記憶のない人
食べ物の記憶がないと、あちらの世界に行くことはできないらしい。今まで訪れていた人たちを見て、学んだ。
それなのに、私には食べ物の記憶はない。多分。だって、何を食べても、私は思い出すことがないんだから。
静かなレストランの中で、ぼぉっとポスターを眺める。ポスターに映る女の子が、おいしそうにアイスを頬張っていた。私の記憶にあるレストランが、この形なんだろうか。それすら、わからない。憧れのレストランがあることだけは、うっすらと覚えているから、そこがここなんだとは思う。
ソファに寝転がってみれば、眠れそうな気がした。時間感覚もないし、眠るという感覚も、ないのだけど。
視界の端に、男の子が見えて驚いて起き上がる。
「あれ……?」
戸惑い気味なその男の子は、目の前の席に座っている。慌てて立ち上がって、お辞儀をしてみせた。
「いらっしゃいませ」
「あー、え、俺、レストランなんか来たっけ?」
困ったような表情で、周りを見回している。私も一緒に見回したけど、特に変化は起こらない。すぐに来るはずの、迎えの人も見当たらなかった。
「少々、お待ちください」
今まで無かったことに、戸惑いながら厨房へ向かう。厨房には、一個前のお客様のシャーベットと飲み物だけが残っていた。おかしい。もしかしたら、彼にも……思い出の味がないのかもしれない。私と同じで、迎えに来る人も。
ホールに戻れば、男の子はウロウロと歩き回りながら、観察をしている。戻ってきた私に気づいて、人懐っこい笑顔を見せた。八重歯がちらりと見えて、可愛いなと不覚にも思ってしまう。
「初めまして、名前なんていうの? 俺は……俺は?」
「多分、思い出せないと思います」
「えっ? 記憶喪失? 君も?」
驚いた表情をしてから、小さく「そうか」と呟く。私みたいに、取り乱したりはしないみたいだった。元々の性格が、冷静で落ち着いてるのかもしれない。
私は、どうだったけ?
パニックになった記憶だけは、ある。
「君は詳しいの? ここのこと」
「どれくらい居るかは、数えてないけど。結構長くいるからね」
「教えてよ」
男の子の問いかけに、答えるかどうか、一瞬悩んでしまう。自分が多分死んでる、と知ったら、パニックになってしまうだろうか。この様子だとすんなり、受け入れそうな気もするけど。
「とりあえずソファ席でも座ろうよ、私ジュースもらってくる」
「君は、ウェイターじゃないんだろ?」
「うーん、ただ待ってるのも暇だから、ウェイターみたいな真似事はしてる」
寂しさを、紛らわす手段でもあった。誰かと会話できる唯一の機会が、訪れた人たちに料理を出すタイミングだったから。
「じゃあ俺もそうしよ」
「えっ」
「料理担当、でもいいけど」
「料理できるの?」
男の子は一瞬、困ったような顔してから自分の手のひらを見つめる。そして、グーパーグーパーと手を動かした。
「多分? 好きだった気がしてる」
「そっか」
二人で並んで、厨房に行く。厨房には、お茶が二つ並んでいた。広々とした厨房には、業務用の冷蔵庫も、コンロも揃っている。今までこんなに詳しく厨房を見れたのは、初めてだ。この男の子がいるからかもしれない。
厨房を見渡した後、男の子は小さく唸った。そして、お茶に手を伸ばしながら問いかける。
「お茶にする? 君は、何がいい?」
「いつも、サイダー飲んでるんだ。数回前の女の子が好きだったやつで、おいしいよ?」
「じゃあサイダーにしよっか」
「シェフー! サイダーくださいー!」
シェフというのも、本当の名前ではない。でも、いつも料理を出してくれる姿の見えない料理人だから。シェフと勝手に呼んでいた。
いつもだったらすぐ出てくるのに、待てども出てくる気配はない。この男の子が、料理人として働くって言ったから……
適応されてしまったのかもしれない。
「シェフ?」
ちりちりとひりつくような感覚が、身体中を走っていく。また一人、いなくなってしまった。
姿を見たことも、会話を交わしたこともないけど。ずっと、一緒にいる唯一の人? だったのに。
寂しさが、全身を埋め尽くして、泣きたくなってくる。察したように男の子が、ポンっと私の肩を叩いた。
「冷蔵庫、開けてみようぜ」
ためらわずに、厨房の中に入っていく男の子。追いかけるように、足を踏み入れれば業務用の冷蔵庫の大きさに圧倒された。
今まで、入ったことなかったな。シェフに頼めば料理は出てくるから。
冷蔵庫の重たい扉を開けば、色とりどりの食材が目に入る。男の子は中身を一通り見てから、次の冷蔵庫を開けた。
キンキンに冷やされたお酒や、ジュース。お茶、牛乳。本当になんでも揃ってる。
「あ、あったあった」
いつもの瓶のサイダーが、目につく。そっと手を伸ばせば、男の子が取ってくれた。ふた瓶取り出して、一つを私に手渡す。そして冷蔵庫の扉を、バタンと閉めてホールに戻っていく。
自由気ままな彼に、少しだけ羨ましさを覚える。戸惑い、悲しみに暮れていた私とは、全然違う。二人でソファ席に座れば、その場にあったスプーンで男の子は栓を開けた。いつもだったら開いてる状態で渡されていたし、コップも用意されていた。
「すごいね」
「なんか、体が覚えてた。貸して、開けるから」
「お願いします」
男の子に瓶を渡して、開けてもらえるのを待つ。プシュウッと炭酸の音が響いて、泡がぷくぷくと浮かび上がった。男の子はごくりと一口飲み干してから、気持ちよさそうに目を細める。
「うめぇ。味はわかるんだな」
「うん、おいしいものはわかるよ」
「とりあえず、ここの説明してもらっていい?」
何から、話そうか。ここが多分死んだ後の世界で、人が迎えにきて。頭の中で考えてるだけでも、こんがらがってくる。
「ゆっくりでいい」
「ありがとう」
優しい言葉に、つい微笑んでしまう。今までウェイターとして、言葉は交わしていたけど、他の人と話すのはずいぶん久しぶりだ。視線がまっすぐ私に向いてるのは、懐かしい感覚だった。
「ヒトカ」
「えっ?」
「ヒトカって呼んでいい?」
私の、名前だろうか?
多分そうだと思う。胸の奥がくすぐったくなるけど、ただ頷く。
「名前がないと不便だし」
「でもどうしてヒトカ?」
「一輪の花が咲くみたいな、笑顔だったから」
多分、初めて言われた言葉に、身体中がこそばゆくなった。ヒトカという名前を、噛み締める。
一輪の花で、ヒトカ。
美しい名前だと、思った。そして、私の名前を呼ぶ彼にも名前をあげたくなる。
説明の前に、と頭を捻らせて考えてみる。一番しっくりくるのは、自由だ。
「じゆう…じゆう…」
でも、名前らしくない気もする。口の中で転がしていれば、炭酸を飲んでいた男の子が目を輝かせた。
「ジユウ? 俺の名前?」
「自由な感じがしたから。でも、名前っぽくないよね」
「いいよ、いいよ。なんか俺もしっくりくるから」
「じゃあ、ジユウって呼ぶよ」
ジユウは大きく頷いて、私の方に手を差し出す。おずおずと握り返せば、力強く上下に振られた。
「よろしくな、ヒトカ。相棒としてやっていこーぜ」
一人きりだった私の世界に、相棒ができた。いつまで居るかは、わからないけど。それでも、一人きりじゃなくなったという事実に、身体中の力が抜けた。
「それで、ヒトカが知ってることを話してよ」
「ショック、受けない?」
「まぁなんとなーく、予想はしてるから。多分大丈夫」
私の手を離して、OKポーズを作る。見た目年齢的には、同い年くらいに見えた。ジユウは、いくつだったんだろう?
私自身の年齢もわからないから、知っても意味がないけど。
ソファ席にもたれこむジユウを真似して、私もリラックスをする。本当は少しだけ、緊張していた。
迎えの来ない男の子が急に現れるし、シェフはいなくなっちゃうし、初めて厨房に入るし。
長い間人を見送ってきたのに、こんなことが起こると思いもしなかったから。
ふぅっと、長い息を吐く。そして、ジユウに向き合って、なるべくゆっくりと説明を始めた。
「ここは、多分死んだ後の場所だと思う」
「やっぱり、そんな気はしてた」
「うん……で、人が迎えに来て、ごはんを食べて思い出すの。生きてた頃の記憶」
「俺のごはんはないんだな。迎えに来る人も」
「それは、多分」
私にだって、わからないことの方が多い。だって、私も迎えが来てなくて、一人待ってるだけだから。
「食べ物で思い出す、か」
「記憶に残ってるメニュー? が出るみたいなんだけど。それは人それぞれみたい」
「食べ物に思い入れがない人間は、どうするんだろうな」
「多分、それが私たち、なのかな」
「そっか、ヒトカはどれくらい……わかんないんだったな」
久しぶりに人とこんなに長く話したからか、喉が渇きそうだった。だから、困惑も全て炭酸と一緒に飲み込む。
誰かと言葉のキャッチボールができる幸せに、涙が出そうだった。本当はずっと、寂しかった。
「寂しかった」
勝手に唇から言葉が漏れ出して、ジユウの耳に届く。ジユウが手を伸ばしてきたから、私も手を伸ばし返した。ぎゅっと握って、力強くジユウは口にする。
「二人で、やっていこうぜ! 相棒だろ?」
「う、うん!」
それは、今までの人たちみたいに新しい世界に行く手段を探すなのか。それとも、ずっとここで見送っていこうなのか。わからなかったけど、どちらでも良かった。
一人じゃないと言う事実だけで、今、私は心の底から安堵している。
「いつか、お互いが記憶を思い出して先にあっちに行ったら……お互いが迎えに来ようぜ」
ジユウは、満面の笑みを浮かべて私に小指を差し出した。いつか、が来るかはわからない。でも、ジユウなら絶対に守ってくれる。
そう思って私も小指を差し出す。二人で絡めあって、約束を交わした。
「よしっ! じゃあ、それまでは、二人でこのレストランやっていこうぜ」
「そうだね」
「ってか、俺来た記憶ないんだけど……」
ジユウが扉の方を、指し示す。あの扉から来る人は、もうここを出て行った人。あちら側へ行った人だけだ。そして、亡くなったばかりの人は、急にレストラン内に現れる。
私やジユウと、同じように。
「あそこから出ていくの。記憶を思い出した人たちは」
「なるほどね」
うんうんと頷きながら、ジユウは扉に手をかけた。そして、ぐっと力を入れて引っ張る。扉の上部についていたベルだけが、ちりんちりんと虚しい音を響かせた。
「開かないってわけな」
「大体の人は、ここが記憶のどこか、わかってるみたいなんだよね」
「どういうこと?」
「この前の人たちは、新婚の時に、引っ越して初めて二人で食べたレストランだった」
あの夫婦は、確かにそう言っていた。結婚して、遠距離だった二人が待ち合わせた思い出の場所。ここは、その人のイメージで、思い出の場所へと姿を変える。
私にも、ジユウにも変えてはくれなかったけれど。
それでも、そんなこともうどうでも良かった。たった一人きり、凍えるような時間を過ごさなくていい。これからは、隣にジユウが居てくれる。その真実だけが、身体を温めてくれるような気がした。
「ふぅーん、俺には普通のファミレスに見えるんだよな。ほら、あのポスターとか」
ジユウの言葉に、顔をあげる。ポスターには、アイスを頬張る女の子。バニラアイスに、ストロベリーアイス、色とりどりのアイスが、目を惹く。
「アイス、食べたことねーけど」
「女の子が、アイスを食べてる?」
「うん、え、どう見えてんの?」
「ううん、全く一緒。一緒だから、驚いたの」
だって、今までの人たちは、違う場所を想像していた。あそこにあるポスターに、誰一人気付かない。
料理を運ぶ時には、レストランは姿形を変える。初めて、同じ場所を見る人に出会ったのだ。
「私たちの思い出の場所も、同じなのかなぁ」
「どうなんだろうな。記憶ない二人だから、ベーシックな光景なのかもしれねーよ」
ジユウは、私の言葉にドライに返す。それでも、それもそうかと私も頷いてしまった。寂しい、羨ましい、悔しいという感情ばかりで、私の心は枯れていたのかもしれない。あっさりと受け入れた自分に、驚きながらもソファに寝転がる。
「次の人、いつ来るかなぁ」
「それも不思議なんだよな、俺」
「どうして?」
「いや、人が亡くなるのって、もっと多そうじゃないか?」
明確に時間を測ったことはないけど、言われてみれば確かに。このレストランに頻繁には、人は現れない。
ここに来るには、何か、条件がある?
例えば?
考えてみても、答えは浮かび上がりそうになかった。
「条件があるのか? だとしたら」
ジユウはぶつぶつと唱えながら、ホール内を歩き回る。そして、ポスターやテーブル、様々なものを触ってみせた。
「俺にも、ヒトカにも、食べ物の記憶、あるんじゃないか?」
あったら、料理が出てくるはずだよ。そう言いたくなって、黙り込む。でも、そうかもしれない。だって、ここに来る人はみんな、思い出の料理を食べて、記憶を思い出して、あちら側へ出ていくのだから。
テーブルの脇の窓を眺めても、うっすらと昏い色しか見えない。空とか、あちらの世界とか、見えたらいいのに。




