森に雪が降った日
森に雪が降りました。
一度も雪の降ったことのない森に、ある日雪が降りました。
その森はいつも暖かく、陽気でした。時々雲がやってきて雨を降らしたりするけれど、いつも空はきれいな澄んだ青をして、夜以外は太陽が暖かな光で森を照らしながらその空に浮いていました。しかし今の雪の降る森は、とても冷たく、静かでした。からっと晴れた青空はそこにはなく、見たことのない黒い雲が空をうめつくし、もちろん辺りを照らす太陽もまた姿をくらまし、いつも明るかったその森は薄暗く寂しげです。
森の地面は、いつもはしっとりとした土が優しく横たわっているのに、今ではすっかり冷たい雪に覆われ、べちゃっとした土が疲れ果てたように寝転がっています。その上にそっと座るように生えていた草花も、その鮮やかな色は白に塗り替えられ、まっすぐに伸びた茎や葉は寒そうに震えています。また、森をつくる木々の豊かでたくましい幹や枝には冷たい霜が這い、みずみずしい葉たちは楽しげに踊るふうもなく、ただ互いに身を寄せ合っています。そして、その森に住む動物たち――鳥やりす、鹿、狼、人間などは普段の明朗さはなく、不安で揺れ動いています。
ある日、森に雪が降りました。
ぽろぽろと零れ落ちるように。
ふわふわと舞い踊るように。
ゆらゆらと揺らめくように。
今もまだ、雪は降り続いています。
ぽろぽろと、ふわふわと、ゆらゆらと――。
雪が降りだしたのはその日の朝でした。森が目を覚まし、活動を始めてすぐに雪が森のずっと上の方から落ちてきました。
真っ白な雪が太陽のない朝の薄暗がりの中を通ってゆきます。
そうして次々と落ちていく雪はやがてはばたく鳥にたどり着きました。
ぽとり、と美しい青の羽の上に真っ白な雪がのりました。それはしばらくするとすーと透けていって、羽の青に吸い込まれてしまいました。
「きゃ、何かしら。わたしの羽に触れるなんて」
鳥は染み込む冷たさに驚きながらも、次々と落ちてくる雪にぶつからないよう器用に避けて、このふわふわとしている白いものは何なのかしら、と考えました。――当然、鳥はこの白いものの正体が雪だとは知りません。なぜなら一度も見たことがないのですから。
「あぁ、わかったわ。きっと風が泣いているのね。暖かい空気が運べなくなってしまって悲しいのね。風の涙がこの冷たさに凍ってしまったのね。けれど、いつも愉快な風が泣いているなんて――」
鳥に当たらずに落ちていく雪は、次に木とその枝に座っていたりすにのりました。冷たい雪は木の葉を弾き、りすの頭に貼りつきました。
「おお、冷たい。何だろうか、これは」
「キャッ。何、何。冷たい。何?何?」
木は雪ののった葉を震わせ、りすは突然の冷たさに飛び上がり枝の上でぱたぱたと暴れました。両方とも驚いているようです。それもそのはず、鳥と同じように一度も雪を見たことがないのですから。
「うーん。この冷たさはきっと雨にちがいない。雨が凍ってしまったのだ。だがわれわれを大きくしてくれた雨が凍ってしまうとは――」
木がそう言うのに対し、りすは反発するように言いました。
「ちがう、ちがう。これは雲。だってこんなにも真っ白で、こんなにもふっわふわ。雲だ、雲。ちっちゃな雲。でも、雲がちっちゃくちぎられちゃうなんて――」
鳥にも木にもりすにも当たらずに落ちていく雪は続いて追いかけっこをしていた鹿と狼にたどり着きました。
やわらかな雪が鹿の鼻の頭にのり、また、狼の揺れる尾にのりました。
「狼さん。何か降っているようですよ。白い何かが」
「うむ、白いな……。それに冷たい。何だろうか」
鹿と狼は共に立ち止まり、上を見ました。白い雪がゆらゆらと宙を舞っています。けれど、それを見ている鹿と狼は舞い散るそれが雪だとはわかりません。一度も見たことがないのでは、それも仕方のないことです。
「天使さま、わたしは天使さまだと思います。天使さまの、あのきれいなお羽が落ちてきているのです。けれども天使さまのお羽がこんなにたくさん落ちてくるなんて――」
「ふむ。……空が泣いているんじゃないか?おれはそう思ったが。しかし、いつもは透き通るほどの空が泣いているとは――」
鳥を抜かし、木とりすを抜かし、鹿と狼を抜かした雪はその後人間にぶつかりました。
ふわふわと踊る雪は二人の子供のかわいらしい頬に当たりました。一人の子供に当たった雪は、そのままくっついてとけてしまいました。もう一人の子供に当たった雪は、ただそれだけで下に落ちてゆきました。
「わぁ、何だこれ!綿毛かなー?」
「でも、すぐに消えちゃうよ?ほら」
一人はそう言って、ほろほろと揺れる雪をすくうようにして、手にのっけました。それは手に触れると、たちまち小さく縮んでやがて消えていきました。二人の子供はその様子を覗き込むように見ていましたが、それが雪というものだとはわかっていません。なぜなら、この日初めて雪を見たのですから。
「じゃあ何だろ?」
「きっと神さまが泣いているんだよ。しくしくって」
「それだったら、きっと神さまは怒ってるんだよ。皆寒がれーって」
「でも、神さまが泣いちゃったなんて――」
「でも、神さまが怒っちゃ――」
鳥に出会い、木とりすに出会い、鹿と狼に出会い、人間に出会った雪はそうして最後に土とその上の草花に出会いました。
真っ白な雪は土の茶色を覆い隠し、小さな草花にのしかかりました。
「何じゃ、何なのじゃ!目の前が真っ白じゃぞ!?」
「重いよぅ。これ、なあに?」
土と草花は突然の見知らぬ来訪者に驚き戸惑いました。それから、土は視界を遮られたので少し怒り、草花はのられた重さに少し困っていました。土と草花はどちらもこの雪に会ったことがなかったので、どうすればいいのやら、これは何なのか、全くもってわかりません。
「これは鳥のしわざじゃな。上にいるのは鳥ぐらいじゃ。鳥は何を落としていったんじゃ、全く。鳥のやつがこんなきれいなものを落とすとは――」
「鳥じゃないよぅ。きっと太陽が落としていったんだよ。太陽の光だよぅ。だってね、太陽さん、お顔を隠しているんだもの。でもさ、いつもにこにこの太陽さんが、光を失っちゃったら――」
森に雪が降りました。初めての雪です。だから、森に住む皆は白くて、ふわふわとしていて、冷たい、上から落ちてくるものが雪だとはわかりません。
鳥は風の涙だと思い、木は雨だと思い、りすは雲の欠片だと思い、鹿は天使の羽だと思い、狼は空の涙だと思い、人間は神の涙や怒りだと思い、土は鳥の落としものだと思い、草花は太陽の光だと思いました。
そして皆は――鳥は、木は、りすは、鹿は、狼は、人間は、土は、草花は、同時に思うのです――。
ぱたん。
机の上に広げていた絵本が閉じられました。そのことによって現れたその表紙には、美しい森の絵と『森に雪が降った日』という一文だけがかかれてあります。
そしてその絵本に手を添えて、じっとその森の絵を眺めている少女は、木の椅子の上で一つ瞬きをしました。それからもう一つ、したかと思えば、その絵本を小脇に抱えて立ち上がりました。
とことこと歩いて、もこもこのコートをはおり、毛糸の帽子と手袋をつけて、低いブーツをこんこんと鳴らして、それから扉を押して外に出ました。
そこは一面の雪景色でした。
地面はどこも真っ白で、そこからは長い木が生えて、空は曇り空でした。
そこは森で、その森には雪が降っていました。ずっと、雪が降り続けていました。
一度も雪の止んだことのない、森でした。
少女は白に一歩足を踏み入れて、踏み入れて、歩き始めました。
雪に降られながら進んでゆきます。そして、小さな足跡の道がいくらかの木々を追い越したところで、少女は口を開きました。
「……森の雪が止みました」
――森に雪が降りました。
少女の小さな唇から静かな声が零れ始めました。
「一度も止んだことのない森の雪が、ある日止みました」
――一度も雪の降ったことのない森に、ある日雪が降りました。
少女から零れ落ちる言葉と踊るように、雪がくるくると舞いながら落ちてゆきます。
「いつもきれいな青い羽を白に染める雪がないことに、鳥は気付きました」
――次々と落ちていく雪はやがてはばたく鳥にたどり着きました。
少女が話すたび、その口から白い息が出ては消えていきました。
「鳥は言いました。『きっと風が運んでいってくれたのね』」
――きっと風が泣いているのね。
さくさくと雪の踏む音が静かな森に響きます。
「『いつも冷たい風がこんなに暖かいなんて』」
――いつも愉快な風が泣いているなんて。
薄暗く、真っ白な森は冷ややかにただそこにありました。
「次に雪が落ちてこないことに気付いたのは、木とその葉にまぎれたりすでした」
――雪は、次に木とその枝に座っていたりすにのりました。
踊るように、白い雪がゆらゆらと落ちていきます。
「木は言いました。『雪がとけて、それが消えたのだ』」
――雨が凍ってしまったのだ。
健気に、少女がゆっくりと雪を踏みしめます。
「『身体中を冷やすほどの雪がとけるとは』」
――われわれを大きくしてくれた雨が凍ってしまうとは。
浮かぶように、やわらかい雪がふわふわと落ちていきます。
「りすは言いました。『ちっちゃな雲、消えちゃった』」
――これは雲。
少女の足跡は確かな重さを雪に伝え、白の上に続いていきます。
「『雲が皆いっしょになれたなんて』」
――雲がちっちゃくちぎられちゃうなんて。
涙を流すように、冷たい雪がぽろぽろと落ちていきます。
「続いて鹿と狼が戯れて遊ぶのを止めて、空を見上げました」
――雪は続いて追いかけっこをしていた鹿と狼にたどり着きました。
少女の口から次から次へと、ぽつりぽつりと音が奏でられます。
「鹿は言いました。『天使さまが雪を止めてくれたのです』」
――天使さまの、あのきれいなお羽が落ちてきているのです。
少女の口からどれだけの言葉が出ても、変わらず雪はその森に、少女に、降り注いでいます。
「『天使さまがわたしたちのために祈ってくれただなんて』」
――天使さまのお羽がこんなにたくさん落ちてくるなんて。
ぽろぽろ、ふわふわ、ゆらゆら。雪が降ります。降り続けます。
「狼は言いました。『空が持っていってくれたんじゃないか?』」
――空が泣いているんじゃないか?
少女の軌跡が、一つ二つと増えてゆきます。
「『あの曇り空が涙を流さないとは』」
――いつもは透き通るほどの空が泣いているとは。
少女の言葉は止まらず、紡がれ続けています。
「その後人間が雪の降らぬことに、口をぽっかり開けて気付きました」
――雪はその後人間にぶつかりました。
少女の口から雪と同じ色が出されます。
「二人いるうちの片方が言いました。『神さまの涙が止まったんだよ』」
――きっと神さまが泣いているんだよ。
森の中、動くのはそれだけです。
「『神さまの涙が止まったなんて』」
――神さまが泣いちゃったなんて森の中、変わるのはそれだけです。
「もう片方が言いました。『神さまが笑ったんだよ』」
――きっと神さまは怒ってるんだよ。
それ以外は、ただの静寂でした。
「『神さまが笑顔なら』」
――神さまが怒っちゃ。
森を形づくる木々や土、草花はみじんも動かず、ただそこにあるだけです。
「最後に土と草木が雪の降らないことを知ったのは、降り掛かる重さが増えていかないことに気付いてからでした」
――雪はそうして最後に土とその上の草花に出会いました。
森に住んでいるはずの動物たちは、静物のように生きているという気配を感じさせません。むしろそこにいるのかすら、悟るのは難しいくらいです。
「土が言いました。『鳥があのくちばしで、全部取っていったのじゃ』」――これは鳥のしわざじゃな。
森のすべてが静まり、生を隠す中で、少女と雪だけがその空間で生きていたのです。
「『鳥があの邪魔な雪を退けてくれたとは』」
――鳥のやつがこんなきれいなものを落とすとは。
ぽろぽろ、ふわふわ、ゆらゆら。
「草花が言いました。『太陽さんが拾ってくれたんだよぅ』」
――太陽の光だよぅ。
いつまでも降り続く雪。
「『きっともうすぐ太陽さんが見られるなんて』」
――いつもにこにこの太陽さんが、光を失っちゃったら。
さくさく、ざく、ざく。
「森の雪が止みました。初めて止みました。」
――森に雪が降りました。初めての雪です。
少女の重みに、雪の沈む音。
「だから、森に住む皆はどうして降り続けていた雪が消えたのかわかりません」
――だから、森に住む皆は白くて、ふわふわとしていて、冷たい、上から落ちてくるものが雪だとはわかりません。
森に流れる、言葉の音色。
「そして皆は――鳥は、木は、りすは、鹿は、狼は、人間は、土は、草花は、同時に思うのです」
――そして皆は――鳥は、木は、りすは、鹿は、狼は、人間は、土は、草花は、同時に思うのです。
少女の口を染める、雪の白。
「なんて、うれしいのでしょう、と」
――なんて、かなしいのでしょう、と。
雪の踏まれる音が止み、同時に足跡の道が途切れました。
少女の口から出ていた言葉も、雪に染み込んでしまったかように、消えました。
残ったのは、静かな森と真っ白な雪とそして森にとけこんでしまった少女の姿だけです。
森には雪が降っています。森の雪は止むことを知らずに、ただただ降っています。
雪はやはり、降り続いているのです。
これは「冬童話2012」に参加しようと思ったときに浮かんできた話です。
実は童話を書いたのは初めてです。おそらく。
だから、これでいいのかわかりません。まぁ、童話だと言い張りますけどね。ええ。
さて。いかがでしたでしょうか。
急いで仕上げたので、文章が汚くなっていないか心配ですけれど、楽しんでいただけたのなら幸いです。
もし誤字脱字、感想などがあれば、連絡していただけるとうれしいです。
では、お読みいただき、ありがとうございました。




