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第二話 2

  2


「しし、しーでぃー?」


 自分で言っていて現実味のない響き。

 でも若草先生は平然とうなずく。


「別に珍しいことじゃないでしょう?」

「いやいや……珍しく、ないのか?」


 どうなんだろう。世間のどのくらいのひとがCDを出しているのか、たしかにおれはよく知らない。


「……いやいや! やっぱり珍しいですよっ。CDって、あれですか、いわゆるひとつのアイドル的な? 渋谷でスカウトされちゃって的な?」


 若草先生はじっとおれを見つめた。

 縁なし眼鏡の奥から見つめられると、ちょっと照れる。

 ただでさえ若草先生は美人で、クールなところが最高な女性だったから、なんだか蔑むような目で見られるとぞくぞくしてしまう。

 ……でも、どうもおれが言ったことは的外れらしい。


「あ、わかった。あれですね、友だちが応募するっていうからいっしょに応募したら、自分だけ受かっちゃって的な。その友だちの気持ちを慮ったらかわいそうでちょっと泣けてくる的な」

「それ以上ばかを振りまくのはやめてくれる? ちょっと抱えきれそうにないわ」


 若草先生は深く、本当に深く、肺の空気を全部出してしまうようにため息をついて、CDっていうのはね、と続けた。


「ピアノのCDよ。ピアニストとしてCDを出さないかってこと」

「あーあ、なるほど、ピアニストとして……ピアニストとして!? そ、それってすごいことなのでは! おお乙音すげえ!」

「落ち着きなさい。たしかにすごいことではあるけど、彼女くらいになったら不思議でもないでしょう。たまにいるわよ、十代の半ばでCDを出す子は。案外クラシックって両極端だから――特別に若いか、それともベテランか」

「ははあ、なるほど。いやあ、すごいなあ、CDかー。三枚くらい買わなくちゃなあ」

「一枚で充分だと思うけど――でも、まだ出すと決まったわけじゃないでしょう。向こうはその気でも、あの子が出すと言わないかぎりは出しようがないわけだし」

「でも、それって自分の演奏を認めてくれてるってことですよね? 断ることなんかあるんですか」


 ――いろいろね、と呟いた先生は、どことなく悲しそうで、つい会話を続けることをためらってしまった。


「ま、本人に聞いてみればいいんじゃないかしら。あなたの悩みっていうのも、気分転換でどうにでもなることだし。他人のことばっかりじゃなくて、自分のこともちゃんと考えなさい――試験は近いんだから」


 先生はくるりと踵を返し、職員室に入っていった。

 おれはちらりと窓の外を見る。

 昨日からずっと降っている雨は、まだ止みそうにない。

 雲が立ち込めている様子も、その分厚さも昨日となんら変わりなく、かといって雨足が強まるわけでもなかったから、なんとなく煮えきらないような霧雨がずっと続いていた。

 雨音はほとんど聞こえない。

 窓を開けてようやく、ほんのかすかにしとしとと聞こえてくるくらいで――いまはその雨音に、戸惑うようなピアノの音が混ざっていた。



  *



 だいたい、カルテットの練習は野外でやることになっている。

 庭の芝生か、噴水のあたりに腰掛け、それぞれ地面に楽譜を広げてああでもないこうでもないと言いながら演奏の色や方向を決めたりするのだが、三日に一回くらいはちゃんと室内で練習することにしていた。

 声楽のおれはそもそも手ぶらだし、ヴァイオリンのユリアとコントラバスのアルはなんとか持ち運びできるが、ピアノの雪乃だけは野外ではどうしようもないせいだ。

 でも試験が近いこの時期、ピアノがちゃんと置いてある部屋の使用権は取り合いになる。

 ピアノは校舎にもあるが、実は寮にもふたつあって、寮生みんながその二台のピアノを取り合うのだ。

 そのため、寮ではそのピアノは予約制にしてあって、その順番が回ってくるのがだいたい三日に一回という頻度だった。

 ――寮一階の、ちいさな部屋だ。

 黒光りするピアノが部屋の隅に鎮座している。

 でももともとが狭い部屋だから、ピアノが部屋の半分くらいを支配していて、大きな楽器の持ち込みはむずかしい。

 とくに狭い部屋だから反響も過剰で、ユリアいわく、こんなところで頻繁に練習していたら感覚がおかしくなる、らしい。

 まあそれでも、ここで練習する以外、ないのだけれど。


「とりあえず、やる曲に関してだけど――やっぱり王道の四重奏になると、どうしてもバランスが悪くなる気がするんだよね」


 分厚い本のようになった楽譜をぱらぱらめくりながらアルが言った。アルは大きなコントラバスを後ろから抱きしめるようにして立っている。


「なんせ、ぼくたちは編成が変だからね。ヴァイオリン一挺にバス一挺、あとはピアノと声楽だもん。こんな四重奏、たぶんなかなかないよ」

「でも、ほかのみんなもいろんな科でカルテットを組むんだから、こんなもんなんじゃないの?」


 唯一、楽器もなく手持ちぶさたのおれは、ピアノの傍らに立って鰐のように口を開けたピアノの内部を覗いていた。

 その大きな楽器はなんだかとても複雑に見える。

 弦自体、十本や二十本ではないし、見ているだけでは機構もよくわからない。

 でもその楽器は魔法のようにきれいな音楽を奏でることができた。

 音の強弱、高低も自由自在で、きらびやかな高音と深い響きの低音が同時に出せる。

 まるで魔法の箱のようだ、と思いながら鍵盤のほうを見ると、小柄な乙音は巨大なピアノにほとんど隠れてしまっている。


「ほかもたしかに変わった編成でカルテットを組んでるけど、でもやっぱり、うちほど変わってるところはないんじゃないかなあ」

「基本的に無計画なのよ、あんたたちは」


 ユリアはヴァイオリンの手にぶら下げ、呆れたように言った。


「もう試験まで一週間くらいしかないのよ。その時点でやる曲も決まってないってどういうこと?」

「いや、そりゃあこうやって話し合ってるからなかなか決まらないわけで」


 でも、たしかに。

 そろそろ曲を決めて本格的な練習をはじめなければまずいような気はする。

 最初のころは、まわりでも「どんな曲がいいだろうね」なんて声が聞こえていたが、いまではすっかり話し声はなくなり、真剣な楽器の音色しか聞こえてこなくなっていた。

 よし、とおれはうなずき、ほかの三人を見回す。


「今日中に、やる曲を決めてしまおう。明日からは集中して練習だ」

「ま、それがいいでしょうね」


 ユリアは流れるような金髪をふわりと掻き上げ、楽譜をめくった。


「で――前にも言ったけど個人的にモーツァルトは好きじゃないから、モーツァルトの四重奏は却下ね」

「あと四重奏といえば、ハイドンだけど」

「ベートーヴェンもあるし」

「バルトークは?」

「別にいいけど、そもそも声楽パートをどうするかが問題じゃないの?」

「楽器とは音の通り方がちがうからねえ……なかなか置き場所がむずかしいところではあるけど。どうしても、器楽のなかに置くとひとつだけ抜けて聞こえるから」

「言っとくけど、あたし、第二ヴァイオリンに回る気はないから」

「わかってるよ、それくらい。むしろ第二ヴァイオリンでいいって言われたほうがびっくりだ。もちろん第一ヴァイオリンで考えるけど――そうなると声楽パートがなあ」


 ユリアとアルは顔を突き合わせ、なにやらむずかしい話をしていた。

 仲がよさそうなのはなによりだけれど、話に入れないのはちょっと居心地が悪い。さすがにモーツァルトとベートーヴェンはわかる。でもハイドンってだれだろう。「おいどん」の親戚だろうか。

 バルトークは、なんとなくゲームの登場人物にいそうな名前だった。たぶん強いやつ。最初はボスとして出てきて、倒したあとは仲間になるんだけど、ボスのときの強さと仲間になってからの強さが明らかにちがうやつ。


「なあ、乙音」


 おれはふたりの邪魔をしないように小声で話しかける。


「あいつら、いったい何語で話してるんだろうな? やっぱりロシア人とイタリア人だから、なんかわけわかんねえ言葉でしゃべってんのかな? ――乙音?」

「へ?」


 ぽろん、とピアノから音がこぼれる。

 乙音は話も聞こえないくらいぼんやりしていたらしい。慌てて顔を上げ、おれを見て、びくりとしてピアノの下に隠れようとする。


「いやいや、もう知り合って一週間以上経つんだから、そろそろ慣れようぜ」

「う……あ、あの」


 言葉よりも先に。

 ピアノの弦がふるえて、狭い部屋に控えめな音楽が流れ出す。

 ピアノは弦楽器ではあるけれど、ヴァイオリンやバスとはちがって弦をこすって音を出すのではなく、弦を叩いて音を出す楽器だから、自然と聞こえてくる音色もちがってくる。

 とくに乙音が弾くと、ピアノという楽器を通して音を表現しているというより、ピアノというものが歌っているような音色に聞こえた。

 それが優れた音色なのかどうなのかはわからないけれど。

 おれは、乙音の弾くピアノが好きだった。

 しばらくピアノから流れてくる音楽を全身で感じていると、ユリアがくるりと振り返り、青い瞳をおれと乙音に向ける。


「で」


 とユリアはいつもどおりの厳しい声で言った。


「あんたたちは、なんの曲がいいの?」

「ん、おれか。おれは、そうだなー、楽しい曲がいい!」

「乙音は?」

「……いやー、今日はよく無視される日だなあ。いっそ透明人間になりたいよ。そして女湯に突入したいよ」

「いいねえ、それ」


 アルは深く実感を込めてうなずいた。


「透明人間って、人類の夢だよね」

「夢だねえ。宇宙へ行くより、まず透明になれる技術を開発すべきだとおれは思う。そのためなら何億円投資しても無駄ではない」

「いや、まったく。ハルキ、選挙出なよ」

「透明人間推進党? 受かるかな」

「男は入れると思うね」

「あほどもはだまれ」


 絶対零度を下回るのではないかというくらい冷たいユリアの声に、おれとアルはおとなしく口をつぐむ。


「で、乙音はなんの曲がいいの?」

「え、えっと、あの――」


 ユリアの青い瞳には、なにか魔力的なものがあるのか、乙音はユリアに見つめられるとがちがちに緊張してしまって、普段以上に言葉が出なくなるらしい。

 でも、不思議なことに、言葉が出なくなるとその分だけ音楽が増す。

 舌はもつれても指はきちんと動いて、ふたつの声部からなる複雑な音楽がピアノからあふれてきた。

 まるで二匹の蛇が絡み合うような音だ。

 低音と高音、それが交互に似たような旋律を奏でて、ぐるぐると二重らせんを描きながら上昇していく。

 そんな曲があるのだろうかと思ったが、乙音の即興だったらしく、ユリアは苛立ったように楽譜を閉じた。


「そんなお遊びはどうでもいいから、早くやる曲を決めましょうよ。だれの、なんの曲がやりたいの?」

「う、あ――そ、その」


 音が。

 上へ上へと積み上がっていく。

 マイナーで重ねられた音の階段はおぼつかなくて、またたく間に高音部までたどり着くが――それははじめから、墜落を約束された音のように感じた。


「だれの曲でもいいの? それともピアノがある曲がいいの? 別にピアノの三重奏を編集してもかまわないけど」


 ユリアも、いつまで経っても先に進まないこの状況に苛立っていたにちがいない。

 金髪のそのきれいな姿はいつも張り詰めた糸のようなもので、常に弾くと音がするくらいにきつく巻かれているから、ちょっとした拍子にぷつんと切れてしまう。

 乙音の指が最高音で止まった。

 その瞬間、ユリアはいままで以上に厳しい口調で言っていた。


「言いたいことがあるならちゃんと言いなさいよ。いっつもピアノばっかり弾いてて、そんなもので会話なんかできるわけないでしょ!」


 ぴん、と弦の切れる音がした。

 ユリアの心のなかか、それともユリアと乙音とのあいだに張られていた弦なのか。

 低音から中音にかけて、ぞっとするような不協和音が響いた。

 乙音は鍵盤に手をついて立ち上がり、ユリアのあいだを抜けて狭い部屋から飛び出す。

 扉がばたんと閉じても、狭い部屋に反響する不協和音は匂いのように残って消えなかった。

 おれとアルの目線は自然とユリアに向かった。

 ユリアはうっとうめいて、一歩後ずさる。


「あ、あたしが悪かったの、いまの?」

「まあ……そういうことになるなあ、いまのは」

「で、でも、別に怒鳴ったわけじゃないし」

「怒鳴られたと思ったんじゃないの?」

「う……で、でもでも、早く決めなきゃいけないのも事実でしょ? そもそもあんたらが透明人間とか女風呂とかくだらないことを話してるのが悪いのよ!」

「人類の夢について語ることのなにがくだらないのだ!」

「そこ!? 反論はそこなの? う、うう、あたしも知らないわよっ!」


 追い詰められたユリアは手早くヴァイオリンをしまうと、乙音と同じように部屋を飛び出していった。

 そうなると、当然部屋に残った男ふたり、視線を合わせて、ため息をつくことになる。


「女の子って、むずかしいなあ……」

「いや、まったく」

「頼むぜ、イタリア人」

「ハルキ、最近気づいたんだけど、ぼくはイタリア人じゃなかったのかもしれない。ドイツ系だったのかも。ほら、ぼくんち、イタリアでも北のほうだし」

「いや知らねえけど――でも、このまま放っておくわけには、いかないよなあ」


 若草先生は、女の子同士のことなのだから放っておけと言っていたけど。

 やっぱり大切なカルテットの仲間だから、このまま成り行きに任せるわけにはいかなかった。

 試験まであと一週間。

 しかもカルテットでは不協和音。

 おれたちは無事にカルテットの試験を通過することができるのか――いまのところそれは、音楽の神のみぞ知る、というところか。

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