引田家の平和な朝
「お袋ー、ジャガイモって切るのこれくらいの大きさでいいの?」
「まぁいいよ。極端に小さいか大きすぎるかじゃなければ、ま、大雑把でいいしね」
「料理の勉強ったらなにかと思ったらこんなことでいいの?」
「最初のうちだけだよ。その内に家の味噌汁の出汁と味噌の配分とか覚えてもらうからね」
「マジかよ……」
お手伝い用の台に乗りながら、朝食のおかずにインゲンとジャガイモの炒め物の下拵えをしていた幸は天井を仰ぐ。
「こら、目ぇ離さないの。手ぇ切るよ」
「はーい。で、切り終わったら後はおふくろに任せていいの?」
「んー。折角だから焼くとこまでやってごらん。ちゃんと見てれば焦がして食べられないとかないから、ほら、台動かしたげるから」
「あいよー」
一度お立ち台から降りて母に動かしてもらってから、コンロの前に移動する幸。
「しかし、この身体になってフライパンとか重くなるかなーと持ったけどそんなことないんだよな。不思議」
「そうねー。私ゃあんたの体力まで幼児並になってたら絶対出産なんか認めなかったんだけどね」
軽々と片手でフライパンを動かしながらインゲンとジャガイモを炒める幸の動きを、しげしげと見ながら母は言った。
「お袋手が止まってるぜ。まぁそこらへんは神様の不思議な恩恵ってところなんだろうけど、どこまで恩恵が効いてるのかちょっとわかんないのはな」
「そういえばあんた、髪の手入れなんて知らなさそうなのに全然痛んだりしてないねぇ」
「んー。これはどうなんだろ。こっち戻ってくる前は銭湯で若葉に一通り手入れされてたからさ」
「あらま、そんな事まで若葉さんにさせてたのかいあんた」
幸と入れ替わりに水場に立って豆腐を切っていた母は呆れたといった声を出す。
「いや、させてたというか、されたというか。俺はいいつってるのに面倒見ようとするんだよなー」
「そうなの?でもまぁ、あんたの面倒見るのがお役目みたいな子だから、そういうこともするかしらね」
「そうなんだけど……若葉が昨日の夜からいなんだよな。なんか『貴女が危険ならお傍を離れないので、私が居ない事即ち安全だとお思いください』とかいっちゃってさ。お前が居たら危険なのかよっての」
「そういうんじゃないよ。あんたの面倒見てくれるんだから」
「まぁそうなんだけどさ」
言葉を交わしながら、それぞれ炒めあがったジャガイモとインゲンを皿に盛ったり、味噌を溶いてあった所に豆腐を投入したりする二人。
「にしても朝になっても戻らないとか何やってるんだろ。まさか本当に法則の情報とやらを売りにいってるのかな?」
「どうなんだろうねぇ。あの子そんなつてないだろうに」
「あいつ結構あれでむちゃくちゃする奴だからな……お偉いさんの家に忍び込んで直接取引とかしてそうでさぁ」
「あはは、そりゃ物騒だ。しかし一晩外に出たっきりっていうのは心配だよ……連絡とかつかないのかい?」
味噌汁を温める火を小さくしながら聞く母に、幸は唸りながら答える。
空いた手で腕を組む姿は、おやつを何にするか悩んでいるかのようだ。
「うーん。若葉の方から俺の事は解るみたいなんだけど、俺の方から若葉の事はさっぱりなんだよなぁ」
「そうなの?なんか不便ねぇ。携帯持ってもらった方がいいんじゃないの」
「その携帯持つための身分証とか用意しに行ってるんだと思うけど……親父起こしてくるわ」
「はいお願いね」
軽い身のこなしで踏み台から降りると、幸は台所のすぐ近くにある階段から二階の両親の寝室へ上がっていく。
軽い足音を立てながら階段を昇りきり、寝室へと繋がる部屋に入り、ふすまを開く。
そこには布団の中で身体を横たえて眠る父の姿があった。
幸は遠慮なく和室の中に入ると掛け布団をはいだ。
「親父、朝だぞ!おっきろー!」
「むぅ……」
父は目をしばたたかせながらゆっくりと身を起こした、父は女性化前の幸の父親らしく結構背は高い方だ、なので目の前でのそりと立ち上がる様は、ブラウンのちょっと柔らかそうな素材のパジャマと相まって熊のようだ。
「おはよう幸成」
「おはよう親父。飯できてるから口ゆすいできて」
「解った」
そういって部屋を出ようとした幸の頭を父が捕まえて引き止める。
「なに?」
「母さん以外に起こされるのは新鮮だ。ありがとうな」
くしゃくしゃと幸の髪をかき回す父。
幸は慌ててその手を止めようとする。
「あー!なにすんだよ!髪くしゃくしゃだと俺がお袋に身だしなみがっていわれんだぞ!」
「その時は父さんにやられたから直してくれって甘えておけ」
「……いいわけすんなって言われる気がする」
「じゃあ俺が言ってやるから直してもらえ」
「んー。解った」
じとっと見上げるのを止めた幸の手を、さりげなく握る父。
その手は幸の今はちっぽけな手を丸ごと包み込んで安心感を与える。
「……親父俺が男の時は絶対こんなことしなかったよな」
「今は娘だからな」
「このスケコマシ」
「言ってろ」
軽口を叩きあいながら二人揃って階下の台所に行く。
それをみた母はくしゃくしゃの髪の幸を見ても、ちらっと見ただけで味噌汁をとり分けるのを止めない。
だがそれを終えると素早く幸の傍にやってきて、その髪を手櫛で整える。
「なにしてるのあんたはもう」
「親父にやられたんだよ」
「そうなのお父さん」
「ん、まあな」
「まったくコレだから男って言うのは……息子が娘になるなんて大変な事になっても若い女の子と見れば浮かれるんだから」
「そんな事はない」
「はいはい。じゃあご飯並べておくから洗面所いって」
「むぅ……」
母にやり込められて洗面所へ引っ込む父の背中を見て、昔からこんなだよなぁ親父とお袋、などと思いながら、運ぶの手伝いなさいと言われてお椀を両手に持つ幸なのだった。




