幸の仕事
幸が泣いたあの夜から二ヶ月と少し経ったある休日。
あの夜の後、幸は再び若葉と同じ部屋で眠るようになった。
そして書店で妊婦のための手引書の類を買って読むようになり、お腹の中の子供を本格的に気遣うようになり始めた。
そうこうしている間に病院での検診で出産予定日も決まり、自分がきちんと母親になれるのかという不安もあるので、指折り待つというわけにはいかないが、それでも時折下腹部を衣類越しに撫でるようになった。
そんな幸を見守りながら母は孫のために小さな靴下などを編み出した。
今は冬の終わりで寒さも緩んできているが、順調に行けば孫が生まれるのは寒い盛りになる。
その為に今から用意をしているのだ。
幸も作ろうとしているが、その手元はかなり拙い。
この歳まで編み物裁縫などをやった事といえば学校で簡単な裁縫を習っただけの幸では仕方の無い事だ。
そして大きな変化として若葉が政府との取引で自分と幸の戸籍と多額の資金を手に入れ、ただそこに居るという事実だけでなく、法的にも地に足のついた活動が出来るようになったというのがある。
保険証や母子手帳の入手と共に病院関係者に対する心理操作は取りやめられ、今では外見が若すぎるがただの妊婦として通っている。
それに加えて幸につわりがきた。
神が保障する妊娠だからか、食欲がなくなるほどの重いものではなかったが、確かに幸は自分の身体の変調を感じていた。
味覚が少し変わり、濃い味の物はちょっと辛いと感じるようになったりしたのだ。
そんな変化の中でも幸と両親、そして若葉はゆっくりとした時間を過ごしていた。
幸は若葉の膝の上に座りゆっくりと編み棒を操ってまだ形にならない毛糸の塊を大きくしている。
そんな幸の腰をそっと支える若葉、彼女は30分を超えて腕を固定しているがその腕は小揺るぎもしない。
母はその対面に座り小説を読んでいる、題名は「秘剣開帳御前試合血風録」で、中身は様々な妙技、珍技を繰り出す剣士達がとある藩主の前で開陳するといった内容の小説だ、彼女は興味が惹かれればどんなジャンルでも読む。
父は茶を飲みながらテレビが流す旅行番組を見ている、彼は普段忙しくて遠出する機会が無い為に遠隔地を題材に扱った番組を好む傾向がある。
ゆったりとしたこの空気の中、若葉は幸に囁きかける。
「引田幸。何を作っているのですか?」
「手袋だよ」
「赤ん坊のものにしては大きすぎませんか?」
「む。いいんだよ……赤ちゃんはすぐ大きくなるから」
「素直にどこで止めればいいかわからなくて巨大化したといってもいいんですよ、引田幸」
「うっせ……まずは完成させられればいいんだよ。まだこの子が産まれてくるまでに時間はあるんだから。なー、福与」
名前を呼びながら下腹部を撫でる幸。
彼女は両親に子供の名前は考えてあるのか聞かれた時、スッとその名前を出して理由も説明した。
他人に福を与えるような子になって欲しいから福与。
ちょっと安直かな、と恥ずかしがっていた幸の命名を両親は良い名前だと言って認めた。
それ以来、彼女がお腹の子供に呼びかける時は福与と言っている。
「それにしてもあれだな、動くのが判るようになるのはもうちょっと先らしいけど、早く解らないかな」
少し嬉しそうに言う幸に若葉がちょっと水を注す。
「動いたら私にも触らせてくださいね。いえ、あくまで健康に胎児が育っているかの確認の為ですよ」
「お前がそういうこというと余計に怪しくなるのな」
「私が怪しい?ふふ、引田幸は妙な事を言いますね。私が怪しいなどという事はありえません。そうですよね引田恵、引田巌」
問われた父と母はじっと幸の頭の上に見える若葉の顔を見ると言った。
「怪しいな」
「怪しいわ」
二人に揃って怪しい認定をされた若葉は頭を振りながらそっと幸の腰に当てていた手を下腹部の方へ進ませる。
「心外ですね。私にやましい気持ちなどと言うものは1ミクロンたりとも含まれて居ません。私はどこまでも従順な引田幸の奴隷ですよ」
「だったら俺の腹に伸びてきてる手はなんだ、こらっスカートの中に手ぇ入れるな!」
「まぁまぁ、いいではないですか」
「良くねぇ!本気で怒るぞ!」
「ストレスを溜めるのは良くありませんよ引田幸。ここは一発きつい頭突きでも顎に入れてはどうでしょう」
「え……それはやりすぎじゃね?」
スカートの中に侵入させる手を止めて自分を打てという若葉に若干引く幸の言葉に、若葉は戒めるよう厳しい声で言う。
「もしコレが私ではない、悪意ある男性の手だったらどうするんですか。不埒な行いをする相手には悶絶する程度の攻撃をしていいんですよ引田幸」
「でも下手に反撃して相手を怒らせたら危ないんじゃ……」
「貴女は良いんです。数秒でも相手に隙を作っていただければ私が処理しますから」
「むむむ、お前の言い方は胎教に悪い。やめろ」
「解りました」
それ以降はスカートの中に侵入を止めていた手も元の幸を支えるポジションに戻し、若葉はさりげなく幸の髪の匂いを嗅いだ。
「ふむ。今日も引田幸は良い匂いですね」
「だから、お前はいちいち言う事が変態じみてるんだってば」
「愛です、愛」
「そーいう教育に悪そうな愛はいらん。それはそうと親父、お袋ちょっと相談なんだけどさ」
幸がぺちんと若葉の手を叩いてから出した問いかけに父が答えた。
「なんだ?また赤ちゃんのオムツは布か使い捨てどちらがいいかか?」
「違うよ。若葉が……こういっちゃなんだけど政府から金を貰ったけどさ、それって子供の養育費だろ?それって俺の生活費とかは含まれないわけで……戸籍も貰ったし、福与を産んでから落ち着いたら俺もまた働いた方がいいと思うんだ。どんな所なら働けると思う?」
「お前の働ける場所か……ふむ」
少し考えると、湯飲みを座卓に置いて父は口を開いた。
「接客業は体格的に少し厳しいよな。事務系の勉強をして資格を取って勤めるのはどうだ?接客業と違って容姿が問題になる事は少ないだろうしな」
「事務か。できればお客さんと接するような仕事がしたいんだけど、仕方ないかな」
「まぁ実際やってみればその仕事なりのいい所も見つかるだろうからいいんじゃないの、事務系も」
母からの援護もあって幸はその気になっていたのだが、若葉がお約束のようにそれをぶち壊した。
「私は引田幸が仕事に就く事は反対です。政府から情報と引き換えに引き出した養育費には当然、引田幸、貴女の生活費も込みの金額を提示しました」
その言葉を聞いて幸は思わず身体をひねって若葉の肩に縋りつくように顔を突き合わせる。
「マジで!なんでそんなことしてるの!?」
幸の驚きの声に、彼女の頭に顎を乗せ若葉は静かに答える。
「はい。神は貴女に改変者を生み育む事に集中してもらいたいと思っています。これは、もしかすると子供を産むという重責に貴女が耐えられなくなる、という可能性を減らしたいという意思の表れでもあります」
若葉が喋るたびに幸の頭がかっくんかっくんと揺らされる、頭を動かして若葉の顎の下から出た幸は言う。
「やめっ、がくがくする。……つまり俺は余計な事せず子育てだけしてろって?古いぜその考え方」
「それはうがち過ぎです。私はただ引田幸になんの不安も無く改変者を育てて欲しいだけなのですから」
「……むぅ。不安なら正直打ち消しきれないほどあるんだけどな」
「精神操作を希望しますか?安寧の中で気がついたら生まれていますよ」
愉しげに言う若葉を父がたしなめる。
「止めろ。すでに多少の介入をしているというのに、これ以上幸成をどうするつもりだ。その冗談は不愉快だし笑えないぞ若葉さん」
この言葉に若葉はすぐさま頭を下げる。
「もうしわけありません。言い過ぎましたね。でも本当に無理やりにでも落ち着きたい時などにはご用命ください。副作用無しの鎮静効果を保障します」
若葉の謝罪に、幸はため息をつきながら一言零す。
「お前は俺をどうしたいのか解んね」
そんな幸を抱え込みながら若葉は確かな思いを感じさせる声色で語りかける。
「どんなにずるく、汚くても、私の行動は引田幸を助けると言う一点に集約されます。それだけはご理解ください」
この告白にも幸は少し渋い顔をしていたが、あんまり無茶はするなよ、と釘を刺すに留めた。
若葉はなんだか人と倫理の基準が違うというのは度々感じてきた幸だが、なんとなくその基準が解ってきたような気がしたのだ。
まず、何はなくとも変革者を産む幸の周囲の障害を取り除く。
幸に何もしなければ何もしないが、幸に牙を剥くとあれば躊躇無くその力を振るう。
そして幸に注ぐ微妙に歪んだ愛着のような忠誠心。
これは幸にも扱いかねている要素で、まだまだ探らなければならないが、幸が止めろと言えば止めるが無断で行う事も多い、ある程度の制御は出来ているようだが幸としては不安定と言わざるを得ない。
だが幸の感情を無視しての行動は、助かるか助からないかだけで言えば正直助かるという事になるのは事実だ、それは金銭の問題に如実に現れている。
口では悪いといいつつも内心ではありがたい、と思ってしまうのは仕方のない事だろう。
幸はそんな状態におぼれないように、自戒する事を忘れないようにしようと誓うのだった。




