本語り2
一戸建て住居の一室から、今日も言葉にならない少女の声が聞こえてくる。
叫んでいる訳でもなく、怒鳴っている訳でもなく……ただ、何かを唱えている。
そんな風に聞こえていた。
特に拘束している訳でもないのに、部屋からは一歩も出ないし、食事には一口も手を付けない。一度外に出るように促したものの、反抗するように奇声を発しながら、部屋の中をのたうち回るだけだった。
その姿がまるで、自分の正当性を訴えているかのように見えて……初めて、彼女という存在が恐ろしく思えた。
しかし、尚も彼は少女を見捨てなかった。
「待っていろ。君は、必ず俺が助ける」
統合失調症、うつ病……或いはそれに類似する症状だと思われるだろう。
ほんの数日前までは無邪気にはしゃいでいたのに、こんな忽然と精神病に陥ることがあるのか。まるで人が変わったかのような変貌ぶりに、当初はただただ頭を抱えるしか出来ることがなかった。
その後のことだった。
少女の通っていた中学校で、不可思議な怪事件が起こっていると知ったのは……。
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「日那谷さんは、着物とか着ないの?」
「なに、急に?」
その日、萠志は誠志郎の誘いで隣町にまで足を運んでいた。
特に親密的な間柄ではないが、遊びの誘いを断る理由もない。それに誠志郎は、どういう理由か、麗衣を除いて初めて《孤永》の流れから脱却したクラスメイトだ。
気にならないと言えば……嘘になる。
簡単にショッピングモールや街道を歩いて回り、一息着くために立ち寄った喫茶店で、ふと誠志郎が口にした質問に、萠志は軽く首を傾げた。
「あ、ご、ごめん。日陰舘さんがいつも綺麗な着物来ているから、日那谷さんはどうなのかなって思って」
「着物なんて着るの面倒臭いし。バイトしている時位しか着ない。あれは、巫女装束だけど」
そう返しながら、砂糖を大量にぶちこんだ珈琲を啜る萠志。
別段、甘党という訳ではないが、苦いものにせよ甘いものにせよ、中途半端な味は納得がいかない。加えて言えば、今回は甘いものが飲みたかった、それだけのことである。
「そっかぁ……」
「ん?どうしたの、本当に?」
先程から、しきりに肩掛けバックの中を探ったりしながら、落ち着きなく目を泳がせている。
萠志が細目になって誠志郎を見ると、彼は慌てて手を横に振るばかりだった。
「い、いやいや!何でもないよ!」
すると、萠志は少し彼の挙動を怪しみつつも、「ふぅん」、と言って珈琲を飲み干した。
思い返せば、今までに同年代の男子とこのような会話をしたことは一度もなかった為、少し新鮮な気分だったのかもしれない。
そうやって心の中で不思議な感覚を噛み締めながら、しばらくの間頬杖をついて、彼の慌てふためく様子を眺め見るのだった。
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境内を竹箒で掃いていた麗衣は、スマホを取り出して着信履歴をスクロール。
改めて見てみると、ここ最近は、殆どが日那谷萠志からの連絡で埋まっていた。
「……今回は律儀に休みのお願いしてきたなぁ……うん、まぁ、無理するなと言ったのは私だけど……」
一緒に暮らしている身である以上、彼女たちが連絡を取り合うのにわざわざ電話を使う必要はない。
しかし、萠志はふと思い立って行動を起こすような行動派な性分をしている。
急に居なくなられると家主として色々と困ってしまう為、遠出したくなった時には予め連絡を入れるようにお願いしているのだ。
今回のように、ボーイフレンドと遊びに行きたいと願い出た時は、素直に応援してあげたくなるものだが……何をするにしても、元々入っていた予定を飄々と破るのは大概にして欲しいものである。
「せめて前日にしなされよ!バイト五分前に連絡してくるとかどういう了見だよ!あの不良娘ぇ!」
折角学校が休みなのだから、色々と手伝ってもらおうと考えていたのに……朝一番で出掛けたと思ったら、あの誠志郎と遊びに行くだなんて。
急展開にも程がある!
幸せになれよコンチクショウ!
悪態をつきつつも、心の中ではすこぶる応援をしたがる麗衣だった。
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「ほらほらぁ、私を捕まえてぇ」
道行く人にも構わずに、空野千流は踊るように跳び跳ねながら、後を歩く甲斐原獅門へ向けて大きく手を振る。
これで無邪気な笑みを浮かべているのならばまだしも、彼女の顔を覆い隠す魔法少女の仮面の笑みが不動だにしない為、ただただ不気味な光景にしか見えない。
そもそも彼女の存在自体が奇々怪々である為、別の意味では良い味を出しているとも捉えられるが……。
「捕まえるのは君じゃない、猫だ」
この日、獅門の働く探偵事務所に飼い猫捜索の依頼が入った。
特徴は、黒、茶、白色の毛が生えた三毛猫。名前はリード。最近産まれたばかりの子猫と一緒に行方を眩ませたという。生後一ヶ月も経たない子猫を外に連れ出したとなると、歩くこともままならない状態であるので、非常に安全性が危惧される。
その為、極力早めに見つけ出して欲しい、とのことだった。
「猫ってのは自由とさすらいを好むもの。それを縛るだなんて、猫に対する冒涜そのものよねぇ」
「君は一体猫の何を知っているんだ……」
人間よりはよく分かっている、等と言われては返す言葉もないのだが……この怪者の場合は、案じるよりも、嘲る方を優先する傾向がある。
それは恐らく、人間だけに限った話ではないだろう。
下手をすれば、猫が死ぬ様を見て興奮するようなことも、平然とやらかしそうな気配がある。
「今、絶対に失礼なこと考えていたでしょ?」
気付けば、目の前で獅門の顔を見上げる千流の姿があった。彼女にしては不機嫌そうな口調に、獅門は思わず肩を落とす。
いつもと違う反応を返されると、どういう形で受け止めれば良いのか判断し辛い。
「エスパーか、君は……別に、失礼なことなど……」
「まったく失礼しちゃうよぉ!私が猫みたいな可愛い小動物を苛めて嘲笑うだなんて……そんな魅力的なことぉ!するわけないじゃなぁいっ!!」
清々しいほど、いつも通りだった。
千流でも、たまには可愛らしい反応をすることがある……そう考えた自分が馬鹿だった、と考えざるを得ない獅門だったのである。
彼女が身体をくねらせながら、興奮したような口調で言うのを傍目に、獅門は完全に呆れた顔つきで彼女を睨み下ろしていた。
「よし、ならばその意気揚々としたトーンを下げておこうか?説得力が絶望的なまでに皆無だぞ?」
「ふふっ、さてさーて。話もまとまったところで、哀れな犠牲者となる猫ちゃん探しさいかーい!」
「まとまってないし、その哀れな犠牲者っていうやつ辞めなさい」
余計な悲劇を生む前に、三毛猫を探し出して保護してしまうとしよう。
主に、付き添いの魔の手から。
保健所を探すのも一つの手だが、大抵は自身の縄張り周辺を彷徨いているパターンが多い。行方不明になってからまだ日は経っていないらしいので、まずは依頼主の住宅周辺を入念に調べて情報収集をした方が良いだろう。
「あれ?」
獅門が一人考えを巡らせていると、離れた所から二つの視線を向けられていることに気付く。
昨日、隣町で出会った、見覚えのある男女の二人組だった。
「ん?君たち……」
思わず声を挙げたところで、隣に立つ千流が妙な気配を発していることを直感した。
ネットリとまとわり付くような視線。
まるで子供と同等に興奮したような感情。
間違いない。あの不気味な笑みを浮かべた仮面の下で……滅茶苦茶笑っている。
「あー、なんだ……おい二人とも逃げ……」
「お姉ちゃんお兄ちゃんあっそびっましょぉぉぉぉっ!!」
警告をするよりも前に、やたらと高揚した声を挙げながら、両手を振り上げて二人に突進していった。
そのまま少年の身体に抱き付くと、当然の如く、少女の顔を強張らせる。
「をぉぉぉぉっ!?」
「おい離れろぶっ刺すぞッ!!」
「日那谷さん落ち着いて!?」
一人は同じ《怪者》、もう一人は図らずもそれと接触した者。似たような境遇に親近感でも湧いているのだろうか、凄まじいまで懐きぶりだ。
きっと彼らには、突如として動き出した人形が、表情を変えずに襲い掛かってきたように見えたとしたら……語るまでもなく、怖いに決まっている。
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怖い……。
知らない人が、目の前で不気味な笑みを浮かべながら見下ろしている。
恐い……。
複数人の男たちが、セーラー服少女を取り囲んで、何やら卑猥な声を上げていた。
「何で、こんなことするの……やめて……」
頭を抱えて震えながら、応える筈もない声へと問い掛ける。
むしろ、そのか細い声に興奮を覚えた男たちは、彼女の華奢な身体へと伸ばす手に力を込めていた。
少女は懸命に抵抗しながらも、問い掛けるだけの言葉を押さえることはなかった。
「私……可哀想?可哀想に見える?そうなの?じゃあ、ちゃんと────《同情》して貰わなくちゃ」
卑猥な視線を投げ掛けられ、服を剥がされ、露見した白い肌に手が這わされ、そして次の瞬間────世界は、真っ赤に染まった。
飛び散った赤い液体と肉片は、少女の身体を浸し尽くす。
白い肌も、その髪も、その瞳も、全てが残酷な赤で染め上げられていく。
そんな自身の様を見た少女は……無邪気な子供のように、満面の笑みを浮かべていた。
「……わぁっ、“いっぱいいっぱい《同情》してくれたぁ”……っ!ほら、見て見てぇ、お兄ちゃんたちがいーっぱい、いーっぱいだよぉ……っ!」
足元に広がった赤溜まりを、掬い上げるようにして辺りにぶちまけながら、可愛らしい歓喜の声を挙げる。
そんな少女の様子を見ていた“残った男たち”は、顔面蒼白で彼女の無邪気な……いや、とち狂った姿を見つめていた。
「大丈夫、わたしは全部を受け入れるよ?慈愛も、批判も、恐怖も、感情も、言葉も、願望も、全部、全部全部全部を、受け入れてあげる。だから、教えて────“私のこと怖い”?」
始めに言っておけば、そこに理性と呼ばれるモノは無い。
あるのはただ一つ、本能だけ。
故に、“人間と呼ばれる者たちは例外なく彼女に同情する”。
人間たちがどうしようも無く渇望し、それでも尚捨てざるを得なかった本能の完成形が、そこにあるのだから。
全ては、この────《怪者》の元に。
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決して、馴れ合うような関係ではない。
だが、わざわざいがみ合う必要もない。
駅のホームで自分の隣に人間が立っていても、特に気にする必要もない程度の認識。即ち、ただの他人行儀だ。
「何でいるんだよ、お前……」
しかし、いきなり自分の生活圏内にずかずかと入り込み、風呂敷を広げ始めたら、流石に不快と思わざるを得ないものであろう。
公園のベンチに座り、目の前で誠志郎の腕に回して馴れ馴れしく密着する千流を睨みながら、萠志は警戒色濃厚な顔つきで唸った。
「良いではないか良いではないか。あなただって、ピチピチの女子中学生の好意は素直に嬉しいものでしょぉ?ねぇ、仲良くしようよぉ、お・に・い・ちゃん?」
昨日は間違いなく殺しかけていたくせして、お兄ちゃんとは何事か。
図々しい千流の態度に対して、誠志郎は顔を赤らめて、何処か満更でもない様子を見せながら動揺していた。
「こ、好意は確かに嬉しいけど……ちょ、近……っ」
「んん~?嫌々ってことは、もっともっとって求めているってことぉ?ふふっ、あなたも好きよねぇ?」
「そんなエンターテイナー的な!?」
「むぅ……」
気付けば、萠志は軽く頬を膨らませて誠志郎を睨んでいた。
その顔を見た千流は仮面の口元に手を当てると、笑い声を漏らす。
「……ふふっ、もっと嫉妬するが良いわぁ」
嫉妬、という言葉は釈然としないが、間違いなく馬鹿にされていることだけは分かる。いつもの萠志ならば苛立ちの示すがままに、その手に握られたビニール傘で千流を殴り潰しているだろう。
しかし、今回の話の要因となっているのは、あろうことか誠志郎だ。
何処か歯痒い感覚を噛み締めるように、彼女はわなわなと震えながら、彼の手首を掴んでいた。
紛れもなく、悪いのはこの男なのだから。
「ひ、日那谷さん?て、手首、手首痛いよ?」
「この、変態」
「えー……」
何が何だか、と言いたげに誠志郎が肩を落とす。
彼は重度の鈍感という訳ではない。ただ、誰に対しても平等な気持ちを分け与えるような節があった。故に返される気持ちも平等に受け止めるし、それに対して抱く感情もほぼ平等だ。
そもそも、彼は萠志と千流が人ならざる存在であることを認知した上で、まるで人間と話すように接している。それだけでも大したものなのに、彼女たちの心情まで理解しろ、というのは逆に過酷な話なのかもしれない。
「そこまでだ、千流」
そこへ、突然現れた獅門が、子供を扱うように千流の襟首を掴み上げて誠志郎から引き離す。
「ひゃんっ!あぁー!もっと!もっと遊びたいのにぃー!」
「いい加減にしないか、っと」
「みゃうっ!うー……いけずぅ……」
香匠は尚も駄々をこねながら反抗するが、彼がその小さな頭をひっぱたくと、少し落ち込んだ様子で塞ぎ込んでしまった。
「すまない。大金を下ろすのに手間取っていてな」
「大金って、どうしたんですか?」
「そちらの少女はある意味で無関係じゃないがな。それより、さっさと行くぞ、千流。二人の邪魔をするわけにはいかない」
「えーっ!なにそれつまらないーっ!」
尚も反抗するように両手を振り上げる千流だったが、次にその襟首を掴み上げたのは……萠志だった。
「じゃあ、お望み通り……遊んでやる。こいつ、ちょっと借りてくよ」
「ひゃわわ~!連れ去られる~!」
「ちょ、日那谷さん!?」
誠志郎の制止も構わず、萠志は千流を引き摺るようにして、早足で立ち去ってしまった。
その後ろ姿を眺めながら、獅門は短く息を吐くと、少し疲れた顔をして誠志郎の隣に腰を下ろす。
「ふぅ……まぁ、放っておいても別に構わないだろう。君たちは、二日前と比べて、随分仲睦まじくなった様子だが」
「え、そう、見えますか?そう言われると、ちょっと嬉しいです……甲斐原さんも、仲が良いですよね?その、空野さんと」
「……」
誠志郎の然り気無い問い掛けに、獅門は直ぐには答えず静かに空を仰ぎ見ていた。
雲一つ無い快晴の空。
鳥たちの囀ずりと木々の音が平穏を唄っている。
だが、彼の揺るぎの無い瞳は、何かを睨むようにそれらを見つめていた。まるで、その世界の姿を疑い、そこに覆い隠された真実を透かし見るかのように。
そして。
「────妹が、あの空野千流に殺されたんだ」
昔を懐かしむように、獅門はそう切り出すのだった。