あいつとの思い出
あいつの自己紹介を覚えています。
私が高校一年生。四月十一日のことでした。
自己紹介の時、あいつは他の男子と違う雰囲気を持っていました。大きいのは落ち着きでしょう。思春期というのは、自分がどこに向かっているのか不安でたまりません。
だから、周りを意識しますし、あるいはそのアンチテーゼとして『周りを意識していない自分』をアピールします。あいつは周りの情報をただ客観的に受け入れようと努めているのが、分かりました。
あいつは浅いお辞儀をしたのち、こちらを見ました。あいつは私たちのほうを見ていたはずなのに、実際は誰も見ていない。私はそんな印象を受けました。
「川籏 瑞希です。趣味は読書です。よろしくお願いします」
小さいのに、良く聞き取れる、不思議な声質を持っていました。音程は高めだったと思います。そのうつろとも神秘的とも取りうる瞳の上には、黒々として長いまつ毛が下りていました。どこか男装した女性にさえ見えるようなしなやかさを持っていました。
休み時間、そんな物珍しいものに五人くらいの女子がやってきて、入れ代わり立ち代わりで次から次へと質問をぶつけていました。息継ぎする暇もなく、左や右から発話が飛んできます。
何か答えるたびにオーバーに茶化されて、それをあいつが恥ずかしそうに微笑んで、それを見た女子がまるで悦に浸るみたいにして、また質問していました。ある女子が、あいつの話を乗っ取って、自分の自慢話をずっとしだして、それで場の空気が白け、結局次の授業が近かったこともあり、散り散りになりました。
男子たちは、どちらかというと薄気味悪がり、近寄りませんでした。夜道で真っ白な着物姿の美人の幽霊を見たような、あの感覚です。綺麗であると同時に、気持ち悪い。私もその気持ちが分かりましたし、近寄りたくないと、この時思っていました。
私とあいつが、最初に会ったのは、男子トイレの入り口辺りでした。四月の終わり頃の出来事だったと思います。私が下を向いて歩いていました。それであと一歩の危機で、あいつが私に気が付き、唸り声とともに慄きました。お互いに後退りをした。
そうして、動けない時間が続きました。この気まずい空気は嫌でした。このまま立ち去ればよかったのに、至近距離で視線を合わせたのが宣戦布告のように感じて、無言のまま行ってしまうのは挑発行為に、私は思えたのです。
私が「ああ。ええと。悪いね」と言って、先陣を切りました。あいつは、後出しじゃんけんみたく私の対応をジッと観察したうえで、私の謝罪を恥ずかしそうに受け入れるしぐさを見せました。
「こちらこそ」
あいつは、私の動作―――自分の動きなんて分からないので、私の想像する私の動作―――をそのまま模したみたいでした。それをやられると、悪い気はしません。あいつが緊張を崩すように、肩と首を動かしてジェスチャーをし、そのまま行ってしまいました。
放課後に下駄箱で靴を履いていると、「青川君」と呼びかけられました。私が振り返ると、あいつがいました。あいつが自分から話しかけたというのに、居心地悪そうに微笑して、嘘くさく嬉しそうにしていました。そうして、慌てて靴を持ってくると、何気なく私の隣で靴を履き、ぴったりと横をついていきました。
校門を出て左側にはボロボロの黄色い看板のある雑貨屋さんがありました。そこを通り過ぎる頃も、あいつは私の横にいました。そこで、あいつが私と一緒に帰ろうとしているのだと気付き、少々不快な気持ちになりました。その時、こいつは失礼な奴だと私は思っていました。
「青川君は…」
あいつが何かを見計らうように、切り出しました。
「青川君はここ出身なの?」
私は自分から話すつもりなんてありませんでしたが、無視するのもかえって面倒くさそうだったため、「ああ」と生返事をしました。それに男子トイレの前で会ったあいつは、相手の方を動かそうとするやつだと思っていたので、その意外性も返事をする動機になりました。
「俺は、仙台から来た」
私はあいつの言ったことにうなづいて見せました。別にそこに対して、私は興味がなかったんです。
「自己紹介の時に言っていた読書、本当に好きなの?何が好きなの?」
あいつの考え込む姿を見て、ますます疑念を深めました。ただ、その後、賞を取っていた流行りの大衆文芸作品をいくつか挙げていたので、まあ、あいつの言っていたことは本当なのかもしれないと、私は感じました。
「趣味が噓くさかった」、と私が言うと、あいつは怒らずに呆れ、ある種の私への軽蔑を向けて、「そんなしょうもない嘘つかないよ」と言いました。
でもその軽蔑のセリフのほうが、女子たちと話している時のあの聖君じみた穏やかさよりも、よっぽど生命の血を感じられて、私は好きでした。
こうして、あいつと私は、帰り道が同じ方向であることを知りました。
小倉と武中という、入学時以来からの私の友人がいました。あいつと仲良くなる少し前からの私の友人です。
私を含めて三人は帰宅部だったため、よく家に帰っては通話をしながら、オンラインゲームをしていました。当時流行っていた銃で撃ち合うFPSというジャンルの対戦ゲームでして、その中で小倉が図抜けて、上手く、私が真ん中ぐらいで武中が一番下手でした。
しかし、小倉はゲーム中に暴言を吐くタイプで時々味方に言うことがあり、そういう時はいつも武中が逆ギレしているのでした。小倉は、顎がやけにとがっていて、顔に病人のような窪みがあり、青髭のそりのこしがありました。しかし、小倉の父は銀行員らしく、私と武中が驚いたのを覚えています。
一方の武中の方は、肥満気味で、高い声で喋るため、マスコット的な可愛げが無くは無いのですが、実際は自分の失敗を他人に押し付ける性格の持ち主であるため、その微々たる可能性さえも消し飛んでしまっています。
小倉と武中と私で、武中の席の周りに集まって話していると、ある女子が私の後ろにすうっと近づいてきてきました。井上という名前でした。井上は、私が気付くまで背後霊みたく立っているんですから、毎回驚かされ、気分が悪くなります。
私が井上に気付くと、小倉と武中との話題が途中であったにもかかわらず、彼女が私に何かを話し始めました。
「誰かが忘れ物をした」。「誰かと誰かが不純異性交遊をしているらしい」。「誰かが教員の悪口を言っていた」。
否定せずに嵐が過ぎていくのを待ちました。私は心底嫌がりながらも、また、同時に怖くもありました。井上の意図が分からないからです。
井上は平均よりもやや小さい身長で、大きなまん丸の顔をもっており、二つ結びの結び目の位置が微妙にずれていました。井上のスカート丈は長いのですが長いというよりサイズが合っていないといった感じで、顔の右頬にかけて多くの赤いニキビ跡がある女子でした。
井上は、他人のミスや悪行に人一番敏感でしたが、自分が善行をしているわけではありませんでした。
というのも、ある時、井上がとんでもない失敗をしてみんなに迷惑をかけた場面があったのですが、その時言い放ったのは謝罪ではなく「みんなやっている!」でした。それが井上を表しているように思えます。
ある程度聞いてやると、話の途中で自分の席に帰っていきました。まるで、独り言を終えたかのようでした。
「また、話しかけられてんじゃん。もう告っちまえよ」
私はそのつまらない決まり文句にため息を返しました。しばし、モテない男は勘違いしやすいなんて言いますが、私の場合、世の中のそういうものに冷めた考えを持っていたため、全くと言っていいほど興味がありませんでした。
井上の気持ちはどうでもよく、私は彼女のことが嫌いでした。むしろ、井上が私のことを好きで、一生ダルがらみを続けてくるのを想像したら、怖くなりました。
さて、あいつとの話に戻りましょう。
五月の終わり頃。ぼちぼち学校にも慣れてきた時のことです。
私は小倉と武中としばし一緒に帰るのですが、この日は下駄箱であいつと会いました。私を見るとあいつは少し嬉しそうにしたんですが、小倉と武中を見て知らんぷりをしました。
普段だったら無視するものの、私はあいつを手招きで呼び寄せて、小倉と武中に紹介しました。「へえ。お前、川籏と仲良かったのか」と言う武中に、私は肩をすくめました。仲の良さは一度一緒に帰った切りで、今呼び寄せた理由は本当に私の気分が良かったからだけでした。
あいつは自分から発言することはしませんでしたが、気を遣った小倉と武中の問いには答えていました。それが面倒くさいものではなく雑談として成立しているものだったために、小倉と武中もすっかり気に入っていた様子でした。
今日は、クラスで文化祭準備の議論をしたのですが、後ろの方の席に何か決まるたびに、大きな声で笑う不良気質な男子たちがいました。それが起こるたびに、私たちは心底不快な気分になりました。
本人に直接言うのは怖いので、今こうして、あのうるさいに低能者に対して悪口を言い、誰が一番酷い中傷をできるかチキンレースを行っていました。
話の中心は小倉と武中でしたが、私にも振られるのでそれっぽいことを言って返してやりました。それから、段々と調子に乗ってきたのか、初対面のあいつにも話を振るようになりました。
あいつは、決して悪口を言いませんでした。私に見せたあの嘲笑はすっかり潜め、あいつは恐ろしいほどの暖かく優しい表情を終始浮かべ、冷静に考えると支離滅裂なはぐらかしをやってのけました。
私はその奇妙な様子を興味深く眺めており、あいつを紹介してよかったと、心の中で祝砲をあげていました。あいつの白いワンピースは、例え泥を浴びせられても、汚れることはなかったのです。
駅で小倉と武中と別れ、私とあいつは電車に乗りました。いつも、一人で帰るのは何とも言えない不安感があったのですが、それが無くなりました。
「悪いね」
電車に乗って、次の駅に到着する直前くらいで、私はそう言いました。「いいや」、と優しい声のあいつを、追いかけるように問いかけました。
「ろくでもない奴らだろう」
「青川君は違うのかい?」
間髪入れずに帰ってきた返答で、私ははっと顔を上げて、あいつを見ました。意趣返しのつもりだったのでしょうか。仮託的なものだと思われたあいつが、生命の新陳代謝を始めました。
それから、この時、もう一つ別の話をあいつとしました。あいつの取り巻きの女子の話です。あいつは意外にも「実は男子の友達が欲しい」と、驚くほど素直な様子で言いました。
「別に作ればいいじゃないか」
私が言うと、あいつは力なく首を振りました。
「女子が嫌いなの?」
私はさらに気分も高鳴らせてこう付け加えました。
「恋愛は?」
あいつは、「別に、女子が嫌いなわけじゃない」と前置きして、「ただ、女友達に偏りすぎるのは良くない」と、普遍的な定理を述べるかの口調で言いました。その後、「恋愛は嫌いだ」と感情を込めて言ったので、私を喜ばせました。
私はすっかり、あいつに対して親しみを持ちました。そして、前々から気になっていた恐ろしい疑念を、最も打ち明けるのに適した目の前の男に打ち明けました。
「井上がよく、俺に話しかけるんだ。はたして、俺のことが好きなんだろうか?」
あいつが、「残念だけど、そうじゃないと思う」、と申し訳なさそうに言いかけましたが、嬉しそうな私の顔を見て、何かを察し、あいつもまた嬉しそうな顔をしました。
あいつは随分とリラックスした様子で、「井上は、バスケ部の中村が好きなんだ。だから、安心しなよ」と、言いました。
勝気な井上が激しく落ち込んでいて、周りにいた女子たちがひそひそ話ばかりしていたので、察しました。その日は絡んでくる気配がなく、嬉しかったのですが、ある時意を決したように立ち上がって、どかどかと私に近寄り、いつも以上に大きな声で話し始めました。
「辛かったんだろう?振られたんだってね」
私はこれまでの鬱憤を晴らすように、嘲けてやりました。井上の瞳には、部下に殺される武将のような、侮りが含まれていました。それを見て、この女は心底を俺を見下していたって思い、お互い様だなあと心の内で笑いました。
これ以来、井上と話すことは一度もありませんでした。
それから、あいつと放課後ご飯に行く約束を何とか取り付けました。私は、私がどれだけ気持ち良かったか、それを雄弁に語りました。
しかし、あいつは、「ああ、まあ、振られるよね」と、私の話を無視して淡々と事実のみを言いました。「あの子の取り巻きの女子が、持ち上げたんだよ。『いける』って。なんであんなことしちゃうかな…」、と心底迷惑そうに、ため息を交えて言いました。
私が詳細を聞くと、あいつは私をちらりと見て、ためらいながら話し始めました。その話を聞いて、私は生まれて初めて、井上のことを本当に本当に好きになりました。
正義の顔をしていた井上が、平凡でつまらない恋愛などと言うものに現を抜かしていたのです。ましてや、ポエムを書いて、自分のことを悲劇のヒロインじみた形容をしていたのですから。
「みんなやっている!」という発言を聞いた時から、井上はそういうものを持っているのだと、私は確信していました。ですが、こんなにも完成されたものだとは思いませんでした。
どこかからこの情報を持ってきたのですから大したやつだと、私はあいつに感嘆しました。あいつは、女子のコミュニティにすっかり馴染んでいて、更には複数のグループにも繋がっているおいしいところを確保していたわけです。
「一回入っちゃえば、案外何とかなるものだよ。踏んじゃいけない場所を踏まなければ」
あいつはやや自嘲気味に答えました。
私たちは、それから二人で会うようになりました。あいつは予定がいっぱいでしたから、私と会うのは数えるくらい。それでいて、私たちの間にはどこか常に繋がりがあって、時間的な合間と合間を何かが橋渡ししてくれている気がしました。
小倉と武中と私の三人でいて、あいつがたまたま一人の時は、そのまま合流しました。その時は、いつもの優しく白々しいあいつであって、その違いも好きでしたし、その違いを知っているのが俺だけというのも心地良いものでした。
夏休みの際も、一番通話したのは小倉と武中でしたが、あいつとも何度か会い、後者のほうがよっぽど印象に残っています。
十月。珍しいことが起こりました。かねてから、武中の様子がおかしかったのですが、四人でご飯を言った時に、どうやら野平という女子と良い感じになっていると言い始めました。
ソーシャルゲームの話で意気投合したそうですが、私は初耳だったので、「どういう経緯で仲良くなったのか」としつこく問い詰めましたが、「いやあ、成り行きで」とはぐらかすばかりでした。その話を信じられなかった私が、加勢を求めるようにあいつのほうを見ると、あいつは視線をそらしました。
武中はその野平について話し始めました。深夜まで長々と通話をしていて、下の名前で呼び合い、なんともし自分たちに子供ができたらどんな名前にするかという話までしているそうです。私は段々と、罵詈雑言をいくら並べても並べきれないくだらないこの話にイライラしてきました。
また、野平が誰であったか、思い出してきました。「野平は廊下に広がって友達と話し、俺が通り抜けた時に舌打ちした、身勝手でろくでもないやつだ」と言ってやりました。小倉は茶化すようにニヤニヤし、あいつは不安そうな顔になりました。武中は湯気のように怒りが沸き上がっていました。
「みきちゃんになんてことを言うんだ! お前が、無理矢理通り抜けようとしたんだろ! お前が悪いんだろ!」
武中が突然大声を出しました。ろくでもない奴が、正義と使命に駆られ、さも清廉潔白なようにふるまっているのです。もうこの際、言ってやろうと思いました。
「俺はお前のことがよく分かっている。不良の陰口をネチネチといい、FPSで撃ち負ければラグのせいだと糞みたいな言い訳をし、勉強なんて役に立たないと放棄し逃げ続ける。なのに、大好きな女のために義憤をするのか。お前は自分の状態を認識すらできなくなったわけだ」
「大きな声を出すなよ」、と小倉が私をあざけました。今度は、あいつが武中の方を説得しました。それでいったん落ち着いたんですが、武中は終始私をにらみつけてきて、私はそれを知らんぷりすることで、対抗しました。
それから一週間、小倉とも武中ともあいつとも話さなかったのですが、あいつから突然連絡が来て、放課後来てほしいと言われました。私とあいつ二人で行くと―――前回とは違うお店でした―――、小倉と武中が待っていました。武中は、終始下を向いていました。
「仲直りしたいんだ。せっかく、入学以来の友達で夏休みも遊んだのに、もったいないじゃないか。もう一度、話し合えば分かり合えるかもしれない」
あいつは、あまりにも綺麗ごとで聞いているこっちが恥ずかしくなることを、さらりと言ってのけました。そして、元々、私と小倉と武中のグループだったのに、いつの間にかあいつが主導していることに気が付いて、私は苦々しい気持ちになりました。
その後、「まあ、うまいもんでも食おうぜ」と言って、小倉は笑い出しましたが、誰一人として追随せず、せっかくあいつが作り出した居心地の良い雰囲気はぶち壊されました。
武中がずっともじもじとしていましたが、意を決したように話しだしました。
「腹立ったけど、でも、俺が勝手にお前のことを決めつけたのは謝るよ。俺もみきちゃんに相応しい男になりたいんだ」
相変わらず、自分に酔っているのは変わらないものの、それでも武中は謝罪しました。そう来られると怒るわけにはいかなくては、私はただただ頷いていました。
しかし、私は決して謝りませんでした。「俺は正しい事を言ったのに、なぜ謝罪しなければならないのか」と考えていました。あいつが何度か、私の謝罪の言葉を引き出そうと誘導しましたが、私は断固拒否しました。
手記を書いている今、武中の方が大人だったと思います。結局、野平みきちゃんとの恋愛は実らなかったのですが、武中は二十代後半で妻子を持つことができました。
風の便りによると、幸せにやっているようです。妻子を持つことが偉いことではありませんが、見知らぬ他人と同居してもやっていてるだけの社会性を身につけたということでしょう。
十一月初頭。私はついに、あいつの家に招待されました。あいつの家は郊外の住宅街にあって、その場所はやけに家と家との間隔が広く、家自体も大きかったことを記憶しています。チャイムを鳴らすと、あいつはドアを開けて出迎えてくれました。
靴が散乱しているなんてことはなく、こんなにも広いのに四足くらいしか出ていませんでした。私はそれらに倣い、丁寧にそろえて、その四列に私の靴を加えました。それはどこか、この大きな家の一員になれた気さえしました。
あいつは紅茶を淹れるといって、キッチンへ行きました。何も言わずに、私たちはただ黙ってソファーに座っていました。私は、天井で回転している謎の羽をじっくりと観察していました。大きなテレビの棚には、いくつかの写真があり、恐らく母親とのツーショット写真が飾られていました。
私はあいつの部屋に案内されました。本棚がたくさんあり、やや暗い部屋でした。
「俺は恋愛を嫌いと言ったけれど、この本は好きだ」
あいつは、私にツルゲーネフの『はつ恋』を見せました。
「これは『はつ恋』がテーマなんだろう?」
「いいや違う。これは少年性と父性が本質であって、はつ恋は手段でしかない。恋愛を使わずに、この作品を再構築できるはずだ」
「ヘッセの『車輪の下』はどうだろう?」と私が挙げました。
「あれも終盤に恋愛じみたことをやるじゃないか」
「他の本も見てみるか」とあいつは言い、自分の部屋に入り込んでいって、本を探し始めました。
「恋愛は必要ない。恋愛なんて分かりやすいものを使わなくたって、人の繊細さを表現できるはずだ」
あいつは私に背中を向けたまま、猛烈な革命戦士のように、高々と言い放ちました。
それから一時間くらい、本の話をしました。あいつは、「そうだ。一緒にやりたいことがあるんだ」と言って、またキッチンのほうに行きました。
「俺は本当は、お菓子作りが好きなんだ。読書も好きだけどね」
あいつがなんでそんな恥ずかしそうに言うのか察しつつも、私はそれを言わないようにしていました。なのに、あいつは、「ひどい趣味だろう?女みたいだ」と言い始め、私に赦しを請うように大きく手を広げました。そんな自虐に私は苛立ちました。「男も女もない。お前の趣味だ」。私は怒りをこめて、強くぶつけました。
あいつといる時間が楽しかった理由の一つに、優しくなれた気がしたことです。私が、熱いクッキーを触って手を引っ込めた時、あいつは近寄ってきました。
あいつが、無塩バターを探していた時、私も覗き込みました。あいつの無塩バターが見つからないという悩みと、「あいつが無塩バターを見つけられない」のを見ている私の悩みが、同化し溶け合っている気がして、幸せでした。
あいつは、その後しゃがみ込みました。子供が砂場に流れる川を、ただ眺めるかの如く、オーブンの中を覗いていました。その顔には、自分の意見を押し通す利己的な生命の血と、そのような個としての生命本能に対する英雄的抵抗がありました。それを見た時に、私はしみじみと良い事だと思いました。
私の中で、それは咲きました。しかし、私が咲かせたくて咲かせたのではありません。溜まった水がいつかあふれ出るよう、避けられないものです。花が咲いたということは、その前につぼみがあったということだ、と強調しておきます。
一月二十七日。
学校で北海道に、スキーをしに行くことになりました。修学旅行に近いのですが、修学旅行とも違うイベントでした。修学旅行は、三年次に改めて海外に行ったことです。普通は五人部屋なんですが、運良く唯一の四人部屋を当て、希望通り私と小倉と武中、そしてあいつになりました。
部屋の班とは別のスキー班ではカップルがいて不愉快でしたが、リフトの際に同席した斉藤という男子とはアニメの話で盛り上がったので、そうやって凌ぎました。
スキーが終わり、お風呂の順番待ちの際に、私たちはベッドに寝っ転がりながら雑談をしました。
ゲームの話、それから噂話、そして女子の話。女子の話と言っても、誰一人交際の経験がないので、小倉と武中は案外好かれる自慢をし(実際には付き合えていない訳でやればやるほど虚しいものでした)、私は悪口を言い、あいつは聞き手に徹していました。
男子の話はしませんでした。それは、私たちの友情のこの空間で別の男子の話をするのは、私たちの絆を引き裂く浮気に思えたからです。
私は、あいつがいつもよりも二人に対して相づちをしている、気がしました。もっと俺の話に、相槌を打ってほしいと思いました。話が尽きてきた頃、小倉があいつに向かって、「女子と一番仲良くしている」と言い始めました。
「そうでもないけど」、とあいつは苦笑いしました。「いや、お前が女子と付き合ったら、俺たちと遊んでくれなくなるかも」と小倉が自虐を飛ばし、武中が「優しいから、遊んでくれるでしょ。優等生だし」と言いました。私は、小倉と武中があいつのことを何も知らないことに、今までにないくらい苛立ちを覚えました。そして、あいつがいなくなるのを想像しておびえました。
「そういえば、お前は女子の中で誰がタイプ?」
話が続かないことを察した小倉は、私に標的を変えました。話を振られた私は「北岡」と答えました。
「あー、誰にでも優しい女子だよな。お前、そういうのが好きだったのか」
小倉がニヤニヤとしてきたので、私は続けました。
「優しい人間なんていない。俺は北岡の醜い部分を公衆の前にさらけ出し、真実を示したいだけだ」
やや引き攣った笑みを浮かべる小倉を無視して、私はあいつのほうを見ました。そうして、「なあ」と呼び掛けて、意味ありげに微笑みかけました。まさか自分が矢面に立たされると思っていなかったあいつが焦っているのが、私は分かりました。
「知っている?実はこいつ結構、面白…」
私はこの時、全能感に浸っていました。私は、私だけが知っていることを今ここで放つのです。これがどうなろうとも、上手くいくものだとなぜか確信していたのです。間抜けな小倉と武中でさえ、どこか異様な空気を感じ取って、黙りました。
そして、あいつは突然ベッドから降りると、スリッパのまま部屋を駆け出していきました。私はどこか勝利したつもりでさえいました。
しかし、時間が経過するととともに、あいつが心配になり、段々と寒々しい気持ちになりました。私も部屋を出ました。夜とは違い、教師がまばらで、簡単にホテルの外へ出れたのを覚えています。外には、目を焼きつぶすようなオレンジの夕陽があり、それが雪を伝い反射しました。
あいつは、駐車場のはずれにいました。向かいの林側から、ハシブトガラの鳴き声が一斉に聞こえてきました。木々の間から夕陽はすり抜けて、まるで押し寄せているように見えました。あいつは、恐らく初めて、激高に近しい顔をして、私に怒鳴り声を浴びせました。
「この絆は俺たちだけのものだったのに! 青川君が無価値にしたんだ!」
夕陽は落ちていきました。かじかむ中、雪の上、私は跪き、ただ一身にあいつに懇願しました。薄暗さと涙であいつの顔はよく見えませんでした。何も聞こえませんでした。
それからして、ある男性教師が怒鳴り声を上げて近づいてきて、私たちは教師の部屋で長々とした説教を受けることになりました。解放された時、あいつに話しかけましたが、ただ真っ直ぐと視線を向けたままで、そこであいつが私を許していないのだと理解しました。
こうして、その行事は終わりました。
男子でありながら、女子的なものを内包していたに見えたあいつも、今までの遅れを取り戻すかのように男性になってゆきました。この世のものとは思えなかったそれが、現実に馴染み、平均化され、溶け込んでゆきました。
それに伴って、あいつの神々しい不気味さも消え、男子たちも普通に話しかけるようになりました。女子が好きだったあいつの穏やかさは、男子も好きでしたから、すっかり同性の友達もたくさんできて、私はあいつの唯一の親友ではなくなってしまいました。
更に恐ろしいことに、私だけに見せていたドス黒さを、他の男子にも自然に見せるようになっていったのです。文字通りの無価値になりました。
私は二重の意味で、あいつを失いました。
逆に、女子たちのほうが、男性らしくなっていったあいつを警戒しました。何人かの女子は、自分たちの望むあいつがいなくなっても、未練がましく近づいてきて、交友を維持しようとしていましたが、女子同士の眼やあいつ自身のやる気のなさもあって、長続きませんでした。
あいつは、女子がいなくなっても何も変わりませんでした。別に女子から話しかければ、今までのことを再開させたように、あいつはあの親しみをもって答えていました。むしろ、新しくできた距離感を喜んでいるようにさえ見えました。
なぜ、こんな手記を書くことにしたかというと、あいつから連絡が来たんです。「久しぶりに会わない」かって。ですが、迷っています。だって嫌でしょう。あの夕陽が、退屈な社会人に上書きされてしまうのは。人生の難しさくらい、この年になれば、私にだって理解できました。
もちろん、あいつのことだからモテているのかもしれないけれど、そうではないんです。大企業や難関大学に属したかもしれないけど、そうではないんです。
どちらにせよ、消えてしまう前に、あいつとの思い出を書き残しておきます。




