ベミエラ編:6
樽と木箱を積んだ天幕付きの荷台に、バルガ達は放り込まれた。思わず悲鳴を上げたヘラに、ラヘルは騒ぐなと恫喝する。
ヘラはバルガを抱え、出入り口を塞ぐラヘルから目一杯距離を取った。暗闇に目を凝らしながら、上ずった声で名前や目的を尋ねる。
「いてて」
質問を黙殺し、ラヘルは指の間から流れる血を見た。どういうわけか冷たく感じられる傷口をなめようと、ざらついた舌を出したところで、蚊の鳴くような声が聞こえた。
「舐めない方がいいぜ」
「……」
ラヘルはぎくりとした。直後、左手が意志とは関係なくだらりと下がり、板張りの床をこする。しかしその感触は伝わってこない。
虫みたく這いつくばったバルガの、しかし小憎らしいほど平静な瞳を見据えながら、ラヘルは凄絶な笑みを浮かべた。
やられた。こんな、使い古された番狂わせの手法――毒、なんぞに。
「良くて肩まで、悪いと命までだ。手遅れになるまで、あまり時間はないぜ」
「で?」
「ヘラをクロードの元まで、無事に戻せ」
「……」
「薬の使い方は俺と彼女にしか解らない。困るんだよ……あの街には、治療の必要な人が大勢居る」
ヘラは黙って話を聞いている。
彼女にもおおよその事情は飲み込めていた。バルガを子供扱いする強さ、対魔の光が照らした燃えるような茜色の髪……噂のラヘルがバルガと、おまけで自分も攫いに来たらしい、と。ただ、理由までは解らない。
バルガは苦労して右手を上げ、そこに呪いの影を巻きつける。
「誓え。誓うなら解毒させてもらう」
「解ったよ……ヘラを戻すだけでいいんだな」
「ああ」
繋がれた手の間を、呪いの影が行き来した。ラヘルの右手首から聖印が消える。
バルガはごろりと横たわり、自分の鞄を探るようヘラに頼んだ。
すぐに彼女は白く小さな包紙を探り当て、バルガの顔を窺う。
「飲めば進行は止まる。あとは、よく水を飲め」
粉末入りの包紙をヘラから受け取り、中身を口にしたところで、ラヘルはニヤリと笑った。
荷物を抱えた強硬派の1人が、荷台を覗き込んでくる。彼の腕からバルガの太刀を毟るようにして奪い取り、ラヘルはこう言った。
「よし。今からする話を、おまえもそこで聞いてな」
そう言ってから太刀の柄を咥え、右手で鞘を抜き、刃を検める。
暗闇に光る獣の目が、刃の近くに掘られた溝を見つけた。腰から小さなナイフを抜き、先端で溝を穿ると、軟膏が採取できた。
それを空になった包紙で包んでいく。作業を終えたラヘルは、ヘラに笑いかけた。
「こいつをな。どんな手段を使ってもいい、クロードに盛れ。クラウスが来る前日に、だ」
「……何故?」
「クラウスの拉致を邪魔しそうだからさ。成功したら、弟の呪いも解いてやるぜ?」
弟の呪い、という言葉にヘラは心を動かされた。しかしそれを表には出さず、こう言ってのける。
「……。金貨1億枚でやってあげてもいいわよ?」
ハ、ハ、ハ、と吐息でラヘルが笑う。
「肝の据わったねーちゃんだな。……断るなら、残りをアベルってヤツに飲ませる。いつになろうと、必ず」
簡単に色を失ってしまったヘラの代わりに、バルガが答える。
「堅気を巻き込むのか。それに……こんな手段でクロードを倒しても、俺はあんたを認めないぞ」
「テメーが言えた義理かよ? あ?」
堅気、という言葉にラヘルは怯みかけたが、声にドスを効かせてごまかした。
この男にしろカスケイドにしろ、魔術師の外法に甘い顔をするわけにはいかない。それに帝国を倒すためなら、どんな手だって使ってやると決めたのだ。どうせ思いつく限りの悪事を働いたって、連中より汚くはなれっこない。
「魔術師への報復ってヤツだ。神話の中でも、だいたい毒とセットだぜ」
昔、魔術師が1人の戦士を毒で殺した。しかし殺された戦士の仲間に捕らわれ、自分が使った毒を少しずつ飲まされた末、苦しみながら死ぬことになった。
似たような話は幾つもあるが、周囲にまで害を及ぼす例は稀だ。しかしそれも見解次第だろう、自分が先に毒を用いたことは確かだ、とバルガは思った。
「これに懲りて、2度と小汚い真似はしないこったな……いや、後でじっくりと性根を叩きなおしてやるか」
「……」
「どうだい、ねーちゃん。乗るかい?」
ヘラは震えていた。
ラヘルの脅しは、彼女にとって誘惑ですらあった。この上ない言い訳まで用意され、もはや抗い難いほど強く心を掴まれる。
アベルを得るか、それとも失うか……そんな選択肢、迷いようがない。
「ヘラ」
「ひっ!?」
バルガに声を掛けられ、思わず悲鳴を上げる。
そんなヘラを慈しむように優しく、バルガは言った。
「クロードを信じろ。彼は、君とアベルを守ってくれる」
「いいや、無理だね。……盛らなかったら弟に飲ませる。必ずだ」
ヘラは何も言えない。ただ、ラヘルとバルガを見比べているだけだ。
ラヘルの軍はもはや国軍よりも大きい。いくら何でも、わずかな兵士を抱えるだけのクロードに勝ち目があるとは思えなかった。
「クロードを、信じろ」
そんなヘラの目を見ながら、バルガはただそう繰り返した。
一方でラヘルは、ヘラに毒入りの包紙を握らせてやった。彼女の狼狽を見れば、彼女がどちらを選ぶかは明白だと思った。
その後バルガはなんとか薬草に処置を施し、加工法の記されたメモを添えてヘラに託す。
「さ、外の男と一緒に宿へ帰りな。くれぐれも、今夜のことは内緒だぜ」
バルガを振り返って、泣きそうな顔をした後、ヘラは馬車から出て行った。
○
石畳の上を走っているせいで、荷台はガタガタとうるさく揺れている。
しかしラヘルは気にした様子もなく、左腕を揉みながら満足げにバルガを見ていた。彼の首には、先ほど着けられた魔封じの首輪がある。魔術の行使を阻害し、それをおして使おうとすれば甲高い騒音を立てる鉄製の首輪。教会も便利な物を作ってくれる、とラヘルは思った。
この男にどこまで通用するか解らないが、なに、逃がさないための秘策もある。
商隊を偽装するため馬車は3台ほど用意したが、連れている手下は10人程度である。この荷台に乗っているのは、ラヘルとバルガだけだ。
「しつこいようだけど、毒のことは認められない。しかしまあ、ハマるオレが間抜けってこともある」
「……」
「感謝するよ、バルガ。あんたのおかげで、オレはまた強くなれた」
産まれてこのかた、師以外の相手に負けたことがない。その師だってとうの昔に越えている。
だからどこかで慢心していたのだろう、外道への警戒にも緩みがあったのだ。だがもう油断しない。この経験が、自分をまた強くしたはずだ、とラヘルは思った。
「クラウスを攫った後、ベミエラに帰してやる。クロードが生きてたら治療してやりな」
バルガが薄く笑う。
「なに余裕こいてんのさ」
「余り心配してなくてな」
「ふーん。……毒の話、ハッタリだろ」
「お互い様だ。アベルに飲ませる気なんて、無いだろ」
「どうかな?」
2人は笑い合った。バルガの毒はチューゼンにも効く強力なものだが、命まで奪うことはない。痺れも数日で取れる。
「言うほどヤバイ毒なら、あんた、ヘラを帰さなかったはずだ……それにしても人が悪いよ、ヘラに教えてやらないなんて」
「教えれば、彼女の良心が鈍る」
「……」
「毒はクロードまで届かない。当日は心してかかるんだな」
言ったきり、バルガは静かになった。失神したらしい。
(……ま、いいか)
腰抜けのクロードなぞどうでもいいが、堅気の娘が人殺しにならなくて良かった。
「魔導ちゃーん。でておいでー。でないと――」
続きを言う前に、ウルザが姿を現した。目が据わっている。
「あっは。そんなニラむなよ、仲良くしようぜ。本隊まで丸1日は掛かるんだから」
「……」
つーん。と横を向いたまま、バルガに膝枕して額を優しく撫でる。
「あんたとそいつのこと、教えてよ」
「……」
「この国から出たことなくてさ。大人から話を聞くの好きなんだ……ていうか、あんたいくつ?」
「……この子よりずっと年上です。そう言うきみはいくつなの?」
「15」
ウルザは驚き、そして少し哀しげな顔をした。見た目は成人女性だが、ラヘルは獣人である。
それでいて心の成長は人間と同じ速さだ。彼女の過酷な運命をウルザは嘆いた。
「話せないこともいっぱいあるけど、いい?」
「いいよ。そういうのは、話したくなったらで」
揺れが小さくなった。馬車はデンタナから出て、街道に差し掛かったらしい。
車輪の音も土を踏むそれに変わり、2人の会話を邪魔することはなかった。
夜が、明け始めていた。
○
帰還した商隊からバルガの失踪を聞き、ベミエラは騒然となった。
報酬は期待出来ないと考え、この街を見限ったか――色濃い落胆に染まる人々を眺めながら、彼等と違う見解を持つ者が2人。
(何かあるな)
クロードはバルガへの心情から。
(何かあるわね)
カスケイドはバルガの目的を踏まえ、それぞれ隠された事情を考える。
しかしこの時点では、とりとめのない想像に過ぎなかった。
「クロード様」
商隊と、それを迎える人々で広場は込んでいる。が、頭1つ抜けて背が高いクロードを探すのは簡単だ。
ヘラは小走りで彼に近寄り、顔の上で困惑と微笑みを混ぜた。
「私がバルガの代わりをやります」
「ああ、そうしてくれるとありがたい」
兵士との会話を終えたクロードが、体ごと向き直ってヘラに応対する。
「あまり自信はないんですけど、彼のおかげで重病人も減ったから……ほら、彼、薬をちゃんと残してくれたんです」
「そうか……何か、彼に変わった様子はなかったか?」
「いえ、私たちも驚いたんです。向こうの宿で朝起きたら、もう、忽然と消えちゃってて」
すらすらと淀みなく嘘が出る。女優を諦めるのは早いかもしれないな、とヘラは思った。
一歩踏み出して、クロードの顔を覗き込む。彼はちょっと仰け反った。
「顔色悪いですよ、クロード様」
「な、なに?」
「また不摂生ですか? せっかく食べ物が増えてきたのに、線が細すぎですよ」
「むう」
あいまいな態度で無精髭を撫でる。しょうがないなあ、という苦笑いを浮かべ、ヘラはため息をついた。
「明日から、夜だけですけど。私がご飯を作ってあげます」
「そ、そうか? いやしかし……」
「大丈夫、なんとか都合をつけますから。その代わり、簡単なものですよ?」
「ああ、頼む。私が1日かけるよりずっといい食事になるだろうな」
「褒めすぎですよ」
笑顔で手を振って、クロードと別れた。
……これで、クラウスがやってくる前日、クロードの食事に毒を混ぜればいい。頭では理解できているが、なんだか実感が湧かない。
クロードが生きて、戦って……それだけで救える命がいくつもある。ヘラ自身の言葉だ。本当に、このまま彼に毒を盛ってもいいのだろうか?
足取りも重く、広場から家へと歩き出す。周囲はバルガやラヘルの話題で持ちきりだ。そんな中、ひっそりとヘラに追い縋って耳打ちをする男が1人。
「解ってんだろうな」
背後からのそれにヘラは顔をしかめ、エプロンドレスの前を強く握りしめた。裾の花柄が歪む。
「ラヘルが来ることも黙ってろ。もし喋ったらアベルだけじゃ済まさねえ……お前も殺す。産まれて来たことを後悔出来るやり方でな」
「解ってるわよ……いいから近づかないで」
恐怖心よりも嫌悪感が勝り、ヘラは吐き捨てるように呟いた。元より街の男などに怯えている訳ではない。
ラヘル……いまや国軍より大きくなった反乱軍の大将。ひょっとしたら、本当にクロードより強いかもしれない。
彼女にかかれば、自分や弟など蟻の子と変わらないだろう。
「あんたたち、クロード様がどうなってもいいわけ?」
「ずっと前から誘ってんだけどよ。乗ってこないんだからしょうがねえやな。帝国と戦うことはならん、なんて言いやがる。ありゃ負け犬になっちまったのさ」
「……そう。きっと誘い方が悪いのね」
「あん?」
「なんでもないわよ」
ヘラはさりげなく周囲を見渡す。こちらを注視している人はいない。
「ま、こっちにはラヘルがいるんだ。負け犬に用はねえよ。ここをどうにかした後は、いよいよ帝国とやりあうわけだ。なぁ、お前もラヘルのところに来いよ、俺達が悪いようには……」
男はなおも何か言おうとしていたが、近づいてくるアベルに気付き、何食わぬ顔で離れていった。
「姉ちゃん」
「……。ただいま、アベル」
ヘラは慈愛に満ちた笑顔を浮かべた。喧嘩をしていたのが遠い昔のように感じられる。
一方でアベルは肩透かしを食らっていた。街を出る前とは別人のような笑顔である。デンタナで一体なにがあったんだろう、と思った。
「……おかえり。疲れてるとこ悪いんだけど、ちょっと来てくれるかな?」
「どこへ?」
「カスケイドが姉ちゃんを呼んでるんだ」
アベルの息はやや弾んでいる。広場でバルガの失踪を聞いてすぐ、カスケイドの元へ走ったのだろう。まるで子犬ね、とヘラは思ったが、表情には出さなかった。
「家でごはんを食べましょ。それからでいいわね?」
「うん……なるべく早く、ね」
「お母さんの世話もしてからよ。あんた、ちゃんとしてたんでしょうね」
「したよ。気を使ったのか、ロクにトイレもしなかったけど」
「やだ、もう。あんたの方が気を使いなさいよ」
「ごめん」
ああ、昔通りの雰囲気だ。近所でも評判になるほど仲が良かったその頃を思い出し、自然にアベルの手を引いたが、振り払われる。
「恥ずかしいってば」
「……」
ヘラは頬を膨らませ、今度はアベルの肩を抱いて引きずっていく。
アベルは観念したようになすがままだった。
○
カスケイドは罪人の治療を依頼してきた。それを予見していたヘラは薬箱を持参しており、すぐに診察を始めることができた。
カスケイドの屋敷には蔵が3つあり、うち2つが病人の隔離所として使われている。一番厄介なのは、手足が黒ずんで動かなくなる病気なのだが、これは日光を浴びると症状が悪化するらしく、雨戸はずっと閉め切られている。
ヘラは三角巾を外して口を覆い、さらに目元、耳に薄く軟膏を塗っている。病気を退ける効果があるらしい。
「熱はいつからですか?」
「1週間くらい前からだ……」
「じゃあ、この薬はダメです。まずは風邪薬からですよ」
「ちょ、ちょっとまってくれよ、その赤い薬も飲まないと、お、俺の手足が……」
「赤い薬は負担が大きいの! 体力が落ちてるいま飲んだら、死ぬわよ!」
ランプで病人の手足を照らす。肘と膝まで黒く染まっているが、症状の進行を示す斑点はまだ見られない。
斑点はまず白く浮かび上がり、それが赤くなると手遅れだ。手足を切断しなければ命はない。しかし白い斑点すら出ていない彼が、命を危険に晒す必要はない、とヘラは判断した。
的確な判断こそが医者の務めだとバルガは言っていた。薬以外に対策がない病気だから、ヘラにできることは少ない。あとは当人の体力と運次第だ。
そしてやはり、魔境のすぐ傍まで行く罪人たちは病状も重かった。
「冤罪なんだよ、俺……」
「……」
「公金に手をつけたなんて、言いがかりなんだ。誰かが俺に罪を着せたんだよ」
「……」
「なあ、俺も遺言をカスケイドに預けてあるんだ……頼む、読んでくれ。せめて下の妹に、少しでもいいから、金を……」
「泣き言なんて聞きたくないわ。自分で何とかしなさいよ」
この人はまだ白い斑点だから、希望を捨てる必要はない。が、彼が生きて帝国に帰れるかは解らない。彼はこれからも魔物と戦い続けるのだから。
罪人であろうとも同じ人間だ、すすり泣く彼に幾らかは哀れみも感じる。しかし、ヘラに出来ることは診察だけだった。
初めはこの罪人たちが憎かった。彼らのために、隣人たちは飢えて死んだ、と思っていた。
だから今日カスケイドと話したとき、ヘラは嫌味を言ってやった。鉄と食べ物の次は薬か、と。バルガが戻ってくるか解らない今、薬はとても貴重だから。
するとカスケイドはこう言った。
「罪人もおまえたちと同じよ」
「……は?」
「鉄と食料と、薬。どう分配するか決めるのは、私。街から奪うものは、全て私が決めている。ゴーレムを上手く操るには経験がいるから、罪人を手厚く扱っているに過ぎないわ。少しでも長生きするように」
「……」
「なんなら、彼らと共に魔境の傍まで行ってみる?」
魔物が跋扈する森で聞いた、不気味な羽音を思い出す。ヘラは何も言い返せないまま、カスケイドを睨むしかなかった。
書斎の窓から夕日が差し込み、それを背にするカスケイドの姿は黒く染まっている。その中に炯々と浮かぶ黄金の瞳から、目を逸らさずに居るだけで精一杯だった。
「安心なさい。おまえたちから奪ったものを無駄にはしない。私にはそうすべき事情があるわ。この地に最後まで踏み留まるのは、この私に他ならない――おまえにもそれがわかるでしょう?」
アベルのため、この地に踏み留まっているおまえなら。
カスケイドの言葉が持つ意味は、今のヘラにとってこれだけではなかった。
そうだ、カスケイドはクラウスのためなら何でもする。アベルのため……私がラヘルから毒を受け取ったように。
「はぁ……」
カスケイドから逃げるように蔵へと入り、診察を終えて出る頃にはすっかり夜だった。トーチを借りて街路を歩く。
これから夜を徹し、街の患者を診て回るのだ。2日も診察の間を開けてはならなかった。
(私とカスケイドが、同じ……か)
あれほど憎んできた魔女と、同じ。いや、魔境の拡大を防いでいる彼女の方が、あのクロードを殺して逃げようとする自分よりずっとマシだろう。
自己嫌悪するとか、毒を捨てるとか、そうでなくともカスケイドに理解を示すとか……何か考えるべだと思ったが、ヘラにはできなかった。
(何も考えなくていい……私には、選ぶことなんてできないんだから)
彼女は頭を空っぽにして、診察に没頭した。
○
「あ。おかえり、姉ちゃん」
「……ただいま」
結局、翌朝陽が高くなるまでヘラは戻れなかった。
旅疲れに加えて徹夜の診察である。若い彼女も帰るなり座り込み、玄関の戸に寄りかかってしまった。
預かった薬草をまだ加工できていないのだが……いや、それは明日でいいか。少し横にならないと、処置を間違えそうなほど疲れている。
「姉ちゃん」
アベルの声に薄目を開ける。焼けたパンのいい香りがした。
「どうせ何も食べてないんだろ。寝る前に、これだけでもお腹に入れちゃえよ」
干物の肉と野菜をパンで挟んだものだ。手に取ると暖かい。
台所の机にアベルの書物が散乱している。それは帰ってきた時に見たが、竈で火は燃えていなかったはずだ。
戸に寄りかかったまま、少し眠ってしまったらしい。
「んんー」
干物の塩味がしみる。食べながら、傍でしゃがんでいるアベルに寄りかかった。
「運んで」
「え?」
「ベッドまで」
「……はあ。仰せのままに、お姫様」
「よろしい」
「――よっと」
「っひゃあ!?」
お姫様抱っこをされた。
後ろから抱えられる程度と思っていたので、驚いた。アベルは苦にする様子もなく寝室へ向かっていく。
「ドア開けて」
「う、うん……」
抱えられたまま戸を開きつつ、いつの間にか成長したんだなあ、とヘラは感慨深く思った。
ベッドにヘラを座らせた後、アベルは少し迷うような素振りを見せた。が、意を決してヘラの頭を抱く。
「おやすみ、姉ちゃん。この前はごめんね」
即頭部に触れたアベルのキスが、ヘラの疲れを吹き飛ばした。
「ちゃんと食べてから寝ろよ」
アベルは雨戸を閉めてから寝室を出ていった。それから暫くの間、ヘラの頬は緩みっぱなしだった。
一体なにをしていたんだろう。カスケイドに弟を奪われたような気分になって、彼にまで八つ当たりするなんて。無理にしがみ付かなくとも、彼は私のところへ戻ってくれたではないか。あとは呪いさえ解ければ、家族揃って街を出る日も遠くないだろう。
「……」
そうだ、アベルだって好きこのんで魔境の近くに居るわけじゃないはず。カスケイドへ情が移ってしまったのかもしれない、思えば彼女も哀れな人だから。
魔術で魅了されている、という線も無くはない。バルガに言わせれば、判断力を奪わず、しかも恒久的に好意を得るなんてまず不可能らしいが、それをやってのけるから大魔術師なのではないか?
将来の話になると、途端に歯切れが悪くなるアベルは、やはり正常な判断が出来ていないとも考えられる。バルガも戻ってくるか解らない、薬が尽きれば病気はまた蔓延するだろう。
いざとなれば、引きずってでもこの街から連れ出さなければ。
「すぅ……」
食事を終えて間もなく、ヘラは寝息を立て始めた。逃避に徹する彼女には、悪夢も追い縋ることはできなかった。
○
ヘラを寝室に送った後、アベルは母親の容態を確かめ、再び机に向かう。
既に投石器の設計はほぼ完了していて、残るは歯車を回し続ける動力だけだが、やはりこれが最も厄介だった。
思いつく気配は全くないのだが、カスケイドは既に木や石の部品を作り始めている。彼女の期待が大きな重圧となり、連日アベルを机に向かわせてきた。
家に戻らなかったのも発明に集中するためだ。家事とか、母親の世話とか、人々の自分を見る目とか……そんなことで集中を乱されたくなかったからだ。
「む……」
ガタガタと鍋の蓋が鳴り始める。湯が沸いたらしい、とアベルは思った。
バルガの勧めで、飲み水は沸かしてから冷ますようにした。街の水源は近くを通る川なのだが、この処置をするようになってから病気が減ったと評判だ。
母親がよくお湯を飲みたがるので、大きめの土鍋を作った。素人しては良く出来た、とくに口の滑らかさなどは惚れ惚れするほどだ、とアベルは自讃する。
合わせて薪の消費も増えたため、薪売りのオヤジと頻繁に会わねばならなくなり、それがアベルには苦痛だった。
彼はアベルのことが嫌いらしく、薪に湿気たものが混ざっていたこともある。
しかし母親の話をしてからは、そういうこともなくなった。
アベルやカスケイドを嫌う人は多い。しかし家での生活は、彼が想像していたほど困難でなかった。
姉が居ない時を見計らって、人が殴りこんできてもおかしくないと思っていたが、元兵士が隣に越して来てからは心配なくなった。クロードの手配である。
元兵士もアベルのことを嫌っていたが、それでも隣家を気にかけてくれる。
守るものは守る、例え嫌いでも、という気概がアベルの胸を打っていた。
僕は発明だけしていたい。だから発明だけさせろ、と以前は思っていた。
閃きが脳髄を刺す瞬間! あの瞬間ほど充実と幸福を強く感じるときはないし、実際この投石器が完成すれば街は救われるかもしれないのだ。
しかしアイデアが出ないなら只の穀潰しである。自分はカスケイドの支援があるからいいが、1人で母親の世話をしながら生計を立てていた姉の苦労を思うと、家にもっと戻ればよかったな、と今更ながらに思う。
気が強くとも所詮は女、鉱山では足手まといだ。すると農家の使い走りくらいしかこの街には仕事がない。
1日中、自分の時間なんてなかったはずだ。もっと早く気付くべきだった。
「ふぅ……」
次の季節にさしかかるころ、帝国に向けて旅立つ事が決まった。何も言わずに姿を消すことになるので、姉との関係はむしろ悪いままがいい、という言い訳もしていた。
だがそれは違う。カスケイドのことを悪く言われると、つい頭に血が上ってしまうが、今日のような優しい姉と接して思い出した。元々アベルも、姉が好きなのだ。
全てが終わって姉に会うとき、お互いに今この時を思い出したい、と彼は思う。
2,3発殴られたって、泣かれたっていい。刺々しい関係を、長い時間が凍らせたような再会をするよりはずっとましだ。
資料を読み終え、目頭を揉む。斜めに潰れた読みにくい字のせいで余計疲れた。
湯を沸かした際に発生する湯気で、歯車を回すという装置がかつて存在したらしいが、ざっと計算してみても装置が大きくなりすぎる。
――ガタガタガタガタ。
「うおっと……」
忘れていた。慌てて竈の火を弱める。
鍋の蓋を少しだけずらし、冷めるのを待つ。蓋をしたまま冷ましてしまうと、蓋が外れなくなるのだ。この失敗を姉に笑われたことがある。
解決するにはまた鍋を熱せばいいのだ、と得意げだった彼女に「どうして鍋を火にかけると、蓋が外れるの?」と聞くと「そんなの解るわけないでしょ」と怒られた。理不尽だった。
「うーん……」
空気や水を熱すると、大きくなるのかもしれない、とアベルは考えた。
でなければ密閉された管から噴出する湯気が、歯車を回すことはない、と。
次に彼は革袋を思い浮かべた。革袋の中に水や空気を入れて密封すると、乗っても潰れないほどに硬くなる。
硬くなる、のだ。こんなにも柔らかく感じられる空気と水が、状況次第では。カスケイドによれば、水の方が硬いらしいが。
「……ぷしゅー」
頬を膨らませ、両側から人差し指で突く。
とても口を閉じていられず、口から息が漏れた。空気の硬さを実感できる。
大量の湯気を吐き出しながらも、鍋の蓋がずっとガタガタ鳴り続けるのは、空気が口から尽きることなく漏れ続けるくらい、不思議なことではないか?
いや……そうじゃない。そこを考えても仕方ない。先人が既に見つけていることだ。理由はわからなくとも、そういうものだと。
(湯が冷めると、鍋の蓋が「開かなくなる」のはなぜ……? そっちの方が不思議な気がする)
大きくなったものが、小さくなって……え、どうしてそれが、蓋を抑え付ける理由になる?
(解らない……)
今度は水を口に含んで、頬を突いてみる。ぴゅー、と勢い良く水が飛び、竈周りの石床を濡らした。
「う、ふ、ふ、ふ……」
「!?」
笑い声に振り向くと、姉がニヤニヤしながら口に手をあて、こちらを見ている。
「なにやってんのよ、あんた……」
「ね、姉ちゃんこそ。寝なくていいの?」
「もう夕方よ」
驚いて外を見ると、いつの間にやら陽が傾いている。考え事に没頭すると、いつも時間を忘れてしまう。
「それじゃ、クロード様のご飯作ってくるから。留守番お願いね」
「うん」
最後に母親の様子をもう1度見て、ヘラは家を出た。