三日月鉱石店
當〈三日月屋〉では宇宙各所よりありとあらゆる鉱物を取揃へてございます、遠く銀河の果からヘリオポオズの向かふ側ゑ店主自ら訪ひ採掘した逸品ばかり、特に少年の心象元素を含む結晶は透明工合発色工合に於て他の結晶に比べ大變上等、高値ながらコレクタアには人気の品でございます、一つ一つ心趨が違ひますので御気に召した結晶は御早めに御購ひ求めください、逃せば帰らぬされど忘れ得ぬ夏の恋のやうな品々でございます、白夜三日月の照処に當三日月屋店舗を構へて居りますので御見掛けの際は是非御立寄りくださいませ、亦御用命在らば次元交流境界を超へて鉱物採掘も致て居ります御気軽に御申附けくださいますやう御願ひ申上げます
三日月屋店主
昨夜はよく眠れず、うとうとしかけた時にはもうベッドを出なければならない時刻になっていた。おかげで全校集会の間中はほとんど眠っており、何度も膝から崩れかけた。帰り道では更に注意を怠り、考え事をしていた所為もあって、いつの間にか普段は通らぬ小径に入り込んでいた。この辺りには広い庭を持つ民家があるだけだ。長らく住人不在の敷地は手入れをする者も絶えて久しいと聞いた。庭木や雑草が野放図に育ち、そのほとんどを蔦に覆われていなければ崩れ落ちるであろう程に古びた木塀のあちこちからも枝や茎を伸ばし、小径を覆い隠している。ぼつぽつごろりごろりと石ころの埋まっている砂利道は陽が当たらないせいで湿っており、一歩進める毎に踏まれてはなるものかと羽虫が地面から逃げて飛び回る。あまり気持ちの良い道ではなく、いつもなら遠回りをしてでも避ける。この辺りだけがやたらと冷えており、由季央はまるで洞窟の中のようだと思った。引き返さなかったのは、洞窟の先に洋燈が下げてあるのを見かけたからだ。まだ午后も早い時分だが洋燈には既に燈が入り、仄やりとした燈灯が看板らしきものを照らしている。どうやら鋪のようだ。誰も通らないだろうこんな場所に鋪があるとは意外だった。由季央は燈に引き込まれるように小径を進んだ。
〈三日月屋 鉱物・化石〉と書かれた真新しい木製の看板が洋燈の支柱に吊下げられている。鋪の外観は隣接する古民家とはずいぶん趣が違う。古い木造家屋ではあるが、涅色の外壁はよく手入れがされており、屋根は高く尖っていて西洋風だった。扉は鮮やかな翠色で、塗ってからまだ間もないようだった。扉の上部には霞玻璃が嵌め込まれ、よく見ると小花模様が刻まれている。ドア横の窓辺には水晶石や黒曜石が並べられており、目を惹かれた。由季央は胸ポケットに手を当て、少し躊躇ってから、ドアノブに手を掛けた。ドアノブは三日月の形をした黄鉄鉱でできている。鋪の名にかけた仕掛けに、店主の遊び心が感じられて好感が沸いた。扉は音を立てずに開いた。古い木材と珈琲の薫りが混ざった店内の空気はしんとしており、何年も人の出入りがなかったのではと思わせるほどだ。薄暗い店内にいくつもの背の高い棚が狭幅に並び、鉱物や玻璃壜などが陳列されている。高い天井のすぐ下にも窓があり、そこから陽光が滲み込んでいる。やや暗いがそれでも石を眺めるには充分だ。鉱物が光を反射させ、きらきらとした様子が再び洞窟の中を思わせた。鉱石の採掘所とはこんな風なのだろうか、由季央はそんなことを考えながら鋪の中をぐるりと見廻し、棚の間に歩み入った。もとは二階建てだったものを改装したのだろう。建物全体の半分以上が吹き抜けになっていて、一階から天井まで見通せるが、奥には二階部分があるようだ。よく見ると商品棚の向こう側の壁に階段があった。店主はどうやら二階にいるらしく、ほんの一瞬、洋燈の燈が天井あたりで揺れたような気がした。
由季央は鉱物の一つ一つを眺めることにした。それぞれの石に小さな手書きの紙切れが添えられているが、それらは外国の文字で書かれているらしく、読み取ることができなかった。宇宙空間のように真っ黒な石の前に来た時に、石が微かに動いたような気がしたので、由季央は顔を近づけてじいと見つめた。すると磨き上げられた鏡面に小さな星がぽつりと浮き上がった。光の反射かと思ったが、違った、星の数は一つ二つと増していき、幾つもの星が現れ、互いにくっついて大きな星になった。
「気に入った、」
唐突に横から声をかけられ、由季央はびくりと体を揺らした。石に夢中になっていて、人が近くへ寄っていたことに少しも気付かなかった。相手は由季央よりも少し背が高いくらいの少年で、歳も同じ十五、六だろう。慌てて振り返った由季央に少年はにこりと微笑んで見せたが、それはまるで陶器で造られた人形と見紛う美しさで、由季央は思わずその顔を見つめた。少年は由季央の無遠慮な視線を気にするでもなく、先ほど由季央が眺めていた漆黒の石を取り上げた。
「雪花黒曜石は、見た目より重いんだ。ほら手を出して。君は両手じゃないと無理だよ。」
渡された石は少年の云う通りとても重かった。掌程の大きさなのに、水をたっぷり入れたバケツを持っているくらいの力が腕にかかる。
「本当だ、とても重い。」
由季央は石を早々に棚に戻し、少年に向き直った。
「君はこの店の人、」
「そう。君は学生だね、にしてもその割に随分生真面目な話し方をするなあ。まるで気取った銀行員のようだ。いや数学教師かな、シャツの釦を襟まで留めている学生なんて初めて見たよ、」
少年はその繊細な容貌からは意外なほど明朗に早口で喋る。由季央は一呼吸おいてふと笑った。
「よく云われる。」
「何を、銀行員、それとも数学教師、」
「生真面目。」
「なるほどね、うん君のこと気に入ったよ、珈琲でも飲みながら話そう、さっき南から舟が着いてね、珍しい豆が手に入ったんだ。ほら今日
は白夜三日月だらうおかげで空が開くんだ・・・」
少年に誘われるままに、由季央は店の奥のカウンター席へ腰掛けた。舟とは何のことだろうか、この辺りに港はないが、商売人が使う言葉なのかもしれない。後の方はまるでラヂオが混線したかのようになり、聞き取れなかった。カウンターには小ぶりの蛍石や貝殻、真珠の詰まった玻璃壜などが所狭しと並べられている。少年は古風な化学実験器具を使って珈琲を挿れており、手慣れた様子でコーヒーを三角フラスコから白磁のカップに注ぎ込む。変わった趣向だと思ったが、それは由季央が知らないだけで世間では一般的なのかもしれない。フラスコが触れ合い、玻璃の震える高い音が長く響いた。その音に混じって、どこからか先ほどと同じ、ラヂオの音が聴こえてくる。
此は土星第十五衛星の宇宙図書館で手に入れた品サア見たまま科学實験に使ふものだけどねえさうだ今日の豆についてまだあまり話していなかつたね此はサザンクルスの闇市で手に入れたのさ昔から星祭の夜にだけ飲めた訳有り僕はサザンクルスへはあまり行かないんで友人に頼で届けてもらつたんだそれに一寸した隠味を足してみた何が起きるかは僕も詳くは知らないけれどきつとそんなに酷くはないさ・・・
白く細い指がカップの縁の滴を拭うのを由季央はまじ〳〵眺めた。少年の緩慢な動きは、その一つ一つの仕草が絵画となり、睛に焼き付くのではと思わせるほど美しい。しかし実際は次の瞬間に記憶から消えている。どこか現実離れした風景は、記憶線の幻影が空気中に少年を描き出していると云わればなるほどと納得してしまうほど朧げだ。少年が珈琲を注いだカップを差し出した。
「さあどうぞ。癖があるからミルクと砂糖も置いておくよ。」
由季央は少年がミルクのグラスと小さな結晶が盛られた木皿を寄越すのを横目で見ながら、カップを取り上げ口元へ寄せた。
「いただきます。」
薫製した苹果と肉茎を混ぜたような、甘さと渋みのある薫りが唇を撫でる。確かに珈琲ではあるが、まるで、溶かした煙草を飲んでいるようだ。カップを置かずにもう一口飲んでみると、更に味わいが深まった気がした。これは癖になるかもしれない。
「イケるだろ。これも挿れてみなよ、」
少年が蛍石の入った皿を指さしたため、由季央は思わず眉を顰めた。
「でもこれは、石じゃないか、」
「砂糖だよ、舐めてみればわかる。」
調戯れているのだろうかと訝しんでいると、少年は「疑り深いなあ。」と笑いながら、蛍石を一つ摘み上げ、自分の口に放り込んだ。しばらく口の中で転がした後に唇の間から舌先を出し、由季央に見せた。「ほら溶けてるだろ。」
由季央は観念して蛍石を一つ取り、舌先で少し舐めてみると、それは確かに砂糖だった。じわりと温かみが広がる甘味で、焼菓子の上に振りかける粉砂糖に似ている。そのまま珈琲へ結晶を落とし込み、スプーンでかき回すと、少年がにこりと微笑んだ。
「君は、本当にずいぶんと生真面目なんだなあ。椅子に座っている姿もまるで背中に木の棒でもくくりつけてあるようだ。あとその髪だ、毛の一本一本が整っている。黒曜石のように滑らかで艶のある良い髪なのに、そうきっちり撫でつけられていては少し可哀想だぜ。」
面と向かってこうもすら〳〵と自分のことを他人から云われることはあまりなく、由季央は多少の居心地の悪さを感じつつも平静を装い珈琲を味わう。仄かな甘味が癖のある薫りを和らげ、飲みやすくなった。少年がカウンターの隅の木箱を開けたので、由季央はつい首を伸ばして中を覗いた。古びた木箱の中に歯車と小ぶりの鉱石が収まっている。
「なかなか良いだろ。僕のお気に入りでね。時々こうして眺めるんだ。
此石は宇宙中を探し回つて漸く手に入れた上等の霰石さアルビレオの蚤市で見附てね七角柱状の六連双晶はなかなか御目に掛れない稀少な鉱物だ此鉱石ラヂヲで次元交流線を受信させるのにとても工合が良い・・・」
また唐突に少年の声が聞こえにくくなり、由季央は少年の顔方へ耳を寄せた。
「今、なんて云ったの、」
「いや何も、ところで君の胸ポケットに入ってるそれ、気になってるんだ。ちょっと見せてくれよ。」
由季央は驚き、少年の睛を探るように見つめた。珈琲カップの中で砂糖が溶ける音がする。少し躊躇った後、ふうとため息を吐いて、由季央は胸ポケットから折りたたんだパラフィン紙を取り出した。ゆっくりと広げて、中に入っていた小さな白い結晶をパラフィン紙ごとテーブルに滑らせて、好奇心で頬を輝かせる少年の方へ押しやる。
「僕はこれと同じものを探してる。だからこの鋪に寄ったんだけど。でも、そんなものあるはずがないんだ。」
由季央が呟く横で、少年は白乳色の欠片を真剣に観察している。「なかなかいいね」指先で摘み上げ、窓から射す光の中に翳した。濡れた貝殻のように艶めく表面が銀色や青に輝る。
「これは月長石だね。もちろんあるさ、珍しいものでもない。」
「そうじゃない、僕が探しているのは同じもの、割れてしまう前の石、」
「割れる前の同じ石ね。うん、あるよ。」
「え、」
由季央は少年の言葉に耳を疑った。割れる前の石があるとはどういうことだろう。やはり調戯れているのだろうか。しかしこの少年は極めて正直な性質らしい。由季央は少年の真意を探るように、欠片をあちこちから眺める少年の横顔を見つめた。
「どういうこと、」
「この石はどうして割れたの、」
逆に聞き返されてしまった。少年はパラフィン紙の上に欠片を戻し、肘をついて由季央の睛を覗く。その視線から逃げるように由季央は顔を背けた。
「云いたくない、」
「それじゃあ、石は渡せないな。」
由季央は指で卓を小さく弾き、しばらく黙り込んだ。そして再びふうとため息を吐き、口を開いた。
由季央が通う中学校の理科準備室には立派な鉱物標本がある。大きな水晶石や、アンモナイトの化石、大きな翠玉の原石など高価なものもあり、中学校の理科の授業にはもったいないほどだ。それらのほとんどは二年ほど前に赴任して来た若い理科教師のもので、聞けば全て自身で採掘し蒐集したものだと云う。とても大切にしており、標本棚には鍵がかけられていた。由季央は理科教師が着任してすぐ理科準備室の整理を任され、鍵の場所も知っている。理科教師とは放課後に理科準備室でよく話をした。由季央は当初、同級生との交流に苦痛を感じており、もともと寡黙な性質も手伝って周囲から距離をとっていた。教師はそれを心配したのだろう。由季央を生真面目だと云って笑い、辛抱強く由季央に接した。理科教師は穏やかで、知性とユーモアがあり、由季央の心に無理やり踏み込むようなことはしなかった。次第に打ち解けると、由季央はことあるごとに理科準備室に通うようになった。由季央は鉱物よりも薬品に興味があった。教師は「みんなには秘密だ」と云って、由季央にだけこっそり取り扱いの危険な薬品を見せてくれたこともある。二人だけで授業とは関係のないおかしな実験をしたことも一度や二度ではない。鉱物の話しになると教師はとりわけ楽しそうで、そのおかげで由季央も鉱物に愛着を感じるようになった。教師は自慢の標本を眺め、一つ一つを大切そうに手に取り、由季央の掌に載せる。そのやりとりはまるで、口には出せない思いを含んだ秘事のようでぞくりと頭の芯を痺れさせた。由季央はその瞬間が何よりも好きで、心から愉しんだ。しかし三年になると学業と生徒会で遽に忙しくなり、理科準備室からは自然と足が遠ざかる。理科教師とは廊下ですれ違う時に軽く挨拶を交わす程度になっていた。折しも由季央の身長も伸び、女生徒の由季央を見る目が変わって来た。あれほど避けていた同級生との交流も以前ほど苦痛には感じない。理科教師と過ごした日々は忙しない目の前の日常風景にかき消され、薄れていくようだった。それが間違いだったと気付いたのは、つい先日、夏季休暇まで一週間を切った日だった。その日、由季央はクラスで集めた夏季合宿の出欠確認書を職員室に届けに行った。職員室には誰もおらず、校長室から僅かに会話の声が聞こえて来た。理科教師の声だとすぐに気付き、由季央は校長室のドアの前に近寄った。話の内容は、理科教師がこの夏季休暇の間に結婚式を挙げ、他の学校に移るというものだった。誘いのあった東京の私立高校で教鞭を取ることにした、そこは新居から近く給料も良い。そう話す理科教師に対し、校長は激励の言葉をかけていた。由季央は静かにその場から離れ、廊下に出た。ただ闇雲に歩いていたら、教室に戻るつもりが、いつの間にか理科準備室に来ていた。傾き始めた陽光の中で、鉱物標本たちが煌めいている。由季央は棚を開け、月長石を取り上げた。
「君は月に似てる。満ちて、欠けて、また満ちる、静かな灯り。この石も名前の通り月に似ているだろ。僕はねこの石がとても好きなんだ。」
いつかの教師の声が耳元で聞こえる。あんな風に云ったくせに。由季央は胸の深い場所から悲しみと怒りが同時に湧き上がるのを感じた。自分でも知らぬうちに教師に強い期待を抱いていた。それがあまりにも自然で、当然のことになりすぎていてわかっていなかった。涙が溢れて、息が苦しい。掌の上で石が熱を帯びていくのに無性に腹が立ち、怒りに駆られるまま石を壁に叩きつけた。由季央は胸を抑えて壁に寄り掛かり、ずる〳〵と床に座り込んだ。ずいぶん長い間そうしていたが、日が暮れて肌寒くなってくると昂った感情も次第に冷めていった。ようやく帰らなければと立ち上がりかけた時、割れて砕け散った石が目に入り、自分のしでかしたことを思い知る。何てことを、と自分を咎めながら震える手で砕けた石の欠片を拾い上げていると、唐突に扉が開き、理科教師が入って来た。由季央がいるとは思ってもいなかったであろう教師は、由季央と砕けた石を交互に見て、まず驚き、そして表情を曇らせた。由季央はたまらずその場から逃げ出した。
「先生が大切にしている石を割ってしまって、悔やみはするのだけど、どうしても謝る気になれない。悪いことをしたとは思えなくて・・・。でも、これは先生のものだから、返せるのなら返したい。」
「なら似た石を探せばいいじゃないか。」
由季央はもっともだという風に頷いた。
「僕もそう思ったんだけどね。でも先生が特別に大切にしていたのは、この石なのだという気がする。他に代わりは効かない。」
「君の想いのようにね。」
少年の無遠慮な言葉に由季央は眉を顰め、ああ、でもそういうことだ、と呟いた。
「まあ話はわかったよ。じゃあもしも同じ石を手に入れて返したとして、君はどうするの、夏季休暇は明日からだろ、それでそいつは君のそばからいなくなるんじゃないのか。」
「わからない。その時に考える。」
少年は空になったカップに新たに珈琲を注ぎ、話してくれたお礼だと云って焼菓子を振る舞ってくれた。
「僕のお手製。この珈琲に合うように作ったんだ。浸して食べてもイケる。」
小腹の空いていた由季央はありがたくいただくことにした。平たく丸い焼菓子の表面には銀色の粉砂糖が振りかけられている。ほどよい焦げの苦味と珈琲の独特の香りがよく合った。
ふと、眠気のようなものを感じて、由季央は卓に手をつき、目を数回瞬かせた。少年の楽しそうな声がする。
「やっと回ってきたようだ、これはいい気分だなあ。ハイになるのとも違う感じだ、首筋が痺れてる。君も良い気分だらう君みたいな元素少年は心と体は別々の方が工合が良いんだだってその方が結合し易ひからね鉱物的な存在に變代したらもっと良くなるだらう・・・」
また少年の声が聞き取りにくくなる。雑音が混じって、音声というより機械が発する電波のようだ。昨晩はほとんど眠れなかった。そのために眠気で恍惚としているのかもしれない。由季央は意識を保つために苦心しながら、少年に振り向いた。
「君は同じ石があると云ったね。それをもらいたいんだ。どうすればいい。お金は家の者からもらえるから、少しくらい値が張っても構わない。」
いつの間にか、少年の顔がすぐ近くにある。鼓動が聴こえるほどに近く、少年の長い睫毛や、睛の中に映る自分の顔までもがよく見えた。
「さっき僕は同じ石があるとは云ったけど、今ここにあるわけじゃない。こういう心象元素を多く含んだ石を採掘するのにはちょっとしたコツがいる。しかもこの石は特別だからね新しい石を採掘するのとはわけが違うのはわかるだろ、」
「わからない、どうすればいいのか教えてほしい。」
由季央は、躰が浮き上がり意識が肉体から抜けていく感覚の中で懸命に抗い、少年の腕にすがろうとしたが、すでに少年の躰と自分の躰の境界がわからなくなっている。時折唇や頬に生温いものが触れた気がしたが、それが何なのかを考えることもできなかった。
「この箱は次元交流線を受信できる。君がうまく時空軸を合わせることができれば割れる前の石が採れる。でも、それはつまり割れる前の石はその瞬間失われるってこと。僕は次元交流現象をちょっとだけいじくって、現在に過去現象を定着させることができる。でもそれは結構骨が折れるんだ。だから、君が持つその月長石の欠片をもらう必要がある。」
「この欠片を君にあげればいいんだね、」
由季央は欠片を掌に載せ、少年に差し出した。
「あげる。」
ねえ君良いのかいそんなに易々と
「なんで、ただの石の欠片だ」
從の欠片ぢやないから聞ひてゐるんだ君の心の欠片だらう
「それはどういうこと、」
「わかっているだろ、」
突然耳元ではっきりと少年の声が聞こえた。由季央はさらに手を差し出し、早く、と呟いた。
「いいんだね、もう戻らないよ、」
「うん、もういらないんだ、」
少年は欠片を受け取り、先ほどの木箱を由季央の前に置いた。
「ここに触れて、割れる前の石を思い出すんだ。そういいぞ、ああうまく採れた。なんだ随分楽に採れたな。どれ・・・」
少年が開けた木箱の中に、由季央の求めていた月長石の塊がある。夢現の間を行き来しながら由季央は石を受け取り、しっかりと握りしめた。目に映る景色はぼんやりと霞み、ゆっくり揺れている。少年の声は段々と遠くなっていく。
おやもう一つ採れたこれは翠玉の上等なやつじゃないか、なるほどあいつはどうしても君を僕に渡したくはないらしい、代わりを寄越してきたよ、惜いなあ、僕は君をとても気に入つたのだけどね、でもこれも良いか、仕方ない今回はこれで手を打とう、だからこの三日月石の欠片は君に返すよ、でもあいつの一方的な願ひで返してやるのも野暮だねだつて君は要らないと云つたのだし、じゃせいぜい二人で探すんだな・・・
「三日月石・・・、」
由季央は自分の声でふと我に返った。連日の試験勉強で寝不足が続いている。おかげでどうやら歩きながら眠っていたらしい。いつもの帰り道なのに角を曲がり損ねて、雑草の生い茂る砂利道に足を踏み入れようとしていた。夏季休暇を明日に控えたこの時期、雑草は人を飲み込むくらいに成長し、虫も多く出る。引き返そうとして、手に月長石を握っていることに気付いた由季央は、弾かれるように学校へ駆け戻った。
「先生、いらっしゃいますか。」
理科準備室に隣接する、理科教師用の部屋の扉を叩くと、中から入るようにと返事があった。教師は弁当を食べようとしていたところだった。一目で恋人の手作りだろうとわかる、色とりどりのおかずが詰められた弁当の前で、箸を持って座っていた。教師は、神妙な表情で入室した由季央に椅子を勧めた。
「どうした、帰ったんじゃなかったのか、」
「ええ、帰ろうと思ったんですが、・・・すいませんお昼時に。」
由季央は椅子には腰掛けず、徐に教師の顔の前に石を差し出した。
「どうしてもこれを返したくて。・・・割ってしまって、本当にすみませんでした。」
教師は石を受け取り、ありがとうと呟いてから、ふと怪訝そうな表情で由季央を見上げた。
「何を云っているんだ、この石は翠玉と一緒に盗まれたんじゃないか。」
「えっ・・・、」
由季央は三年に上がってからは随分と女生徒からもてはやされるようになった、更に生徒会長の任に就いたことも手伝い、嫉妬を覚えた一部の男子生徒から度々嫌がらせを受けるようになった。一週間ほど前、理科準備室から鉱物標本が盗まれた。標本棚の鍵の場所を知っているのは教師と由季央だけであったため、由季央に疑いがかけられたが、理科教師はそれをはっきりと否定した。由季央は嫌がらせを受けていることを教師に告げたことはないが、教師も薄々感じ取っていたらしい。石を盗み出した生徒はすぐに判明し、由季央に罪を着せようとしてやったことだと白状したが、結局石は行方が分からないままだった。
「そういえば、そうでした・・・。」
由季央は混乱する頭で記憶を探った。探れば探るほど記憶は曖昧になっていく。なぜ自分が割ったのだなどと思ったのだろう。そのような願望が自分にあったのだろうか。
「でも、見つけたのはこれだけで、翠玉はまだ・・・。」
「いいんだ、もう諦めているしね。でも、失くしたものがこうして戻って来るのはとても嬉しいものなんだね。本当に大事に思っていたんだと、心底思うよ。」
由季央は教師の言葉を聞きながら、自分の心には以前までは穴が空いていて、しかし今はそれが消えてしまっているという気がした。それは失くしてはいけない何かだったのに、どこかに置き忘れて来たのだ。由季央は言葉を探したが見つからず、ふと机の上の弁当を見た。
「先生、ご結婚おめでとうございます。この夏の間に東京に行かれるそうですね、」
教師はひどく驚いたという表情で由季央の睛を見つめ、それからいつものように寂しげに微笑んだ。
「知っていたのか、」
「はい、偶然耳にしました。」
教師は不意に立ち上がって、窓辺に歩み寄り、窓を大きく開けた。そのまましばらく外を眺めて、何も云わない。由季央が立ち去ろうとすると、教師が引き留めた。
「由季央、こっちに来てごらん、まだ正午過ぎなのに、もう白夜三日月が見える。」
由季央は促されるまま教師の隣で空を見上げた。青空の下の方に細く鋭い三日月が浮かんでいる。教師は月長石を由季央の手に載せた。
「これは君にあげるよ。見つけてくれたお礼だ。」
「いいんですか、」
「ああ。初めからそうするつもりだったからね。だから失くした時はとても残念に思ったよ。」
今日の三日月はいつもよりも白く光るね、
まだ青空の方を見ながら教師が云い、由季央は、大事なものはあの三日月のようなものだったという気がした。満ち欠けを繰り返す、ぼんやりとした掴み所のない光。
由季央はふうとため息を吐いて、空を見上げながら、何気ない独り言のように、教師に話しかけた。
「先生、僕、来年から東京の高校に行こうと思うんです。」