記憶を食べる人
シバくんのごはんは残ったまま。それでも、おばあちゃんとシバくんはお互いを見つめあって、満足そうに笑った。
「もう、行こうか。シバ」
「わんっ」
二人がもう帰ってしまう。その事実に、ちりっと胸の奥が燃えた気がした。ジユウは、相変わらず考え込んだまま、固まっている。
「二人も、また会えるといいわね」
おばあちゃんが、シバくんの右手を持ってフリフリと振るマネをする。そして、そのまま扉を開いた。ちりんちりんと淡い音が鳴って、二人の姿は光の中に消えていく。
「ジユウ?」
寂しさを誤魔化すように、話しかければ、ジユウはシバくんのごはんのお皿を見つめていた。レストランは、あっという間に、いつものファミレスに戻っていく。
アイスをおいしそうに食べる女の子のポスター。どっしりとした重たそうなテーブル。見慣れた光景に、ソファに傾れ込んでしまった。
「ジユウ?」
もう一度声を掛ければ、ハッとして私の横に座る。ジユウの記憶のカケラが、シバくんのお皿にあるとでも言うんだろうか。考えて見ても、答えはわからなそうだ。
ささみ?
チーズ?
キャベツ?
「あのさ」
「うん、どうしたの」
「食べなくても、思い出すことって、あると思う?」
ジユウの問いかけに、一瞬、息を呑む。まさか。
ジユウが、何かを思い出した?
私を置いてもう、行ってしまう?
不安感から、つい、足を揺らしてしまっていた。ジユウの方を向けば、眉毛を八の字に凹ませている。
「何か、思い出したの?」
「そんな大した記憶じゃないんだけど」
思い出すことは良いことなのに。私は、また安堵で胸を撫で下ろしてしまっていた。ジユウの手は怯えるように、微かに震えている。
そっと握り締めれば、きちんとそこにジユウは居た。
「犬が苦手とか?」
問いかけてみれば、ジユウは驚いたように口を動かす。ふくらはぎの大きな傷。シバくんが近寄って来た時の、後退り方。わからないわけが、なかった。
「家にでっかい犬が居たんだよね、多分」
「そうなんだ」
「白くて、もふもふのやつ」
想像してみる。名前はわからないけど、大人くらい大きな白い犬。ふわふわで顔を埋めれば、香ばしい匂いがしそうだ。
「そいつの散歩中に、他の犬に追いかけ回されて」
「うん」
「足を、ズバッと切っちゃったみたい」
手で足の辺りを、スパンっと切る真似事をする。ははっと笑って話しているのに、恐怖が瞳に滲み出ていた。よっぽど怖かった記憶なんだろう。
「怖かったんだ?」
「小さい頃、って言っても小学生くらい、だから。痛かったの方が多分強かったけど」
「そっかそっか」
ジユウは、片足を持ち上げて、そっと優しくふくらはぎを撫でる真似をした。まるで、痛みを取り去るように。
「だから、犬が怖かったみたいだ。それを、シバくんを見つめてたら思い出した」
ごはんたけが、記憶を取り戻す方法じゃない。それがわかっただけでも、進歩だ。でも、私たちはここから出られない。
見つけられるヒントは、レストランの中にあるものだけ。
二人でぼおっとソファにもたれかかりながら、ポスターを眺める。いつだってポスターがやけに目についた。立ち上がって、ポスターを撫でてみる。ざらりとした紙の質感が、手に触れた。
それでも、都合よく記憶が浮かび上がるわけでもない。ジユウも立ち上がって、店内のものに一つずつ触っている。
「どんな基準があるんだろうね?」
ぽそりと、問いかけてみればジユウは、わからないと首を横に振った。そして、一瞬戸惑ってから、言葉を考えつつ話し出す。
「もしかしたら、間違いなのかもよ」
「私たちが、ここにいること?」
「そう」
「どうして?」
存在自体が間違いだったとは、思いたくない。でも、迎えに来ないという事実は、体に重たくのしかかる。
「食べ物の記憶が強い人が、レストランに来て。匂い、動物、見たもの、様々な記憶ごとに、どこか場所があるのかもしれない」
「走馬灯、って、映画館のイメージだよね」
「そうそう! 音とか、映像とかの記憶が強い人はそっちで」
ジユウの言うことも、もっともだと思った。だってここに来た人たちは、みんな、記憶の食べ物を口にしてる。
思い出の一品が、必ずある人だった。それに、人が来ないタイミングがあるのだって、それの証明に他ならない気がする。
「じゃあ、私たちは手違いで、食べ物の記憶のところに来てしまったってこと?」
「可能性は、ある」
レストラン内をぐるぐると動き回ったせいで疲れたのか、ジユウはフラフラと厨房へ向かっていく。何に触っても記憶は浮かびそうに無いから、私も後ろを歩いた。
「何か食べる?」
ジユウの問いかけに、首を横に振る。ここは、お腹も空かないから食べる必要はなかった。
「そっか」
ジユウは、冷凍庫を開いて、桃のシャーベットアイスを取り出した。ひんやりとした空気が、こちらまで漂ってきている。
そういえば、缶詰。シャーベットアイスにスプーンを差し込む、ジユウに問いかけてみる。
「ジユウって、缶切り使える?」
「缶切り? 使えるけど」
「開けてほしい缶があるの」
私の記憶が、入ってる気がするみかんの缶詰。少しの恐怖が、喉を詰まらせる。ごはんを食べて記憶を思い出す人々は、記憶にない記憶に怯えていた。それでも、記憶を思い出すたびに、幸せそうな顔をして語り合う。
シバくんを見て思い出したジユウの記憶は、怖いものだった。だから、食べ物とはいえ、料理として私に出されていない缶詰を食べて思い出したものが……怖い記憶だったら。
そんな予想に、臆病になってしまう。
「どの缶詰?」
厨房にあった缶切りをくるくると指で回しながら、ジユウは缶詰の棚を開ける。ジユウに置いて行かれてしまったら食べよう。
そう決めていたけど……
幸せそうなシバくんたちを見ていたら、私も少しでも、答えに近づきたかった。自分が、生きてきた日々に。
先に行った人が迎えに来れる確証はないけど、お互いが希望だって信じ込んで。
ジユウの横から、みかんの缶詰に手を伸ばす。不安と緊張が入り混じる右手は、ぷるぷると情けなく震えていた。
ジユウの手がしっかりとみかんの缶詰を持ち上げて、作業台の上で缶切りを差し込んでいく。
ギコギコという音を鳴らしながら、缶詰が開いていくのを見ると……
かすかにワクワクが、体の中で燻る。いつかの記憶が、蘇るような。
「はい」
スプーンを差し込んで、缶詰を渡される。受け取れば、甘いシロップの香りが、鼻に優しく触れた。
みかんの缶詰を手に持ったまま、作業台にもたれる。
当たり前のことのように、ジユウも私の隣でもたれかかった。
「思い出すの、怖い?」
アイスをしゃりしゃりっと食べ進めながら、ジユウは換気扇を見つめる。手をつけない私に、痺れを切らしたのだろうか。
思い出すのが、怖いというわけじゃない。
ただ……
もし、いい記憶じゃなかったらと言う心配が強すぎる。
「食べなくても、いいんじゃない?」
ジユウらしくない言葉に、驚いて顔を見つめる。らしくない、と判断できるほど私たちは時間を過ごしてきたわけじゃないのに。ジユウは私の手からみかんの缶詰を奪い取って、一口、一口と食べていく。
「あっま」
「返してよ」
「無理に思い出さなくていいよ」
それは、私に対する優しさから来る言葉?
それとも、置いて行かれる恐怖からくる言葉?
はかりかねて、ごくんっと唾を飲み込んだ。喉を伝っていく感覚に、吐き気を覚える。生きていないはずなのに、まるで生きてるみたいな体の動きに脳がついていけない。
「だって、ヒトカ。すげー顔してるよ」
シンクの右上にある鏡を、ジユウは指さす。足が絡みそうになるのを我慢して、鏡の前に立つ。困惑したような頬が引き攣った女の子が、そこには写っていた。
初めて見る自分の顔に、ひいっと悲鳴を上げかける。
思ったよりも、幼さの残った顔立ちをしていた。それとは、不釣り合いな目の下の不健康そうなクマ。中学生くらいの切っぱなしの黒髪の、女の子。
「私、こんな顔してたんだ……」
ぽつりと呟けば、鏡の端にジユウが映り込む。高校生くらいに見えるジユウと並ぶと、ますます幼さが際立つ気がした。
「鏡、初めて見たの?」
「ここに来てからは、たぶん」
「自分の顔もわかんねーってことあるんだな」
ジユウの言葉に、ハッとする。
私は自分の顔を見て驚いたけど、ジユウは普通のことのようにまじまじと見つめて髪の毛を直している。自分の外観の記憶が、ジユウにはあるのか。食べ物で蘇る以外の、自身の記憶の差に、戸惑いを覚えた。
何が違うんだろうか。
「ジユウは、どんなこと覚えてる?」
「どんなことって」
「私は自分の顔すら、記憶になかった」
ここに訪れる人たちだって、食べて思い出す記憶もあるけど。一定の記憶は持って来ているように、思える。
新婚後初めてのレストランに来た、夫婦。あの人たちは、結婚したところまでの朧げな記憶はあった。
付き合いたてのカップルだって、付き合い始めて初デートに来るという記憶はあった。だったら、ある程度の記憶はみんな持ち得て、ここに来てる。
でも、私は?
私の中に残ってるのは、物の使い方や食べ物のこと。そして、ジユウと話してるように言語くらいだ。
自分の幼い頃の記憶すら、保持していない。
ジユウは?
振り返ってジユウの顔を見つめれば、目が動揺でふるふると揺れていた。
「……わかんない」
「名前は覚えてないんだよね?」
「覚えてない。でも、ジユウって割としっくり来てるよ」
私から目を逸らして、髪の毛をぐしゃりと手で潰す。私も名前すら、覚えていない。はっきり聞いたわけじゃないけど、ここに来た人たちは名前を呼ばれても違和感なく返事をしていた。だから、名前の記憶もあったはず。
私は、ヒトカという名前に、しっくりも違和感も覚えていない。本来の名前に近いのかも、遠いのかも想像がつかなかった。
「家族構成とか、自分が学生だったとか……」
「学生だったと思う。部活やってたような気がするし、あと、料理はアルバイトしてたっぽい」
あやふやなジユウの言葉に、頷く。アルバイトしてた、か。
私はしてたんだろうか?
「家族は全然覚えてない」
「友達居たかも、私わかんないんだ」
「俺も」
ジユウとしばらく見つめあってから、こくんと頷く。
やっぱり、みかんの缶詰を食べよう。少しでも、自分を取り戻したい。このまま、何一つわからないのは、嫌だ。
それだけは、わかる。
作業台に置かれたままのみかんの缶詰を、持ち上げる。スプーンの上に、一粒だけ乗せて口へと運んだ。甘いシロップの香りの後に、ぷつりと酸味のある果実が弾ける。
そして……
「おいしい」
熱を出して、寝込んだ日のことを思い出した。誰かわからない優しい手が、頭を撫でてくれてる。名前は呼んでくれないけど、ただひたすら謝る声だけが、脳内で繰り返された。
「ごめんね、ごめんね」
切羽詰まったような、涙を含んだ切ない声。私まで、泣き出してしまいたくなる。そして、確かにそこに私が居ると実感させてくれるような、暖かくて、ゆっくりと動く手だった。
「大丈夫?」
ジユウがしゃがみこんで、私の顔を覗き込む。視界がぼやけてるのに、ジユウとの身長差に今更気づいて驚いてしまう。しゃがみこんでいるのに、同じ目線だ。
ジユウの手を引き上げて、立たせれば、少し見上げるくらいの大きな身長。
「私もジユウって最初から、こんな身長差だった?」
「え? うん?」
不思議そうな表情をするジユウの顔が、瞳に溜まった涙のせいかぼやけている。どうしてこんなに、違和感を覚えているんだろう。
「何か思い出した?」
泣きそうな私を慰めるように、頭を撫でるジユウの手が、記憶の中の手と重なる。優しくて、暖かくて、泣き喚きたいような力加減だった。
「熱を出して寝込んだ日に、食べたみたい」
「缶詰は、定番だよな。俺は桃の缶詰だ、った」
言いかけてからジユウは、ハッとした顔をする。そして、缶詰の棚をもう一度開けて桃の缶詰を取り出した。パキンっという音を鳴らしながら、タブを引っ張って開けていく。
「ジユウ?」
私の声に答えもせずに、ジユウは桃を一口頬張る。そして、首を横に振って、缶詰を私に渡した。
「ダメみたい」
「ジユウは、早く、あっちに行きたい?」
問い掛ければ、ジユウは「どうかなぁ」とわざとらしく明るい声色で告げた。
「ヒトカを置いて行きたくはないなぁと思うよ」
「でも、私たちの希望はどっちかが先に行くことだよね」
「俺たちの記憶の蓋をしてるのが、同じ食べ物ならいいのにな」
お互い、置いて行ってしまうのは本意ではない。迎えに来ようねと約束はしているけど、誰も居ない一人きりにはしたくなかった。だって、ひとりぼっちは、あまりにも寂しいから。




