プロローグ
「奥様、この絵がこんな値段で手に入るこんな機会はもう二度とございませんよ!」
釣り上がった糸目で出っ歯の、痩身の小男はお世辞にも善人には見えない。絵画商人を名乗るこの男は、猫なで声で揉み手をしながらアンネリーゼの母に購入の決断を迫っていた。
有名な画家が描いたという大きな油絵の素晴らしさは七歳のアンネリーゼにはわからない。
どうしてこの男はスーツの生地に薄紫色を選んだのかもわからない。
しかしひとつだけ黒髪の美少女にもわかることがあった。
(これ、趣味の悪いこのおじさんが魔法で作ったものなのに)
要するにニセモノ。魔法で作られた贋作だ。
生まれた時からお嬢様の母はニセモノだと全く気づいてない。商人が卑しい笑顔の下で舌なめずりをしていることも察知しない。性善説のみで生きている幸せな人だ。
憲兵団幹部の家だと知らずにこの男はやって来たようだ。下調べが甘いと言わざるを得ない。残念なのは父が不在だったことだ。
男は絵が格安のように言うが、決してそんなことはない。一般市民ならば少し贅沢な生活が一年はできるような金額をふっかけられていた。
七歳でそんなことを理解するアンネリーゼは聡過ぎる子供だ。妙に大人びているので、周囲には伯爵家の変わった令嬢だと認識されていた。
この絵とこの男からは同じ匂いがした。それはつまり、この男の魔法ということだ。
アンネリーゼは五感で誰の使った魔法かを判別することができる。今回は距離が近いのと使用してからの時間経過が短かったようで、嗅覚だった。
こんな形での魔法使用者の特定というのは、身の回りでは彼女以外の他の人にはできないようだとアンネリーゼは気づいていた。
そして幼女が声高にこの絵画はニセモノだと騒いだところで、鼻で笑われ一蹴されることもわかっていた。
「そぉね〜」
間延びした母の声に、アンネリーゼはぎょっとする。
おっとりと話す、実年齢より若く見える美人の母の気持ちが購入へ傾いていることは明白だった。
世間知らずの子持ちのお嬢様など、この詐欺師にしてみれば格好のカモなのだろう。男の口角が片方だけ急角度に上がる。
止めなければいけない。アンネリーゼの正義感がそう告げている。
ニセモノとわかっている絵画をみすみす掴まされるのは、探偵になりたいアンネリーゼのプライドが許さない。
アンネリーゼがそう思ったのは、父の書斎に勝手に侵入し、本棚にあった探偵小説を読んだとき。大多数の七歳の幼女が興味を示さないようなものに彼女は関心があった。
探偵と言う存在を知り、アンネリーゼは雷に撃たれたような衝撃を受けた。そして思い出した。
アンネリーゼになる前の彼女のことを。いわゆる前世と言うものだろう。洪水のようにその記憶があふれてきた。
その女の子は物語に出てくるような名探偵に憧れていた。
しかし現実の彼女は、十代の後半と思われる頃、ずっと病院の白いベッドの上にいた。
本の中や空想の世界でしか自由に動き回れなかった。
中でも耽溺していたのは名探偵や名刑事だった。洋の東西、漫画、小説、テレビドラマ、映画を問わず、あらゆる謎を解く者たちを愛して止まなかった。
病状の悪化した秋の終わり。病室の窓から見える大きな木に最後に一枚残った葉っぱを見つめて、あれが落ちたら死ぬのかと考えていた。実際はもう少し生きられたが、桜の散る頃に彼女は逝った。
そしてこの世界に生まれ変わった。
伯爵令嬢アンネリーゼ・シュツルムとしてならば名探偵になれるのではないか。そう考えたが、具体的な行動は起こせていなかった。
そんな折、思わぬところで機会がやって来た。
この贋作商人を退けることがアンネリーゼの探偵としての初仕事だ。これを成功させれば探名偵への華々しい第一歩が踏み出せるはず。
誰の目にも明らかに、反論の余地は残さずにニセモノだと知らせる方法は。
アンネリーゼは必死に考えた。
(魔法だけに反応する液体があれば……!)
黒髪の幼女は固く手と目を閉じて、試験管に入った液体を想像する。試験管などアンネリーゼは見たことがないので、前世の記憶だろう。
握りしめていた手の中に硬い感触が不意に訪れて、アンネリーゼは目を開いた。
得体の知れない透明な液体の入った試験管。突如現れたこれはきっとアンネリーゼとって悪いものではないと直感する。
自ら生み出したものだからだろうか。使い方も、何を調べられるかも直感的にわかった。
これであの絵は魔法で作られた贋作だと証明できる。
アンネリーゼは駆けた。自室へ走って、置いてあったお絵描き遊びで描いた母の似顔絵を手に取る。そして元いた場所へ戻った。
これは紙も画材も魔法ではない。七歳なりに一生懸命に描いたものだ。
「お母様! こんな絵より、私のこの絵を飾ってください」
「あら、とても上手に描けているわね〜」
アンネリーゼの申し出に母が反応する。それに対して男は目に見えて焦った。
「こんな絵とは失礼なガ……」
心の声がだだ漏れた男はあわてて口をつぐむ。
アンネリーゼは呆れた目で見たが、母は聞こえていなかったようだ。二人を見比べて小さく首をかしげた。
「コドモはオトナの話に入ってきてはいけませんよ」
おどけた態度でアンネリーゼをたしなめる男。それを冷たく一瞥する幼女。
「だって、あなたが売りつけようとしている絵はニセモノですもの。お母様をだまそうとしないで」
小さなアンネリーゼは、母を守るように大きく両腕を広げて男に立ちはだかった。
「な、なななな……」
図星を指された男の顔が怒りと屈辱でみるみる赤くなっていく。
殴りかかってこられたら、アンネリーゼではひとたまりもない。身の危険を感じた小さな探偵は恐怖と戦いながら全身に力を込めて、ぎゅっと目をつぶった。
しかし詐欺師も理性は働くようで、大きく深呼吸をして再び張り付いた笑顔を浮かべた。
母の目の前でアンネリーゼを傷つければ目の前の大金は入ってこなくなる。その程度の想像はできたようだ。
アンネリーゼは恐る恐る両目を開けて辺りをうかがった。何も起こらない。
ホッと小さく息を吐いて、アンネリーゼは自作の母の似顔絵を高く掲げた。
「これは私が一生懸命描いた、お母様の似顔絵です」
それを床にそっと置き、先ほど生み出した液体を全体にかける。
「アンネリーゼ……!」
母親は狼狽して大きな声を出した。せっかくの似顔絵がダメになってしまったと思ったのだろう。
アンネリーゼの絵は何の損傷もなかった。それを見て母は安堵していた。大切に思われていると実感できて、幼女探偵は嬉しくなる。
「お母様、大丈夫です。これは魔法を判別する試薬です。魔法でなければ何も変化は起きません。ですが」
詐欺師の前にあるキャンバス目掛けて、アンネリーゼは試験管の中身をぶちまけた。
透明の液体はびちゃっと見事に油絵に届く。そして中央に薄紫色の、絵筆のような魔法紋を浮かび上がらせた。
「魔法ならば、使用者と同じ魔法紋を浮かび上がらせます」
出っ歯の男の顔色が青くなり、白くなり、赤くなる。
「こっ、この紋章が私の魔法だという証拠はあるのか⁉」
探偵小説で証拠はあるのかと言い出したら負けフラグだ。詐欺を認めたに等しい。
アンネリーゼはワクワクしてきた。口元が自然に緩みそうになるのをなんとか堪える。
「だいたい、魔法紋なんて聞いたこともない!」
小男は幼女に完全に追い詰められていた。アンネリーゼが一歩踏み出すごとに、男は冷や汗を流しながらへっぴり腰で後退していく。
「手を出してください。おじさんの魔法紋をお見せします。魔法紋は基本的に、ひとつとして同じものはありません。魔法紋を聞いたことがないのは、これは私にしか扱えないものだからです」
「ひっ……!」
七歳児とは思えない言葉遣いと迫力に男は圧倒されていた。腰を抜かしたのか、壁際でヘタリと座り込んでしまう。
目の前にいるアンネリーゼが魔王にも等しく映っているのか、男の顔色は蒼白になっている。
「奥様! お嬢様!」
異変を察知した執事と、メイドの格好をしたエリヤが血相を変えて飛んできた。エリヤはまだ十五歳だがアンネリーゼの遊び相手兼ボディガードだ。
アンネリーゼが商人を追い詰めていた予想外の図に、ふたりは鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる。
「この方が贋物を売りに来たって、アンネリーゼが言っているの」
おろおろした母の言葉で使用人たちはアンネリーゼを見つめる。
この娘が七歳とは思えないほど賢いことをふたりはよく知っていた。
そして男の狼狽ぶりを見ると、アンネリーゼが正しいように思えた。
「すぐに憲兵団に連絡を」
執事の指示で踵を返そうとしたエリヤの背中に男が飛びかかった。
「ダメっ……!」
アンネリーゼの叫び声が広い部屋に響く。
詐欺師は卑下た笑顔を浮かべた。エリヤを人質に逃げようと考えていたのだ。
しかし機敏に体ごと振り返ったエリヤは、男を正面に捉えた。さっと重心を低く構え、伸びてきた男のひょろりとした腕を両手で掴む。
何が起きているのかわからないまま、男は背中から床に叩きつけられ天井を見上げていた。
「良かった……」
アンネリーゼはエリヤが男を投げ飛ばしただけで済ませたことにほっと胸を撫でおろした。
寡黙なエリヤは恐ろしく美しい外見からは想像できないほど、近接戦闘に長けている。この家の人間、特にアンネリーゼにとって害になると判断すると容赦なく攻撃する。
エリヤは無表情のまま、男をうつ伏せにして腕を後ろ手に締め上げた。
「ひぎィ!」
痛みと恐怖に支配され、悶絶と悲鳴を混ぜた情けない声を上げる詐欺師。
エリヤに取り押さえられ完全に戦意喪失した男にとことこ近づいたアンネリーゼ。自由のきかない詐欺師の手に魔法紋を浮かび上がらせる液体をかけた。
ぼんやりと輝くそれは、誰の目にも明らかにこの男が売りつけようとした絵画にあった魔法紋と同じだった。
執事が呼んだ憲兵団員が程なく数名駆けつけ、男を連行した。
逮捕してから判明したのだが、この男は自ら魔法で作った贋作を多くの貴族に高値で売りつけていた。