孤独のノロシ
人は、一人では生きられない。誰かがいないと食事ができない。生活ができない。自給自足にも限りはある。科学の大天才なら、一人でゼロから文明を作るかもしれない。でも、普通は無理。人でも、そうでなくても、誰かがいないと何も始まらないと思う。
だから、話し相手が欲しくなると思うんだ。多分ね。
いつもの休日のはずだった。学校がないので朝はゆっくり。トーストとカフェオレが朝食。部活動はしてないので、特にやることもない。
「……そうだ、偶には散歩でもしよう」
こんなことをふと思ったのがマズかった。まあ、遅かれ早かれ向き合う羽目にはなるのだけど。そんなこと、この時の僕は知らない。
動きやすい服装に着替え、鞄に必要最低限のものを入れて家を出た。両開きの門扉を開けようとし……。
ガサッ。
「ん?」
何か突っかかった。地面を見る。中くらいのダンボールが一箱。
「ここ、ゴミ捨て場じゃないんだけど……」
門扉の隙間を通って外に出て、ダンボールを拾った。……あれ、何か重いなあ。
普通ゴミなら軽いよね。ってか捨てるなら畳むよね、普通。嫌な予感がする。凄く。こういう感じ、ドラマとか漫画で飽きるほど見たアレか? いやいや、まさか。まさか……ね。
クゥン。
「……そのまさかじゃん」
声は明らかにダンボールから聞こえた。仕方ないので、ダンボールを持ったまま家に引き返した。
玄関に立ってふと気づいた。いやいや、仕方ないからって拾うとは? 運よく誰もいなかった。そのまま戻せば、何事もなかったかのように……。
クゥンクゥン。
「うう、分かったって。戻さないって」
この悲しげな鳴き声、どうも罪悪感を煽るなあ。これが小動物の力か……。
ん? そもそも本当に小動物なのか?
ダイニングテーブルにダンボールを置き、じっと見つめる。
この中に、何がいるんだろう……。そもそも、本当に動物がいるのかな。ぬいぐるみとか、玩具の可能性だってあるかも。
ごくり、と喉が鳴る。どうせなら、生き物の方がいいかも……と思いながら勢いよくダンボールを開けた。
「ええい、ままよ!」
「ガウッ!」
「うわああ!」
吠えられて、反射的に目を瞑ってしまった。恐る恐る目を開ける。ダンボールからは白い毛玉がひょっこり、顔を出して僕を見ていた。
「クゥン?」
毛玉は首を傾げた。
「……かっ」
可愛い! と思わず叫ぼうとしたら、毛玉は両前足をダンボールの淵にかけた。
何だそのポーズ……。
ピロリーン。
「あっ」
気づけば無意識に鞄からスマホを取り出し、撮っていた。
画面を見る。……無意識の割には、よく撮れている。
「待ち受けにしよ」
そのままついつい待ち受けを眺めていたその時。
「ガウッ!」
「うえっ」
ドッターン!
視界が真っ白になったと同時に、頭から後ろに倒れてしまったようだ。
「いたた……」
後頭部を押さえながら、起き上がる。カーペットの上だったのが幸いだった。毛玉は、僕が起き上がったと同時に、僕の太ももの上にちょこんと座っていた。
つぶらな瞳が、じーっと見てくる。
「……何?」
何故か居たたまれない気分になって、毛玉の頭を撫でながら問いかけてみた。
「ガウッ」
一応、返事らしきものはあった。しかし、
「いや、分かんないよ」
当然、動物が日本語を話せるわけもなく。
そのまま毛玉と見つめ合う。よく見ると、毛玉の瞳の色は左右で違った。右目は青紫、左目は金のオッドアイ。珍しい。……というか今更だけど、
「君、何者?」
毛玉すぎて、全く判別がつかなかった。
判別するにはまず、この毛をどうにかしないといけない。剃刀……はない、髭剃り……。洗面所にあったかな?
毛玉を床に下ろして立ち上がり、洗面所に向かおうとした。
「クゥンクゥン」
足元から鳴き声がする。
「どうしたの?」
しゃがんで目線を合わせ、問いかけてみる。
「クゥンクゥン」
うん、分からん。
「もしかして君、お腹すいてる?」
適当に当たりをつけてみた。
「フン!」
鳴きながら頷く素振りを見せた。そういうことでいいのかな。
でも、餌、何食べるんだ?
「お肉好き?」
「フゥン!」
「魚は?」
「フン!」
「野菜は?」
「クゥーン……」
肉食か。鶏肉はあったはずだけど……。
うん、もう買い物行こ。
近くのホームセンターでペットフードと首輪、リード、バリカンを買った。総額は中々したけど、まあ、こんなものだろう。多分。
家に帰ると、毛玉はソファで寝ていた。
キッチンの戸棚から底の浅い皿を取り出し、ペットフードを入れる。
ザッザッザッ。
「ガウガウッ!」
「うわっ」
いつの間にか足元にいた。
流石獣。目敏い。いや、耳敏い? そんな言葉はないか。
「はいはい、今置くから待ってて」
キッチンからリビングに移動し、床に皿を置くと毛玉は一心不乱にがっつき始めた。恐らく昨日の夜、もしくはそれ以前から何も食べていなかったのだろう。
「ゆっくり食べなよ」
そう言って僕は毛玉を暫く撫でていた。
毛玉は、ものの数分でペットフードを平らげた。食べ終わる頃を見計らって、水の入った皿を置くと、勢い良く飲み始める。
……水道水で良かったのかな。カルキ抜きとか必要だった? いや、それは魚の場合か。
しかし、勢い良く水を飲み過ぎて、顔や皿の周りがびちゃびちゃだ。
「もっと綺麗に飲みなね……」
雑巾とタオルを取りに行った時に思い出した。
毛、刈らんと。
ダイニングテーブルに雑巾とタオルを置くと、放置していた袋からバリカンを取り出し、封を開けた。
試しにスイッチを押す。
ヴヴヴヴヴ……。
おお、すっごい震える。
「クゥーン?」
水を飲み終わったのか、不思議そうな様子で毛玉が寄ってきた。
「うっわ……」
よく見ると、足元が若干濡れている。床には、這ったような跡。何か、モップみたい。ちょっと笑える。
「いや、笑いごとじゃないや」
毛玉をダンボールに入れる。出てこようとするので、
「ステイ!」
試しに言ってみたら大人しくなった。この間に皿を2つともシンクに置き、床を雑巾で拭く。
再びバリカンを手に取って、ダンボールの前に戻る。
「……グゥ」
己が置かれている状況を察したらしい。いやー、動物って賢い。
ヴヴヴヴヴ……。
「キャウ!?」
漫画だったら、冷や汗とか顔に縦線とか引かれてるだろう。
「大丈夫、さっぱりするだけだよ。そのままだと暑いよ、もう梅雨入りするみたいだし」
ちょっとした毛玉との格闘はあったものの、無事毛刈りを終え、毛玉は元毛玉になった。
ダンボールにはこんもりと毛の山ができた。僕が器用だったらこれで何か作れたかもしれないけど、生憎針仕事はからっきしだ。勿体ないかも。
「フゥン!」
元毛玉は何だかんだご機嫌そうだ。うん、さっぱりしたもんね。
こうして見てみると、元毛玉は何かイヌっぽい。
「君はイヌなの?」
ダメ元でもう一度尋ねてみる。
「……」
まさかの無反応。
「イヌじゃないの?」
「……」
またも無反応。さっきまでの元気はどこへやら。
「君、イヌ?」
「……ファ」
何その呆れたような声と顔……。嫌な感じ。
まあいいか。イヌってことで。
……イヌじゃないかもしれない。
そう思ったのは飼い始めて一週間が経った頃だった。
窓から差し込む朝日の眩しさに、目を覚ましそうになる。だが、学校がないので偶にはゆっくり二度寝……
「ウガウッ!」
ぎしぃっ。
「ぐえ」
諦めて、目を開ける。視界いっぱいにイヌの顔。前足で器用に体を揺すっていた。
「分かった分かった。起きるから。そこどいて……」
そう言うと素直にイヌはどき、部屋を出ていった。目を擦りながら起き上がる。
「はあ……」
背伸びを一つしてベッドから出る。階段を下りてリビングのドアを開けると、食事の定位置で行儀よく尻尾を振って待っていた。
「ウォン!」
「すぐ準備するって」
自分とイヌの分の朝食を準備する。イヌの前にペットフードの入った皿、ダイニングテーブルにトーストとカフェオレを置くのが朝の習慣に。そして、
「いただきます」
を言うようになった。そうしないと、イヌが食事をしなくなったのだ。一体どこで覚えたんだか。
朝食にがっつく姿を、頬杖を突いて眺める。
……やっぱり、また大きくなってる。
拾った当初は本当に小さかった。非力な僕でも軽々持ち上げられるくらいには。だが、三日を過ぎたくらいから、日に日に大きくなってきたのだ。
確かに人間と比べたら、成長速度は早いだろう。とはいえ、こんな急に大きくなる? 子イヌ期間短くない?
……ご飯あげ過ぎ?
「クゥーン?」
気づいたら食べ終わってた。食べないの? とでも言ってそうだ。そう言えば鳴き声も低い。今みたいに、偶に前みたいな声も出すけど。
「いや食べる、食べるよ」
そう返事をして、自分の朝食を食べ進めた。
ふと気づく。ここ最近、すごい喋ってるな、僕。それもそうか、話し相手がいるもんね。
空になった皿を片付けると、顔を洗って歯を磨いた。自室に戻って着替える。鞄に必要最低限のものを入れて、リビングのドアを開ける。
「ガウッ!」
「うわ」
イヌは、リードを咥えていた。
「準備万端だね」
「ガウウッ!」
威勢のいい返事。リードを咥えているはずなのに、口角が上がっているように見えた。
天気予報では昨日ここらも梅雨入りしたとは言ってたけど、嘘みたいな快晴だった。
週末、度々しかしてなかった散歩も、イヌが来たことにより習慣になった。ルートは基本固定。小さい町の割に、ここは目立つ場所が密集していると思う。水族館やホール、賑やかな商店街。まあどれも僕らの目的地ではない。
町で一番大きい公園の休日には、大勢の人がいた。、遊具のエリアには子どもの集団が、芝生のエリアには家族連れ、周回園路にはランニングやジョギングを楽しむ人々。彼らと同じところを邪魔にならないように歩き、適当な場所で空いたベンチに座る。そこでぼーっと道行く人々を眺めるのは、割と好きだ。
イヌは隣に座らず、ベンチと地面の隙間に上手く体を滑り込ませて微睡んでいる。これじゃ、イヌって言うより
「ネコみたいにぐっすり寝てるね」
「!?」
声のする方をバッと見る。隣に誰か座っていた。いつの間に。気付かなかった……。
「お。驚いてる」
隣の人は怪しげに笑った。何だこの人。不審者だよね。
「不審者……不審者かあ……。悪くないね」
「いやどこがですか」
しまった、思わず返事を……って、ん?
「いやあ、初めて肉声で返事してくれたね! 嬉しいなあ~うんうん。やっぱり、ヒトとは話さないと、言葉忘れちゃうよね」
隣の人、もとい不審者は益々笑みを深めた。こういう時は早急に逃げるべきだ。
こっそりリードを引っ張ってみるものの、イヌは全く起きる気配がない。……本格的に寝てるなこれは。
「ええ、行っちゃうの、もう行っちゃうの? ええ~せっかく会えたのに? 悲しい、悲しいなあ~」
そう言いながら、不審者は顔をずいっと近づけてきたので、呼応するように仰け反る。何かいい香りがする。
仰け反りつつ不審者をよく観察する。ほぼ間違いなく男性。心地良い低音ボイスが、近づかれたことでより響いてくる。いい香りは、首に巻いているストールから漂ってくる。フローラル系だ。
「へえ。これ、ストールって言うんだ。夏用襟巻だと思ってた。おっしゃれ~」
ストールの端を摘まんでそう言った。
拾うの、そこなんだ……。にしても、何度も引っ張ってるのに起きない……。
「その子はもう暫く夢の中だね」
「……は」
「何で? って顔だね……ってさっきからずっとそんな顔かあ。はは」
「対照的に、あなたはずっと笑ってますね」
「あれ、もう諦めちゃった?」
そう呟く不審者は少しつまらなそうだった。
「逃げられないな、と」
「逃げられないって、別に取って食べないよ。ヒトの肉って美味しくなさそうだし」
しれっと物騒なことを言う。経験してなさそうで、安心だけど。
「そんなので安心しちゃうの? 純粋なのかな?」
「……さっきから、何で勝手に人の心読んでるんですか」
険のある声になってしまった。
「心は読んでないよ。だって顔にそう書いてあるんだもん」
不審者はそう言ってのけた。それ、ただの言葉のあやってやつだよね。
「いや~、それが書いてあるんだな~」
「へえ……で、何か用ですか?」
「つれない! まあいいか。根拠は?」
質問を質問で返さないでほしいんだけど……。
「ただの勘ですけど」
「勘かあ……いいね。まあ当たってるんだけど、半分」
半分? 思わず眉を顰めてしまう。
「君だけじゃなくて、その子」
不審者はベンチ下のイヌを指差す。
「イヌ、ですか」
「イヌ? それがその子の名前なの?」
絶句してしまった。そんなわけないじゃないか。でも、それと同時に、名前がないことに気づいた。
いつか本当の飼い主に返すため? 呼ばなくても来てくれるから必要なかった? 本当に?
何故か急に、心臓が縮み、体温が下がったような感覚に陥った。気温自体はそこまで高くないとはいえ、もう夏に近づいてるはずなのに。
「な~んか、勘違いしているみたいだね」
「……勘違い?」
自分の声は、掠れていた。
「まだちょっと早かったみたいだ。昔から意外と目測を誤りがちなんだよね。いやあ、失敬失敬」
そう言うと、不審者は立ち上がり、お尻をはたいた。このタイミングで帰るのか。
「え、ちょ」
慌てて引き留めようとしたが、
「困っているなら、商店街の便利屋さんに行くのだ!」
と言って本当に帰っていった。
帰り道、商店街を横切ったものの、その便利屋とやらに寄る元気はなかった。
家路への足取りが重い。心なしか、体全体が重くなっている気がする。
「クゥーン?」
イヌを見る。ぐっしょり濡れていた。……ん?
空を見上げる。先程までの快晴は見る影もなく、灰色に覆われていた。
……そうだ、梅雨だったか。
風邪を恐れ、慌てて走った。僕の態度が急変したのに気づいたのか、一瞬びくりとしたものの、イヌも僕に合わせて走り出す。
こういう時ばかりは門扉の存在が煩わしい。何故こんな仰々しい家にしたんだか。
焦りでもたつきながらも門扉を開け、そのまま家の扉に向かい、鍵を開け、中に滑り込むように入る。
靴の中までぐっしょりだったので、家に上がると同時に靴下を脱ぎ、玄関マットに足の裏を擦り付ける。
いつも通り、一緒にイヌも上がってこようとする。
「ステイ!」
優しく言うつもりが、つい大声になってしまった。
「あ、ごめん……」
ブルブルッ!
返事のつもりか、イヌは体全体を大きく左右に揺らした。
玄関中に水飛沫が散る。勿論、追い打ちのように僕にもばっちり掛かった。
「うえ、ちょ、ちょっと……」
相当変な顔だったのだろう。
「ブフ」
イヌが笑っているような声を出した。
「もう……待ってて。タオル取ってくるから」
思わず苦笑してしまう。そんなはずないのに、数年振りに心から笑えた気がした。
洗面所から持ってきた大きめのタオルで、イヌの体、特に足の裏を入念に拭く。
「はい、上がっていいよ」
なるべく優しく声をかける。
「ガフッ」
イヌは廊下に上がると、僕からタオルを取った。
「えっ、ちょ」
イヌはタオルを口に加えたまま、じっと僕を見る。
「えーっと、返して?」
「……」
無反応。何で。
「ヴフゥ」
暫く無音が続き、先に音を上げたたイヌは唸ったが、タオルを咥えているのもあり、結局要求が分からない。
「寒いからさ……そろそろ僕も拭きたいんだけど」
「フゥ」
頷く素振りを見せる。
「いやあの、だからねってうっ!」
どすっ!
返して、と続けようとしたところで突然、イヌが突進してきた。
またも背中から倒れ、頭を床に打ちつける。結局、床濡れたな。
「いった……ってうわっ」
ブワン。
急に視界が真っ暗になった。と思ったら、急に頭を押さえつけられ、上下左右に激しく揺さぶられる。首もげるって。
何となく状況が分かった。イヌは僕の髪を拭こうとしたのか。だからタオルを……にしても。
「はげ、激しいよ……首、首痛いって! もう大丈夫、大丈夫だから!」
手探りでイヌの体を見つけ、左手でポンポン叩く。言葉と動きに反応したのか、動きが止まった。
その隙に、空いた右手で顔からタオルを取り、起き上がる。イヌは僕の上に乗り上がって、不器用ながら前足で拭いていたようだ。
「ありがとう」
そう言いながら頭を優しく撫でると、イヌは静かに僕から下りた。
水気を吸ったタオルと服を洗濯機に放り込み、自室に戻って部屋着に着替える。服が濡れてないだけでこんなに着心地が違うとは。
……しかし、なんか、すごく、つかれた。思わずベッドに倒れこむ。
ああでも、かみをかわかさないと。イヌも。かぜ、ひいちゃうかも。
でも、なんか、まぶたがおもい……。
「……ん?」
目を開ける。どうやら寝落ちしていたようだ。でも、何かが違う気がする。
寝る前のことを思い出す。薄手の肌掛けの上にうつ伏せになっていたはずが、ちゃんと肌掛けが体にかかり、仰向けになって頭は枕の上にある。
器用な寝相……な、わけないか。でも、家にいるのは僕とイヌだけだし……。
そうだ、イヌ! お昼!
「ガウッ!」
慌てて起き上がる。視界の先には、イヌがいた。
「わ、びっくりした……。あ、ご飯だよね。ごめんごめん今」
「グウウ」
不機嫌そうな唸り声を上げている。
「そ、そんなにお腹空いてた……?」
「グルルルル」
更に不機嫌になった。何で?
「フン」
イヌの顔が指す方を見た。
そこにあるのは壁にかけられたカレンダー。隣に窓。
……ん? 雨、止んでる? というか、部屋に日光が入ってきている。と、いうことはまさか……。
「今、朝?」
「ガウ」
あれから、半日近く寝てしまったのか。じゃあ今日は日曜……本当に? 何か不安だ。スマホ……は鞄の中か。鞄……玄関に置きっぱなしだ。
急いで玄関に向かう。イヌは静かに後ろを付いてきた。玄関の戸棚の上に置かれた鞄からスマホを取り出し、起動させる。
……火曜日。七時半。天気は晴れ。
「噓でしょ……」
正確には、二日と半日ちょっと寝ていたわけだ。まじか、僕。学校、無断欠席しちゃったよ。
マズいな……感づかれてたらどうしよう。
「ウォン!」
イヌの鳴き声で我に返る。学校!
準備、準備しないと! そういえば課題やったっけ? ああでもまずは朝ご飯か!
「フウ……」
ため息が聞こえたような気がしたが、気にしない。とりあえず急がないと遅刻してしまう!
素早く朝ご飯を食べ、着替え、今日の時間割の教科書類をリュックに詰め込んだ。
結果的には何とか遅刻せず、学校には間に合った。クラスメイトには何人か心配されたが、感謝を述べつつ昨日の課題や授業内容を教えてもらった。こういう時、ある程度人間関係を構築しておくと助かるんだよね。正に、情けは人の為ならず、ってね。結論、いつもの一日。
ただ一つ、おかしなことがあった。
担任に昨日の無断欠席を謝ろうと、帰りのホームルーム後、教室で話しかけた時のこと。
担任はこう言ったのだ。
「え、無断欠席? 大丈夫。昨日、ちゃんとお電話あったもの。初めてお父さんの声聞いたけど、けっこうお若いのね。最初、お兄さんと勘違いしちゃったわ」
「そ、そうですか……」
……お父さん?
お父さん、ああお父さん、お父さん。……絶対違うな。もしかして、無意識のうちに父の振りをして学校に電話をかけた? ってそんなわけないか。でも、家にはイヌしかいないし……。
担任の言葉について考えながら歩いていたら、いつの間にか商店街を通っていた。
……あ。便利屋だっけ。相談、しようかな。
案外すぐ見つかった。階段を上り、便利屋のドアを開ける。
「よっ、こんにちは」
中に入ると、男性が声をかけてきた。
「こ、こんにちは。あの、ここって便利屋で合ってますか?」
「そう訊くってことは、何か依頼があるんだな」
「あ、はい。そうです」
そう返すと男性は、
「奥で待ってな」
と笑って言った。
部屋には別の人に案内された。程なくして、先程の男性も書類のようなものを持って入ってくる。
勢いで来ちゃったけど、大丈夫かな……。膝の上の拳が、微かに震えている。
「何か飲む? 緑茶と紅茶、コーヒーとリンゴジュースがあるよ」
僕の様子を見かねて、案内人が尋ねてくる。優しそうで少し安心した。
「リ、いや、紅茶でお願いします。……ミルクと砂糖も入れてください」
ちょっと要望多かったかも? でも、ストレート苦手なんだよな。
「はーい」
嫌な顔せず返事をした案内人は、ご機嫌そうに部屋を出ていった。あれ、この人には訊かなくていいのかな?
「俺に何も訊いてない、って顔に書いてんな」
「え」
どきりとした。つい数日前のことと重なり、背中に変な汗をかく。
「大丈夫、言わなくても察してくれてるから。阿吽の呼吸ってやつな。多分、ブラックコーヒー持ってきてくれるぜ」
「はあ……」
何故か自慢そうに言う男性に、曖昧な返事しかできなかった。何だこの人。
「あ、一個訊いていいか」
「どうぞ」
促すと、向かいから男性はぐっと顔を僕に寄せ、
「お前、第一高校だろ」
やけに神妙な声音で言ってきた。まあ、制服だし、分かるだろう。
「そうですが……」
顔の距離を取って返事をすると、男性は笑みを深めた。
「だよな! 俺も出身そこなんだ! いや、奇遇だな!」
それだけで笑顔に。凄い。いい意味でね。
「お茶入りましたよ。はい」
緊張が解けたタイミングで、案内人がお盆を持って戻ってきた。
「ありがとうございます」
「所長も。はい」
「サンキュー」
こっそり向かいのカップを覗くと、確かにブラックコーヒーだった。というか、この人が所長だったなんて。一番若い、調査員だと思ってた。危ない危ない。
「何の話で盛り上がってたんですか? あ、これお菓子どうぞ」
所長の隣に腰掛けながら、調査員が尋ねる。
「あ、ありがとうございます。実は」
「こいつうちの母校の生徒だと! いやーその制服懐かしいな!」
所長が、食い気味に答えた。驚いた、何だこの人。斜向かいを見ると、調査員が冷めた顔をしていた。
「まあこの町の高校は3つだけですし、所長が知らないだけでたくさん後輩に会っていると思いますよ。で、ご依頼の方は?」
調査員は呆れたように窘めつつ、僕に本題を振る。きっと日常なのだろう。その証拠に所長は、
「あーそうだった。悪い悪い」
と反省する気の無い返事をしていた。
「はい。実は……」
「……というわけなんです。どうかよろしくお願いします」
掻い摘んで飼いイヌがイヌじゃないかもしれない、という話をした。冷静に考えると、大分変な依頼だ。
「勿論、任せろ。しっかしこりゃまた、久々に骨が折れそうな案件な」
「そうですね」
所長も調査員も、変な顔一つせずに快く引き受けてくれた。
「引き受けて、くれるんですか……?」
そう呟くと、所長と調査員は驚いた顔をした。二人は顔を見合わせると、
「そりゃ、そういう仕事だし。なあ?」
「はい」
と、さも当然のように言った。
「ありがとうございます」
「感謝し過ぎだって。奉仕じゃなくて仕事なんだから、お互い様だ」
所長は笑って言った。
肩の力が抜けた気がした。……気、張ってたんだ。
プルルルル……。
突然の着信音にびくりとする。
「電話だ。出てきますね」
そう言い残して、調査員は応接室を出ていった。
「で、まずはそのイヌ擬きの写真見ていいか」
「あ、はい。これです」
そう言ってスマホの画面を見せる。
「あ、あさの、これ動物?」
所長が困惑気味に尋ねてくる。不審に思って画面をよく見ると、待ち受け画面のままだった。
「あ、すみません。これ、拾った初日の画像でした。待って下さい、一番最近……」
「そのモフモフがか!?」
僕の手ごとスマホを掴みながら、所長が叫ぶ。
「はい。可愛くて、つい待ち受けに」
「か、可愛いか……?」
何か、賛同を得られてない気がする。しょうがない。そんなこともあるよね。
「あの、写真……」
「あ、わり」
手を掴んでいたのは無意識だったらしく、すぐ放してくれた。手元でスマホを操作し、最近の画像を表示して再度見せる。
「あ、こっちは可愛いな。一見するとイヌだが……でも何か、違和感あるな」
今更、本物を連れてくるべきだったかとは思ったが、画像だけでも何かしら普通じゃないことには気づいてくれたようだ。
「そうなんですよ。僕も具体的には分かりませんけど。少なくとも、ただのイヌではないと思うんです。だってまだ飼って一週間ちょっとで」
「一週間!? まじか……」
呆然と所長が呟いた。
「そいつ、イヌかイヌじゃないか以前に、そもそも普通の動物ではないな」
突然、第三者の声がした。画面から顔を上げると、部屋の入口に眼鏡の男性が立っていた。その人は無遠慮に部屋に入ってくると、僕の隣に座り、何も言わずスマホを取った。
「あ、ちょ」
男性は無言で僕のスマホをスワイプしている。
「ほう、これが……。というかお前、イヌか風景の写真だけとは、老人か?」
何この人。ムカつく。
「そ、それ以外もありますよ! 張り出されたテストの時間割とか……」
つい、子どもっぽく反論してしまった。何だ、時間割って。
「いきなりその態度は失礼だろ。子どもとはいえ、依頼人だぜ、最高顧問サマ」
所長が男性を窘める。最高、顧問?
「あの、最高顧問というのは……」
「ここの最高権力者だが?」
そう言いながら最高顧問は僕のスマホを返してきた。
「なーにが最高権力者だ」
呆れたようにそう言った所長は、
「こいつ、俺の部下になりたくなくて、勝手に変な役職作ったんだ。実質平」
と耳打ちしてきた。
「何か言ったか」
うわ、地獄耳。しかも、所長のこと睨んでる。
「いーえ、何も? ……で、最高顧問サマは、何が分かったんだ?」
苦笑しながら所長が話を促す。
「ああ、実際に写真を見て確信したが、こいつはイヌではない」
最高顧問は淡々と私見を述べた。……というか、
「イヌじゃ、ないんですか……?」
僕の言葉に、最高顧問は不思議そうにする。
「何だ。そう思ったから、ここにわざわざ足を運んだんじゃないのか」
「いえ、人に勧められて」
「人? 知り合いとか、友達じゃなく?」
今度は所長が訊いてくる。
「何ていうか、行きずりの不審者?」
「……不審者?」
所長は不思議そうに、僕の言葉を繰り返した。
一方の最高顧問は、苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。その顔のまま、
「そいつ、無駄にいい香りとかしてなかったか」
と問いかけてきた。
「あ、そうです。……お知り合いですか?」
素直に答えると、彼はより苦々しい顔をした。
「やはり、か……ああ、面倒くさい。ずっと引っ込んでいればいいものを」
何やら不穏な感じがする。
「もっかい訊くけど、何か心当たりあんのか?」
所長が再度尋ねると、最高顧問は答えた。おい。
「ある。ありまくりだ。もう答えは出たも同義だ」
最高顧問は天を仰いでいる。
「それ、どんくらい信じていい?」
所長が尋ねる。
「絶対だ」
そのままお互い真顔で見つめ合うこと数秒。
「よし、好きにしろ!」
所長は元気に言い放った。状況が全く読めない。
「えっと、あの」
「依頼人。今からお前の家に行っていいか」
僕の言葉を遮り、最高顧問が訊いてきた。質問の体だけど、来る気満々でしょ。
「……まあ、いいですよ」
「じゃあ、今日はこいつの家に寄って直帰する」
宣言したよこの人。
笑顔の所長に見送られ、僕は今、最高顧問と自宅に向かっている。
「今更訊くのも変な話だが、親に連絡など入れなくて良かったのか?」
本当に今更なことを。
「大丈夫ですよ。親、家にいないんで」
「……海外出張か?」
「まあ、そんなとこです」
適当に話を合わせた。まあ、どうせ今日だけだし、いいよね。
家のすぐ傍まで来ると、誰かが門扉の前に立っていた。……というか、
「お前、不用心すぎないか」
「……返す言葉もございません」
遅刻しそうだったとはいえ、閉め忘れるとは痛恨のミス。だというのに、その誰かは敷地に入りもせず、ただ突っ立っていた。
「……どうするんだ」
「どいてもらうだけですよ」
謎の人物にこっそり近づく。後ろ姿だが、見覚えがあるような。特に、あのストールとか。話しかけるために、肩に手を置こうとしたその時。
その人が振り返る。無表情が、僕を見て満面の笑みに変わった。
「あ、待ってたよ、君! 遅いじゃないか、学生が寄り道なんて危ないぞ~」
……土曜日の不審者だった。
思ってもない人物と、思ってもないタイミングで再会してしまった。面食らったが、気を取り直して話しかけようと口を開こうとした瞬間。
「……お前は何をしているんだ」
不機嫌を煮詰めたような低い声が背後からして、思わず振り返る。最高顧問の眉間には、信じられないほどの皺が寄っていた。凄く怖い。
「あれ~君もいたんだ? 久しぶりだねえ! 何々、二人は知り合い? うわ~何だか妬けちゃうな~。って、どっちに妬くのが正解かな?」
「その忌々しいお喋りな口を塞げ」
前回と変わらない飄々とした不審者の様子に、益々苛立ちを顕わにする最高顧問。二人の事も気になるけど、人の家の前で止めてほしいな。
「あの、とりあえず二人とも。うち、入りませんか」
そう提案すると両者とも頷いたので、案内する。
「いや~有り難いなあ。呼び鈴は押したものの、反応なくてさ。困ってたんだよ~。ほら、私って、招かれないと入れないじゃん?」
「お前は吸血鬼か」
「そうじゃないのは君も知ってるだろ? この意地悪!」
「……黙れ」
門扉から玄関までの短い道でよくもまあ口喧嘩ができるものだ。いい年して。逆に感心してしまう。
「え、やだ褒められてる? うわ、普通に照れちゃうなあ」
ドアを開けるついでに不審者の顔を見ると、本当に照れていた。何で。気持ち悪い。
「気持ち悪い!? どこが!?」
「全部だ。そろそろ気づけ」
リビングに二人を案内する。玄関に入った時点で察してはいたが、イヌは定位置のソファの上で丸まって寝ていた。体が大きいので、手足が若干はみ出ているけど、ご愛嬌ということで。
不審者は平然としていたが、初見の最高顧問は声こそ出さなかったが、実際の大きさに驚いているようだった。無理もない。
「大きいとは思っていたが、ここまでとはな……」
そう言いながら、最高顧問はイヌに近づいて観察を始める。
「ふふふ、そうでしょうそうでしょう」
「お前が偉そうにするな」
いや本当に。不審者にドヤ顔をされる筋合いはない。
「そうかな? まあいいや。ねえねえ、喉乾いちゃった」
今日も自由だなこの人。
自分と最高顧問と不審者用に三つ、コップに冷えた緑茶を入れ、それぞれに渡す。
「……で、何か分かりましたか」
最高顧問にそう尋ねると、
「まあな。これで完璧に理解した」
と不服そうな顔で言った。本当に大丈夫なのかな?
「それでそれで? 君の答えは何だい?」
何で、あなたの方がワクワクしてるのか。
というか、そもそも何しに? でも今は、最高顧問が先か。
「聞かせてください。イヌのこと」
最高顧問は咳払いを一つした。
「簡潔に言おう。恐らくこいつはオオカミだ」
……ん? オオカミ? あの? 日本では絶滅した?
「いやちょっ」
「うーん、五十点! 半分正解で半分違うね」
僕より先に、不審者が反応した。
いや待て待て。何、半分正解で半分違うって。こちとらまだ最高顧問のも咀嚼できてないんやけど。何回横槍入れんねん。ふざけるんも大概にせえ。
「いやごめんって。縁もゆかりもないのに、どうして急に関西弁になるの。怖いよ……」
自分では無意識だが、心の声が怒りで変な感じになってしまったようだ。
「不審者は本当に静かにして下さい。それであの、オオカミというのは?」
最高顧問は呆れたように不審者を一瞥すると、僕に向き直った。
「一見するとオオカミに似たイヌ、ウルフドッグだったか。その線もあったが、にしては大きすぎる。足もだ。それに、吊り目だ」
いつの間にかイヌは目を覚ましていた。
「オオカミはイヌに比べ顎の筋肉が多く、頬骨が高い。だから吊り上がって見える。最も、硬い肉ばかり食べていないので野生のオオカミほど鋭くはない」
そうなのか。初めて知った。
「他にも様々違いはあるが、見て分かるのはこの辺だろう。さて、大変不本意だが、そこの不審者の発言に立ち返ろうと思う」
「えっ、戻っちゃうんですか」
意外だった。
「ああ。こいつが半分違うと言ったのは、ただの茶々ではない。それはつまり、このオオカミはただのオオカミではないということだ」
「なるほど……」
確かに、イヌにしろオオカミにしろ、成長速度がどう考えてもおかしい。
「成長速度、とかですか」
「そうだな」
「オッドアイもですか?」
「いや、碧と琥珀色ならオッドアイの中でもスタンダードだな」
そ、そうなのか。
「それにいくら依頼人に世話されたとはいえ、元は野生。ここまで人馴れしているのも違和感がある」
そう言いながら、最高顧問はイヌを撫でる。無抵抗で気持ちよさそう。そう言われると、そうかも。
暫くイヌを撫でていた最高顧問は、イヌから離したその手で、不審者を指差した。
「どうせ、お前の仕込みだろ」
指摘された当の本人は、ニヤニヤと笑っていた。
「いや~見違えた! ついに君も名探偵の仲間入りかな?」
「ふざけるな。昔からお前というやつは」
「何さ、この目で見たような言い方しちゃって」
「確かに僕は直接は見ていない。だが、お前に迷惑被った先人はつらつらと書き残してくれているからな」
「やだ、人気者だね~」
「調子に乗るな」
マズい、また口喧嘩が始まるよ。
「待って下さい! あの、不審者さん。どういうことですか?」
仲裁も兼ねて、不審者に尋ねる。
「どこから話せばいいかな……? あ、私が生まれたのは」
「そこじゃない。オオカミのことだ」
最高顧問が窘める。
「ああそっち。ええとね少年、その子を君の家の前に置いたのは、私だよ」
またも衝撃発言をくらった。ということは、つまり。
「あなたが、捨てたんですか?」
「捨ててはないよ。そもそも、私の子じゃないし。子宮ないし」
「方々が不快になるジョークは止めろ」
苛立った声で最高顧問は言った。彼が言ってなかったら僕が言ってたな。
「それはダメだね、ごめん。まあでも捨ててないのは本当。導いた、って感じかな。だから二人とも、そんな怖い顔しないでよ……」
「「導いた……?」」
いまいちピンとこなかったのは、最高顧問も同じのようだった。
「だって、この子が少年に会いたい、って言ったんだもん。ねえ?」
不審者はイヌにそう問いかける。イヌは鷹揚に頷いた。
「僕に、会いに……?」
「ガウッ!」
そうだったのか。確かに、そう考えると色々腑に落ちるかも?
「何で依頼人だったんだ?」
最高顧問が不審者に尋ねる。
「さあ? フィーリングってやつ? この子に訊いてよ」
「何がフィーリングだ。嘘を言うな」
さっきから気になってたけど、どうして最高顧問はこの人が嘘を言ってるかどうか分かるんだろう。
「彼、変態だから。私のこと観察しまくったの! 怖いなあ~」
「妄言も大概にしろ……」
「また怒ってる! せっかくのお顔が台無しだぞ」
「黙れ」
ああまた口喧嘩。とことん反りが合わないなあ。最高顧問が怒る気持ちも分かるけど。
「ええ~少年はそっちの味方なの?」
「そりゃそうでしょう。それで、本当は何なんです?」
そう訊くと不審者は少し不満そうな顔をした。
「ここで言っていいのかい? 流石の私にも、他人のプライバシーを尊重する気持ちはあるよ」
「プライバシー? どういうことだ?」
訝しげに最高顧問が聞き返す一方、背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
この人は、どこまで僕を知っている。
「君が置かれている状況を少しだけ、さ」
「依頼人の状況だと……?」
マズい。マズいマズいマズい。
「いや、いいですそれはもう」
「それは、依頼人が一軒家で長らく一人で住んでることと何か関係があるのか?」
「……!」
まるで、追い詰められた犯人のような気分だ。
「犯人なんて。私ら二人、君を責めるつもりはないよ。ただの知りたがりさ」
優しい声音で不審者は言った。
「言いたくないなら無理にとは言わない。今回の依頼とは関係ないからな」
最高顧問も後に続いてそう言う。……こんなに優しい声、出せるんだ。
「ぶふっ」
「お前は本当に空気をぶち壊す大天才だな」
僕の心の声に笑ってしまった不審者を、最高顧問が窘める。この短期間で、すっかり見慣れた光景になった。
言ってもいいかも。何故かふと、そう思った。会ったばかりだからかもしれない。全部話しても、さらっと済ましてくれそうだし。
それに、誰も気づかなかったことに気づいてくれた。うまく隠していたつもりだったけれど、それでも気づいた。
「…話しても、いいですか?」
本当は、気づいてほしかったんだ。
二人は頷いた。
「簡潔に言うと、蒸発しちゃったんです。ネグレクトってのですかね。高校入って少しした頃に両親とも。多分どっちも、お互いが僕の面倒見てると思ってるんです。でも、親の責務か罪悪感なのか、生活費は振り込まれてて。まあ何とかなってるんです。ほんと、嘘みたいな本当の話で。はは」
静かな空間に耐え切れず、早口で喋ったあげく、乾いた笑いが零れた。最初は二人を見ていたけど、つい視線が下に向いてしまう。静音なんて、慣れたはずなのになあ。
「ガウッ!」
突然、イヌが大声を出した。その声につられ、視線を向ける。視界に入った不審者も最高顧問も、優しい微笑みを浮かべていた。
「無理して笑うことはない。警察や児相へ行くのが大人として正しい行動かもしれないが、君はそれを望んでないだろう」
落ち着いた声で最高顧問が言う。
「そうそう。それにほら、もう寂しくもないでしょ?」
不審者も、イヌを指して後に続けた。
「……ありがとう、ございます」
すっと、感謝の言葉が出た。
「いやーやっぱり、私たちってそっくりだね!」
「止めろ。お前ほど無遠慮で一方的ではない」
「え~そう?」
気を遣ってくれたのか、口喧嘩というより小競り合いしてる。少し、微笑ましいかもしれない。少しだけ。
「ガウガウ!」
足元にイヌが寄ってきていた。そうだ、一番は。
「……来てくれてありがとう」
思いきり全身を撫でまわすと、気持ちよさそうな顔をした。
「君が元気になって、安心したみたいだねえ。こないだ何て珍しく取り」
「グルルルル」
「いやごめん、ごめんて」
不審者の言葉の続きを、威嚇で制するイヌ。何言おうとしたんだろう。
「何かあったのか」
「僕、昨日まで体調不良で寝込んでまして」
「病み上がりだったのか」
あ、そういえば。
「昨日、変なことがあったんです」
「変なこと?」
「昨日も臥せってたので、欠席連絡できてなかったんです。でも、今日確認したら、連絡が来てたみたいで」
「あ、それ私」
不審者が言った。……あ、それ私?
「本気で言ってます?」
「うん、これは本当の話だよ」
またも呆然とさせられる。何なんだこの人。
「お前……結局、不法侵入してたのか! 本当に! お前は! 度し難い馬鹿だ! 行くぞ、今すぐ行くぞ、警察に!」
同じように呆然としていた最高顧問。今日一番の激昂。
「不法じゃないよ! 呼ばれたもん、招かれたもん! この子に」
そう言って、あの人はイヌを指した。
「イヌが? どうやって?」
「……今一度言うが、オオカミだぞ」
クールダウンした最高顧問が呆れたように言う。
「いやもう、この子の名前みたいなものなので。ね」
「ガウッ!」
「君ら、すっかり名コンビ感出てるな……」
最高顧問は、呆れと苦笑が混じり合ったような顔をしていた。ちょっとくすぐったい。
「あの~、喋っていい?」
あ、忘れてた。
「忘れてたの!?」
不審者は、大げさに悲しい素振りを見せるが、最高顧問には効かない。
「お前への興味なんてそんなものだ」
「え~気になるでしょ? 絡繰りが!」
「どうせ、ちょいちょい使ってるテレパシーでしょう」
つい、最高顧問のような言い方になっちゃった。
「テレパシー! そんっなオカルト崩れのパチモンと一緒にしないでよ!」
大層心外だったようだ。というか、初見の怪しい雰囲気はどこへ行ったのだろう。
「何が違うんですか?」
「色々違うの! 説明は割愛するけどね! 君たち、私への尊敬が足りないもの!」
地団駄でも踏みそうな怒りようだ。子どもみたい。
「まあまあ、落ち着いて。逆にあなたで安心しました。ありがとうございます」
心からの感謝を込める。この人にペラペラの言葉はきっと届かないから。
「えへへ、まあね! イヌ君もお世話になってるし、当然だよ!」
案の定、すぐご機嫌になった。
「無断欠席を回避できましたし、不法侵入は不問にしますね」
不審者の顔は、笑顔のまま凍り付いた。
「君、中々だな」
最高顧問が気分よさそうに片側の口角を上げ、こちらを見る。
「感謝してるのは本当です。もう、一人じゃなくなったので」
「そうか」
「はい」
僕の返事を聞いた彼は、軽く一息つくと、目線を僕から未だ固まる不審者に移した。
「おい不審者、帰るぞ」
彼の言葉で再び不審者は動き出した。
「えっもう?」
「問題は解決した。これ以上の長居は無用だろう」
「え~でもさ~」
渋る不審者。困った。ここは一言。
「そうです。もう帰って下さい」
「……」
無言で見つめてくるので、負けじと見つめ返す。
「分かったよお」
先に白旗を上げたのは、不審者の方だった。
イヌと共に、門扉までお見送りする。
「彼らへの報告は明日、僕がやっておく。気が向いたら、うちに茶を飲みに来たらいい。話し相手くらいにはなってやろう。彼らも喜ぶ」
「一番嬉しいのは君だろう? 相変わらず素直じゃないよね」
「構ってちゃんは黙っていろ」
二人は最後まで、仲良く口喧嘩をしていた。
……そうだ。最後に一つ、不審者に訊きたいことがあったのに。
「何?」
目の前で急に振り向くので、驚いてしまった。
「あ、あの……僕もいつか、あなたみたいに、この子と会話できるでしょうか」
不審者は一瞬きょとんとしたものの、すぐに微笑んだ。
「もうできてるよ。でもまあ、今後の頑張り次第だね」
会話と口喧嘩を繰り返し、歩いていく最高顧問と不審者の後ろ姿を暫くじっと見つめる。
そう言えば、彼らはどういう知り合いなのだろう。結局、ずっと不審者と呼んでしまってたけど、あの人の正体は何だったんだろう。色々気になる発言もあったけど……。
まあいいか。大事なのはそこじゃないよね。多分。
正体と言えばイヌ、まあオオカミだけど。この子のこともそうだ。解決したとか言ってたけど、してないよね? 普通に考えて、オオカミ飼うってマズいよね。
……思ったより、すぐの再会になりそうです。最高顧問。
「はは」
何か笑えてきた。
「ご飯食べよっか」
「ガウ!」
一人と一匹、一緒に家の中に戻った。
イヌがご飯を食べているのを見るのは、随分久しぶりな気がする。といっても最後は土曜の朝だけど。
「美味しい?」
「ガウッ!」
「そっか……」
「クゥーン?」
不意に言葉が途切れた僕の様子に、イヌは不安になったように見えた。
「ああ、大丈夫。ただ、改めて来てくれてありがとう、って思っただけだよ」
本当に、有り難かった。一人じゃないだけで、家にいるのがこんなに楽しいと思えるなんて。イヌとかオオカミとか、僕には些末な問題だ。
『こちらこそ、一緒にいさせてくれて、ありがとう』
「!? え、今」
「ガウッ!」
イヌは笑っていた。
……確かに、僕の頑張り次第か。実現する日はそう遠くないといいな。