第一話 10
10
音楽は孤独なものだと思っていた。
だって、音楽は美しさそのものだから。
少女はおもちゃのようなヴァイオリンが奏でる美しい音色に魅了され、音楽とは美しくなければならないと思っていた。
美しさの極限が、音楽の到達点なのだと信じていた。
美は孤独のなかに生まれる。
言い換えれば。
孤独だからこそ、美が現れる。
群衆のなかに本当の美はない。
だれもいない、孤高の世界にこそ美は存在して――だれにも知られず、だれにも聞かれず、でも、そこにあり続ける。
音楽もまたそういうものだと少女は思い込んでいた――なにしろ、少女には仲間がいなくて、たったひとりきりだったから。
閉じた世界のなかで自分を肯定するには、孤独でいる自分を許してあげることしかなかったから。
少女は、自分は孤独を選んできたのだと思おうとした。
孤独であることが正しい、孤独であることが美しいのだと思おうとした。
――それは間違いではなかった。
孤独は美しい。
でも、美しいだけが音楽ではない。
美しくはないけれど、楽しい音楽というものが存在することを知って――それまで少女が固執していたものがなくなってしまって、少女は途方に暮れた。
言葉で否定されたのなら、音楽でやり返せばいい。
でも。
音楽によって気づかされた自分の感情は、どんな方法でも振り払えなかった。
忌まわしき「楽しい音楽」なんてものに憧れてしまった自分の感情だけは――。
美しい音楽がすべてだと思っていた。
そのためには孤独でなければと信じていた。
でも、それは結局。
楽しそうにしているまわりが羨ましくて、その輪には入れなかった自分を肯定するため、楽しそうにしていることを否定しなければならなくて。
本当は、ただそれだけのことだったのかもしれない。
少女は幼いときから、このちいさな部屋を連れ出してくれるだれかの手を待っていた。
美しくはないかもしれないけれど、とても楽しそうな外の世界へ連れていってくれるだれかを――ずっとずっと、待っていた。
*
「知ってるかい、アル?」
「やあ、なんだい、ハルキ?」
「四重奏って、すごく楽しいんだってさ」
「へえ、そうなのかい。ああでも、残念だねえ」
「ああ、残念だよ、アル。だってぼくたちの仲間は三人しかいないんだものね」
「とても残念だね、ハルキ」
「とても残念だよ、アル。だれか、いっしょにやってくれるひとはいないかなあ?」
「うーん、案外、近くにいたりするのかもしれないけどね。だれかいいひと、いないかなあ」
「いないかなあ」
ふたりはちらちらと視線をとなりの席に投げかけていた。
――寮の食堂だ。
建物の左右できっぱり男女が分けられている寮だが、食堂や一部の施設は共用になっていて、そこにはテレビもあるから、多くの生徒が入り浸っている。
彼女はもちろん、テレビを見に食堂へやってきたのではない。
夕食を食べにきたのであって、その夕食もすっかり食べ終わったから、もうここにいる理由はなかった。
がたんと椅子を引いて立ち上がると、そのふたり組はあたふたと彼女を追ってきた。
「四重奏、きっと楽しいよ、アル」
「楽しいだろうね、ハルキ」
「ああ、だれかいっしょにやってくれないものかなあ」
「あとひとりなんだけどねえ。だれか、ヴァイオリンがうまい子はいないかなー」
「いないかなー」
「いてくれるといいよねー」
「いいよなー。たとえば、ヴァイオリンが超絶うまくて、あと金髪がきれいで、青い目がきれいで、美少女のロシア人の女の子なんて、いたりしないかなあ」
「う、よくそこまで言うなあ、ハルキ。やっぱりきみ、イタリア人の血が流れてるんじゃない?」
「いやあ、だれかそんなひと、いないかなあ。いっしょに四重奏やってくれたりしないかなあ」
――その白々しい芝居に嫌気が差して。
彼女はくるりと振り返った。
ずっと振り向かせようとしていたくせに、いざ振り向くとそのふたりはびくりとして、まるで悪いことをした子どものように縮こまる。
黒髪の日本人と、赤毛のイタリア人。
彼女ははあとため息をつき、腰に手を当てて、言った。
「言っとくけど、あたし、モーツァルトはそんなに好きじゃないの――やるんだったら、ほかの曲にしてよね」
それが、彼女にとって最大限の「素直」だった。
ふんと鼻を鳴らす彼女に、ふたり組はしばらく意味を理解しかねるようにぼんやりしたあと、わっと声を上げた。
「やったぜ、アル、勧誘成功だ!」
「よかったね、これでカルテット完成だよ!」
わいわい、やいやい。
食堂にいた生徒たちの視線がふたりに――そのすぐそばに立っている彼女にも集中する。
もともと彼女はそうした視線がきらいだったが、いまは、それよりも露骨によろこびを表現するふたりが気恥ずかしかった。
――彼女は、もうひとりではなくなった。
続く