本語り5
誠志郎の助力もあって、獅文の手から逃れた萠志がやって来たのは、駅前通りの裏路地。
二日前にセーラー服の少女を捕まえていた三人組を殺した場所。
そして、あの時、彼女と同じく、もう一人の人ならざる者が居た場所だ。
見渡してみれば、隠れて観察出来る場所は沢山ある。
路地裏の出入口、乱雑に置かれた資材の陰、建物の屋上も……一体、何処から見ていたというのだろうか。
それも一体、何の為に。
「……いつ、何処で、何故割り込みやがった?」
そう呟く萠志が辺りを見渡しながら、男が倒れていたと思われる地点に近付いていく。
そこへ、向かい側から、別の人物が歩いてくるのが視界の隅で映った。
別に不思議な話ではない。
朝昼晩、人が絶え間なく行き交う駅前通りでは、当然ながら路地裏も通行路として使われるのだから。
しかし。
「────あなた、とぉっても興味深い匂いがするよねぇ」
それは、すれ違い際。
明らかに萠志へ向けられた愉悦染みた言葉が、彼女の意表を突く。
思わずその場で足を止め、振り返りもせずに、斜め後ろに立つ人物へ向けて威圧的な口調で言葉を投げ掛けた。
「……お前、誰だ……?」
チラリと見えた外見を思い返してみれば、恐らく、紺色のセーラー服を身に纏った、中学生……あの時、結果的に助け出した少女と、同じ服装だ。
ただ、その余裕染みた態度を見る限り、あの弱そうな少女とは別人だろう。
「誰だとは随分な言い草じゃない?そんな邪険にしなくても、呼んでくれればいつでも出てきてあげるのに。他でもない────同族の頼みなら、ねぇ?」
「同族……?」
一度、萠志の心臓が大きく跳ね上がる。
後ろに立つ少女は、間違いなく萠志の正体を知った上で姿を現した。
余裕のつもりなのか、挑発のつもりなのか……どちらにせよ、今の段階では、少女の手のひらの上で踊らされている状態にある。
彼女にとって、初めての感覚だった。
恐怖、焦燥……そんな負の感情を、その身に味わう日が来るだなんて。
「ねぇねぇ、いつまで後ろ見ているの?いい加減にこっち……向いてよぉ?」
その誘うような言葉は、まるで触手が這うように、萠志の鼓膜の中へ入り込んでくる。
次に認識したのは、明確な危険信号。
振り返った途端に、終わる。
少女の『顔』を見た瞬間、全てが壊れる。
そんな鋭い直感が彼女の心臓を掴み、いつもならムキになって動く筈の身体を制御していた。
故に────ムカつく。
「……っ!」
後は、無我夢中だった。
自身の危機反応を懸命に押さえながら、足を、腕を、身体を、顔を……心の命ずるままに、無理矢理振り返らせさせる。
その先に立っていたのは、萠志よりも低い背丈の少女。
なんと不気味な雰囲気なのか、その顔には魔法少女ものの可愛らしい仮面が付けられている。まるで愉悦的に話す彼女の意思を示すように、ニコニコと笑っていた。
彼女は一度首を傾げ、仮面の下部分に手を掛けると……。
「ふふっ────私、魅力的?」
そんな言葉と共に、ゆっくりと脱ぎ去る。
ハッキリと言おう……。
そこには……顔が“無かった”。
少女が魔法少女ものの仮面を脱ぎ去った下には────黒色のクレヨンで塗り潰したような、無造作な闇だけがあったのだった。
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「《怪者》……?」
それは、太古の昔から人々に畏怖と絶望を与え続けていた。
怪奇現象とも都市伝説もしくは異形とも呼べる、即ち人ならざるモノ。
それらの具現化した存在が、彼女たちだという。
「奴らの厄介なところは、明確な正体を知る者がこの世界に一人として存在しないこと。つまり、奴らに関する知識が圧倒的に不足している、ということだ」
ベンチに腰掛ける獅文が、腕を組ながら神妙な顔付きで言う。
しかし、そういったオカルト関連の話は疎い誠志郎は今一つ釈然としない様子で、顔を強張らせることしか出来なかった。
「日那谷さんも、その内の一人なんですか……?」
「断定は出来んが、ほぼ間違いないだろう。もしかしたら、明日になればこの会話も忘れてしまうかも知れないが、敢えて忠告しておく。これ以上、日那谷萠志とは関わるな。今ならまだ間に合う。一般人である君は、元の日常に戻るべきだ」
彼女らは、徹底して人に寄り添わないだろう。
彼女らは、徹底して人には“成らない”だろう。
彼女らが振り撒くは畏怖、それだけだ。例えそこにどんな感情があったとしても、容赦なく手を下すのが怪者だ。ならば、こちらからわざわざ寄り添い、危険に身を投じる意味なんてありはしない。
彼女らは、人間ではないのだから。
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「正直……いや、予想以上に、気味悪い」
思いのままにそう返していた。
恐怖はあり、動揺もあるが……それだけだ。
確かに黒く塗り潰された顔は不気味に見えるものの、一度見てしまえば慣れる。
むしろ、“ただ顔が無いだけか”、と……萠志にとっては、その程度の認識にしかならなかった。
すると、少女は口元周辺に指先を当てて、本気で残念そうな様子で肩を落とす。
「えぇ~、それはとっても残念な話。普段なら、会う人会う人が私の顔を見て、とっても魅力的だ、って答えてくれるんだけどなぁ。老若男女、生物種族も問わず、全ての存在が、ねぇ」
「それは随分と、妄信的な奴等がいたもんだ」
そもそも、“無い顔の何処を見れば”、魅力的等と感情が生まれるのだろうか。どちらかといえば、その手に持つ仮面を被っていた方が、まだ魅力的かどうかを聞く余地があるのではないか。
そんなことを考えながら呆れて首を横に振る萠志に対して、少女はネットリとまとわりつくような気味が悪い口調でこう続けた。
「そうやって私の顔に魅了された人達は、そこで初めて気付く。何故、私の顔が魅力的なのかぁ……その理由を。それは、“彼らと同じ顔だったから”」
「はぁ?」
「そして、やがては自らの真の幸福に気付き満たされながら────発狂して死んでいっちゃうのぉ」
人柄や顔の仕組みはともかく、少女に関して確実に言えることは……イカれている。
萠志同様、こんなにも楽しそうに『死』を口に出来る奴が、マトモである筈がない。
同時に、一つだけ確信していた。
獅文が言っていた、二日前のあの時にこの場で一部始終を目撃していた人物は……この少女しか有り得ない、と。
そして、それを見ていたということは、必然的にこんな仮説が生まれる。
「二日前にこの場所で、男が殺されたのは……お前の仕業か?」
その黒く塗り潰された顔や、『死』に関する認識の軽さを見る限り……この少女は、萠志と同じだ。《怪者》として、限りなく人には寄り添わない存在。
即ち、《孤永》の呪縛を越えて、男を殺すことが出来た者は、彼女しか居ない筈だが……。
「さぁ、どうだったかなぁ。だけど少なくとも、人間さんがこの魅力的な顔を見たら最後、“その幸福から逃れる術は無い”」
「ハッキリ言え。お前が殺したのか?殺していないのか?どっちだ?」
「あぁ、個人的には困惑する姿を見るのも至福の時ねぇ。あなたみたいな毅然とした態度が崩れる姿は、特に甘美の味」
敢えて逸らしているのか、話にならない。
気付けば、萠志は少女の目と鼻の先にまで歩み寄り、これまで以上の鋭い目付きで、彼女を眼前で睨み付けていた。
「苛立たせんな────殺すぞ」
「良いよぉ、その顔────嘲笑いたくなっちゃう」
その時、初めて両者の存在が拮抗した。
彼女らの手にするビニール傘と仮面が、彼女らの踏み締める地面が、彼女らの立つ空間そのものが……まるで握り潰されるように、歪む。
文字通り、世界の危機だった。
二つの異なる存在に押し潰されるように、そこにある世界は人知れず、断末魔を挙げて壊れかけていた。
それを図らずも、回避することとなったのは……。
「……日那谷さん?」
路地裏に息を切らして姿を現した、一人の少年。
彼の名前は、武上誠志郎。
いつまでも、どこまでいっても、ただの平凡な少年だった。
「あはっ」
「え……?」
直後。
少女の様子が激変する。
顔をグリンッと捻るように誠志郎へ向けると……暴走するように、空気すら揺るがす、やたらと不気味な奇声を挙げ始めたのだ。
「────見ぃぃだぁあなぁあぁッ!?」
「え……う、ぁ……っ!?」
誠志郎が一気に顔を青ざめさせ、その場で腰を抜かす。
そんな彼を狙って、少女は身体を左右に大きく揺らしながら、一歩、一歩と近付いていく。
あっという間の出来事だった。
瞬きをしている間に、少女は誠志郎の前で屈み、ゆっくりとその顔へ小さな手を伸ばしていく。
「ねぇねぇ、私、魅了的?ねぇねぇ、ねぇねぇねぇねぇ、ねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇ、ねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇ?」
亡霊、悪魔、鬼、魔王……それは、あらゆる畏怖を示す存在を、一つの塊にまとめて目の当たりにしたような、異様な恐怖心を抱かさせた。
一目姿を見れば、その人は死を覚悟するだろう。
一言声を聞けば、その人は発狂して悶えるだろう。
一度それを目の当たりにしたら最後────その人の命運は尽きる。
まさに、恐怖の権化とも呼ぶべき存在が、今こそ誠志郎の命を狩ろうとした。
しかし。
何の因果か、その場には……それをも意にも介さない、もう一つの怪物が満を持して立っていたのだ。
「汚い面ぶら下げて────そいつに近付くんじゃねぇっ!!」
両者の間スレスレを、透明の閃光が駆ける。
それは萠志が投げ付けた、ビニール傘。
武器としてはあまりにも陳腐な代物だが、彼女が投げ付けたそれは、怪物でさえも恐れおののく凶器となって襲い掛かっていた。
しかし。
少女はあくまでも、愉悦的な笑い声を漏らしながら、余裕綽々と距離を開く。
そして。
「ふふっ。お兄ちゃん?私たちのことは、『現象』だと思った方が良いよ?世の摂理は奇々怪々────怪奇は必ず、人間たちを陥れるだろうからねぇ」
事態を理解していない様子で、ただ顔を青ざめさせて腰を抜かす誠志郎にそう言い放つと、スキップ混じりに路地裏から歩み去っていくのだった。
「な、何が……」
「まったく……で、何故来た?助けてくれなんて言った覚えは、ないけれど」
萠志が呆れた様子で誠志郎に歩み寄り、溜め息を吐きながら手を差し出す。
彼はまだ動揺したままだったが、腕をぎこちなく動かしながら手を握り返し、小さく笑みを溢していた。
「放っとけなかったから……なんて言ったら怒る、かな?」
「……あっそ。だったら、命拾いしたな。一応忠告しておくけれど、これ以上私たちに関わろうとするのは辞めておいた方が身の為だよ。まぁ、どうせ直ぐに忘れるんだろうけど」
「え?甲斐原さんも言っていたけれど、忘れるって、なにが?」
説明するのは、簡単だ。
それで彼を納得させるのも、簡単だ。
しかし、今の萠志にとってはそれが煩わしいというよりも、越えてはいけない一線であるような気がして……。
「別に」
極力、誠志郎の純粋無垢な顔から目を逸らし、ただ一言そう言い返すのだった。
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闇夜で月明かりに照らされる巫女装束が、淡くも神秘的な光を放つ。
その華奢な手には、刃先が直角に屈折した短剣が握られ、舞うように軽やかな動きで駅前通りを歩んでいた。
しかし、行き交う人々は、誰一人として巫女の存在を射止めない。まるで、最初からその姿を認識していないかのように。
「……あぁ、我らが偉大なる意志よ……今一度、この神聖な刃を血で染める愚行をお許し下さい」
わざと顔面を覆うように被られた巫女頭巾の下で煌めく瞳は、ある一つの光景を捉えていた。
何とも、嘆かわしい。
何とも、愚かなことか。
しかしながら、それでも世界にとっての一つの危機だった。外からの害虫がもたらした、馬鹿げていて、下らない異変の予兆。
異変を察したからには、巫女は動かなくてはならない。
それこそが、巫女の唯一無二の役割だったから。
それこそが、巫女の生存する意義だったから。
「全ては……この世界の為に」
そして、巫女は今宵も駆ける。
歪な短剣を片手に、世界の《抑止力》として働き掛ける為に。
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迎えた新たな一日。
今日も萠志は、特に何も意識せずに学校に登校し、教室の自分の席に座って腕の中に顔を埋めた。
いつもならば、彼女よりも早く来ている誠志郎の姿は見えない。
だが、特に気に止める必要はないだろう。どうせ、忘れてしまっているのだから。昨日のようにどれだけ濃厚な一日を過ごしても、いつかのようにどれだけ深い思い出を刻んでも、誰一人としてそれを覚えていないのだ。
悲しいと考えたことはない。
悔しいと思ったことはない。
この世界で生きている以上、それは普遍的な事実として彼女を押し留める。
だから、気にする意味すらないのだ。
「あ」
腕の隙間からボンヤリと誠志郎の席を眺めていると、視界の中で誰かが立って声を上げる。
今日は少し遅い到着だ。顔を上げて見てみれば、いつもと同じ顔をした彼の姿がそこにあった。
「ん、おはよ」
ここもいつもと変わらない。
そこで誠志郎が名前を思い出せずに歯痒い表情をしてから、萠志が眠たそうな顔をしながら自分の名前を教えるのだ。
それすらも、そろそろ面倒に感じてきた彼女が、ジッと顔を見上げながら、彼の挨拶を待つ。
すると、一拍置いてから、彼はようやく口を開いた。
「うん、おはよう────日那谷さん」
その時。
間違いなく、萠志の世界が音を立てて変わった。
いつもと、“ほんの少しだけ違う言葉”。
ただそれだけの変化が、彼女の中でいつもと違う感情を芽生えさせていくのだった。