第二話 1
1
これから入ろうとする部屋にピアノがないというだけで小嶋乙音は言いようもなく緊張し、逃げ出したくなる。
実際、もうすこし勇気があったら乙音は回れ右して逃げ出していたにちがいない。
でも部屋のなかにいる人間としっかり目が合ったのに逃げ出すだけの勇気がなく、乙音はおずおずと部屋のなかに入った。
――音のお墓のような部屋。
乙音がはじめてこの部屋にきたときは十二歳だったが、三年経ったいまでも感想は変わらない。
学長室、という名前の、その部屋。
いつもにこにこと笑っている学長の仕事部屋でもあり、壁やショーケースにいろいろな楽器が飾られている博物館のような部屋でもある。
乙音にとっては、もう音を奏でることができなくなった楽器を弔っているように見えた。
だから、音のお墓のような部屋。
楽器は使い方次第では百年でも二百年でも保つものだが、音に関係する致命的な故障があると、何年ものでも使えなくなってしまう。
それでも、百年や二百年、壊れずに受け継がれてきた楽器は、とても大切にされていたにちがいない。
木でできた楽器を壊すことは簡単だ。
なにかに苛立ったとき、ちょっと強く床へ投げつけてしまえば、それでもう音を奏でられなくなる。
所有者の意図ではない事故で壊れてしまうことだってあるにちがいない。
それでも百年以上使われていたということは、よほどその音を気に入っていたひとがいたということ。
そういう楽器が本来の役目を終え、この場所にいる。
乙音は壁にかけられたヴァイオリン類を眺めたあと、いつもの笑みでこちらを見ている学長に気づき、思わず椅子の背に隠れた。
部屋には学長のほか、もうひとりやけに体格がいい中年の男がいて、それは乙音が隠れた椅子の向かいに座ってちいさくうなずいていた。
学長はくすくす笑いながら立ち上がる。
「ご紹介します。こちらがピアノ科の小嶋乙音くんです。――小嶋くん、こちらはミューズ出版の菊地さんです」
男はぬっと立ち上がる。
まるで熊のような大男で、顔も大きく、厳しい。
乙音は椅子の背に隠れたまま菊地の顔を見上げ、うう、とちいさくうめいた。
目には涙がたまり、うるうると揺れている。
菊地は困ったように頭を掻いて、
「子どもに怖がられることは日常茶飯事ですが、仕事に支障が出るとなるとこの身体も考えものですな――いや、身体はこんなですが、取って食うことはありませんのでご安心を」
にっと笑うその顔がすでに怖い。
乙音は椅子の背から出ないままかたかたとうなずいた。学長は堪えきれずに笑い声を上げている。
「まあ、小嶋くん、おっしゃるとおり怖いひとではありませんから――椅子にお座りなさい」
「は、あ、あの――」
本当に取って食いはしないか、というように恐る恐る椅子の背から出て、二人掛けの椅子の片隅に、できるだけちいさくなって座る。
大柄な菊地と小柄な乙音とでは、まるで巨人と人間の子どもだった。
乙音はじっとうつむき、落ち着きなく指先を動かしたり、足を動かしたりしている。
それはまるで、存在しない鍵盤を叩き、ペダルを踏んでいるような仕草だった。
菊地はふむとうなずき、表情を可能なかぎり和らげて――それでも乙音には笑った熊にしか見えなかったが――声も明るくして言った。
「あまりお時間を取らせてもあれですから、さっそく本題に入らせていただきますが――小嶋さん、単刀直入にいって、CDを出すことに興味はありませんか?」
「し、しし……しーでぃー?」
菊地はこくんとうなずく。
「弊社では近年、クラシック関係のCD出版にも力を入れておりまして――とくに若い層へ向けた、新しいクラシックの提案ですね。どうしてもクラシックというと、堅苦しいとか、重たいとか、そうした印象が付きまとってしまうので――かといって入門用の、有名な曲ばかりを入れた安価なCDでは、それよりも深い場所まではなかなか手がでない。そこで若い方へ向けては別方向からのアプローチが有効ではないかと考えておりまして、それがつまり、同世代の音楽家によるクラシックなんですね」
「うっ……」
ただでさえでかい身体をぐっと乗り出し、菊地は熱っぽく言った。
反射的に乙音が身を引くと、菊地はしまったという顔で頭を掻く。
「いや、つい熱くなってしまって申し訳ない。しかし私はクラシック音楽というのはとても優れたものだと思うんです。そもそもクラシックという呼び名が古くさい印象を与えるのかもしれませんが、かつては流行りの音楽といえばそうした交響曲や協奏曲であったわけで、だれもがそれを娯楽として、同時に芸術として捉えていたわけです。音楽を聞く層がぐっと広がるにつれて内輪的な、複雑な音楽は敬遠されるようになってしまいましたが、クラシックこそすべての音楽の源流です。そこを知らず、いったいなにを知るというのか――いやまた熱くなってしまって」
とにかく、と菊地は咳払いをして、
「すばらしい音楽を、できるだけ多くのひとに届けたい――広い意味でのコンセプトはつまりそういうことなんです。とくに若い方を対象にしたシリーズを計画しておりまして、先ほども申し上げたとおり、同世代による同世代へ向けたクラシック、と」
菊地はぐっと乙音を見た。
乙音はびくりとして、さらにちいさく縮こまる。
――菊地の言葉に、なにも思わないわけではない。
ただ、思ったことをうまく言葉にできず、乙音は無意識のうちにピアノの鍵盤を探して視線を彷徨わせた。
クラシック音楽の普及。
乙音はそれを宇宙人の言葉のように聞いている。
「やはり、音楽そのものの魅力は普遍的で、どんな世代にも共通して響くと思います。ただ、その魅力を他人に伝えようと思うと、どうしてもむずかしく理論的になってしまう――まず音を聞いてもらう、それがいちばん大切なことだと思います。そのためには音楽のすばらしさというところ以外で、若い方が気軽に手に取れるようなものが必要ではないかと。――やはり、同世代の音楽家がいると知ったら興味も湧くと思いますし、すこし聞いてみようかという気にもなると思うんです。そこで、第一弾として、小嶋さんのCDを出させていただけないかと本日はお伺いしたわけでして」
自分のCD。
乙音はそれがどういうものなのか想像できず、しばらくぼんやりしてしまう。
その沈黙を消すように学長が口を開いた。
「私としても、クラシック音楽がいま以上に広く聞かれるようになるというのはとてもいいことだと思います。ただ、それを押しつけるような形になるとすこし問題ですが――寄り添うように、興味を誘うようにするのなら、決して悪いことではないと思いますよ。学校として、CDを出すことに制約はありませんし――もちろん、最終的に決めるのは小嶋くん自身ですが」
「――あ、あの」
その一言を言うだけでも、もつれた舌を精いっぱいに動かす必要がある。
乙音は「ことば」の不自由さに苛立った。ピアノの音ならもっと簡単に伝えられるはずなのに、と。
「ど、どうして――あ、あの、わ、わたしなんですか」
「それはもちろん、若手のピアニストとして、小嶋さんがもっとも優れていると思うからです。いえ、若手だけではなく、すべての年代を通してでも――小嶋さんの奏でる音は独特で、美しく聞こえます」
でも、それは。
単なる勘違いでしかないことを乙音は知っている。
「たぶん、なによりもピアノがお好きなんでしょうね。そのお気持ちが音に乗って聞こえてくるようです」
菊地はいかつい顔に似合わず、夢見るような表情で言った。
それを見るかぎり、単なるお世辞で言っているわけではないとわかる。
クラシックを普及させたいという意志に関しても――仕事だからという以上の熱い、本物の気持ちは感じるが、それを目の当たりにするたび、乙音は申し訳なくなって余計に言葉をなくしてしまう。
いままでにもこんなことは何度もあった。
ピアノのコンクールに出たとき――そこで最優秀の賞をもらい、審査員からほめられたとき。
だれもが乙音のピアノを理解しているような顔で、ここがすばらしい、ここがよかった、とほめてくれる。
でも乙音からすれば、それは向こう側の単なる勘違いで、ほめてもらうつもりで弾いているのではないし――もっといえば、音楽が好きだからピアノを弾いているわけでもなかった。
ピアノ自体にも、愛情はない。
大切なものではあるが、もしピアノが一切弾けなくなる代わり、ほかのひとたちと同じように「ことば」でコミュニケーションできるようなるのなら、それでもいいと思う。
乙音にとってピアノというのは、それ以外の人間にとって「ことば」でしかなかった。
好きでもないし、きらいでもなく。
生きていくために使ったほうが便利だから使っているだけで。
だから、そんなものをほめられても、うれしい気持ちどころか戸惑ってしまうばかりだった。
菊地は乙音の心には気づかず、机に身を乗り出す。
「いかがでしょうか、小嶋さん。一度、前向きに検討してくださいませんか?」
自分の父親か、もしかしたらそれよりも年上かもしれない男が熱心に乙音を誘っている。
それを断るにはそれなりの労力が必要にちがいない――だから乙音は、消え入りそうなちいさな声で、ぽつりと答えた。
*
先生、と箕形晴己が手を上げる。
黒板に向かっていた若草雪乃はくるりと振り返り、眼鏡のフレームをくいと上げた。
「なにかしら、箕形くん?」
「先生、おれはいったいいつ、声楽科の授業に参加できるようになるのでしょうか? かれこれ二週間くらい、こうやって先生とふたりきりの授業をやっていますけど、一向に出口が見えません。いや、ある意味先生とふたりきりの授業は続けたいんですけど」
「そういうことは人並みに楽譜が読めるようになってから言いなさい。声楽科の授業っていっても、発声だけじゃないのよ。理論もきっちりと習って、その上で音楽的に高度な実践へ進むわけ。あなたは理論をわかっていないんだから、まだ実践に進むのは早いわ」
「う、じゃあ、この書き取りが終わったら声楽科のほうに参加してきてもいいですか?」
「ひとの話を聞いていましたか? まだしばらくは座学です。まあ、発声に関しての練習は、声楽科のほうを覗いてもいいけど」
「やった! よーし、高速で終わらせてやる」
普段はぶつぶつ文句を言いながらやる気もないくせに、こういうときばかりは恐るべき集中力を発揮し、晴己は十分ほど無言で楽譜に向かっていた。
――いま行なっているのは、いわゆる楽譜の書き起こし。
一分程度の曲を聞き、それを楽譜に起こせるかどうか、という楽典のテストだった。
本来ならこの皐月町音楽学校の入学試験で行うことで、しかもそれよりも曲の難易度をぐんと落としたものだが、教わった楽典の知識をしっかり身につけていなければできないことでもある。
まだ複雑な演奏記号までは理解できていないが、基本的な楽譜の文法に関しては、この二週間でだいたい教え込めた。
このテストが終わり、次に楽譜だけを頼りにちゃんと曲が理解できるかどうかの試験をすれば、ひと通りの基礎知識は身についたということになる。
それよりも深部にあるものは音楽をやりながらすこしずつ覚えていけばいいことだ。
重要なのは最低限楽譜を読める知識で、それさえあれば、あとは慣れでなんとかなる――はずだ。すくなくとも自分はそうだったと思いながら、雪乃は黒板を消す。
黒板には前の授業で使った楽譜が書かれている。
歪んだ五線譜に、よろよろとおたまじゃくし。晴己をもってして「死にかけのおたまじゃくしと淀んだ川」と称した楽譜だ。
雪乃はそれを、普段よりもちょっと力を込めながら黒板消しで葬っていく。――絵のうまさは、音楽的才能とはまったく関係がない。絵心というのは幼いころの落書き遊びで培われるもので、そんなことをせずに音楽家のまね事ばかりしていた人間は、どうしたって絵は下手になるものだ。
黒板消しをぱんと払うと、教室は静かになった。
午後いちばんの授業中だ。
この学校、皐月町音楽学校で行われる授業というのは、音楽以外には存在しない。
いまもふたつある校舎のあちこちで楽器が奏でられているはずだった。しかし降りしきる雨のせいか、閉めきった窓のせいか、そうした音は、この教室までは届いていない。
聞こえているのは、霧のように降る雨の音と、晴己の鼻歌だけ。
晴己は一度聞いただけのメロディを繰り返し口ずさんでいた。楽譜へ起こすときの確認というより、集中しているなかで自然と出てくるらしい。
雪乃は透明な声に耳を澄ませる。
どうやらメロディは完全に記憶しているらしい。
音符、つまり音の長さも音程も完璧で、あとはそれを楽譜という特定の書式に起こせるかどうか。
――本当は、音楽をやるために楽譜を覚える必要なんてないんだ、と雪乃は考える。
そもそも音楽はなんのために奏でられるのか。
なにかを伝えるためにちがいない。
では、それは言葉では伝えられないものなのか。音楽でしか表現できないものなのか。雪乃は、たぶんそうなんだろうと思う。
その「なにか」を伝えるためには旋律が必要で、和音が必要で、律動が必要だったにちがいない。
メロディ、ハーモニー、リズムがなければ表現できず、だったらそれは当然、「音楽」として再生されるべきだ。
メロディとハーモニーとリズムを持つものとして再生されるべきで、それは根本的に楽譜に描かれた音符とは異なる。
音と音符は同じものではない。
音符はその「音」を再現するための目安でしかなく――。
極端にいえば、だれかの演奏を再現するためのものではなく、演奏の指針にあたるものでしかないのだから、音楽に楽譜は必要不可欠ではない。
楽譜には演奏家が表現したことは記されていない。
雪乃はふと気づいた。
楽譜は演奏家のためにあるのではなく、作曲家のためにあるものなのだ。
作曲家の表現の極地がこの楽譜なのだ。もしかしたらそれは演奏される必要さえなく、小説のように読んで楽しむべきものなのかもしれない。演奏されることで、それは演奏家の表現を含むことになり、作曲家単独の作品ではなくなってしまう。
その作曲家と演奏家の橋渡しをするのが指揮者という人間の仕事だ。
指揮者――楽器を持たない音楽家。
マエストロと呼ばれる専門家。
雪乃は指揮者に憧れていた。
もう、ずっと昔の、子どものころの話だ。
そんなことを思い出すのは雨のせいにちがいない。雪乃は窓の外をじっとにらんだ。
霧雨には止む気配がない。
まだ昼間なのにどんよりと暗く、空は分厚い雲で蓋をされ、まごうことなき日本の雨季だった。
雪乃は深々とため息をつき、最近ため息がくせになっていることに気づいて、主にその原因となっているたったひとりの教え子を見た。
晴己もふと顔を上げる。ちょうど書き終わったところらしい。
子犬のように尻尾を振り振りして晴己は立ち上がり、楽譜を提出する。
「どうですか、先生。完璧でしょ?」
雪乃は受け取った楽譜を眺め、自分と同じくらいおたまじゃくしが死にそうなのを見てほくそ笑んだ。やっぱり、音楽家で絵がうまい人間なんていやしない。
「まあ、間違ってはいないわ」
「やったあ!」
「でも!」
「う……」
「ここはこんなふうに旗をつなげて書く、連桁のほうが読みやすいって教えたでしょう。つなげるときの注意点は?」
「え、う、えっと……」
むむ、と晴己は眉根を寄せて、なにかひらめく。
「いい感じになるようにつなげる!」
「はいばかー」
「ええっ、ちがうんですか?」
「だいたい四分音符に合わせてつなげるの。そうすれば旗の多い音符がずらーって並んでても、ぱっと見てだいたいの拍の取り方がわかるでしょ」
「おお、なるほど。先生、あったまいいー」
「考えたのは昔のひとだけどね。あとおだてても試験の結果は変わらないから」
「ちっ、おだて損か……」
雪乃はため息をついた。ついてから、またついてしまったと悔やむ。ため息をつくと幸せが逃げていく、ともいうし、そうなったらため息をつく原因になった教え子からいくらか幸せを分けてもらわなければ割に合わない。
幸いなのかなんなのか。
雪乃の教え子、箕形晴己は、ひとよりもたくさんの幸せを持っていそうな少年だった。
「まあ、試験は合格ってことでいいわ。だいぶおまけだけど」
「おおー、やったっ。これで声楽科の授業に出られるぜ!」
「向こうの先生にも言っておくから、明日から受けるといいわ。ただ、まだ基礎の基礎だから、今後も定期的にこうして基本の授業を受けるように」
言いながら、晴己は嫌がるだろうな、と思う。
晴己は、歌うことはともかく、机に向かって授業を受けることを嫌がっていた。そんなことをするくらいならさっさと実践したい、というのが晴己の意見だった。
雪乃もそれは理解できる。
きっといま、晴己は生まれてはじめて音楽に埋もれて、それを堪能したい時期にちがいない。
だからこそ、いまのうちに基礎を学んでおいたほうが後々役立つのだが、生徒のうちにそこまで理解できるかどうか。
そんな雪乃の予想に反し、晴己はうれしそうにうなずいて、しっかり雪乃の顔を見て言った。
「はい、これからもよろしくお願いします、若草先生っ」
あまりにもまっすぐな目でそんなことを言われたせいか、それともまだ単純に「先生」と呼ばれることに気恥ずかしさを感じるせいか――雪乃はほんのりと赤くなり、ぷいと顔を背けた。
「声楽科の授業に出るのはいいけど――あなたたち、カルテットもやってるんでしょう? そっちのほうはどうなの。試験までもう一週間しかないけど」
「いやあ、それが――先生、ちょっと相談なんですけど、いいですか?」
晴己はまじめな顔で言った。
雪乃もすこしは先生らしい顔をしようと表情を改める。
ふたりは何気なく教室を出て、廊下を歩きながら話をすることにした。
窓の外は雨だが――廊下ではさすがに、雨音よりどこからともなく聞こえてくる楽器の音のほうが大きい。
音の抜け方は弦楽器よりも管楽器のほうがはっきりしていて、それよりも打楽器の振動が古い木造校舎全体に伝わっている。
まるで、校舎全体がひとつのスピーカーになっているようだった。
雪乃は軋む床を見下ろしながら、学長が未だに木造校舎にこだわるのはそのためにちがいないと考える。
楽器マニアといってもいい学長のことだ。校舎をひとつの楽器と捉え、いわばヴァイオリンの内部でひとが暮らせるような空間を作ろうとしているのだろう。
「――そういえば、昔そんな小説があったわね」
「はい? なんの話ですか」
「いえ、なんでも。それで、相談って?」
「それなんですけどね……」
眉根がきゅっと寄り、晴己には珍しく本当に悩んでいる顔だった。
雪乃は晴己を見て、よほど深刻なのかとすこし身構える。
「実は――」
と晴己は低い声で言った。
「おれのことを取り合う美少女ふたりがいて、困っていて」
「梅雨は本当に鬱陶しいわね。早く明けてくれればいいけど。暑いにしたって、もうすこしからっとした暑さならなんとかなるのに」
「完全無視!? いやむしろ聞こえていたのかを疑うくらいのスルーでしたけどっ」
「ただでさえ梅雨で鬱陶しいのに、おまけに他人の妄想を聞いている余裕はないの。悪いけど、そういう妄想は自分の日記に書いて満足してくれる?」
「うう、ちょっとしたジョークだったのに……いやでも実際似たようなものなんですよ。ある女の子ふたりのことで悩んでるんですけど。先生も一応女のひとだし、聞いてみようかと思って」
「一応っていうのが気になるけどね、一応っていうのが」
「言葉のアヤってやつです、お気になさらず」
はあ、と雪乃はため息をつく。
やっぱりこの教え子からは、幸せの幾分かをもらわなければ割に合わない。
「――で? ユリア・ベルドフと小嶋乙音がどうしたの?」
「いや、そのふたりとは限らないですよ。あくまである女の子ふたりってことで――そのふたりは同じカルテットを組んでるんですけど、どうもその――なんていうか」
晴己は言いにくそうに眉をひそめた。
「仲が悪い?」
「う……やっぱり先生、はっきり言いますねえ」
「まあ、人間なんだから、仲がいい悪いはあるでしょう。合う合わないということもあるし。でも――たしかにね。あのふたりは、ちょっと合わないかもしれないわね」
ロシアからの留学生、金髪の世にも美しいヴァイオリニストと。
自己表現が苦手な天才ピアニスト。
合うといえば合いそうだし、合わないといわれればそうだろうという気もする。
雪乃はそのふたりのことを詳しく知っているわけではなかった。
もともと雪乃はこの学校の生徒だったが、五年間この地を離れていて、戻ってきたのがつい二週間前――ただそのふたりの生徒についてはいろいろと話を聞いている。
ユリアと乙音は、どちらも音楽家としては文句なしの天才だ。
雪乃が思う、音楽における天才の定義は簡単だった。
他人では真似できないことができる――それをつまり天才と呼ぶ。
それは努力の結果、だれにも到達できない高みまでたどり着いた人間に関しても同じこと。
過去、だれも到達したことがなく、この先だれも到達し得ないだろうという場所に行き着いた人間こそ、天才と呼ばれるにふさわしいのだ。
ユリアと乙音は十代にしてその域にまで達している。
ふたりとも演奏に関しての評価だが、ユリアのヴァイオリンも乙音のピアノも、彼女たちにしか奏でられない響きがある。
――雪乃は、天才は悲しいくらいに早熟なものだと感じた。
同世代はまだいい。
それよりも上の世代の人間にとって、自分よりも下の世代から現れる天才はとてつもない恐怖だった。
それこそ――死に匹敵するような、きゅっと喉を締め上げられるような恐怖。
ひとはだれも、自分は天才だとどこかで信じている。
いまはまだひとよりも劣っているにしても、いつかはまわりの全員を追い抜くのだと――いま先を歩いているのは自分よりも年上の人間だけで、彼らも自分の年ごろにはくすぶっていたのだと自分を慰め、生きている。
その安定を粉々に打ち壊すのが「天才」の存在だった。
自分よりも年下の「天才」が出てきたとき、ひとは自分が凡人だったことを知るのだ。――雪乃自身がそうだったように。
「先生?」
晴己が雪乃の顔を心配そうに覗き込んでいた。
雪乃は首を振り、気分が落ち込むのは雨のせいだと決め込む。
なにもかも、この陰鬱な時期が悪いのだ――こんな天気の日は、なにを考えたって暗い方向へ進んでしまう。
「ごめんなさい、なんの話だったかしら――ああ、ユリアと乙音ね。そのふたりの仲が悪い、と」
「仲が悪いって言いきれるほどじゃなくて――傍から見てて、ぴりぴりしてるなあって」
「とくにユリアが、でしょ?」
晴己はこくんとうなずいた。
「よくわかりましたね、先生。さすが女の子」
「一応、ね」
「う、すんませんでした」
「でもまあ、別にあなたが心配することじゃないんじゃないの? 女の子同士のけんかなんてよくあることよ」
「うーん……ま、そうですよね。けんかして仲直りしながらどんどん仲良くなるもんですよね」
「場合によってはそのままけんか別れすることもあるけどね」
「うっ……先生、おれを慰めてくれるつもりはないんですか?」
「基本的にはないけど。でも本当に、あなたが心配することじゃないでしょう」
それはそうなんですけど、と晴己はため息をつく。
「なんていうか、ふたりともおれがカルテットに誘った手前、できれば仲良くしてほしいと思うわけで。やっぱりほら、ぴりぴりしてると音楽的にもぴりぴりしちゃうじゃないですか」
「ぴりぴりした音楽も悪くないわ。三重奏や四重奏は調和だけが目的じゃない。とくに同じ楽器、チェロのみの四重奏とかピアノ三重奏は、調和というより勝負に近いし」
「勝負、ですか?」
「だれがいちばん魅力的かっていう勝負ね。そういう対決のなかですごく熱量の多い、緊張感のあるぴりぴりした名演奏が生まれるの」
「ふうん、なるほど……でもやっぱり、音楽は楽しいほうがいいと思いません?」
「いろいろね。楽しいものもあれば、それだけじゃないものもある。わたしはけんかしてるみたいな、ぴりぴりした演奏も好きだけど」
いよいよ晴己はむずかしい顔で考え込んだ。
雪乃は教え子の横顔をちらと見て、アドバイスしてやろうかと思ったが、とくに思いつかないままときが過ぎる。
結局それは、晴己にとって世界が広がるということだ。
楽しいだけが音楽ではない。
もちろん、悲しいだけが音楽でもない。
どんな音楽がいちばん優れているのかはだれにもわからない。
言ってしまえば、どんな音楽が優れていようとかまわないのだ。
要は好みの問題だった。楽しい音楽が好きな人間もいれば、物悲しくなる音楽が好きだという人間もいる。そのどちらかが正しくて、どちらかが間違っているというものではなく――。
音楽の究極は、自分のなかにしかない。
作曲家、演奏家はみんな、自分のなかにしかない音楽の理想形を追い求め、自分の心にあふれてくる音をかき分けて進む。
まっすぐ進める音楽家はごくわずかだ。
途中で必ずといっていいほど誘惑が起こって、いままで自分が信じていた理想より、もっと魅力的な選択肢が現れたりする。
ただ楽しいことが音楽の意義だと思っている人間が、だれかの断末魔のような恐ろしい音楽に打ちのめされることもある。
その反対に、孤独で冷たい音楽こそ極地へ至る唯一の道だと思い込んでいた人間が、心の底から楽しそうに演奏するだれかの姿に憧れたりもする。
あっちへ行ったり、こっちへ行ったり――迷い、さまよい、霧のなかで右往左往して、その霧から抜け出せずに力尽きてしまうのがほとんどだ。
音楽の広い森から抜け出せるのは、脇目もふれずまっすぐ歩き続けた人間だけで、もしかしたらそういう人間をひとは天才と呼ぶのかもしれない。
「――でも、やっぱり」
晴己は顔を上げ、きっぱりと言った。
「おれは楽しい音楽のほうがいいと思う」
雪乃はうなずき、すこし笑った。
「自分の心には正直に従ったほうがいいわ。きっと、それが正しい選択だから」
――話しながら。
ふたりはいつの間にか校舎の階段を下り、一階の、職員室や学長室がある廊下にたどり着いていた。
晴己は何気なく窓を外を見て、霧雨に煙る庭を眺める。
「こうやって見ると、ほんと、日本じゃないみたいですね。レンガの古い建物に、噴水がある庭に」
「この学校ができた当時は、音楽の中心といえばヨーロッパだったせいでしょうね。ヨーロッパでも時代によって中心地は異なるけれど」
「う、また授業っぽくなってきたなあ」
晴己が露骨にいやそうな顔をしたときだった。
ふたりのすこし前方にあった学長室の扉ががちゃりと開き、そのすき間からちいさな影がするりと抜け出してくる。
「あ、乙音。学長になんか用事でもあったの?」
部屋から出てきたちいさな人影はびくりと振り返り、晴己を見てすこし慌てる。
「あ、あ、あの――」
雨音よりもかすかな声で言って、結局それが明確な言葉にならないうちに、乙音はふたりのあいだを抜けて走り去っていった。
ちいさな後ろ姿はピアノが置かれている部屋に消える。晴己は首をかしげた。
「どうしたんだろ、乙音――ま、会話が成立しないのはいつものことだけど」
雪乃も不思議には思ったが、乙音が学長室にいた理由はだいたい想像がついた。
とくになにがあるわけでもないこの時期、生徒が学長室に呼び出されるのは、悪いことをしたときか、あるいは――。
学長室の扉がもう一度開いた。
今度は乙音とは対照的な、熊のような大男が出てくる。
大男は室内に頭を下げ、扉を閉めたあと、晴己と雪乃に気づいた。
「おや――もしかして、若草さんですか?」
大男はいかつい顔に似合わない笑みを浮かべ、雪乃に近づく。
「いやあ、お久しぶりですね――五年ぶりくらいですか? まさかこちらに帰っておられたとは知りませんでした」
「お久しぶりです。こっちへ帰ってきたのはつい先日で」
「ああ、そうだったんですか。それはまた――お話を伺いたいところなんですけど、今日はちょっと時間がなくて。また後日、機会がありましたらぜひ」
「ええ、また」
雪乃は大人になって身につけた作り笑顔を浮かべ、大男と別れの挨拶をする。
大男は最後に一瞬だけ晴己を見た。ありふれた生徒を見る目だった。雪乃は、今度は本心からくすりと笑う。
のしのしと大男が校舎を出ていく。晴己は傘を差して庭を歩いていく背中を見て、トトロみたいだ、と呟いた。
「若草先生、知り合いですか?」
「まあ、昔ちょっとね」
「昔ちょっと……ま、まさか、昔の男とか?」
「それこそまさかよ。まだわたしがここの生徒だったときに、一度会ったことがあるだけ――たぶん今日も同じ用件できたんでしょうね」
「同じ用件?」
「簡単にいえば――乙音にCDでも出しませんかって提案しにきたんでしょう」