猛禽類の赤い嘴と日蔭のない真昼の陽の下。
伊沙子と亜沙子で、私達の名前は似ていた。
初めに話しかけて来たのは伊沙子の方で、その日からもう親しくするようになった。伊沙子には同じ中学から来た友達が三人いて、私もその中に混ぜてもらうのは自然の成り行きだったろう。聡子と霧子と沙耶。みんな明るい雰囲気の子達ばかりで、私の三年間は彼女達のおかげで真昼の輝きの下にいるようだった。実を云うと、私はあまり社交的な方ではなかったから、この出会いはほんとうにありがたいものだった。
「伊沙ってね、ほんとうに正義感が強いんだよ」
昼休憩の時、聡子は仄赤く塗った唇の角を上げて云った。瞬きをする毎に、長い睫毛が揺れる。垂れ目気味なのは元からか、それとも睫毛が重いのかもしれない。私の向かいに座り、サンドイッチを齧る。白いパン生地に赤いリップの痕が滲む。
五月の柔らかい陽射しが私達の囲む机を照らしている。陽のひかりの筋の中に、埃がきらきらと輝きながら浮いているのが見える。底冷えのする冷たい春が終り、夏への過渡期が訪れていた。長袖のシャツが煩わしく感じ始めてくる時期、衣替えの六月が待ち遠しい。「窓、開けるよ」霧子がそう云って席を立つ。がらりと窓が開くとカーテンが風を抱えて膨らみ、煽られた霧子がはしゃいだ声を上げた。吹き込む微風が心地良い。室内の空気が変わっていくのが判った。浮き足だって緊張していた私は、すっと鼻から息を吸う。青々とした、植物の生臭さ、日向の匂い、湿気た空気、風は色々な匂いを含んでいた。
「なにやってんの」
逃げるように椅子に帰って来た霧子を、沙耶が迎える。
「それで、なんの話だっけ?」
「伊沙だよ、伊沙」
聡子がさらにサンドイッチを頬張りながら云う。齧る傍から、新たな赤い痕。和やかな空気感。私も伊沙子も困ったような顔で笑う。
「そうそう、凄いの。伊沙子って」
そう云って身を乗り出す霧子の唇も、仄かに色が着いている。輪郭の丸い、幼い顔立ちなので、あまり似合っていないと思う。でも、私の指摘が冗談として受け取られるか、まだ自信がなかった。霧子が伊沙子を見やる。
「中学の時もねぇ、教室で誰かが陰口とか悪口とか云おうもんなら、それが誰だろうと果敢に向かって行くんだもの」
「へぇ」
私は羨望の眼差しで隣の伊沙子へ振り向いた。伊沙子は照れているのか、くしゃっとした顔で笑った。私はその幼い子供のような表情に好感を持った。昔馴染みの友達に、面と向かってここまで褒められると云うのが私からすると、とてもすごいことに思える。
「すごいなぁ。私だったらどれだけ嫌でも我慢しちゃうと思う」
私の月並みな言葉に、やや笑いが起きる。受け入れられたように思えて、ほっと胸を撫で下ろす。これからの三年間を、私はこの子達と過ごして行くのだと思うと、誇らしい気持ちがした。きっと、楽しい毎日が訪れる。何の根拠も持たず、私にはただ希望だけが燦然と輝いて見えた。
そうして、私の立ち位置がはっきりすると、周囲の様子がよく見えるようになった。二ヶ月も過ぎると、教室の中は中学の頃のような、気安い騒々しさに包まれるようになる。春から夏へ、季節に沿うように、教室は熱を持ち、段々と暖かくなってゆくのが判る。それと同時に、教室にひとりぼっちでいる人の、丸くなった背中の輪郭もくっきりとしてくる。腕枕に顔を沈め、耳にイヤホンをしたりして外界との関係を遮断している。本人はそれで大丈夫と思っているのかもしれないけれど、実際はちっとも隠れられていない。
周りも、そんな彼や彼女をどうしようとも思えずに、静観するか、まるでいないものとして扱う他ない。関わり合いになると云う選択肢はない。面倒な人かもしれないし、その確率はあの人達の今を思えばより高く感じられてしまうのも、仕方のないことだった。誰とも関わろうとせず、声も上げず、ただ黙っている人を恐ろしく思うのはおかしいことではないと思った。それは、私もそうだから判ることだった。
だけど、私はあの人達を見ると、心の奥の方がすっと落ち着く感じがする。私だって、伊沙子や聡子や沙耶や霧子がいなければ、きっとあの人達の仲間入りをしていたと思うから。あの人達の孤独な背中が、私にはとても素晴らしい絵画のように見える。
「どうしたの?」
聡子に声をかけられて、私ははにかみながら「ううん、なんでも」と返した。ぼぅっととしていると思われたのだろう。聡子の世界に、あの人達の姿はない。
「しっかりしな、春は終わったんだよ」
来る夏の予感と、希望に満ちた霧子の言葉は、あの人達には死刑宣告のように響くだろう。春は終り、教室に発生した集団は固く結わえられ円を描き、彼等はあぶれ、混じることはもう二度とない。
「あぁ、待ち遠しいね。プール、青空、太陽、夏休み」
「そうだねえ」
と慎重に相槌を打ち、同時にあの人達への関心を完全に切断する。プール、青空、太陽、夏休み。考えるだけでお腹の底から笑いが込み上げてきそう。でも、ほんとうに楽しみかと云うと、よく判らない。毎年経験しているはずなのに、漠然とした気持ちでしか夏を捉えられない。まるで、起こり得るはずのない奇跡のような気がする。夏の輪郭はいつも薄惚けており、神秘的な空気と切迫した期待に泡を食ってばかり。私にとっての夏は、そんな気配に満ちている。聡子がいつものサンドイッチを食みながらぽそりとこぼす。
「でも、花火は嫌い。勝手に終わっちゃう気がするから」
聡子の言葉に、みんなは「えぇ何それ」と反対の意を示したけれど、私は違った。私の家は北の山の中腹辺りにあり、夏は庭に茣蓙を敷いて、近所の人達といっしょに花火を見る。大気を震わせる大きな音は、強くお腹に響いて来て、子供の頃は恐ろしかった。そして夜空に薄く煙を漂わせながら、大輪の花を咲かせる。美しいのは一瞬の出来事で、終わってしまうのも呆気ない。打ち上げが始まって一時間近く経ち、花火が途切れると、休憩なのか、打ち止めなのかで幽かな会話が起こる。何もかもが儚い。見物帰りの車の行列も、漂う薄ら白い煙の名残も、どことなく香る火薬の匂いも。
「私も、花火は苦手かな。音怖いし」
伊沙子が話に混じりながらやって来る。その手には今日も何も持っていない。
「だいじょうぶなの? お昼食べないで。午後体育だよ」
私が気遣うと、伊沙子はまたあのくしゃっとした笑みをして、
「平気平気、私、今ダイエット中だからさ」
私はそれ以上は何も云えなくなってしまう。伊沙子は今でも十分過ぎるほどほっそりとしていて、食事制限が必要なようには見えない。そう云うことをしたがる子は、だいたいそうだけど。私はやはり気にかかった。だけど、私が逡巡している間に話題は無情に流れてしまって、私は口を噤んだのと同じになってしまう。
みんなは好みの化粧品やブランドの話で盛り上がっている。私は自分を着飾ることに無頓着な方だったし、心配した母親が勧めるものを何の疑問もなく使っていた。だから、みんなの話に相槌を打ちながら、視線は教室のあちこちに向けられたりしていた。大きな口を開けて笑う男子達や、ひとり本を読む人、机に突っ伏して眠るふりをする人。視線を滑らせていると、ふと伊沙子の机に違和感を覚えた。厳密に云うと、机と云うよりか机にかかっている学校指定の鞄。チャックが開いており、可愛らしいピンク色の紐が垂れている。体操服を入れる袋にしては紐自体が細い気がする。私だったら何を入れるだろうかと考えると、どうやってもお弁当しか浮かばなかった。
でも、親に云われて持たされているのかもしれない。すると、中身はどこかで捨ててしまうのだろうか。そう云うことをしている子はいた。でも、伊沙子に限ってみると、そのような不誠実なこと、果たしてするだろうか。「ねぇ」
短い言葉と共に脛の辺りをこつん、と蹴られた。はっとなって視線を戻すと、聡子の赤い唇。「亜沙子って、たまぁにぼーっとしてるよね?」
私は焦った。しどろもどろにならないよう、どっと汗をかかないよう、平静を意識しながら「ごめんごめん」と何とか冗談めかして謝ることが出来た。何事も冗談めかすことが大事だ。真面目に受け取り、真面目に返してばかりいては、面白みのない人間だとばれてしまう。
「だからね、今度みんなで買い物行こうかって……」
私は勤めて笑みを意識しながら、脛に残った鈍くて生温かい痛みに怯えた。