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序章

 魔術を宿した弓矢で、悪人を殺してまわる人物がいる。

 貧しいヴィルヘイム王国を巡り、世間に痛快な喜びを振りまいてきたこの噂は、徐々に怪物めいたものへ変わりつつあった。かつて交易都市として栄えたここデンタナでも、矢傷の死体が見つかるたび、悪人が死んだと喜ぶものが大勢いる。

 しかし彼らの多くは、死人の顔や名前さえ知らない。


「親分、頼むから馬車に入ってくださいよ」

「なンだおめー、俺が悪人だってのか?」


 商売がたきを殺すのは、少なくとも善人ではないだろう、と子分は思う。

 昼の通りには人が溢れているが、矢を意のままに操るという敵の前では壁にもならない。馬にまたがる親分はいい的だった。


「だけどおめー、殺されてるのは帝国人なンだろ? じゃ、その殺し屋と俺らは仲間みてーなもんじゃねえか?」

「そうは言いますけど、例の弓使いには汚い噂もあるんですよ。殺しに節操なんざなくて、タダの目立ちたがり屋だってね」


 ヴィルヘイムがハスター帝国に敗れ、属国と化してから5年。帝国の搾取は休むことなく続いている。街にやってきては優遇の利を振るう帝国人に対し、ヴィルヘイム人たちはしばしば制裁を恐れず血の報復をしてきた。それに対抗して帝国人も護衛を雇うようになり、領内ではいま「ごろつき」が人気商売になっている。


「俺ぁな、例の弓使いはヴィルヘイム人だと思ってる。やつも帝国人が許せねぇのさ」

「はぁ……」

「哀れな貧乏人を嵌めて、その女房子供をさらっていく連中なんざぁ生かしておく価値はねえ。なあ?」

「……」

「確かに最近じゃ、金ずくで帝国人に付くやくざ連中も増えた。だが俺達は違ぇ。こそこそする理由なんざねえ、堂々と道を歩けばいいんだ」


 なるほど、道行く人の中には親分へ目礼したり、いつかの礼を言ったりするのが確かにいる。だがそれらは貧乏人ばかりだ。それも靴さえ満足に用意できないほど、どうしようもない貧乏人。

 子分はため息をついて周囲を見回した。汚い木組みの家や、路上に布を広げただけの物売りたちを見ていると、惨めさと焦りが胸を突いてくる。自分も彼らと同じで所詮は貧困区の住人なのだ。雨が降ると家の中には泥の川が出来るし、夏場になると悪臭のせいで眠れない日もある。この稼業についてから危ない橋をいくつも渡ったが、その生活が変わる気配はない。


 実のところ、もっと割のいい仕事をくれる旦那に心当たりがある。

 親分の目を盗んで彼の家を訪ねたとき、家中に漂ういい香りに驚かされた。なんでも焚くと香りを出す草があるらしい。

 多くの部屋があり、どれもが広いのはもちろんだが、石張りレンガ張りから紙張りまで内装も様々、見たこともない調度品たちの中を歩くだけで世界中を旅しているような気分になった。白い砂を敷き詰めた、靴を脱がないと入れない間などもあった。 

 あれが帝国式、というやつだろう。他国の文化を吸収し、良い所を盗んで広めるやり方だ。侵略を受けて5年、この街の外観にも他国の文化が現れている。


 何もあの旦那のように、などと高望みはしない。値の張りそうな小物や食器もいらない。肌色のそれぞれ違う、煽情的な仕着せの召使いもいらない。雨風をしっかり凌げる暖かい家があって、帰りを待っている女が居て……子分が欲しいのはそういう暮らしだ。


 もちろん帝国人に恨みの1つや2つはあるが、家族も手前で取り返せない腰抜けのためにカタギをやめたわけではない。親分の事は嫌いじゃないが、金は欲しい。いい加減、ここにも見切りをつけようか?


「……あ?」


 そんなことを考えながら何気なく後ろを振り返った瞬間、ボロ屋の屋根から何かが飛び立つのを見た。はじめは鳥かと思った。

 しかし直後、真上から降ってきた矢が親分の肩に突き刺さり、そのまま地中へ潜る虫のように蠕動する。


「――――――」

「親分!?」


 白目を剥いて、親分が落馬する。

 子分が泡を食って駆け寄ると、矢が羽の部分まで深々と埋まっているのが見えた。既に死んでいるのは明らかだった。


「野郎! あのボロ屋だ! 例の弓使いだ、逃がすんじゃねえ!」


 子分が指さす先で白い覆面をした男が起き上がり、屋根伝いに別の路地へと降りていった。


「茶塗りの小さい弓を持ってたぞ! 背中に山吹色のでかい袋だ! 探せ! 追え!」


 ようやく騒然とし始めた人込みを、子分たちがかき分けていく。



 薄暗い路地裏で、噂の弓使いが荒い呼吸をなだめている。

 周囲を見回して人気がない事を確かめ、背負った山吹色の袋からあずき色の袋を取り出し、そこに覆面と弓を仕舞った。

 勘のいい男が居たせいで危ない所だった。いや、仕事のやり方が危なくなっているのかもしれない、とカルロスは自省する。

 殺しなど、白昼堂々とやるものではない。


『俺が言う事でもないけどよ』


 頭の中へ直接響く声に、カルロスは動き出していた足を止めた。


『今のは俺の力を使わなくてもやれたんじゃねぇか。アンタなら』


 念話で語りかけてくるのは、袋の中にある弓である。

 弓の腕には自信がある。しかしこの魔弓を手にしてからは、ギリギリのところで自分の腕を信じられなくなってしまった。


『魔術は魔物を呼ぶ。ほどほどにしねーと、故郷を追い出された時みたいになるぜ』

『……黙れ』


 カルロスは足早に通りを渡っていった。



 バルガは冒険者として、商人ネリスの一行を護衛している。雇い賃は安かったが、途中まで目的地が同じだったので引き受けた。


「ご苦労だったねェ、バルガさん」


 1週間の行程を無事踏破し、交易都市デンタナに辿り着いたネリスが、機嫌良くバルガに話しかけた。


「こちらこそ。馬車のおかげでラクな旅をさせてもらいました」

「言うなぁ! 魔物をあれだけぶった斬るのが、歩くよりラクときたもんだ!」

「……」

「ん? でも旅ってことは……君、目的地があるのかい」

「ええ、この先のベミエラです」

「……なんだ。あたしらの護衛は「ついで」だったのかい」


 商売上手だね、君。と言わんばかりの不敵な笑みに、バルガは苦笑いで応じる。

 先の敗戦から立ち直れないヴィルヘイム王国の治安は日を追うごとに悪くなっていて、街道にさえ魔物や賊が頻出する有様だ。道中に入るそうした邪魔はほぼ全てバルガに処理させ、ネリスは多くの配下に囲まれながら見ているだけだった。

 ベミエラへ行く事を黙っていた事はしたたかと言われて当然だが、報酬の額を考えれば働きすぎたくらいだ、と思う。

 おまけにネリスの配下と来たら、ごろつきを拾ってきたような人相の悪い連中ばかりで、自分の錆びかけた長剣と、バルガの持つ黒塗りの太刀を見比べて珍しそうにしたり、触らせて欲しい者も居たので、荷物の扱いには常に気を配っておかねばならなかった。


「でも、ベミエラかい。あそこは今魔境に接してるという話だが。まさか中の魔物を斬り倒しにいくのかい?」

「ご冗談を。生きたまま魔境に入れる人間がいるなら、お目にかかりたいものです。……ベミエラは魔境だけでなく、病にも侵されているそうですよ。人だけでなく、家畜や作物も。私はその治療に行くのです」

「え! 君、医者もやれるのかい?」

「まだまだ未熟ですが」


 初対面、魔物との戦い、そして医者もやれると言った今。値踏みの視線を受けるのはこれで3度目である。

 背が低く小太りのネリスだが、赤地に花柄の派手な前合わせを、金の刺繍が入った白帯で締めた装いが、雑踏の中から彼を引き立てている。

 それに相応しい力のある商人らしく、積み荷とそれを降ろす配下の数も膨大だ。


「今日はこの街に泊まるんだろ?あたしと同じ宿にしないかい?」


 友好的な声色で言いながら、バルガの黒いローブに手を触れてくる。瞬間、ローブの中から「シャー!」と威嚇するような鳴き声がした。


「この中に居るかわい子ちゃんも……1度も触らせてくれなかったからねェ、今日こそは」


 バルガが連れている白く小さなイタチめいた動物に、ネリスは強い関心を示していた。炎めいた黒い模様と翡翠色の瞳を持つ彼女の珍しさが、ネリスの商魂を刺激するのだろう。……べたべたと触ってくる彼の手首をバルガが掴んだ。


「あまりしつこくすると、噛まれますよ」


 視線がぶつかり合うこと数秒、不意にネリスが笑う。


「そうか残念だなー。でも同じ宿に泊まるのはいいだろ?」

「さぁ……その前にちょっと街を見物しようと思います」

「きっとおいでよ!」


 そう言ってネリスは配下の元へ歩いてく。


 視線がぶつかった時、自身の感情を計られているのをバルガは感じた。ネリスはそれを隠そうともしなかった。

 使えそうな人材を見つけたら、まずどれだけ付け入り易い人物かを調べる。そのやり方の傲慢さからネリスがハスター帝国人であることを思い出した。戦勝国民としての優位な立場が彼をそのように変え、哀れなヴィルヘイムから財を奪わせているのかもしれない。


「……」


 荷を降ろしきったネリスの馬車に、今度は手枷をはめた子供達が積まれていく。泣き腫らした少女の目がバルガを捉えた。敗けた国に生まれた不幸は、幼い子供をも容赦なく刈り取ってしまう。


 その光景に背を向け、バルガは雑踏の中に入る。

 ずっと柔和だった彼の表情に、初めて渋みのようなものがよぎった。



 結局ネリスとは別の宿に入り、中でも奥まった個室をバルガは選んだ。

 それなりに値は張ったが、二人きりの時間をできるだけ作る、という連れとの約束がある。どの街に泊まる時も、彼はそうした部屋を選ぶ。


『出て来てもいい?』

『いいよ』


 頭の中へ直接響く声に、バルガも同じく念話で応じる。

 すると黒いローブの裾から、件の「かわい子ちゃん」が走り出てきた。その姿が霞のように掻き消えたかと思うと、代わりに華奢な少女が姿を現す。

 変身。しかもその前後で大きさや形が全く違う。このような場面を人に見られれば、高位の魔術と見なされ街中が騒然とするだろう。加えて少女の容姿にも隠されるべき理由があった。

 時代がかった膝丈の巻き垂れ布を纏っていることや、髪から睫毛まで毛という毛が白い事はまだごまかしが効くとしても、所どころ印が刻まれた濃い褐色の肌や、人間離れして長い耳は人目を引くだけでは済まない場合もある。

 そうした物珍しさが霞むほどに少女は美しく、治安の悪い地域ではトラブルの元だ。ネリスなどがこの姿を見れば、手枷をはめる為に配下をけしかけたかもしれない。


「ねぇ。あの話、考えてくれた?」


 少女――ウルザはバルガの脇に座り、彼の横顔を覗き込む。

 長く豊かな睫毛に挟まれた翡翠色の瞳がバルガを映している。瞳と同じ色のリボンでまとめられた滑らかな長髪が、彼女の頭の動きに合わせて揺れた。

 その髪をゆるく撫ぜてやりながら、バルガはこう言った。


「あの話って?」

「もう! 昨日から言ってるじゃん! 一緒に旅してきた奴隷の人達を、助けて欲しいの!」


 一緒に旅してきた奴隷、と言われてもバルガはピンとこない。違う馬車に乗っていた奴隷達のことだろうが、ウルザから聞いているだけで面識はないのだ。

 小さく変身した状態で彼らのところへ潜り込み、遊んでもらったという。やがてネリスに見つかり、追いまわされるようになるまでそれは続いた。


 その間にウルザは奴隷同士の会話を聞き、彼らの境遇を知った。

 覚えのない借金カタとして無理やり連れてこられた姉妹、子供のために自らを売った未亡人、状況を一切理解していない、ただ父母はどこかと何度も尋ねるだけの子供。苦境と嘆きに囚われた彼らを、何とか救いたいとウルザは思っていた。


「どこにでも転がってる話だ。首を突っ込んでたらキリがない」

「そんなことない! キミのお母さんなら見過ごさなかったよ!」

「嘘つくな。表の世界に手をだす人じゃなかったはずだ……いい顔はしなかったろうが、な」


 泥塗れのローブを板張りに放り、太刀を抱いたままベッドに横たわる。

 降りかかる火の粉は払うが、余所様のことまでは知らない。それが彼のやり方だ。


「ぐぬぬぬ……」


 口をへの字に曲げたウルザがベッドへにじり寄ってきた。

 バルガを見下ろしながら、なんとか彼を動かし得る理屈をこねまわしているのだが、どんな理屈よりもその表情にバルガは追い詰められていく。


(実際、キリがねーよ……どこかで区切らなきゃ)


 自分にもやるべきことがある、とバルガは思う。寄り道などしていられないし、ウルザは甘やかすと図に乗るタチだ。だが例えばウルザにまでネリスの手が伸びるとしたら、それは阻止するだろう。迷うまでもないことだ。ならばウルザの友人、いや恩人ならどうか? 「火の粉を払う」範囲に含めてもいいか。


「そういえばお前……奴隷の子から何かもらってなかったか」

「木の実もらった!」


 くわっと目を見開きつつ即答する。


「なけなしの食事から分けてくれたんだぞ! わたし食べられないからキミにあげた! キミそれ食った! そういえばそうだ!」


 なぜ俺は助け舟なんぞ出しているのか。というか木の実も元々はネリスの物だが。

 バルガは平静を装いながら心の中で舌打ちした。窓の外を見ると、日の沈みかけた空が茜色に燃えている。


「もう少し夜が更けてからだ」

「……!」


 ウルザの顔で大きな笑みがぱっと咲いた。それにしっかり心を満たされているバルガは、少し自分を情けなく思った。


「けどな……鎖を外すだけだ。あとは奴等が自分でやるんだ」

「う、うん」


 笑顔を引っ込ませ、少し不満げな顔になるウルザを見て、ほれ図に乗った、とバルガは思った。


「ひぃっ!? な、なにすんだー」


 そんな彼女をベッドの上に引っ張り上げ、長い耳をこねる。バルガは大きなあくびをした。


「夜中まで一眠りする。頃合になったら起こせ」

「わか、わかったからちょっと! みみー!」

「静かにしろ、寝れねーだろうが……」

「り、理不尽」


 ウルザはただ体を丸めて耐えていたが、やがてバルガの手が止まると、彼を起こさないよう静かに備え付けの毛布を広げた。それをこすったり、匂いを嗅いだりして清潔を確かめてからバルガに掛ける。

 その後は黒いローブの掃除だ。ウルザはこのローブを好き勝手に改造していた。中を移動できるように足場を作ったり、ポケット型の寝床を作ったり。バルガは文句こそ言わないが、あくまで自分のローブとしておざなりに扱う。


「くっくっく。あとで背中かじってやるぞ――背後なら反撃できまい!」

 

 邪悪な笑いも音量は控えめだ。

 鞄から裁縫道具を取り出し、更に改造を施す。バルガに皮肉を言わせるほど、その手つきは慣れている。


「よし」


 糸切り歯を使って作業を締めくくる。ポールハンガーにローブを掛け、余った時間をベッドに腰掛けて過ごした。



 カルロスは人を殺さないと眠ることが出来ない。そうした呪いに取り付かれている。

 彼は自ら望んでその呪いを受け入れた。無辜の眠りを捨てる代わりに、狩人の念願――矢を標的に誘導する魔術を得るためだ。

 その力を使い、彼は彼の思う悪人を弓矢で射抜いてきた。


『眠いかい、相棒』


 ベッドに腰掛け頭を抱えていたカルロスが、声のするほうへ血走った目を向けた。深夜の暗黒をランプの灯が退け、安宿の床に転がる弓の姿を晒している。この茶色い短弓こそが、彼に呪いと魔術をもたらした存在だ。


『なら殺しにいかなきゃあ。相棒なら5分で済む仕事だぜ』


 先の殺しから既に3日、この1週間で見てもその1回しか眠っていない。カルロスの限界は近かった。


『しかし、デンタナって言ったっけ、ここ。やっぱり都市はいいねえ、人が多くて。交易都市だから出入りも激しいし、敗戦国だから治安もいい感じだし』


 確かにここなら殺しの相手に困らない。毎日のようにあちこちで刃傷沙汰は起きているし、奴隷取引も盛んだから少しばかり人が消えても気にかける者はいない。

 しかしカルロスが殺すべき相手は、悪人だ。それもなるべく大きな悪、と彼は決めていたのだが、そういう人物に限って力を持っている。大きな屋敷や堅牢な馬車、そして大勢の護衛が悪人を守るのだ。

 いかに魔性の弓とはいえ、見えない相手を射抜くことはできない。


『しばらくここに落ち着いたらどうだい、相棒。なんなら残り34回、ここで済ませちまっても――』

「それは、貴様の、都合だろうがァ!!」


 やおら立ち上がったカルロスが弓を拾い上げ、壁に向かって投げた。石に木を打ちつける乾いた音が響く。

 この弓を手にした後、100回眠ってから別の人間に手渡せば、呪いは解けて魔術だけが手に入る。だがもう魔術なんてどうでもいい。ただ不眠の苦しみだけが、カルロスを駆り立てる。

 あの時、自分にこの弓を寄越したあの女、もう顔も思い出せないあの女の口車に乗りさえしなければ――


『落ち着けよォ、相棒。回りの部屋に筒抜けだぜ? アンタ腕のいい狩人だ。獲物に見つかるようなヘマしないよな?』


 始めのうちは良かった。標的が大物でも、矢尻に毒を塗るなり油断を突くなりすれば仕留めることが出来た。しかし矢の動きから魔術の介在が疑われ始めると、噂はたちまち街から街へと広まってしまい、標的が警戒するようになった。

 魔術に手を染めてでも悪を裁く、悪。そんな話をどうして広めてしまうのか、と人々を恨む気持ちさえある。本当に裁きを望んでいるなら、仕事がしやすいように口を噤んでくれればいい。それさえ考えないのだから、結局は面白がっているだけなのだとカルロスは思う。


 震える手で鞄の中から毒の軟膏を取り出し、矢尻に塗りつけていく。

 先日、路上で見かけた引ったくりの犯人を殺した。別の日に路地裏で偶然見かけ、頃合を見計らって殺した。顔が似ていた……いや、あれは本人だったはずだとカルロスは思うが、そんなことはどうでも良くなっている。

 彼はまだ子供だった。貧しく哀れな、殺されるような罪を犯したとは到底言えない人だ。もし審判の時が来て、彼を殺した理由を神に尋ねられたら、眠かったからだと答える他ない。


『そうだ、いいぞぉ相棒。さ、もう限界だろ? あんたの仕事を俺に見せてくれ』

「…………」


 故郷が鷹の魔物に襲われていた。隣人たちと共に幾度となく矢の雨を降らせたが、それを掻い潜る機敏さを持った敵だった。あれを為留める為に魂を売ったのが事の発端だったが、その時の気持ちが、隣人達の喜ぶ顔が今はもう遠くに霞んでいる。

 呪令の完遂か、死か。カルロスはこの2つしか呪いを解く方法を知らない。

 逃げられない。頭の中にあるのはそれだけだ。カルロスにはもう何も解らなくなっていた。



 ネリスの一行は宿を貸しきっている。彼はこの界隈に流れる弓使いの噂を恐れており、旅の道中でも固く身辺を警護させていた。

 なので今夜も、馬小屋の警備は手薄なことが期待できた。


 澄み切った空に半月と星が浮かび、足元さえ気をつければ夜歩きも可能な按配である。

 宿の裏手にある馬小屋は高い柵に囲まれており、隣接する建物との間に狭い路地裏を成している。そこを通り抜けていく風の低い音に合わせ、草と泥を慎重に踏みしめていく。

 バルガは簡単に馬小屋の柵までたどり着いた。微かな灯りを漏らす柵の節目から中を覗くと、かがり火の傍で人影が3つ、なにやらこそこそと話をしている。


『3人か……さて、どうすっかな』


 手を考えているうちに、ごろつきの方から動き出した。草地に停めた馬車へ入り、奴隷の姉妹を引っ張り出す。


『あ、あの子たち! 木の実くれたの、あの子たち!』

『こっちに来る、な……おい、中に入ってろ』


 バルガは傍にある平屋の雨戸を撫でながら、小さくこう呟いた。


「中のつっかえを外せ。静かに、だ」


 数瞬後、雨戸は押すだけで簡単に開いた。家人を起こさないよう、静かに中へ侵入し、閉じようとする雨戸と窓の間に指をはさみ、隙間から外を窺う。

 柵を開いてごろつき達が出て来る。彼らの掌から、姉妹の悲痛な声が僅かに漏れた。バルガは唇を噛んでそれをやり過ごす。


『こここここらーーー!!』

『落ち着け。……まずは馬車の連中からだ』


 言いながら、彼もまた急いでいた。ごろつきのすぐ背後で音もなく柵を乗り越え、フードをしっかり被ってから馬車へ飛び込む。


「静かにしろ」


 ごろつきに続いて、黒いローブで全身を覆った男の乱入である。奴隷達は短く叫んだが、バルガが振るう太刀に反応できたものは居なかった。

 中央の柱に繋がれていた各々の鎖が切れ、一同はぽかんとした表情を浮かべる。


『ね、ちょっと! そんだけ!?』

『ああ、言ったろ。そんだけだ』


 馬車を出た瞬間、絹を引き裂くような女の悲鳴が辺りに響く。


(ち、ヘタクソが……)


 再び柵を乗り越え素早く周囲を伺うと、平屋の影から人影がよろよろと出てきた。バルガは太刀を返して峰を向けたが、それを打ち付けるまでもなくごろつきは倒れた。

 彼の後頭部から、矢が生えている。バルガが息をのんだその時、男の囁き声が聞こえた。


「こっちだっ さぁ早くっ」


 それと共に足音が3人分。泡を食って平屋の中に隠れようとしたが、窓に手を掛けるより早く、弓を持った男がごろつきの死体を跨いでいた。

 暗い路地裏、互いの姿は黒く塗りつぶされて見えるだろう。

 しかし確かに、視線がぶつかるのを2人は感じた。


 弓を番えてから、撃つ。電光石火の動作にバルガは戦慄した。

 なりふり構わず平屋に転がり込むも、窓の向こうから軌道を直角に曲げ、魔性の矢が追い縋ってくる。


「!!」


 噂を聞いていなければ、バルガは死んでいただろう。

 それより一刹那早く、彼は黒い霧に姿を変えていた。矢は霧に突っ込んだものの、聞こえて来たのは板張りを抉る音だった。

 物音に家人が起きだす気配。しばらくして、家の中に悲鳴が響く。

 だがその原因は板張りに突き刺さる矢だった。黒い霧は、既に家の中から消えていた。



『みんな、うまく逃げたかな……』

「さぁな」


 宿に無事帰り着いたバルガは、明日に備えてそのままベッドへ入っていた。ウルザは小さく変身し、彼の枕元で丸まっている。


「このあたりの魔境率はどんなもんだ」

『んー』


 ウルザは丸い目を細め、耳を澄ますように顔を上げた。


『2割弱ってとこだね。来た時よりちょっと上がってるかな』

「あの野郎……弓の腕は大したもんだが、魔術師としては未熟だな。あの程度で魔境率を引き上げちまうとは」


 魔境率とはその場所がどれだけ魔界に近いかを示す値で、高くなるにつれ現実離れした出来事が起きやすくなる。

 例えば魔境率が低い場所に出現する魔物は、せいぜい野獣が変じて巨大化した程度のものだが、高い場所では空想の中にしか存在し得ないような怪物になる。

 100%を超えると生き物は例外無く魔物化し、人も理性を失う。

 なので魔境の拡大は、人間社会の崩壊に直結している。


 そして魔境率は魔物が集まったり、魔術が行使された時に上がっていき、下げる方法は自然回復を待つ以外にない。

 こういう事情があるので、有力者の庇護でも受けない限り、魔術師という肩書きで社会に溶け込むのは難しい。対魔を旨とするトルタ教会に捕まれば、悪くすると即日火炙りだ。


(矢を操る魔術、か)


 これだけ噂が流れてしまえば、使い手の明日は知れたようなものだ。放っておいてもそのうち犠牲者は出なくなり、魔境率も下がっていくだろう。

 しかし。


『探しに行くんだよね』

「ああ」


 バルガ・クインシーは魔術師である。戦士と呼ぶのも、医者と呼ぶのも正しくはない。彼は生まれついての魔術師だ。彼には同業者を追う事情がある。正確に言えば魔術師ではなく、彼らが連れているかもしれない「魔導」を追っている。 

 人を魔に導く存在。呪いと引き換えに人へ魔術を与える存在であり、ウルザもまたその1柱だ。魔術師たちは古くから、力を求めて魔導を奪い合ってきた。


「自分から荷物を背負ったんだ、今夜は動かないだろう。

 朝になったら市場を張るぞ。何をするにしろ、姉妹に変装くらいはさせるだろうからな」

『もし、あの弓使いの人を倒す事になったら……』

「どっちにしろ姉妹は「自由」だ。他の連中と同じく、な」

『……うん』


 ウルザは目を閉じた。

 朝になれば、彼女は落胆することになるだろう、とバルガは思った。鎖を切られた奴隷達の多くは、馬車から出ていないだろうから。あらかじめ慰めの言葉を準備しておこうと考えたのだが、結局見つからないまま彼も眠りに落ちた。



 そして朝、ネリスの配下が3人殺されているのが見つかった。

 致命傷が矢傷だったので、周辺は件の噂と結びつけて一時騒然となった。3人は奴隷達が監禁されている馬車を見張っていたはずなのだが、遺体が見つかったのはそこから離れた人気の無い路地裏だった。

 3人とも剣さえ抜かず、死後動かされた形跡もない。ただ荷台に乗っていた奴隷のうち、年頃の姉妹1組が消えていた。


 消えていたのはその2人だけだ。手枷につながる鎖を切られてもなお、奴隷たちは馬車に残っていた。財産も人脈もない彼らが、帝国人の庇護無しで生きていくことは難しい。

 帝国人はこの国の産業をほぼ全て牛耳っており、働き手としてヴィルヘイム人を利用している。

 利用価値があるうちは、少なくとも生きていくことはできる。


『ねぇ』

『なんだ』

『キミ、国とか作る気ない? 自由に価値のある国』

『作れる日が来れば、そうするさ』

『……』


 それきり、ウルザはポケットに収まったまま静かになった。

 気を取り直して、バルガは魔術師探しを再開した。奴隷の脱走は弓使いの仕業ということになっているが、馬車の奴隷達に太刀を振るう姿を見られている。

 ネリスやその配下となるべく顔を合わせたくない。今日中に決着をつけるべきだった。


5角形の街の中心に大きな広場があり、そこから5本の大通りが外壁に向かってそれぞれ伸びている。美しいと評判だったモザイク柄の街路は、商人達の靴が持ち込む泥のせいで見る影もない。絶え間ない人の出入りが土埃を舞い上げるためか、遠方の空さえ土色に霞んで見えた。


 かつて国の主要産業である鉄の流通拠点として栄えたデンタナだが、今ここで売られているのは庶民の財産が主である。服飾などの貴重品を売る人々の荷車が、広場から通りにまではみ出していて往来は少し不便だ。

 彼等の多くは持てる財産を売り払って帝国へ移ろうと考えている人々で、衰えていくこの国を抜けようとする意志は強い。その思惑をプロの商人たちに見透かされ、足元を見られながらも笑顔で物を売る。一方で売り物を検査しようとするヴィルヘイム国軍は商売の邪魔だと跳ね除ける。

 国軍は弓の所有者を虱潰しに当たっているらしい。ネリスのような有力者に被害が出れば、彼等も骨身を惜しんでいるわけにはいかない。


 大陸のほぼ全てを手中に収めたハスター帝国は、厳しい身分制度を布いている。

 まず1番下が奴隷、次の下級市民にはヴィルヘイムのような属国の民も金次第でなれる。そこから労働者として5年間過ごすと、属国で商売ができるようになる。

 搾取対象である属国民が捨て身で襲ってくるというリスクを潜り抜け、帝国へさらに金を貢ぐと上級市民へ階級が上がり、奴隷が持てるようになるのだ。

 上級市民となっても、金を稼ぐため危険な属国へ出入りしているネリスは、帝国貴族でも目指しているのだろう、とバルガは思った。何も軍人として手柄を立てるだけが貴族への道ではない、貴族に娘を嫁がせれば、その子供は貴族だ。

 そして貴族なら皇帝の妻になる資格がある……そういう夢の描き方もあるだろう。


 様々な思惑が交錯する市場の真ん中で、バルガはさりげなく周囲を見回す。

 魔術師が同業者を探す際、重要になる基礎技術として隠蔽と探知がある。いまバルガの体を中心に魔力の波動が広がっていった。が、それは本人にしか見えないよう工夫されている。波動は道行く人々にぶつかる直前、彼らの周囲で薄い膜を張り、やがて霧散していく。彼らの持つ魔除けの聖印が魔を拒んでいるのだ。


 この聖印を大陸全土に広めた事が、トルタ教会数千年の歴史で最大の功績と言えるだろう。これを身に刻まれた人は、生命が持つ根源的エネルギーである氣を魔力に変える事が出来なくなる代わりに、祓氣ふっきと呼ばれる対魔力を体に蓄えるようになる。

 祓氣と聖印を持っていれば、決められた聖句を呟くだけで簡単な対魔術が発動する。戦う術をもたない人々でも、弱い魔物なら撃退出来るのだ。加えて聖印は、親から子へと自動的に伝承されていく。

 こうして人類総対魔師と言える今の時代が来ていなければ、世界は既に魔の中へ沈んでいただろう。


 とはいえ聖印と対魔術に出来るのは、人から徹底的に魔を遠ざけることだけだ。バルガの魔力を弾いた人々が、彼を振り返ることはない。

 魔に親しむことにかけては魔術師のほうが優れている。

 だから魔術師を探すことにかけては、魔術師のほうが長けている。


「……」


 さて、バルガは早々に魔術師、つまり聖印を持たない人を炙り出していた。彼――カルロスの未熟さをバルガは哀れんだ。

 魔術師が互いの存在を認知するのは、互いの魔力が触れ合った時である。バルガのように波を発する事はおろか、魔力の隠蔽さえしていないカルロスを見つけるのは、白い玉石の中から赤いものを選り分けるくらい容易なことだった。

 カルロスも別の魔術師が居る事に気付いたが、それが誰なのか探る術はない。


 50歩先まで探れれば1人前とされる中、バルガの波動は500歩先まで広がっていく。いかに熟練の狩人とはいえ、このような尾行者を特定することは不可能だった。



 カルロスは血相を変えて安宿に戻り、市場で買い込んだ物を床へぶちまけた。

 奴隷の姉妹は驚きと怯えに身を竦ませていたが、しかし姉のほうはすぐ立ち直った。昨晩の感謝と喜びを思い出しながら、なだめるようにカルロスへ話しかける。


「あのぅ……大丈夫なんですか?」


 カルロスの充血した目が姉に向けられる。

 姉妹を助けてこの宿まで連れ帰った後、日が高くなるまで昏々と眠っていたのに、目の下には隈が深く刻まれたままだ。黒髪に浅黒い肌、顔が下半分毛むくじゃらな所も含めてどことなく父に似ていると思ったが、父がこんな目で自分を見たことはなかった。

 噂の弓使いは姉妹が想像していたような男ではなく、何かに追い詰められ疲れきっていた。それでも眠った後はいくらか落ち着いたようで、今後の身の振り方まで面倒を見てやると言ってくれた。

 今朝の買い物も、その為の準備らしいのだが。


「今すぐこれを着るんだ」


 カルロスは姉妹に向けてそれぞれ服を放った。襟と袖に穴を開けた、被って着る貫頭型の服と下穿きはハスター帝国発祥で、動き易さから労働者階級の間で爆発的に流行している。

 姉妹はカルロスと同じく、古くからヴィルヘイムで使われてきた横合わせの服を帯で閉めていて、体も汚れておりみすぼらしさが目立つ。それを落とすための石鹸もあり、服も質素ながら女性らしい色合いを選んだが、そうした気遣いは物を投げて渡すような性急さのため台無しになっている。


 妹が体を抱えて俯く。肌を晒す事に対し強い忌避感があるのだろう。無理もない、とカルロスは思ったが、もたついているわけにはいかない。早くしなさい! と語気荒く言いつけると、姉妹はすぐに従った。

 姉は服を着ながらも、カルロスの神経を逆なでしないよう細心の注意を払いながら話す。


「あの、何処かへ行くんですか?」

「そうだ。この街を出る」

「……。ここに暫く匿ってくれるんじゃ。私達、とても疲れています」

「魔術師に見つかった。僕を殺しに来たんだ。逃げないといけない」

「……」

「きっとこの弓を狙ってるんだ。これを奪われたら、僕は死ぬ」


 よくわからないが、それはあなたの都合だ、と姉は思った。

 しかしこの人から離れても生きていける見込みはない。どうするべきか姉が考えていたその時、突然カルロスが矢を取った。妹が弾かれたように姉へ縋りつく。

 カルロスは姉妹でなく、扉を見ていた。その顔にありありと浮かぶ恐怖が姉に状況を教えた。彼女もまた妹の口を塞ぎ、カルロスに倣って無音になる。

 暫くすると、廊下の砂利を踏みしめる音が姉にも聞こえてきた。妹は訳もわからず、口を塞がれたまま目を白黒させている。

 もしネリスが放った追っ手なら、カルロスに勝ってもらわないと困る。だが聞こえる足音は1人分だ。この人がカルロスの言う魔術師なら、自分達に用などないだろう。無いと思いたい。

 姉はここでカルロスが数えていた金のことを思い出した。一掴みほどの銅貨と、一摘みほどの銀貨を彼は持っていた。銅貨5枚で暖かいスープが飲める。そして銀貨1枚は銅貨20枚分の価値がある。


 姉は祈った。ともかく状況が良い方向へ運ぶように。

 やがて部屋の前で足音は止まり、カルロスは扉に向けて音もなく弓を引き絞る。


「……」


 しかし結局扉は開かず、代わりにドアの隙間から羊皮紙の切れ端が差し込まれてきた。遠ざかる足音が完全に消えてから、カルロスはそれを引き抜く。


”4番門から出て道なりに歩くと、右手に丘が見えてくる。

 今夜未明にそこで待つ。1人で来られたし”


 カルロスはメモを握りつぶした。

 魔術師同士の決闘は人知れず行うのが作法だという。その後の生死に関わらず、自分達の正体を世に晒さない為だ。そんな作法に従う理由はないが、逃げ切ることもやはり難しい。

 先ほどから他人の魔力がチリチリと体に触れてくる。こちらの動きは筒抜けだろう。


(1人で来い、か)


 もし姉妹をこのまま連れ歩けば、危険は彼女らにも及ぶだろう。その上でもし自分が負けたら、敵の魔術師が姉妹を消すことは明らかと思われた。

 だが置いていったとしても、この街にはネリスが居る。さらにネリスの監視を掻い潜って街を出ても、女2人の旅を許すほどヴィルヘイムは平和でない。


「僕と来るか、それとも残るか、どちらにする?」

「……」


 姉は少し考えるフリをした。「そうだ、お金も置いていこう」とカルロスが言うのを待っていたが、言わなかった。こちらから乞えば気を悪くするだろう。もし断られて「じゃあやっぱり付いていきます」などと言っても、その後の旅に支障がでるのは間違いない。


「お願いです、連れて行って。こんな街に置いていかれても、どうしようもありませんから」

「よし」

「……」


 三人は連れ立って宿を出た。この街からは、魔境に接しているというベミエラにも街道が伸びている。その道を好き好んで歩く人は居ない。もし自分の後を追ってくるなら、そいつは魔術師だ。

 相手の姿が見えるなら問題ない、この弓で射殺してやる。


『良い判断だと思うぜ、相棒』


 弓に宿った魔導が、長い沈黙を破った。


『特に娘2人を連れて行くってのが良い。ベストだ』

『……黙れ』


 この街であと33回眠れたらいいと思っていた。魔導の言う事は尤もで、ここほど身を隠し易い場所もないからだ。だがそういう場所には魔術師がやって来る。同類である彼等が自分にとって一番危険な相手だ。まだ格上の戦士の方がやりやすい。

 逃げなくてはいけない。だが次はどこへ行けばいいのか。誰を殺して眠りにつけばいいのか?


『連れて行けば「いつでも眠れる」もんな』


 カルロスは粘ついた唾液を飲み込んだ。


『それも、上手い事やれば、2回』


 笑う魔導に反論する気力も気概もカルロスは失っていた。

 ただ頭の中で「上手い事」やるための策略が、鈍い音を立てながら組みあがっていくのを、疲れきった面持ちで看過するだけだった。……。



 時刻は正午。闇を渡る魔術師たちには似つかわしくない時間帯である。

 街道脇に茂る林の中に伏せ、カルロスは敵が来るのを待っていた。姉妹はこの先の、泉を迂回する為に街道が曲がったところに置いてきた。あそこなら戦場は見えないだろう。

 デンタナ方面から歩いて来た黒いローブの男に向け、カルロスは誰何することもなくいきなり毒矢を放った。フードを被ったままの男がローブの襟を開くと、腰に佩いた太刀が姿を現す。

 おや、人違いだったかな?そんな事を考えながらカルロスは立て続けに矢を放った。そして男の剣技に驚愕する。


 100歩の距離を真っ直ぐに横切った魔矢が、男の剣閃に撃ち落とされる。落とされた矢はそれでも敵を貫こうと起き上がり、半ば折れた体を男にぶつけていく。そして再び、みたびと落とされる。男はカルロスへ向けて突進しながら、魔矢すべてを同じ目に遭わせていった。


「クソ、やはり魔術師ではなかったか……!?」

『矢の数を増やせ!』


 迷いも今更、もはや戦いは始まっている。言われるまま矢を増やしたカルロスは、直後に疑問の回答を得た。

 黒いローブの男が、黒い霧に変じてそのまま脇の林に溶け込んでいく。魔矢たちは目標を見失い、地面に落ちたまま今度こそ動かなくなった。

 カルロスの背筋を死の予感が駆け上がる。


『相棒、逃げろ!あんな超魔術、そう長くは続かねえ……道に出て距離を稼ぐんだ!』

「……」

『相棒!?』


 カルロスの脳裏に姉妹の顔が浮かぶ。逃げた先には、彼女たちがいる。

 その逡巡が決闘の勝敗を決めた。

 森の中で何かが煌いたと思った瞬間、カルロスの足に灼熱の痛みが灯った。搾り出すような叫びが喉を震わせる。

 見ると、右の腿から灰色の取っ手が生えている。片膝をついて、歯を食いしばりながら引き抜いてみると、刃側へお辞儀をするように曲がった珍しいナイフだった。重心が刀身に掛かっており、なるほど投擲もしやすそうだ。

 予備の刃物だろうか。血に染まったそれはやがて黒塗りの太刀に打ち払われ、カルロスの手を離れる。

 同時に、彼の現実逃避も終わった。


「……」


 切っ先が首を刺してくるが、まだ致命傷ではない。尻餅をつき、後ずさることもできないまま黒いローブの男を見上げた。フードの中へどれほど目を凝らしても、顔が見えない。輪郭さえわからない。そこには漆黒の闇だけがあって、聞こえてくる声もおよそ人間のものとは思えなかった。


『弓を寄越せ』

「……い、いやだ」


 カルロスの声は上ずっていたが、思考はどこか落ち着いていた。

 もちろん恐ろしい。だが死が確約された状況であるからこそ、ようやくこれで終われるという安堵がどこかにある。

 彼は姉妹の事を思い、戦場から遠ざけた自分の判断に満足した。それが彼に残された最後の希望だった。


「まだ呪令の途中なんだ。わかるだろ? 途中で止めたら、命がない」

『……』

「頼む、見逃してくれ――」


 カルロスは目を閉じた。それは願いとは裏腹の行動に見えた。

 バルガの刀が一閃すると同時に、カルロスの体がごとりと転がる。

 彼の血の重みで、周囲の草が頭を垂れた。



 滴り落ちる血が尽きる頃に、姉妹はカルロスの遺体と対面していた。

 震えている妹を尻目に、姉はカルロスの鞄を物色し、金や価値のありそうなもの以外は捨てた。その後姉妹そろって道の脇に穴を掘ろうとしたが、道具を持たない彼女たちはやがてそれを諦め、結局弔いは遺体の手を組ませて血を拭う程度の簡素な物になった。


「……」


 姉が跪いて、カルロスの死に顔を見下ろしている。首に刻まれた傷は痛々しかったが、表情はどこか安らかに見えた。

 それが自分の勝手な想像でない事を姉は祈った。


「ごめんなさい。……ありがとう」


 哀れみと罪悪感が綯い交ぜになった表情で姉はカルロスの額をなで、立ち上がり、妹の手を引いてデンタナの方向へ引き返していった。

 そんな彼女達を、木陰からウルザが見送っている。


「自由も、まだ無価値ってわけじゃないみたいだな」


 背後からの言葉に、ウルザは強く頷いた。

 その後2人は姉妹の掘った穴を広げ、そこにカルロスを納めてからベミエラへ向けて歩き出した。

 彼らにもまた、果たすべき目的がある。



「魔神」と呼ばれる者たちがいる。

 彼らは闇に閉ざされた魔界の支配者であり、光と変化に溢れたこの世界をも欲する侵略者である。しかし魔に満たされた場所でしか本来の力を振るう事ができないため、まずはこの人界に橋頭堡としての魔境を築き、それを拡大しようとしている。

 魔物や魔導を送り込んでくるのはこのためだ。


 ほとんど自我を持たない魔物は魔神のツールに過ぎないが、彼等の魂をちぎって創られる魔導は違う。高い知性と確かな自我を持っている。加えて人を誘惑するため、人に似せて創ったことが魔神にとっては災いし、多くの魔導が人に迎合して魔界を招くという使命を忘れた。

 魔導は立場的に魔神寄りでも、心情的には人、特に契約者へ寄り添いがちなのだ。

 だから魔神は人を縛る為に作った呪いで、魔導たちをも縛るようになった。


『……結構いい感じの狩人だったのによ。よくもやってくれたな、テメェ等』

「よく言うよー。あんな素人同然の人を唆してさ。腕のいい魔術師に見つかっても、逃げ切れるとか思ってた?」

『俺のお役目は、ご新規さんの開拓なんだよ』


 ベミエラへ向かうバルガのすぐ脇を、カルロスの弓を持ったウルザが歩いている。人目は無いので人の姿である。

 彼女もまた弓と同じ魔導であり、人に魔術を与える時、同時に人を呪わねばならない宿命を背負っている。そしてその呪いは大抵、人間に魔術の行使を迫るものだ。カルロスが魔矢に頼らざるを得なかったように。


『とはいえ……ふん、テメーは相当恵まれてるな。若いのにたいした魔術師だぜ、コイツ』

「えへへー。うらやましい?」

『黒い霧に変わる魔術、あれはテメーの力か?どんな呪令をコイツにかけた?』

「あれはバルガのオリジナルだよ。わたしと同化した魔導が、黒い霧で目眩ましする魔術をもってたから、それを発展させたの。試練は自分の作った闇の中で30日間暮らす事。その場にずっと留まってたら魔物が来ちゃうから、長ーい洞窟や森の中を移動しながら暮らしたんだよ」

『……発展系の魔術師かよ。ますます羨ましいぜ』


 このほかにも魔導は「同類の魂を集める」という使命も抱えている。

 魔の力は魔の魂が重いほど強まる。魔界に住まう魔神たちも一枚岩でなく、手先である魔導同士で魂を奪い合わせ、魔界に持ち帰らせて自身の力を増し、他の魔神を倒そうとしているのだ。

 魔導はこの世界において争うだけの力を持たないので、実際に争うのは魔導と契約している魔術師だが、魔術師にも争奪戦に身を投じるだけのメリットがある。

 魂とは記憶の集積地だ。新しい魔導を手に入れれば、その記憶を閲覧できるかもしれないし、知らない魔術が手に入る可能性もある。


「さて、そろそろいいかな? 食べちゃうぞー?」


 ウルザがにっこりと笑う。他の魔導を吸収する事は、魔導の本能に媚びるのだ。


『好きにしろや。……あ、その前に1つだけ』

「もー。なにさー」

『魔術師よ。オメーの目的はなんだ? なんで魔術師をやってる?』

「はいはい。そんなこと、わたしと同化すればすぐわかりますー」

『チッ』


 ウルザは弓を手放した。が、それは地面に落ちる事はなく、彼女の前で浮かんだまま静止する。弓に向けて手を翳し、もう片方の手を軽く振るうと、宙に現れた幾つもの魔方陣が弓を取り囲んだ。


 木と糸で出来たカルロスの弓が、風に吹かれる砂のように崩れていった。やがてその砂がウルザの手に積もっていき、本の姿になった。


「ようこそ、ベリダくん」


 ワインレッドの本が、ウルザの体へ溶け込むようにして消えた。

 吸収する相手をどのような姿に変えるかは、魔導によってまちまちだ。ウルザの場合は本に変える。彼女の心象世界には大きな図書館があって、ベリダという名前らしかった魔導もそこに納まった。

 しばらくの間、彼女は胸に手を当てたままじっとしていたが、やがて閉じていた目を開き、バルガを見て微笑む。


「心を開いてくれたみたい。内容の検閲もほとんど無いね」

「そうか」

「いやーベリダくん若かったんだなー。余白もタップリだよ」


 魂が記憶の集積地であるなら、そこには多寡の違いはあるにしろ余白が存在するはずだ。魔術師が気にするのは余白でない部分である。


「矢を誘導するヤツ以外に魔術を持ってるか?」

「持ってないね。どうする? 覚える?」

「アホ」


 そんな事をするために魔術師を続けているわけではない。バルガの魔術は、魔境を鎮めるためにある。

 ウルザは頷いて、今度は白い本を出現させた。表紙が下から4分の1ほどまで赤く染まっている。


「それじゃ、預かってた血を返すね」

「ああ」


 バルガは本の表紙に掌を当てた。すると血のように赤かった部分が白へ戻っていく。戻っていくにつれ、冷たかったバルガの指先が温もりを帯びていく。右手の林を見ると、揺れる葉の葉脈までもがくっきりと見えた。


「ベミエラまで、あとどれくらい?」

「少し急げば、夜までには着く」


 街道の先に視線を戻し、バルガは足を速めた。

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