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終語り



 翌日。

 ほんの数時間前の歪みすら完全に消え去り、世界は完全に元の姿に戻っていた。

 『境界侵犯』はあくまでも人間の意識の外側、即ち架空領域で展開される現象である。人々はそれを認知することはおろか、例え片鱗を見たとしても記憶に留めることすら出来ないだろう。かつての余命短日の日那谷萠志と同じ様に。

 世界の命運を分ける一大現象だったとはいえ……例え萠志が残ろうが、《抑止力》が残ろうが、改変されるのは世界の性質だけ。

 そこで生きる生物たち自身に、変化は要求されない。

 駅前通りを行き交う人々の様に、何も認識出来ないまま、また同じ日々を繰り返すだけだ。

 そんな、今や見慣れた光景を、ロータリーの一角で眺める日那谷萠志と空野千流は、顔を合わせずにこんな会話を交わしていた。


「あのオジちゃんが働いていた探偵事務所にお邪魔しようと思ってるんだぁ。我らが支配者様の待遇は?何か変わった?」

「麗衣に変わって、新しく来た日陰舘当主が喧しい」


 何処から情報を入手したのかは不明だが、麗衣が亡くなった席を埋めるように、新たな住職が日向寺に派遣されたのだ。

 それがまさかの、現役高校生でクソ真面目ちゃんだった。

 恐らく萠志の正体に気付いてか、彼女のことを「様」付けで慕うように呼び始めたのである。敬意を払うのは良いのだが、恐ろしい程に融通が利かない。今朝も登校一時間前に叩き起こされて、無理矢理外に出されてしまったし……今後は少しばかり、やり辛い日々が予想されるものだ。


「へぇ~。ふふっ、賑やかそうで良かったじゃなぁい。私は嘲笑的材料が居なくなっちゃったから、しばらくは見聞かなぁ」


 駅前に設置されたベンチに腰掛け、以前とは異なり、狐の仮面を掛けた千流が小さく笑う。

 ベンチの隣に立つ萠志は、彼女から手渡された、眉間に貫通穴が空いた魔法少女のお面を見ながら、短く息を吐いた。


「甲斐原のことは……本当に“それ”で良いのか?」

「表面上から見える仮説は一つだけじゃない。少なくとも彼女は、呪縛、苦痛、絶望……あらゆる負の連鎖から抜け出した。まぁ、今の彼女にとっては、“それすらも快楽の一つに成り果てている”訳だけれどさぁ」


 つまり、“甲斐原姉妹の問題は既に終わった”、ということだ。

 彼らの異変は、他でもない彼ら自身で決着を迎えた。何が起きたのかは萠志の知る由でもないが、それ以上掘り起こされるべき問題でもない。

 少なくとも、今この場に居る彼女がそう断言するのならば、間違いないのだろう。

 それにしても……甲斐原理都と空野千流、か……なるほど、妙な語呂合わせもあったものだ。


「それで、晴れて怪物の仲間入りをしたってわけね。まぁ確かに、苦労からは解放されるかもな」

「人間なんて、誰もかれもが怪物を抱えているモノ。だとしたら、《怪者(私たち)》と《抑止力(奴ら)》は、結局のところどちらが正しかったんだろうねぇ……」


 ベンチに背中を預け、ボンヤリと空を見上げる千流が、彼女らしからぬ物寂しげな口調で呟く。

 そんな彼女の膝元に仮面を放り投げ、萠志は細目で行き交う人々を眺める。どんな形ででも、彼らを救おうと戦った《抑止力》の姿を思い出しながら。


「どちらが、とかねぇよ。私たちは、正義を目指している訳じゃない。ましてや悪を目指している訳じゃない。私たちの価値観なんぞ、他の誰かに勝手に決めさせておけば良い。そもそもお前もそんな下らない評価で、消えるつもりは毛頭ないだろ?」


 民衆に称賛されても、喜びはしない。

 大多数に批難されても、気にも止めない。

 彼女たちは好きなように、自由気ままに、怪奇と畏怖を振り撒くだけ。ただ、自らの生活圏に土足で踏み込んできた不届きものには、容赦のない制裁が加わることだろう。

 それが、《怪奇現象》だ。


「ふぅん?それじゃあ、あなたは何の為に生きるの?彼の為?人の為?世界の為?それとも……自分の為?」

「さぁな────“私の好きなように生きる”だけだ」


 まるで、この時を待ち望んでいたかのように。

 萠志は自然と微笑を浮かべながら、そう答えていた。


「……!ふふっ、なるほど」


 千流は何かを納得した様子で珍しくも何処か嬉しそうに笑う。

 すると、ふと萠志は手にしたスマホの画面を見て、ハッと声を漏らした。


「あ、時間……そろそろ行かないと」

「おやぁ?それって愛しの彼のことぉ?ちょっかい出しに行っちゃおっかなぁ」


 この怪者のちょっかいは、人間の悪戯とは訳が違う。

 九割方本音と思われる発言に、萠志はブレザーの裾を捲り、ベルトに差し込まれた短剣をちらつかせながら、本気の殺意が滲み出しながら千流を睨む。


「来やがったらそのうざったらしい仮面ごと真っ二つにするぞ」

「やだぁ、怖ぁい」


 例えば、そこに中身の見えない箱があったとする。

 中には、生涯を懸けてようやく真実を知る者も居るだろう……それでも良い。

 中には、真実を知らないまま寿命を迎えてしまう者も居るだろう……それでも良い。

 正解はないのだ。

 正解を求めることが、正解ではない。

 人が人で居る限り、人は間違いを続け、道を誤り続ける。それでも尚、彼らは人であることを決して捨てはしないだろう。

 卑下になることはない。どれだけ救いようがなくとも、どれだけ哀れでも、それが人間の真実なのだから。

 だけども、人は力の限り生きていく。

 本能のままに走り続けていく。

 いつでもどこでも、彼らの向かう場所は、その先にこそ在る。

 武上誠志郎も、甲斐原獅文も、甲斐原理都も、日陰舘麗衣も、皆同じ。

 人の生きる道は、悉く奇々怪々だ。

 そしてそこにこそ、《怪者》には無い人の魅力であるのだ、と。

 即ち、人の世は────理解したくとも出来ないくらいの方が、丁度良い。


「こっちに手を出したら容赦なく斬り殺すけど、暇があれば話ぐらいは聞いてやるよ、■■■■■……いいや、“甲斐原妹”」

「ふふっ。残念だけれど、私は空野千流。甲斐原理都なんて名前は、もう何処にも居ないよぉ、■■・■■■■……ううん、“日那谷萠志”」

「そうか、それは奇怪なことだ」


 理解出来ない。

 だけど、一向に構わない。

 生き方が奇怪であることを、彼女たちは咎めることをしない。

 故に、この世界は全ての怪奇を受け入れるだろう。

 いいや、ひょっとすると、“どちらも最初から変わっていない”のかも知れないが……どちらにせよ、彼女たちに関わりはない。


 そうして《怪者》たちは今一度、日常の中へ溶け込んでいくのだった。



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