生と死の間
ゴウくんを見送ったあとのレストランで、私とジユウはソファに寝転んだまま黙り込んでいた。
静寂だけが響いて、ただ時間が過ぎていく。不意に、ずっと黙っていたジユウが口を開いた。
「俺たち、本当に死んでんのかな」
ぽつりとつぶやいた言葉は、空間に広がっていく。お迎えのちりんちりんという優しい音は、相変わらず私たちには鳴らない。
私だって、自分が死んでるのか。死にかけてるのか。それとも、ヒトですらないのか。わからない。
だから、ジユウの問いかけに答えられなかった。でも、安心させたくて黙ってジユウの右手を掴んだ。
「なに?」
「死んででも、死にかけでも、私たちが二人いるってことには、何かあるんだよ」
ずいぶん楽観的で、ロマンチックな考え方だと思う。
でも、そう思わないと頭が割れそうに痛む。一人きりじゃないことだけが、今は救いだった。
ジユウの存在だけが、この空間の中で確かだ。
どれくらいの時をこのレストランで、過ごしてきたのだろう。どれくらいの人を、見送ったのだろう。
思い返そうとすれば、頭を締め付ける痛みが、わからなくさせる。つい、眉間に皺が寄ってしまっていたようだった。握っていたジユウの手が、私を引っ張って優しく抱きしめる。
「二人で、あっちに行こう」
あっち側の世界と、私が便宜上呼んでるところは。本当に、死んだ後の世界なんだろうか。ここの存在すらあやふやなのに。
それでも、ジユウの悲しそうな顔に、頷くしかできなかった。先ほどのカップルを、黙って見つめていたジユウ。私とは違って、新しい世界への渇望はないと思っていた。
あっさりとここが死後の世界であろうことを、受け入れたし。私みたいに、悲しみに包まれることもない。
それでも、不安な気持ちはあったのだろう。私を抱きしめるジユウの手は、震えていた。
「大丈夫だよ、いつか見つかるよ」
希望的観測を口にして、ジユウを慰める。それは、一人きりの自分自身には言えなかった言葉だった。
「そうだな。とりあえず、あるメニュー試してみるか?」
ジユウの提案に、頷く。私は、もうどれくらい食べたか数えきれない。けど、ジユウはまだ食べていないものの方が多いはず。
このレストランで縁を結んだ人が、お迎えに来る対象になるのかは不明だけど。少しでも、可能性があるなら掛けたかった。
それでも……
ジユウがもし、消えてしまったら。
私がまた、一人ぼっちになってしまったとしたら。
想像だけで、悲しみの海に沈み込んでいくように体が重くなった。首をぶんぶんと横に振って、ジユウを引っ張って厨房に向かう。
厨房はほんのり、冷たい気がする。これも私の想像から来るものなんだろうか。
わからないまま、ただ周りを見渡す。テーブルの上に置かれていたノートに手がついた。ぱら、っとめくれば、さまざまなレシピが書かれている。
私の手元を食い入るように見つめて、ジユウが息を止めた。不安になって、ジユウの服を引っ張る。
「ジユウ?」
「あっ……ごめん」
気づいたジユウが、戸惑いながらも顔を上げる。何に、そんなに惹かれたのだろうか。
聞いていいのか、聞いちゃダメなのか。想像がつかなくて、ただ、息を飲み込む。
私の手からそっとノートを取り上げて、ぱらぱらと捲り始める。ジユウの記憶にあるメニューがあったんだろうか。
喜ばしいことのはずなのに、身体中に絶望が広がっていくみたいだ。行かないで欲しい。それは、ワガママだろうか。
私と、ジユウは、何?
ただ、ここで出会った、だけの人なのに。
私の不安を吹き飛ばすように、ジユウがノートを私に見せつけた。そのページには、ブイヤベースと書かれている。
見たことのない名前だった。
私は知らない料理。
ジユウの、記憶のもの?
「これ、作ろうぜ!」
「いいけど」
「ヒトカって料理できんの?」
ジユウの質問に、小さく答える。
「わかんない」
だって、料理をしていた記憶はないし。ここに来てからも、やろうとも思ったことはない。だから、多分、得意ではないと思う。
自分自身のことがわからなすぎて、全部答えは「思う」と付けてしまった。
「俺が教えるから、一緒にやろうぜ! まずは、エプロンだよな」
ジユウの呟きに合わせるように、私の服装が変わる。ジユウの想像のエプロンだろうか。紅色の長いエプロンを、気づけば身に纏っていた。
「おぉ、いいじゃん! よし、じゃあまずは玉ねぎだな」
ジユウは私の不安なんか、一ミリも気づかないみたいに話を進めていく。そんな自由な姿が、羨ましいんだけども……
「ヒトカ、エビと、アサリとタラもあったら出しといて!」
ジユウの言葉に従って、冷蔵庫を開ける。まるであつらえたように、言われた食材が銀色のバットに入っていた。ひんやりとしたバットを持ち上げれば、手が冷たさに痺れる。
野菜を用意していたジユウの横に置けば、「おーよくわかったな」と呟いた。バカにしてるものではなく、純粋に思ったことだろう。そうやって考えると、自分に関する記憶はないのに、こういう記憶はあるのは不思議だ。大切な記憶だけが、ぽっかりと抜け落ちてるような。
「まずは、玉ねぎのみじん切りだな。ヒトカできる?」
みじん切り……と言われて、頭を捻る。私の反応に、できないことに気づいたジユウは、くすっと笑った。
「ヒトカはこっちのまな板と包丁な。危ないから、って言ってもケガをするかはわからないけど。気をつけて」
「うん」
「じゃあ、まずは玉ねぎに包丁を入れます。指はこういう形」
爪先を隠すように、ジユウが指を丸める。私も真似しながら、半分に切られた玉ねぎの上に手を置いた。
「んで、ここに刃を入れて、薄くしていく感じ。頭は繋げてな」
言われた通り包丁を進めていけば、びろんっと広がる玉ねぎが出来上がった。そして、ジユウは私を褒めてくれる。
「いいじゃん、いいじゃん」
急に恥ずかしくなって、頭が熱くなった。褒められるということが、初めてだった。ここに来てから、だけど。
当たり前だ。私以外誰もいないんだもん。
「で、九十度に切り込みを入れて、まっすぐ切っていくと、みじん切り!」
玉ねぎが、バラバラに細かく切り刻まれていく。私も真似すれば、ジユウのよりも大きい気がするけど、できている。
「うまいじゃん。意外にヒトカも料理してたのかもな」
「ジユウは、料理してた記憶はあるの?」
聞きたくないのに、唇は勝手に動く。
私よりも記憶がまだあるとしたら。
もし、ジユウは忘れてるフリで、本当は覚えていたら。
私を置いて、居なくなってしまう。そんな焦りが、頭をジリジリと焦がすように燃えた。
「多分?」
「多分、なんだ」
「料理したいって、思ったから。やってたし、好きだったんだと思う」
私も同じ程度の自分の記憶の解像度に、胸を撫で下ろす。ジユウもやっぱり、記憶はないんだ。
ジユウがニンニクを取り出して、同じようにみじん切りにしていく。強い匂いに、つい顔を顰めてしまった。
「これしばらく手が臭くなりそう、ほら」
私の鼻まで近づけた指先は、全く匂っていない。近くで切っているから、鼻が麻痺しているのかもしれないけど。
「あれ、わかんない?」
自分の方に指先を持っていって、ジユウがすんすんっと嗅ぐ。そして小さく「匂わないな」と呟いた。
「実体じゃないのかな、やっぱり」
はははと笑う声が、虚しく聞こえる。そして、ジユウは何事もなかったかのように、玉ねぎとニンニクを持ってフライパンの前に移動した。
「オリーブオイルで、まずにんにくをじっくり炒めまーす!」
実況しながら作るジユウを後ろから、眺める。フライパンはまるでそこにあるかのように、ジュワッと音を立てた。そこに、ニンニクを投入すれば、お腹が空きそうな匂いが広がっていく。
料理の匂いはわかる。それなのに、手には匂いがつかない。そんな事実が、私たちが死んだ後ということを自覚させてくる。
「いい匂いだよなぁ」
「なんで、ブイヤベースを選んだの?」
答えはないかもしれない。それでも、少しだけ気になった。
レシピに目を奪われた理由に、近づける気がしたから。
「作るのに時間かかるから。別にカレーとか、他のでもよかったんだ、時間がかかれば」
想定外の答えに、つい「え」と声が漏れ出る。時間がかかれば、なんでもよかった。その理由は、簡単に想像が付く。ジユウは、そんなそぶりを見せないのに、きっと不安だったんだ。
ジユウの背中に触れるように、手を伸ばす。確かに、そこに背中が合った。ジユウと私は触れられる。安心させるように、そっと撫でた。
ジユウは、くすぐったそうに身を捩った。そして、ぐすっと涙を飲み込む音を鳴らす。
「ジユウは、あっさり受け入れたから気にしてないのかとも思った」
そんなわけないのにね。死んでるかもと言われて、不安にならないわけがない。今ここにいるのに、生きていないかも。
かもしれない。
先ほどの彼女みたいに、もしかしたら、眠ってるだけかもしれないけど。
「不安だよ、そりゃあ。今考えてる俺はなんだって思うし。やりたいこととかも、合った気がするし」
震える声に、私も恐怖と、不安に包まれてしまった。だからぽつり、ぽつりと涙をこぼしながら、ジユウの背中を抱きしめた。体温の感覚はなくて、それでも、そこにジユウがいることだけはわかる。
「ごめんなさい」
「なんで、ヒトカが謝るんだよ」
「あっさり受け入れたから、ジユウは大丈夫な人なんだと思って、普通に話しちゃった」
「ヒトカが教えてくれたから、平気だったんだよ」
平気だった。
先ほどのカップルのやりとりを見て、自分の死を実感してしまったんだろう。その恐怖が胸に迫ってきた。だから、不安を打ち消すように、時間のかかる料理を作ろうとしていたのか。
きっと、ジユウは、料理で不安を誤魔化してきた人だったんだろうな。
じゃあ、私は?
不安になったら、どうしようとした?
考えてみたけど、思い出せない。来たばかりの時は、ただ、一人で泣き喚いていた気がする。誰もいない、ここで。
「エビとタラ、ちょうだい」
「うん」
ジユウからそっと離れて、先ほどの銀色のバットを取りに行く。ジユウに渡せば、音を立てるフライパンにエビとタラが放り込まれる。もうこのまま、塩をかけるだけでも美味しそうだった。そのまま手際良く、ジユウは焼き目をつけていく。
「もうこのままでも、おいしそうだよな」
「ね、私も同じことを思ってた」
焼き色がついた海鮮を取り出して、ジユウは玉ねぎを炒め始める。どんどん透き通っていく玉ねぎに、先ほどの彼女が重なった。
もし、生きていたら。
私も透明になって、消えていくんだろうか。
ジユウの背中と、自分の体を見比べる。はっきりとここに居ると、言える気がした。きちんと、目に映る。透けてもいないし、ぼんやりともしていない。
あさりをフライパンに入れてから、ジユウは水を流し込む。
「トマト缶! 用意し忘れた!」
「トマト缶、トマトのやつね」
「ヒトカ探してくれる?」
「もちろん」
厨房の棚を、適当に開けていく。プリンや、シャーベットを載せるようなガラスの器。オードブルとかが載っていそうなお皿。ここは、お皿ゾーンか。
隣の棚を開ければ、缶詰が所狭しと並んでいた。
パイナップル、マッシュルーム、サバ缶、カニ缶。
お目当てのトマト缶を見つけて、手に取る。トマト缶の横には、みかんの缶詰もあった。
どこかで、見たことがある気がする。
私の、蓋されてる記憶の中に、きっと、このみかんの缶にはあるはずだ。そんな想いが湧いてきて、扉を閉めた。
思い出したい。でも、ジユウを一人置いて、思い出すのはイヤだ。
「ヒトカー? ないのか?」
「あ、ううん、あったよ」
手に持ったトマト缶を上で振って、ジユウにアピールする。
あのみかんの缶のことは、覚えていよう。もし、ジユウが先に行ってしまったら。そしたら、開けて食べてみるんだ。
ジユウにトマト缶を渡す。ジユウがカパっと音をさせて、缶を開いた。
つぶされた真っ赤なトマトが、ぎっしり詰まっている。そのまま、フライパンに開ければ、もうすでにおいしそうなスープになっていた。
「うまそうだな」
「本当においしそう。ジユウ、料理上手だね」
「多分、よく作ってたんだろうな」
「手際もいいし、レシピ一回見ただけで作れるんだからきっとそうだよ」
こくこくと頷けば、ジユウは嬉しそうに口元を緩めた。口の右端に現れるえくぼに、目が釘付けになる。
そういえば、ここには鏡がないから自分の顔見たことない。ジユウには、どう見えてるんだろうか。
「よし、じゃあ、一旦あさりを避けるぞ。ザルとかある?」
お皿にひょいひょいとあさりを避けながら、ジユウに問われてもう一度棚を適当に開ける。
ザル、ザルと何度も口にしながら。ジユウの足元の棚に、入ってるザルを見つけて、顔を上げる。
くるぶしあたりに、目が止まってしまう。大きな、引き攣ったような傷跡がそこにはあった。
ジユウは気づいているだろうか?
「どうした?」
私をまっすぐと見つめるジユウに、誤魔化す。
「あったよ、ザル! ボウルもいる?」
「いるいる、さんきゅ!」
ジユウの過去に、何かあったのだろうか。覚えていないジユウに尋ねたところで、答えはないけど。
それでも、胸の奥で引っかかってしまう。見なかったふりをして、ジユウにボウルとザルを渡した。




