのでたくさん使った。差し色は青や赤、紫などを選ぶようにした。
困ったのは立ち振る舞いだ。
探偵になりたい。みんなの前で謎を解いてチヤホヤされたい。だけどそれを悟られたくない。
興味のない話には無表情だが、ひとたび語りだすと饒舌でどこかねっとりした口調。ちょっと気持ち悪い空気を醸し出してしまう。一度だけ面と向かってキモいと言ってきたお嬢様がいたくらいだ。
アンネリーゼはミステリアスなお嬢様ではなく、変人と周囲には認識されていった。
どんな礼儀作法の先生についてもこれだけは修整できなかった。
十五歳になったアンネリーゼは王立研究院と言う、その名の通り国王の作った学問の府の特別クラスに合格した。
何か一芸、魔法でも勉強でも運動でも問わず、本当に優秀だと認められた選ばれしものだけが、血筋や家柄、年齢など関係なく学費無料で通うことのできる将来を約束されたクラスだ。
王立研究院は慈善事業ではない。そのため、一般の生徒たちからはしっかり学費や寄付金を受け取っていた。
王立と言う名前に飛びついた貴族のバカ息子や世間知らずのお嬢様がここにはたくさんいるとアンネリーゼは偏見を抱いていた。
実際はそんなことはないのだが、一部にその類の人物がいることもまた間違いない。
研究院に通う年頃になれば、痴情のもつれで事件のふたつやみっつ起こるはず。アンネリーゼは不穏な期待に胸を膨らませていた。
通いはじめて一週間。また今日も何事もなく終わるのかと、小さくため息をつく。こうも何も起こらないのは探偵に向いていないのでないかと思いながら実験道具を片付けているときだった。
「うわぁぁっ!」
男性の叫び声が聞こえた。何人かの女性の悲鳴も響く。
これは本当に何事かあったらしいと、アンネリーゼは実験着のまま野次馬根性を発揮する。
騒動の起きた場所はアンネリーゼのいた実験室からそれほど離れていなかった。研究院は広いので、離れた場所で騒ぎになっていたらわからなかった。
その場にいる人間は皆、ホールの吹き抜けの天井を見上げておろおろしていた。
「降ろしてくれぇ!!」
男性がひとり、天井近くで情けない表情と声で懇願して入る。命綱もなく宙吊りにされていた。落ちてしまうとケガでは済まないかもしれない。
これだけ人間がいるのに、揃いも揃って上を見上げているだけのことにアンネリーゼはあきれた。おそらく全員アンネリーゼより上級生だ。制服でわかる。
「誰か、マットレスを用意してください」
冷静沈着なアンネリーゼの声で数人が弾かれたように動き出す。
「マ、マットレスはどこだ?」
「先生に連絡を……!」
「魔法得意なヤツいないのか⁉」
魔法の匂いをアンネリーゼの鼻は感知した。今、この場で使われている。彼は魔法で持ち上げられていることに間違いない。
そしてここには、男子生徒を宙吊りにしている魔法より強い魔力を持つ人間はアンネリーゼ以外にいない様子だ。全員一般生なのだろうか。魔法に長けている人間がいれば彼は簡単に助けられていただろう。
いつ落とされるかもわからない不安定な力。
まだマットレスが届いていないのでアンネリーゼは迷った。不用意に魔力の干渉をして、万が一男子生徒が地面に叩きつけられたら大惨事だ。
彼にとても強い視線を向けている女子生徒がひとりいる。魔法の匂いと彼女のそれはとても良く似ていた。
「あの方との間に何か問題がありますか?」
突然現れた年下の少女の質問に、女子生徒は息を止めた。大きな動作でアンネリーゼに振り返り一歩退く。可愛らしい顔が強張っていることが答えだった。