水たまり
男は、
自分の人生が完璧だと信じて疑わなかった。
28歳。
誰もが知る大企業に勤め、同世代の中でも群を抜く給与を得ている。
容姿も端麗で、会話の機微にも長けていた。
学生時代から、学業、スポーツ、芸術、何を始めてもすぐに頭角を現し、少し練習を積めばあっという間に頂点に立つことができた。
その経験こそが、「やればできる」という揺るぎない自信の源泉だった。
人間関係も、恋愛も、難関大学受験も、熾烈な就職活動も、確かにそれなりの苦労はあった。
だが、
最終的にはすべて彼の思い通りに収束していった。
完璧。
まさにその言葉がふさわしい人生だった。
あの出来事が起こるまでは。
その日は、海外の大口クライアントとの重要な商談があり、いつも冷静沈着な彼にしては珍しく、胸の奥でわずかな緊張が波打っていた。
いつものように足早に駅へと向かう途中、ふと視線を落とした瞬間、巨大な口を開けたような水たまりが、アスファルトの真ん中に広がっているのが目に入った。
避ける間もなく、彼の右足が水たまりの底へと吸い込まれていく。
ぐちゃり。
情けない音がした。
冷たい水が、瞬時に革靴の隙間から侵入し、分厚い靴下を濡らし、皮膚へと張り付く。
一瞬の浮遊感と、全身を這い上がるようなぞっとする寒気が、彼の背筋を凍らせた。
不快感に顔をしかめながらも、彼は急ぎ足でその場を後にした。
商談は、まるで水の中にいるかのように、全ての歯車が噛み合わなかった。
彼の練り上げたプレゼンは響かず、クライアントの言葉も、彼の頭には水を含んだスポンジのように重く、ぼんやりとしか入ってこない。
結果は、まさかの契約白紙。
会議室を出るなり、普段は温厚な上司から、かつてないほどきつく叱責された。
「おい、どうしたんだ。いつものお前らしくないぞ」
その声が、遠くで響く水音のように聞こえた。
彼の脳裏には、クライアントの担当者が着ていた薄い青色のブラウスが、嫌な色として焼き付いた。
鉛のように重い足取りでオフィスを出た彼は、いつものカフェ「ブレイクタイム」で彼女と会う約束をしていた。
空は鉛色に変わり、急な雨が彼の肩を濡らしていく。
待ち合わせ場所に着くと、水色の傘を差した彼女が待っていた。
彼女はすぐに彼のただならぬ様子に気づき、水色のハンカチを差し出してくれた。
「どうしたの? ひどい顔だよ。雨に濡れた?」
彼女の心配そうな声が、遠くから聞こえる雨音と混ざって、なぜか耳鳴りのように響いた。
「いや、ちょっとね……色々あって」
彼は今日の出来事を訥々と話した。彼女は静かに彼の言葉を聞いていたが、彼の話が終わると、ゆっくりと顔を上げた。
「ねえ、あなた。私たち、別れない?」
信じがたい言葉に、彼は何も反論できなかった。頭の中が真っ白になり、足元がぐらつく。
「…どうして? 俺たち、順調だと思ってたんだけど」
震える声で尋ねると、彼女は悲しそうに目を伏せた。
「ごめん。うまく言えないけど…なんか、違う気がするの。あなたといると、息苦しいっていうか…」
彼女は彼の目を一度だけ見つめ、何も言わずに雨の中を去っていった。
彼は、まるで雨でできた水たまりのように、そこに呆然と立ち尽くすしかなかった。
帰り道、追い打ちをかけるように、猛スピードで通り過ぎた黒いセダンが、歩道の水たまりの水を盛大に跳ね上げた。
生ぬるい泥水が、顔面に容赦なく叩きつけられ、口の中にまで侵入する。
鉄錆と腐敗が混じったような、吐き気を催す嫌な味がした。
不意に視線をやると、草とゴミに埋もれるようにして、小さなお地蔵様がそこに座っていた。
泥にまみれ、苔が生え、ひどく汚れている。まるで、長年放置され、水に苦しめられているかのように見えた。
その夜、彼は悪夢にうなされた。
深い、深い、どこまでも続く真っ暗な水の中に沈んでいく夢。
視界を遮るように、黒い泥水が顔を覆い、体が冷え切っていく。
水圧が全身にのしかかり、肺が破裂しそうなほどの苦しさに、何度ももがき苦しんだ。
沈んでいくたびに、藻が手足に、首に、絡みつき、身動きが取れない。
呼吸をしようとするたびに、泥水が口の中に流れ込んできて、鼻の奥がツンと痛む。
耳の奥では、「ごぼ、ごぼごぼごぼ」と、水が鳴る音が響き渡り、やがてその音が、無数の囁き声のように聞こえ始めた。
「お前は…沈む…」
恐怖で飛び起きても、耳の奥では水が鳴る音が聞こえるような気がして、全身から冷や汗が噴き出した。
次の日以降も、彼の人生は坂道を転がり落ちるように下降した。
些細な事務処理のミスが大きな契約トラブルへと発展し、同僚との間には目に見えない溝ができた。
「おい、お前、最近どうしたんだ? ちょっとおかしいぞ」
上司の心配そうな声も、彼には響かなかった。
何よりも、彼は「水」に対して異常なほど過敏になっていった。
シャワーの音が、蛇口から流れ出る水の音が、まるで彼を嘲笑うかのように聞こえる。
雨が降れば外出を躊躇し、傘を差していても、身体のどこかに水滴が触れるだけで、全身に鳥肌が立った。
ある日、会社のトイレに入った時だ。
手を洗おうと蛇口をひねると、黒い、どろりとした水が流れ出てきた。
一瞬、目が眩んだ気がした。
慌ててもう一度ひねると、透明な水に戻っていた。気のせいか?
その日の夜、自宅で顔を洗おうとすると、今度は赤黒い、血のような水が勢いよく噴き出した。
思わず悲鳴を上げて蛇口を閉める。
手のひらに残ったわずかな水の塊は、すぐにただの水道水へと戻っていた。
「一体、何が起こっているんだ?」
彼は自分の精神状態がおかしくなったのかと、本気で心配し始めた。
完璧だったはずの自分が、なぜこんなことになってしまったのか。
彼は毎晩、枕を濡らしながら自問自答を繰り返した。精神は深く疲弊し、顔には生気が失われていった。
ある晩、昔からの友人と飲んでいる時に、彼は堰を切ったように、これまで身に降りかかった不運の全てを話した。
友人は、彼の話を聞きながら、真顔で言った。
「…おいおい、それ、やばいんじゃないか?」
「やばいって、何が?」
「いや、なんつーかさ。お前、水に憑かれてるとかじゃねーの? もしかして、住んでる場所がいけないんじゃないか?」
その言葉に、漠然とした不安が具体的な形を帯びた。
彼はスマートフォンを取り出し、自分の住む地域のハザードマップを調べてみた。
画面に表示された地図は、彼の住むアパートのあたりが、不気味なほど真っ赤に塗られている。
備考欄には、「古くから水害多発地帯」の文字があった。
引っ越しを真剣に考え始めた矢先、妙な足の痛みに襲われた。
それは、あの日、水たまりにはまった右足だった。
まるで水が溜まっているかのように、足首が重く、じんじんと鈍い痛みが走った。歩くたびに、靴の中で何かがぐちゃりと音を立てるような気がした。
痛む足をひきずりながら、彼はあの日、人生が狂い始めた場所へ向かった。
水たまりはもう乾き、アスファルトにはただの染みが残っているだけだった。
しかし、そのすぐ横に、あの草とゴミに埋もれたお地蔵様が、相変わらずそこに佇んでいた。
お地蔵様の周りは、まるで常に湿っているかのように草が青々と茂り、苔むしていた。
近くの軒先で洗濯物を干していたおばあさんに、彼は勇気を出してお地蔵様について尋ねてみた。
「ああ、あのお地蔵さんかい?」
おばあさんは、遠い目をして答えた。
「古くからここにあってねぇ。昔、この辺りは大水害が何度もあって、大勢の人が亡くなったんだよ。その水害を鎮めるために置かれたのかもしれないねぇ。まだあったのかい。昔はもっと綺麗だったんだけど、誰も手入れしなくなって久しいからねぇ」
おばあさんは、彼の目を見つめ、声をひそめた。
「…人も寄り付かないからねぇ。
いろいろ溜まっているかもしれないよ。
拝まない方がいい」
「いろいろ溜まっている」
その言葉が、彼の頭の中でこだました。
水害で命を落とした人々の怨念か、
あるいはこの土地に染み付いた負の感情か。
彼は得体の知れない恐怖に背筋を凍らせた。
しかし、同時に、これまでの不運の連鎖が、このお地蔵様と繋がっているのではないかという、奇妙な確信にも似た思いが胸に湧いた。
翌日から、彼は毎日お地蔵様のもとへ通い、清掃を始めた。
鎌で周りの草をむしり、手でゴミを取り除く。持参したバケツの水を何度も汲み、泥水を洗い流す。
苔むした顔を丁寧に磨き、真新しいタオルで拭き上げる。
最後に、菓子と花を供え、深く頭を下げた。
儀式のように、彼は毎日お地蔵様を清めた。
すると、どうだろう。
彼の身に降りかかっていた不運は、まるで嘘のようにぱたりと止んだ。
仕事のトラブルは解消し、同僚との関係も修復された。
溺れる夢を見ることもなくなったし、水音に怯えることも減っていった。
しかし、彼の心には水に対する深いトラウマが残った。
雨の日は、どこへ行くにも慎重になり、小さな水たまりを見つけると、必ず大きく避けて歩いた。
完全に元の、自信に満ち溢れた自分に戻れたわけではなかった。
ある日、彼はいつもの帰り道を歩いていた。空は晴れ渡り、アスファルトは乾いていた。
しかし、ふと足元を見ると、コンクリートのわずかな窪みに、掌ほどの小さな水たまりができていた。
昨日降った雨の名残だろうか。
彼は無意識にそれを避けるように歩いた。
だが、何かに引き寄せられるように振り返り、その水面を見た。
水面に映る彼の顔は、以前のように生き生きとしたものではなく、どこか影が落ち、そして、わずかに歪んで見えた。
彼の完璧な人生は、もうそこにはなかった。
そして、彼は知っていた。
この小さな水たまりが、いつ、どこで、再び彼の前に現れるかもしれないということを。