ベミエラ編:3
ベミエラ魔境の魔物たちを、何とか兵器の力で撃滅できないか。アベルは投石器の改良を軸にこの命題へ立ち向かっていた。
立ちはだかる壁は高く、分厚い。何しろ虫はいくらでも沸いて来るし、カーテンまでの距離は走って10分ほどもある。既存の投石器では射程距離が全然足りない。かといって生半可な発明では、かえってクロードやカスケイドの邪魔になるだろう。彼等の力は絶妙なバランスで戦場に作用しているのだ。
作るなら、彼等と肩を並べるほどの兵器、である。
「……」
カスケイドから兵器に関する本を山ほど借り、アベルは連日机に向かっていた。
ゴーレムの構造や火箱の設置法については戦いの度に改良が進むものの、投石器については足踏みが続いている。狙いは魔将だから弾丸は軽すぎてもいけない、その上であの距離を飛ばすなら人力では無理だろう。
何か新しい動力が必要なのだが、カスケイドに頼るわけにはいかない。さすがの彼女も投石器に魔力を回す余裕はないし、魔境率の問題もある。
動力、動力! 結局今日も同じところで思考が頓挫した。唸り声を上げながら頭をかきむしり、本を乱暴に閉じる。と、同時にノックの音がした。
「は、はい!」
「入るわよ」
カスケイドの屋敷の居間にアベルは寝泊りしている。
実家の母やヘラはノックなどしないのに、カスケイドが、あの彼女がノックをするのが妙に可笑しく感じられる。だが、彼女はそういう人なのだ。呪いの魔女などと言われているが、悪い噂ばかりが本当なのではない。
カスケイドは先を丸めた刺剣を2本持っていたので、これから何をするのかすぐに理解できた。
「今日は、どこでやりますか?」
「そうね」
カスケイドは少し考えた後、ここにしましょう、と言った。しめた、とアベルは思った。その感情を顔に出さないよう堪えるのに苦労した。
動力の実験を行っていた時に出来た失敗作を、ちょっと改良してこの部屋に仕込んである。だが自分からここでやろうと言い出せば、カスケイドが警戒する。毎度のように訓練の環境を変える彼女がここを選ぶのを待っていたのだ。
「……」
刺剣を構えた2人が、居間の中で向き合った。アベルは堪えきれずに少し笑ってしまった。カスケイドはそれに気付いたが、理由までは解らなかった。
○
カスケイド・クラリスホルム。
帝国の公認を受け、教会でさえ活動を黙認する大魔術師である。魔術師で名前を広く知られるのは、彼女のような超一流かよっぽどのマヌケだ。
いやいや彼女はその両方だろう、と嗤う声もある。子供を人質に取られ、帝国に顎で使われてきた彼女は、赴任先からは憎悪を、それ以外からは嘲笑まじりの憐れみを受けてきた。
「踏み込みが甘いわ。もっと大胆に」
「……」
両脇に腕をだらりと下げて立つカスケイドに対し、アベルは片膝をついてぜぇぜぇとやっている。師弟の力量差は歴然としていた。
今日はカスケイドの屋敷の居間が修練場に選ばれた。2人の間には普段アベルが寝ている簡素な寝椅子が置かれている。先代の領主が住んでいた頃は豪奢な屋敷だったが、金になる調度品は売り払ってしまったのでいまはがらんとしていた。しかし金にならないものはそれなりに残っていて、気を抜けば大怪我をしかねない。
「今日の魔境率はどうだった?」
「少し上がっていました……広場で30ほどです」
おもむろに右手をズボンの隠しに突っ込む。
「半月ほど前に、バルガという魔術師が来ましたよね」
言いながら、中に仕込んでおいた砂を掴みとった。それをカスケイドに浴びせながら突進する。右手の動きを注視していたカスケイドは、寝椅子越しに鳶色のマントを投げつけて砂を防いだ。
この場にない物を持ち込んで虚を突こうとする発想はいいが、起こりが見えては効果半減だ。両脇を通り過ぎていく砂煙を尻目にカスケイドはそう思ったが、轟音と共にマントを飛び越えてきたアベルの跳躍は予想を超えていた。
「はっ――」
カスケイドがとっさに刺剣を掲げた瞬間、残しておいた砂の目潰しが今度こそ彼女の顔を捉えた。宙返りをしながら、アベルはカスケイドの剣を薙ぎ払い、地面に落とす。
(やった!? 初めて1本――)
と、思ったのだが、着地と同時に組み付かれ、振り回された後に投げられ、形勢はあっさり逆転した。
「ぐっふぅ!?」
背中をおさえながら何とか机の下に隠れたが、追撃は無かった。おそるおそるカスケイドの方を見ると、なにやら寝椅子のあたりでごそごそとやっている。青白い肌に砂を貼り付けたまま、寝椅子に隠されていたアベルの「作品」を検分する表情が、もはや戦うときのそれではなくなっていた。
板と板で、さらに板を挟むような構造。間の板がS字型に曲がっていて、これがアベルの体を跳ね上げたのだと理解する。カスケイドは微笑みながらアベルを見た。そこに打算抜きの慈しみを見ているアベルは、尊敬する人に褒められる喜びで胸を満たす。
そしてこの慈しみこそ、彼女の本質なのだとアベルは信じていた。
鬼人は人間のように気を変換せずとも、体内で魔力が自然発生する。こうした天然魔術師とも呼べる性質が、彼等の長い寿命と高い知性に対する人間の嫉妬を正当化してきた。
咎と有能を混ぜ合わせると、俗物の大好物となる。そうした差別に晒されながらも人間を愛し、子を設けてしまったことが、彼女の抱える最大の咎だろう、とアベルは思う。
以来50年間、年に1度だけ家族――今は子供だけ――と面会し、無事を確認するためにカスケイドは全てを費やしてきた。クロード達に接する時のような鉄仮面を、被るのが50年遅かった。
(彼女は多くの人を死なせたかもしれないけど、好き好んで犠牲を増やすような人じゃない。全部子供を思ってのことなんだ。だいたい、姉ちゃん達に一体何が出来るって言うんだ。彼女が居なかったら、今ごろここは魔境に飲まれてるっていうのに――)
「バルガが、何?」
「え?」
背中の痛みも和らいだころ、カスケイドが机の下を覗き込んできた。話が途中だった事を思い出す。
「ええと、魔術を使って薬を作っているそうです。そのせいで少し魔境率が上がったのかな、と」
「毒性について、何か言っていた?」
「副作用は強いみたいですが、実際に病気は治っているそうです」
「……もし本当なら、珍しいわね」
基本的に、魔術とは人を害しうるものである。
人を手ごわい敵にしないためか、それともただ用意できないのか、真相は魔神たち自身にしか解らないが、彼らは純粋に人を助けるための魔術を作らない。
薬を作る魔術は「毒を作る魔術」を変化させたものだ。少なくとも、記録に残っている限りでは例外なく。
魔術をあつかう上で重要なのは、イメージの力だという。この才能には大きく分けて2つの方向性がある。
一方は魔術の規模を大きくする増強系、もう一方は魔術の性質を変化させる発展系だ。例えば矢を標的に誘導する魔術があったとすれば、増強系は矢の数を増やす方向へ、発展系はごく小さな矢に標的を尾行させるなど、魔術の効果にエクスキューズを加える方向へ力を発揮するという。
魔術は言葉に支配される。毒を作る魔術、と魔神が言ったなら、それに矛盾することはできない。バルガの薬も平たく言えば、毒だ。しかしたいていの薬がそうであるように、毒の効果を「加減」することで薬に変えているのだろう。そしてそんな精緻な管理ができるなら、発展系として一流と言えた。
カスケイドはどちらかと言えば増強系の魔術師で、一度に多くのゴーレムを管理できたりするが、毒を薬に変化させることはできない。だとしても、彼女が発展系に暗いとは言えない。
毒を作る魔術はメジャーだ。カスケイドも持っている。
しかし薬を作る魔術は稀であり、有益だ。その力を持っているだけで、教会に処刑されないほどに。
「どうしますか?」
「手紙を書くわ。折を見てクロードに届けなさい」
「はい」
「怪我をした?」
「いえ、大丈夫です」
「そう。では、居間の掃除をしておくように」
「……はい」
そう言い残して、カスケイドは部屋を出て行った。
床やテーブルはもちろん、食器棚の中にまで細かい砂が入り込んでいる。
「……掃除の事は考えてなかった」
○
カスケイドはアベルに特別な才能を見出しており、彼の教育に力を注いでいる。
もちろん、タダでそんな事をするほど酔狂では「なかった」。全ては息子・クラウスを救い出すため「だった」。
時期が来たらアベルを帝国に送り、あの徹底した実力社会の中で成り上がらせる。そしてクラウスを確保するまで、彼は休むことなく地位を高めなければならない。
それを諦めた時、彼は死ぬ。――彼にかけた呪いは特別製なのだ。
「……」
カスケイドは蔵書の管理を行っていた。いつ、何を、どのような順番でアベルに読ませるか。そうした計画は一月先まで見越して組まれている。アベルの知識欲は強いので、今度の計画も前倒しが相次ぐだろう。
最近彼も自信が付いてきたのか「いつごろ出発すべきですか?」と帝国行きを催促してくる。彼自身、同意の上で呪いを受け入れ、その代償としてカスケイドに知識を乞うたのだ。アベルは呪いの有無に関わらず、帝国で成り上がる野心を持っている。このような街で育った分、それは強いのかもしれない。
だが催促を受けるたび、まだ教えることがあると引き止めてきた。
それは事実だ。いかに彼が天才とはいえ、自分も伊達に年長者ではない。剣に知識に、魔力の練り方にと教えることは山ほどある。呪令が邪魔になる魔術はともかくとして、隠蔽と探知くらいは覚えねば魔術師のいいようにされてしまう。
一方で彼と出会った頃の自分なら、既に送り出しているのではないか、とも思う。万全を期すという理由付けの中にある、アベルと離れ難いという気持ちにカスケイドは気付いていた。
失敗が怖い。クラウスを取り戻せない事に加え、政争の末にアベルが死ぬことを想像すると、怖い。
「はぁ……」
100年以上も生きてきたのに、自分の胸の内さえ思うようにならないとは。ただクラウスのためだけに生きる、と心に決めたはずなのに。
書斎の椅子に腰掛け、項垂れ、片手で髪を掴むようにして頭を抱えた。
○
街にやって来た新しい魔術師・バルガと個人的に面会したいという主旨の手紙を、カスケイドは2度に渡ってクロードへ出したのだが、2度とも拒否されていた。
市民のカスケイドに対する感情を考えれば、密室でバルガと面会させるのは得策でない。彼にまでよけいな不信感が移ってしまうからだ。せっかく人や畑の病気が好転し始めたのに、いまバルガと市民の間に溝を作れば、治療が止まってしまうかもしれない。
「というわけで、今日まで待ってもらったのだ」
「そう」
半月に1度、広場で行われる人質との面会にバルガも出席していた。カスケイドはクロードの言葉に生返事を返しつつ、バルガに視線を注いでいる。
両陣営の間にいる人質達の健康状態は改善していた。食事が彼等にまで行き渡ったからだ。前回は地に伏して動けないほど痩せ細っていた童女が、面会に来た母親の顔を見て笑っている。
クロード達は要求された鉄に加え、十分な食料をカスケイドに提供していた。
「どうやって食料を確保したのかしら。余力はなかったはずね」
「聖灯を担保に金を借りた」
「……これ以上あれを減らせば、魔境の拡大を防げなくなるわ」
「機会を作って、こちらの病人を見にくるといい。早い者はもう病気が治って鉱山へ入っている。返すアテは十分あるさ」
「……」
「そちらにも病人が居たはずだな、カスケイド」
「ええ」
「バルガに診てもらえ。助かるかもしれん。ただし、治療の場所はこの広場だ」
黒いローブが一歩前に出て、恭しく一礼する。
前の男2人を交互に見ながら、ヘラは焦って口を開いた。
「ちょっとクロード様、タダでそんなことする必要ないわ。……こっちも何かしてもらいましょうよ、例えば、人質の開放とか」
「ヘラとやら」
クロードが何か言う前に、カスケイドが答える。
「人質を監禁しているのは、私が使う鉄と食料を確保するためよ。街がこの2つを十分に供給できるなら、人質を家に帰してもいいわ。ただし……」
「……」
「彼らの呪いを解く事はない。アベルを念頭に置いているのなら、諦めなさい」
この言葉にヘラは激昂した。
「この――変態ババア! そんな子供を呪いで繋ぎとめて、一体何が楽しいっていうのよ!!」
「よせ、ヘラ!」
噛み付かんばかりの剣幕で駆け出したヘラを、クロードが押し留める。
暴挙は未遂に終わったが、萎えない激情の矛先はアベルへと向けられた。
「アベル……あんた」
「……」
「その女の小間使いで一生を終えていいの? どうしちゃったのよ、一体。いつか一国一城の主になるんだって言ってたじゃない。それなのに……あんまりよ。姉ちゃん、あんたのことが解らないよ」
アベルはただ拳を握り締めうつむいていた。耳を塞いで、悲しげな声が刺さってくるのを防ぎたいくらいだった。
クラウスを開放しなければならない、という条件付けは出世をする上でハンデになる。それをライバルに知られてしまえばなおさらだ。アベルは自分にかかる呪いが他と違うことを口外するつもりはなかった。
女の口に戸は立てられない、というカスケイドの助言を彼は覚えている。そして何より、話してもメリットがないことを知っている。メリットをもたらすだけの力がヘラにはないのだ。そうしたアベルの判断と忍耐を見て、カスケイドは満足げに小さく頷いた。
「2つ提案が」
場に降りかけた沈黙を、さらに1歩進み出たバルガが破る。
「言ってみなさい」
「ご配下の病気を治す代わりに、手空きの人を鉱山へ派遣してください。人手は全く足りていないので」
「言われるまでもないことだわ」
「そうですか。では2つめ。カスケイドさんと談合したいことがあります。2人きりで」
クロードをはじめとしたベミエラ側の人間が、一斉にバルガを見た。
「ちょっとすみません」
彼らに配慮し、バルガはクロードと話し始める。
「信用してくれ、頼む」
「……私は反対だ。いまは皆の治療に専念して欲しい」
「君とヘラのおかげで、私の魔術が有為だと皆が解ってくれた。少し不審に思われたって、利用しに来てくれるさ」
「……」
ベミエラの人々にも聞こえる音量で、クロードはこう言った。
「元より、君たち2人ともが密談する気なら、私達に阻む術はないのだ。――信じるぞ、バルガ」
「ありがとう。ではカスケイドさん、折を見て伺います」
人質との面会はこれで終わりとなった。
カスケイドとバルガの面会について、ベミエラの代表達はいい顔をしなかったが、クロードの決断を尊重する構えを見せた。せっかく築いた信用を失うのは残念だったが、ヘラの眼差しだけはクロードのそれに近く、バルガをおおいに慰めた。
『カスケイドってさ、あのカスケイドだよね』
『ああ』
『それで、カスケイドはあの子――アベルにご執心』
『……ああ』
アベルは幼い頃から群を抜いて賢く、カスケイドが兵器や戦術について助言を求めるほどらしい。
『じゃあきっと、アベルがドレンの代わりだね?』
『恐らくな。……その話も含めて、魔人の件をカスケイドに明かす。今夜だ』
『今夜は、満月だもんね』
『……』
『わたし、満月の夜が大好き。君と一緒の時間が大好きだから』
『そうかい』
人の気も知らないでいい気なもんだ。朝日に手を翳しながらバルガはそう思った。
今宵は、満月である。
○
夜。カスケイドの書斎に通されたバルガは、開口一番にこう言った。
「ドレンという魔術師をご存知ですね? クラウスさんを解放するため、貴女が帝国へ差し向けた」
「知らないわ」
カスケイドは眉一つ動かさずに言ってのけた。だが内心は激しく動揺している。
アベルと同じ、カスケイドにとっての希望――何年も便りがないために気を揉んでいたが、まさか、彼に何かあったのか?
「彼は亡くなりました。私と彼でお互いの魔導を奪い合い、私が勝った」
「……」
「もちろん彼は秘密を喋りませんでしたが、彼の連れていた魔導が貴女の呪いのことを知っていた。出世意欲の強い若者にとって、貴女の知識と経験はとても魅力的でしょうからね。アベルもそれで釣り上げましたか」
「帝国で地位を高め続ける」がアベルとドレンに課せられた呪令であり、解消条件は「クラウスの開放」になる。クラウスの身を案じたために、彼の解放を直接命令しなかった。無理に奪うよりも、出世という正当な手続きを踏むのが安全である。
そして呪いの魔女とはいえ、1つの命にかけられる呪いは2つまで。魔導は新魔術の練成禁止や人間を呪う義務、契約者の許しがなければ彼らと離別できないなど、誕生した瞬間から魔神の呪いを幾つも抱えている。彼らに呪いをかけ、秘密を守らせるのは不可能だ。
バルガの言葉が当てずっぽうでないと確信できたので、カスケイドはゆっくりと憎悪に顔を歪めた。ドレンから魔導を奪わなかった後悔よりも、彼を悼む気持ちのほうが強かった。
ドレン。彼もまた、かわいい私の教え子だったのに。
「だから何。私を愚弄しにきたか」
「ご安心を。私はこの件を外に洩らしていません。ドレン以外に「あなたの弟子」が居なければ、秘密は守られているはず」
「……」
「それで相談なんですが、我々の側にも洩らしたくない秘密が出来ました。それを貴女と共有したい。代わりに、私もアベル君の秘密を守ります」
バルガが腕を出すと、そこへ巻きつくように禍々しい影が浮かび上がった。カスケイドが薄く笑う。
「呪いか。その歳で宿式魔術まで扱うとは、ぜひ出自を伺いたいものね。それと、呪令の苦労話も」
「ご勘弁を」
カスケイドもバルガに倣い、アベルを阻んではならない、と命じる呪いを腕に宿した。
宿式魔術とは魔術形式の一種で、傾向的に最も会得が難しい魔術とされている。別名を宿命魔術という。
新しい宿命を物や生き物に課したりする業は魔導を作る際にも使われるため、扱う者はもはや魔神の域に入っているとも言われる。
「私が守るべき、おまえたちの秘密とは?」
「私が魔人であること」
カスケイドは驚きに目を見開いた。既に触れ合っている2人の指を呪いの影が伝っていく。
契約は完了した。するとバルガの隣に、風景から滲み出るようにして魔導ウルザが姿を現した。
「はじめまして、カスケイド」
微笑むウルザをカスケイドは凝視する。しかし華奢な体をいくら検分したところで、彼女が喰らってきた魔導の数など解らない。
他の魔道を吸収し、魂が大きくなった魔導は、ある魔術を契約者にもたらすようになる。
契約者の命を担保にして、彼らを魔界へ招待する魔術。
「魔人転生……」
ウルザが軽く腕をふるった。するとバルガの眼前に白い本が現れた。
一つ大きく息をついて、バルガは手首を握る。握った場所から勢い良く血が噴き出し、それは残らず眼前の本へと吸い込まれていく。
下から4分の1ほどまで表紙を赤く染めたその本を、ふわりと体を浮かせたウルザが掴み、そのままバルガの首を背後から抱く。
鎖を引きずるような音を立てながら、白の文字列が二人を包み、繭のようになった。
大魔術師も初めて見る魔術、魔人転生。これを扱うには、100を超える魔導を集めねばならないはずだ。カスケイドでさえ、100年かけて集めた魔導は50程度である。
(この小僧、さぞ長く続いた魔術師の系譜を背負っているに違いない)
繭はやがて人型へと姿を変え、黒と銀に色別れした。銀の部分は鎧となり、露出するのっぺりとした手足が黒である。頭部を首まで全て覆う兜は顔がなく、文字がのたくって作る模様が鎧兜を覆う様は、挑戦的な芸術のように見える。
魔導と同化し、諸共に1つの半魔と化す魔術。人と魔の狭間にある彼らは「魔人」と呼ばれてきた。人間としての意識を保ったまま魔境に入れる唯一の存在で、魔境を直接攻撃できるが、力を振るい過ぎると完全に魔導と同化してしまい人間に戻れなくなる。
そういう伝説が残っているだけで、もはや魔人を生み出せるような魔術師の系譜は絶えたはずだった。
誉れ高き銀剣十字騎士団が、魔人の存在だけは決して認めなかったからだ。
【満月の夜を迎えるたび、私は魔人に変身しなければならない】
「いま血を吸われていたわね。理由は?」
【それをご説明する前に……せっかくだから魔境へ入りませんか。奥の様子を見たことが無ければ、露払いくらいは出来るかもしれません】
魔人バルガが自らの魔力を隠蔽した。すると地面に落ちた影以外、彼の姿は見えなくなった。
影は窓から外へ出て行った。宣言通りカーテンを潜りに行くのだろう。
「……」
カスケイドは椅子に腰掛けて瞑目し、精神を集中させる。間もなく屋敷の倉で、2体のゴーレムが動き出した。
○
紫のカーテンは分厚く、人の足なら抜けるまでに5分ほどかかる。
木箱を設置するゾンビとそれを阻む虫の間で小競り合いは起きていたが、虫を片付けても加勢は来ず、それ以上の邪魔は入らなかった。
カーテンを抜けた先は魔界と言って差し支えない。灰色の空に真っ黒い満月と星々らしき点が浮かんでいるのは見えるのに、足元はあくまで夜の暗さだ。地平線がうごめいているように見えるのは、いま足に巻きついてきた草のような植物たちが、その禍々しい姿をくねらせているからだろうか。踏み千切りながら草原を進んでいくと、やがて虫の這う音が幾重にも重なって聞こえてきた。それはどんどん大きくなっていく。
バルガは腕からウルザの鎖を伸ばし、カスケイドのゴーレムに巻きつけた。
【解けない様に巻き付け。……飛びますよ】
そう言ってゴーレムを空まで釣り上げる。
『……』
ゴーレムの眼を通して、カスケイドは草原を見下ろした。そこを埋め尽くす虫達の真っ赤にギラついた目がこちらを見上げている。
バルガは右手の鎖を胴に移し、灰色の空を指差した。するとはるか頭上に巨大な魔方陣が現れ、そこから紫の火の雨が虫たちへ降り注ぐ。草にも燃え移り広がっていくその火は煙を出さないので、虫達の死骸から立ち上る白い光が良く見えた。
バルガの手に本が現れ、開き、白紙のページに虫達の魂が吸い込まれていく。ぱらぱらと勢い良くページが進み、みるみるうちに白紙が文字で埋め尽くされていった。
『それは、何をしているの?』
【生き物の魂を集めています。この文字を読むことは出来ませんが、鎖の材料にはなります。便利な分だけ手が掛かる、ということです】
『……』
【ところで……ゴーレムの腕についているそれは】
『連射式の弓よ』
カスケイドのゴーレムが地面へ腕を向ける。すると5つの風切音がして、枝の先に付いた目玉をこちらに向けていた木が苦悶に幹をよじった。
弓が組み込まれた箱のようなものにはレバーが取り付けられていて、それを引くと弦が一斉に引き絞られる。ゴーレムはそこへ器用に矢をはめていった。
【お、おお……】
『感情の読めない顔だこと』
【驚いたんですよ】
『そう。そこまで魔導を育てたのは立派だけれど……ふ、いくら魂が大きくても、こうした知恵は沸いてこないものよね』
自慢げにカスケイドが言う。
バルガが驚いたのはむしろゴーレムの器用さなのだが、確かに弓の発想も素晴らしい。
【それは貴女が?】
『いいえ、アベルよ』
【……なるほど、有能です】
『ところで、魔人転生のことだけれど――』
【それは、戻ってからお話します……あ、谷が見えてきましたよ】
闇色の地面に浮かぶ赤い点の群れが、ある地点から絶壁を下るように地中へと降りていく。谷底に居る虫が見えないほど、深くまで。
『ゴーレムの頭を外して、鎖で谷へ下ろしなさい』
【解りました】
言われるままにゴーレムの頭部を外すと、中に詰まっているのは土嚢だった。カスケイドたちも涙ぐましい努力をしている、とバルガは思った。
鎖で小さな籠を作り、その中にゴーレムの頭部を吊るす。発光する籠へ虫たちが飛び掛ってくるが、鎖に触れた瞬間、紫色の炎に巻かれて落ちていく。
【視界はどうですか】
『問題ないわ。このまま進みなさい』
谷の中をゴーレムの首が進んでいく。
『魔境率はどのくらい?』
【……2000強です】
『思ったよりマシね。そのうち全て焼き払ってやるわ』
カスケイドが鼻で笑う。全ての魔物を今すぐ駆逐したとして、ここが人類の領土として復帰するまで30年ほど。
――30年。もちろん現実にはそれ以上かかるだろう。バルガからすれば取り返しのつかない年月だが、人の10倍以上も寿命がある鬼人の意見は違うのかもしれない。
【アベル君がクラウスさんを奪還したら、貴女はどうされますか】
『おまえの知ったことではない』
【せめて、この魔境だけは鎮静してくださいませんか】
『私の知った事ではない――というより、おまえ次第ではなくて?』
【……】
『おまえとクロードと、私が力をあわせれば、魔将を倒せるわ』
【…………】
『ただしそれには密な連携が必要――お前が魔人であることを、クロードは知っている?』
【いえ】
『では考えなさい、魔人のバルガ。クロードに秘密を守らせる方法を』
短い沈黙の後、カスケイドの視界に変化があった。
『居た』
【地獄の大花ですか?】
『ええ……何を、しているのかしら』
谷底に蹲り、なにやらうごめいている大花の様子を、その巨体を這いまわる赤点が伝えてくる。
『バルガ、もっと灯りを――』
カスケイドが言った瞬間、籠に触手が絡み付いてきた。他の虫とは一味違い、炎に怯む様子も見せず籠を引き、空を飛ぶバルガをよろめかせる。
『それはもういい! もう1つをあそこまで投げなさい!』
バルガは籠を放棄し、もう1つのゴーレムの頭を取り外し、炎をつけて大花の足元まで投げる。
『……』
【……】
『……横穴を掘っている……?』
言葉の途中で、カスケイドはゴーレムの視界を失った。
『十分よ。引きなさい』
空まで伸びてくる触手をかわし、バルガはカーテンまで引き返す。
【横穴?】
『ええ、方角からして街の地下を目指している。そういえば谷が魔境の中心だけあって、地中の虫が変じたような魔物が多い。もっと早くに気付くべきだったわ』
【下からですか。それも恐らくは、街の真下から】
クリーム色の街路や赤いレンガ造りの家々を地中から引き壊し、あの虫どもがベミエラの街を這う様子を想像して、バルガは心の中で舌打ちをした。
『街にクロードを残すほかないわ。そうなると……あれを倒すにはもう1枚カードが必要ね』
【……】
バルガは何の妙案も思いつかないまま、ただ飛んでいるしかなかった。
『カーテンの手前でゴーレムを下ろしなさい。街の方を向かせること』
【……はい】