ベミエラ編:7
ヘラがクロードの家へ向かっている途中、ベミエラは魔物の襲撃を受けた。
街の北側から、カンカンカン、カンカンカン、と3つ連なった鐘の音が聞こえてくる。非戦闘員は街の外へ避難せよ、という合図だ。
「ちょっと、嘘でしょ!?」
持参した食材をその場に残し、ヘラは全速力で駆け出した。
クロードの家は、カスケイドの領地すぐ傍にある。避難場所からは最も遠く、上り階段を幾つも越えねばならないため、空家の多い界隈だ。
ヘラは若さに任せ、階段を一気に駆け上がった。苦しかったが、後は下るだけだ。その油断が彼女の足首を捕らえた。
「あっ!?」
右足の甲が地面に付くくらい、ぐにゃりと足首が曲がる。
とても走っていられず、彼女は下り階段を転がり落ちた。クリーム色の路面に、切れた唇から血が滴り落ちる。
「だ、誰か!?」
叫んでも返事はない。立ち上がろうとしても、やはり無理だった。
さらに鐘の音が変化する。カンカンカンカン、カンカンカンカン、と4つ連なる音。家に入って戸締りをせよという合図。羽虫の群れが、カスケイドの巻き起こす風を突破したことを報せている。ヘラは目に涙を溜めながら空を見上げた。
夕焼け空を覆う黒い点の群れ。あんな数は今まで見たことがない。
耳を澄ませば、低く不気味な羽音が聞こえてくる。
「ひぃ、ぃ、い」
周囲を見渡すと、階段と草地。最寄の空家は今のヘラにとって絶望的に遠い。
這ってそこを目指すが、頭のどこかでそんな自分をあざ笑う声が聞こえる。
バチが当たったのだ、と。毒なんか持ち帰ったくせに、弟と仲直りして暢気に笑って、その上キスまでしてもらって。
あれは神様がくれた最後のお慈悲。あとは虫に食われるか、卵でも産み付けられるのがお似合いよ。わたしなんて――
「ヘラ!!」
そんな心の声を、クロードの力強い叱咤が掻き消した。
「クロード、さま……」
「ほら、私の首に掴まりなさい」
涙の向こうで、クロードが優しく笑う。そのまま腕一本でヘラを抱え上げ、彼は虫に覆われた空を睨みつける。
ふわり、と体が浮き上がった。ヘラはいつの間にか、どこか建物の屋根の上に居た。
ハルバードが天を指し示す。ヘラの腿に当たっていたクロードの胸が大きく膨らんだ。
「神よ、奇跡を!!」
周囲が金色の光に包まれる。ヘラはいま、街が雲にまで届く光の柱にすっぽりと覆われている様子をイメージできた。それはまさに奇跡のような光景だった。
光に慄き退がった虫の群れが、カスケイドの風に巻き込まれ、斜面に叩きつけられていく。それをゴーレムたちが飛び跳ねながら潰していった。
あっさりと尖兵が全滅したためか、魔将は姿を現さなかった。
○
「毒を盛りたくないだぁ?」
数日後の夜、ヘラは強硬派の1人を呼び出して相談をもちかけた。
「私には無理……いえ、あの人を死なせちゃいけない。そんなこと、絶対許されないわ」
「……自分の命は惜しくねえみたいだな。ちょっくら予行演習と行くか? 今ここで?」
人々が寝静まった時間帯、恫喝の声も小さいが、凄みは効いている。闇の中、判然としない相手の顔をにらみ付けながら、ヘラも負けじと言い返す。
「クラウスが来る前日、受け取った分を少しだけ食事に混ぜるのはどう? この前、馬にほんのちょっとだけ、あの毒を舐めさせてみたのよ……ぐったりはしてるけど、まだ生きてるわ」
「それで? 当日クロードの邪魔が入ったらどうすんだよ。チューゼンに並みの毒は効かないっていうぜ? 馬で比較になんのか?」
「そ、それは……」
「――それは、じゃねえんだよ、あま」
男が顔を近づけてくる。杖を付きながらもヘラは退がろうとしたが、ままならずに髪を掴まれてしまう。
「どっちにしろ反乱が成功したら、クロードは助からねえ……そのはずだったな?」
「ラヘルはこの街の人間じゃないわ、反乱じゃなくて侵略よ!」
男は少し言葉に詰まったが、ヘラの髪を強く引っ張ってごまかした。
「いた、いたぃっ!」
「あのよ。バルガって奴が戻ってこなかったらどうする。薬を作れる奴はいねえんだろ?」
「……」
「薬が尽きた後、あのけたくそ悪い病気にアベルが掛かったらどうする? 直せんのか? お医者のタマゴさんよお」
ヘラの体から力が抜けていく。
「いいか……正味な話、俺達はお前等も気にくわねぇんだよ。帝国のクソ虫どもが女侍らせて上手い飯食ってんのに、ロバみたくこんな暮らしをしてるお前等が、さ。わかってんのか? そんなだから連中が付け上がるってことを、よ」
「知らないわよ……帝国人が憎いなら、帝国人を倒しに行けばいいでしょ」
「何より気にいらねえのはな」
至近距離、見開かれた男の目に、毒々しく血管が浮かんでいる。
「お前等の家族がまだ生きてることだよ」
「……」
「行けや」
ヘラは泣いた。泣きながら、言われるままに帰るしかなかった。男の恨みはあまりに深く、それは家族を失っていない人にまで向けられている。
(どうすればいいの……わたし、どうすればいい……ねぇ、バルガ。お願い、助けて……)
答えは返って来ない。
○
とぼとぼと帰っていくヘラを見送りながら、強硬派の男は考え込んでいた。
(あの様子じゃあ、まだ煮え切らねえな……よし)
一つ脅しをかけてやろう、と彼は思った。
○
翌日の夜、アベルは家で湯を沸かしていた。
ヘラは診察のために外出している。怪我をしてからというもの、なんだか元気がない。本人は足が痛いのだと言うが、それが嘘であることくらいはアベルにも解った。重ねて問いつめると、アベルの方が泣きたくなるような顔で黙ってしまうため、詳しいことは解らないままである。
(やっぱりデンタナで何かあったのかな……商隊に参加していた人に、それとなく聞いてみようか。でも、僕に取り合ってくれるかな?)
そんなことを考えながら、竃のまえで腕を組み、ガタガタと蓋を鳴らす鍋を見ている。
蓋をしたままこれを冷ました後、中を見ることができたらなぁ、と彼は思った。色んなものを入れてみて、中でどういう形になっているのか見てみたい。
ガラスの鍋を何とか用意できないか……カスケイドにねだってみようか? と、そんな思考を母親のか細い声が寸断する。
「はいはい、お湯だねー?」
既に冷めている甕の水をコップに汲み、鍋から熱湯をすくって混ぜ、母親の元へ持っていく。
暫く母と会話した後、台所に帰ってくると、鍋の真上で火が燃えていた。具体的には梁に突き刺さった火矢が、今まさに天井をも焼こうとしているところだった。
アベルは大口をあけてその様子を見ていた。数秒かけて我に返った彼は、少女のような悲鳴を上げながら、甕の水を何度も梁にぶちまける。
幸い、火はすぐに消えた。
「どうした、小僧ぉ!?」
隣家の元兵士が、ドアを壊さんばかりの勢いで突入してくる。
机の上に置かれたランプは無事だったので、彼はすぐ部屋の状況を理解した。
「ちっ。いくらなんでもやり過ぎだぞ、ガキ相手に……おい、相手の顔は見たか? 人数は?」
「わ、わかりません……うわちゃ、竈に水が」
梁から流れ落ちた水が鍋を濡らし、さらに竈にまで入り込んでいる。
なんとか無事な炭だけでも回収しようと竈に近づいた時、目の前で鍋が割れた。
「…………」
彼は生涯、この光景を忘れなかった。
筒状のシンプルな焼き物に、雷が渡ったような亀裂が入り、上半分が消える。
底を含めた下半分にがちゃりと蓋が被さり、隙間から水と細かい破片が漏れていく。
音を立てながら石床に落ちる破片。元兵士の呼び声にも答えず、アベルはそれを凝視する。
いま、確かに内側へ向けて割れた、とアベルは思った。流れ出る破片の量がそれを物語っている。
そして破片が出てくるのは、水に押し流されているからだ。
水に、その力が、あるからだ。
では、鍋を割った力は、どこから?
「うっ……」
「お、おい……小僧? どっか怪我でもしたか?」
頭を抱え、小刻みに震えているアベルの正気を疑いながら、元兵士はおそるおそる声をかけた。それに反応し、アベルは元兵士を振り返る。
「いっ!?」
元兵士は大股で一歩引いた。無理もない、アベルの顔に喜悦が満ちている理由など、余人には計り知れない。
家に火をかけられて、気でも違ったか、この小僧――。
「ねえちゃんに! しばらく家を空けるって、伝えてください!」
「は?」
返事も聞かずにアベルは動き出す。
「母さん! ちょっと出かけてくる!」
ランプの火をトーチに移しながらそう叫び、彼は家を飛び出していった。どこへ? と元兵士は思った。
「あ、バカ! まだその辺に――」
火矢を放った奴が居るかもしれない。
先程からなにごとか、と問う声を上げている母親の部屋を覗き込み、子供は無事だ、と伝えた後、元兵士はアベルを追った。
○
アベルは疾走していた。この閃きに、正当な評価を下してくれる識者の元へ。
もしかして、この世界は、僕が思う以上に――力で満ちているのではないか?
みんなそれを、上手く使えないだけで!
「きたぁぁぁぁぁ!」
「だから、なにがー!」
前を走るトーチの火を、元兵士が追っている。
昔は鳴らした彼だったが、今は40も半ばを過ぎている。アベルとの距離はなかなか縮まらない。
「くそ、あの小僧、足はえーな……」
「きたんですー!」
「……おい、止まれ! 一発殴らせろ! たのむから!」
○
カスケイドは口に手を当てながら欠伸をかみ殺した。雨戸のすき間からさしこむ陽光が朝を報せている。
大気圧の検証実験は夜を徹して行われ、一定の成果を得た。机の上には煩雑に積まれた書物とランプが、暖炉のそばにはハンマーで殴ったように歪なかたちをした鉄の容器がいくつも転がっている。
カスケイドは暖炉の火を弱め、寝椅子に横たわるアベルに毛布をかけた。すやすやと寝息を立てる彼の寝顔におもわず頬がゆるむ。
この子はとてつもない置き土産をしてくれた、とカスケイドは思った。今日という日は、人類が巨大な発見をした日として語り継がれることだろう。
ともかく、これでカードは揃った。クロードに、自分に、例の投石器に……それとバルガさえ帰ってくれば、魔将を倒すのは難しくない。あとは時間との勝負だ。街の下まで横穴を通される前に、なんとか魔将をおびき寄せたいのだが。
(まさか、どこかで死んではいない……わよね)
バルガが死ねば、ヴィルヘイムどころか大陸中が大騒ぎになっているはず。生粋の魔人が産まれることになるからだ。あるいは教会隠密にでも捕らわれ、秘密裏に処理されたのかもしれないが……思いを巡らせるカスケイドの心中は複雑である。
死んでいて欲しいようでもあるし、それでは困るようでもあった。もし彼が帰ってくれば、このネックレス――魔導を巡る戦いは避けられまい。しかし帰って来なければ、魔将討伐の決め手を欠くことになる。
「……」
カスケイドは眠い目をこすりながら書斎に引き返し、紙箱から状態のいい羊皮紙を選びとった。居間にもどり、ペンを走らせはじめたところで、ノックも無しにドアが開く。
入って来たのは、ヘラだった。
「……クロードのところに居なさい、と言ったはずよ」
小声で咎めるようにカスケイドは言う。ヘラもアベルが寝ていることに気付き、静かにドアを閉めた。
「見ての通り、アベルは無事。いまクロードを呼びに行かせるから、彼の家で大人しくしていること」
家に火をかけられたことはアベルから聞いている。弟が心配な気持ちはわかるが、その家族であるヘラたちも安全とは言えない。むやみに出歩くべきではなかった。
「いえ、ちょっと待ってください。お話があります、カスケイド」
「……」
ヘラは真一文字に口を結び、挑むようにカスケイドを見ている。何やら覚悟のあるらしい顔だ、とカスケイドは思った。
「言ってみなさい」
「……はい。それで、あの……」
ヘラは眠っているアベルを見た。彼に聞かれたくない話らしい、と察したカスケイドは、アベルの額に手を置きながらこう言った。
「これで暫くは目覚めないわ。さぁ、言いなさい」
「……。私、デンタナでラヘルに会いました。彼女は……クロード様を殺そうとしています」
ヘラはデンタナで起こったことを、1つの嘘を交えて話した。
まずデンタナへ向かう商隊には、いつごろからかラヘルと繋がる「ラヘル派」が紛れるようになった。彼らを通してバルガを知ったラヘルは、魔術で薬を作るという珍しい力を欲し、仲間に引き入れようとする。
誘いを断ったバルガはラヘルと戦うことになり、結局は敗北して拉致されたが、毒でラヘルに一矢報いた。解毒剤と引き換えに、ヘラを街へ戻すようラヘルに呪いを掛けたのだ。
「……私、2人がにらみ合ってる時に、隙をついて毒をくすねました。バルガの剣にぬってあったものが……これです」
ヘラは白い包紙を、エプロンドレスの隠しから取り出した。
話を聞き終えるまで黙っていたカスケイドは、閉じていた目を開きながらこう言った。
「それで、私にどうしろと?」
「貴女と取引がしたいんです」
「取引、ね」
「クラウスがやってくる前日に、私がクロード様にこれを盛ります。そうすれば、貴女がクラウスを取り戻すのを邪魔できる人はいないわ。だから……この場でアベルの呪いを解いてください。この子を、私に返して」
年に1度クラウスに会う機会があるのに、カスケイドが彼を強奪しないのは、クロードがそれを許さないからだ。ヘラはそう考えていた。クロードさえ居なければ、カスケイドがクラウスを取り戻し、そのまま何処かへ消えてしまうのに不都合はない、と。
カスケイドは眠たげな目でヘラをねめつけてながら、こう聞いた。
「1つ聞くけれど。それがクロードに効くと思うの?」
「効きます」
ヘラは迷わず断言した。
「私、ラヘルとバルガの戦いを見ました。戦いのことはよくわからないけど……ラヘルは、こう、指で」
親指と人差し指を、勢い良く閉じる。
「……バルガの剣を止めたんですよ? あんなこと、クロード様にだってできるかどうか……あれだけ強いラヘルにだって効いたんです。アベル――子供1人で試せるなら、悪い賭けじゃないでしょ?」
「ふふふ」
カスケイドは笑った。うまく騙されてくれたか――さらにヘラはこう畳みかける。
「約束は必ず守ります。何なら、今ここで私に呪いをかけてください。でも、アベルの呪いを解くのが先ですよ」
不敵な笑いを浮かべながら、ヘラは一歩前に進み出た。
弟を得たいがために、生ける伝説さえ殺してみせる毒婦――死の覚悟が、その演技を真に迫るものにしていた。彼女に毒を盛るつもりはない。
その上でアベルには真実を伝え、ここから逃がす。それがヘラの描いたシナリオである。
自分が呪いで死ぬのは構わない。もともと、クロードを殺せなかった時点で自分は死んだも同然だ。この街がラヘルに占領されたあと、男達の慰み者になるくらいなら、自分から毒を飲んで死んでやるつもりだ。
なら、呪いなんていくらでも受けてやる。それでこの魔女が自分を信用するなら安いものだ。
魔女が頼みにする呪いを、ここで逆手に取ってやるのだ――。
(後のことはどうなるかわからない。でも、これが私の精一杯……)
クロードはラヘルに敗れた末、死んでしまうかもしれない。アベルもどこかでラヘルに捕まるか、野盗に殺されてしまうかもしれない。
だが魔境を鎮めるのにクロードが居れば便利だから、ラヘルも生け捕りが望ましいくらいに思ってくれるかもしれない。アベルもあれだけ賢いのだから、どこかの帝国人に気に入られたりして、意外と幸せに暮らしてくれるかもしれない。
この方法なら、もしかしたら、2人ともが生き延びてくれるかも。
ヘラはその可能性を残すため、自身の死を確定させる覚悟を決めていた。
あとは、祈るだけ。目を伏せていたヘラは、カスケイドの鋭い踏み込みに反応できず、腕を絞り上げられてからはじめて驚きの悲鳴をあげた。
「な、なにを――」
カスケイドは無言で白い包紙を奪う。
「やめて、返して! あんたがそれを持ってたって――クロード様に盛れっこないわ!」
「盛らなくていいのよ」
「えっ……」
腕の拘束が解かれた。ヘラは肩をさすりながら後ずさる。
「おまえの話が本当だとしても、私は受けない」
この小娘は帝国の目を甘く見ている、とカスケイドは思った。
かつて山奥に隠れ住んだときでさえ見つかったのだ。そもそも追っ手に怯えて暮らす日々を、息子に送らせたい母親がいるものか。アベルに任せるのがベターな選択なのだ。
もっとも、アベルの呪いを知らないヘラに、そこまで考えが回るはずはないが。
「それに……おまえの話がどこまで本当か知らないけれど。そこまで悲観することはないわ」
「……」
「今からクロードをここに呼ぶ。もう1度、デンタナで起きたことを話しなさい。今度は正直にね――おまえのような小娘が、この私を相手にコン・ゲームだなんて。150年早いわよ」
ヘラにはそもそもコン・ゲームの意味が解らなかったが、自分の思惑が頓挫したことは理解できた。
「それでも、度胸だけは褒めてやるわ。見直したわよ、ヘラ」
ヘラはただがっくりと項垂れ、すすり泣いている。
○
狭い寝椅子の上でヘラとアベルが眠っている。
抱き枕よろしく抱えられているアベルは窮屈そうだ。起きたら驚くだろう、とカスケイドは思った。
2人に毛布をかけなおしているカスケイドの背に、クロードが声をかける。……意外なものを見る視線を送りながら。
「茶を一杯くれんかね」
「自分でなさい」
テーブルに着き、疲れた顔に頬杖をついている彼の注文を、カスケイドは一蹴した。こういう時に冗談が言える男だったのか、とむしろ感心してはいたが。
クロードもカスケイドに対し、大勢の罪人を侍従にしているのだろう、というイメージを持っていたが、いまの後姿などは中々堂に入っていると思った。
通達と報告だけの会話をいくら重ねたところで、お互いのことなど知りようもない。「力を合わせる」ための会話は、これが初めてとさえ言えた。
「それで、考えとやらは纏まったのかしら。そこに座ってからずいぶん経つけれど」
「ああ……貴様の策にそっくり乗る、という考えが、な」
「そう。なら最初の仕事にかかったら? もうすっかり朝よ」
「うむ、そうしよう」
ドアに向かって歩いていくクロードの背中に、カスケイドはあえて声をかけた。
「それにしても、無残なものね。クロード」
「……」
「ヘラは、おまえがラヘル軍に勝つとは少しも思っていない。だからあんな嘘を吐いたのよ」
ヘラも2度は嘘を吐かず、真実を明かしていた。
「もちろん、それは常識的な判断。それでもかつてのおまえは、その常識を世間に忘れさせたはず」
帝国にはウォレスがいる。しかし、反帝国同盟にはクロードがいる。
かつて帝国と戦う人々に、そのような希望を与えていた彼だが、今では辺境のレジスタンス相手にさえ勝利を疑われるほど落ちぶれた。
ヴィルヘイム最後の戦いでも、帝国との間には今と同じように絶望的な戦力差があった。それでも人々は、クロードの勝利を信じていたのに。
「溢れる願いは幻想にして毒。でも、願いの枯渇は絶望にしてやはり毒」
クロードは既に振り返っている。カスケイドは自らの願いも乗せて、彼の目に語りかけた。
「必ず勝ちなさい、騎士のクロード。そして魔将を倒し、もういちど人の願いを纏いなさい。……おまえの居る街から、人が逃げ出さない程度に、ね」
「貴様に説教されるとはな」
やや目を伏せて、静かにクロードが笑う。
「1度聞いてみたかった。人を呪う、というのはどういう気分かな?」
「おまえは知らなくてもいいことよ」
「辛いと思ったことはあるか? 1度でもいい」
カスケイドは椅子に腰掛けてペンをとった。話は終わりだというように。
「私は貴様を許すわけにはいかん。もし貴様が役目を解かれ、どこかで息子と平穏に過ごす日が来たときは、貴様を斬らねばならん」
カスケイドが斬るべき悪人かどうかは、今も解らない。
それでもクロードには、彼女を斬るべき事情がある。死んだ者達の無念を、忘れたわけではないのだ。そしてカスケイドが「魔境を鎮める」という公益にまで背くのなら、彼女を斬ることに何の不都合もない。
「だが私には、人々がくれた使命がある。それを放りだして貴様を追うわけにもいかん」
カスケイドのペンが止まった。
「この世に“呪いの魔女”は不要。そんな日が来るよう私も尽力しよう。そして貴様が自由になったあと、私の前に決して現れるな。……私に“母親”を斬らせるな」
今度こそクロードは出て行った。
それからすぐに、強硬派は全員拘束された。
○
これを契機に、状況は目まぐるしく動く。
カスケイドが鳥を使い、ラヘルによる襲撃計画を帝国大使に伝えたため、クラウスのベミエラ訪問は延期となった。この報はすぐラヘル陣営にも伝えられた。
同時期にラヘルはデンタナを併合しており、相次いで都市を失うヴィルヘイムに自浄能力はないと判断した帝国は、ラヘル討伐について公式に言及した。これに対し、ラヘルはベミエラを占領したのち、そこにデンタナで捕らえた帝国人を抑留すると応酬した。
もしまたヴィルヘイムに剣を向けるなら、お前たちのせいで発生した魔境の前に、お仲間を吊るしてやるぞ。そうしたラヘルの脅しにも、帝国は一切怯まない。大使は事務的にこう返信するだけだった。
10日以内に帝国人を解放せよ。そうすれば、ラヘル軍の財産を全て没収したうえで、ラヘルのみを処罰する。開放しない場合、関係者の半数を処刑、半数を奴隷とする。
その割り当ては、くじで決める。
○
ラヘルがベミエラ占領に動くことを予見していたクロード達は、あらかじめラヘルに手紙を送っていた。内容は簡潔な提案が2つである。
1つ。ベミエラを巡る戦いは、一騎打ちで決着をつけたい。こちらが勝ったら、帝国に投降されたい。そちらが勝ったら、ベミエラを明け渡す。
1つ。「捕虜」の交換をしたい。
「これ聞いたときさ、頭に血が上ったよ。1も2もなく帝国に従えだの……卑屈にもほどがあんだろうよ?」
「そうか」
「……」
気のないバルガの返事を咎めるように、その腕をラヘルが噛んだ。
「ぐぁっ……か、勘弁してくれよ」
半裸に剥かれた上、首輪を鎖でつながれているバルガには防ぎようもない。
しかも逃げないように、という名目で、足腰が立たなくなるほど酒を飲まされている。
それも毎日だ。気分が悪くて喋るのも億劫なほどである。万全ならゴマだって擂ってやるさ、とバルガは思った。
「だめだよー。ラヘル」
「んー!」
噛み付いたまま暫く唸っていたラヘルだが、ウルザに軽く耳を引かれると、あっさり引き下がった。
手紙の内容を「聞いた」というのは例え話ではない。ラヘルは字が読めないため、部下に代読してもらったというのだ。開いている時間を見つけては、寝室代わりに使っているこの馬車に戻り、バルガをつないだベッドに座って、ウルザから読み書きを教わっているような有様である。
そのため、馬車から逃げるチャンスはなかった。
文字の読めない国王。ラヘルを担いでいる人々は、それを本気で望んでいた。望みを駆り立てるのは帝国の圧政というより、ラヘルのカリスマになりつつある。現状を打開しうる圧倒的な武力への期待。だからこそ、先を見据えるラヘルはクロードの挑戦を受けるしかない。
帝国軍の象徴であるウォレスと、互角に渡り合ったクロードを屈服させ、翼下へ加えることができれば、大陸中で打倒帝国の望みを駆り立てることができるからだ。逆に受けなければ、ラヘルの武力に疑問符がつくことになる。
そしてラヘルが示そうとしているのは武力だけではない。身内への厚い姿勢も、である。
捕虜の交換に応じることを決めたラヘルは、バルガに首輪の鍵を投げてよこした。
「これからも勉強教えてくれよな、姉ちゃん。見てろよ、どうせオレが勝つからさ」
「うん」
ウルザは微笑んだ。それはラヘルを許容するまっさらな微笑みで、ベミエラの、特に関わりの深かったヘラのことは胸に仕舞い込まれている。
ラヘルという人物よりも、その背景に嘆きの原因を見出す眼差し。バルガを傷つけ、ヘラを脅していることに目を瞑るふるまい。ラヘルはそれに接することで、ヘラに対する仕打ちを後悔するようになった。2人はよく語り合い、急速に仲を深めていった。
そうすることでウルザは、バルガの扱いについても能う限りの譲歩を引き出していった。彼の肌に傷跡がつくほど強かった噛みつきは、皮膚を割かない程度まで弱められ、飲まされる酒の量も徐々に減っていた。
「んで、すぐ出るのか?」
「歩けねぇ。明日一緒に連れてってくれ」
「望むところだよ。そのぶん、姉ちゃんに勉強教えてもらえるしな」
「うむ。今日は一区切りつくまで、ビシビシいくからね」
「ひー」
どこか嬉しげなラヘルの悲鳴。
満月の夜は2日後に迫っていたが、一騎打ちが行われるのは明日だ。バルガたちは無理に脱走するような冒険をせずに済んでいた。
○
カスケイドの屋敷で、ヘラは窓越しの夜空をぼんやりと見上げていた。
たったいま隣に座るアベルから、彼の呪いについて打ち明けられたところである。
「そうだったの」
「うん、今まで黙っててゴメン」
「いいのよ、もう」
ここ数日の間に色々なことがありすぎて、彼女は驚く気力もなくしていた。例えば明日、街にラヘルがやってくるのだが、軍勢を使わず一騎打ちでクロードと闘うのだという。自分が持ち帰った毒は強力だが、カスケイドによれば人を死なせるようなことはないという。
どれも、ヘラが思いもしなかったことばかりだ。
「でも、なぜ話してくれたの? どうして今になって?」
「……黙ってたのは、姉ちゃんに話しても仕方ない、と思ってたから」
なるほど、とヘラはすんなり納得した。
クロードを反乱に誘ったことも含め、自分の浅慮ぶりにヘラは呆れ返っている。よかれと思って絞った知恵は、街の役に立つどころか危険を招く場面さえあった。どれもこれも自分がアベルに執着するあまり、身の丈に合わない行動を起こそうとしたせいだ。もし呪いについて真実を告げられていても、きっと同じように余計なことをして周囲に迷惑をかけただろう。
「でもそれは違う、って思ったんだ。話す意味ならちゃんとある」
広い視野をもって考えるなら、理論や傾向を重視したほうがいい、とアベルは思う。姉に話さないことを奨めたカスケイドが間違っているとは思わない。
しかし予想もしない出来事はいつだって起こりうる。「もし」があと幾つか重なっていれば、街は根こそぎ滅んでいたと思うと、アベルは背筋が寒くなる。
「力を持たない人を軽んじていると、手痛いしっぺ返しをくらうこともあるんだ。もちろんそれを怖がってばかりもいられない。でも家族を信じなかったせいで……っていうのは、本当に痛いだろうな、って」
「……」
「ありがとう、姉ちゃん。いい姉ちゃんで居てくれて」
「いい姉ちゃん?」
虚ろだった目を、ヘラはさらに曇らせた。
「私、毒を盛るつもりだったわ。途中まで」
「うん。でも、ありがとう」
「……え?」
「こういうこと言うと、自惚れてるみたいだけど。迷うのは普通じゃないかな?」
「……」
「むしろ葛藤のない人って、僕はなんか信用できないな。何も考えてなさそうで、さ」
「……」
「いい人で居ようとしてくれて、ありがとう。姉ちゃん」
理屈ではなく、アベルの許容がヘラを救った。姉弟は寄り添いながら微笑みあった。
「向こうでも、体に気をつけてね」
「うん、すぐ帰って来るよ」
声変わりが始まったアベルの声を、ヘラは記憶に深く刻み込んだ。たまに掠れて低くなる声が愛おしかった。