26話
周囲が落ち着いてきてからすぐ、ディルは風邪で寝込んだ。
これまでずっと気を張って過ごしてきたので、緊張が解けてこれまでの疲れが一気に体調に表れたのだろう。
教師や同室からもゆっくりと休むように言われて、二日ほど自分のベッドで過ごした後は無事復活した。
本当は手の傷にサントマリーの効果を試そうと思っていたのだが、残念ながらそれは見送りになった。
錬成所では休日が週に一日あり、その日は生徒も思い思いの過ごし方をしている。
外出許可を取れば誰でも城下町に行くことができるので、小遣いで屋台の食べ物を目当てに外出をするほか、気分転換に買い物をしたり、国立図書館に行ったりする生徒が多い。
ディルはこれまでは特に用事がなくても大抵の場合は毎週外出許可を取って、毎回城下町の端の方にある錬成所の生徒たちが行かなさそうな共同浴場に行って入浴をしていた。ちなみに男子寮に暮らすディルが女湯で目撃されては一大事なので、途中で服を変えて向かうという手の入れようだ。
持ち物検査をされても大丈夫なように、という訳ではなくそもそも着るつもりがなかったため、ディルは錬成所には初めから女ものの服は持ち込んでいない。
初めての外出の日には、見つかっても荷物の包みに使っていたと言い逃れができそうだという理由から、腰に巻く大判の布と頭につけるスカーフを買った。そして、その布はいつもの服で外出をしてから風呂に向かう前に路地裏で身に着けるようにしている。短髪を隠してズボンの上から腰巻をするだけでも、それなりに女性らしくなる。
ディル的には女装をしているような気分だが、一応生物的には女である。
それでも、城下町でも短髪の女性はほぼいないので風呂場ではびっくりされるが、一応身体は女なので納得される。
個室の風呂が使えるようになってからも、ディルは城下町の共同浴場に通っている。なんだか習慣化してしまったというのもあるし、湯につかるというのは気持ちがいい。
「ふいー気持ちいい」
全身を丁寧に綺麗にしてから身体をお湯に沈めるときが、慌ただしい日常の中で数少ない至福のひと時である。
この日は、風呂の後に王立図書館で本を借りてから錬成所に帰る予定でいる。
じっくりと湯舟を堪能してから湯から上がって、脱衣所に行くと新しい肌着を一旦つける。そしてトイレに服を持ち込んで肌着の下にさらしを巻いて、着てきた服を身に着ける。ちなみにコルセットは留守番だ。
最後に貴重品を返却してもらい、建物を後にする。
知り合いに会ってもいいように、人気のない場所で腰布やスカーフを外してから図書館へ向かう。
図書館で魔術師に関する本を選んでいて思い出した。
「そうだった、手紙の書き方調べないと」
次を書く機会があるかは分からないが、自分でも調べた上で書き方を教わりたい。
職員に尋ねると何冊かあるということが分かったので、本棚で参考になりそうな本を見比べていると、聞き覚えのある声がした。
「げ。この声は…」
この声の主はクラウスだ。あまり出会いたくない相手に遭遇してしまった。
反対側の本棚にいるようなので、こちらに気づかれる前に退散しようとお目当ての本を持って逃げようとしたら、気になる内容が聞こえてきた。
「叔父貴もお前に期待しているのだから、家名に泥を塗るような真似はするな」
「分かっている。どうせ私は使い勝手のいい駒だよ」
聞き耳を立てていると、どうやら話し相手は身内らしく、その後も家柄とクラウスの将来を結びつけるようなやり取りが続いた。
要約すると、クラウスは優秀な臣下や魔術師を多く輩出している家系で、王宮には身内が複数仕えているらしい。魔術師でありながら要職に就いている叔父もいるようで、クラウスは新人として王宮入りした時点でただの一般人ではない振る舞いが求められる。
すました顔で政敵と腹の探り合いをしていかなければならないし、下手を働けば身内の首が絞まる、というわけだ。
「そういえば、魔力は血によって受け継がれないという話が座学で出たときも、先生も少数の例外はあるのだって言っていたけど、クラウスの家もそうなのかな」
結局ディルは会話を最後まで聞いてしまった。
会話が終わり、声が遠のいたので相手が立ち去るまで待とうとしたら、クラウスがこちらの本棚に顔を出した。
クラウスと目が合う。立ち去ったのはもう一人の方だけだったのか。
「!」
「…いつからいた」
「立ち聞きしてすみません。本を探しに来ていて…家名がどうのというくだりからです」
「趣味の悪い」
そう呟くクラウスには、普段見る余裕のありそうな姿とはかけ離れた暗鬱な雰囲気が漂っていた。口調もなんだか尖っている。
「…クラウス先輩は文武両道で将来有望なのだと聞きました。周囲からの期待も厚いとか」
「求められすぎて窮屈な生き方しかできないだけだ。そこに個人の意思なんてものは何もない。できなければ捨てられる」
「大変なんですね」
「名家に生まれついたらそんなものだ。今思えば、直接ぶつけられない感情の行き先を別の者に求めていたのだろうな」
「その結果が僕へのあれこれですか?」
「それも含めて」
ぼそりと、羨ましさもあったんだ、とこぼしたのが聞こえた。
どう返そうかと思案してからディルは続けた。
「クラウス先輩が僕やその他の人にしてきたことを許すことはできません。ですが、あなたの周りにいた人たちも、あなたに意見することもなくただ付き従っていました。そういう意味では本当の味方は少なかったんですね。たくさんのことを一人で抱える先輩の気持ちは、僕には想像もつきません。先輩にこの先、道を正してくれたり、自分を預けられるような本当の味方が現れることを祈っています」
ああ、これだからとクラウスは天井を仰ぎ見る。
「ほんっと敵わないよね。捌け口にしてしまったことは反省している。すまなかった。君の人生に幸多からんことを」
ディルは、錬成所に帰ってから読書に手を付けようとしても、どうにも気が進まなかった。
同情してしまうのはディルの優しさか。
三年生の卒業は一カ月後に行われた。華々しさの裏には色々な思いがあるのだと考えながら、ディルは三年生を送り出した。




