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第五話 恐怖と憧憬の狭間


 野村直人は、朝のウォーキングから帰宅すると、夏の早朝にも関わらず、額には汗が浮かび上がり、シャツもびっしょりと濡れていた。

 家の前に着くと、一瞬の躊躇いもなく、彼は大きく深呼吸し、鍵を開けて家の中に足を踏み入れた。

 もわっとする空気が彼を包み込んだが、構わず台所へ直行し、水道の蛇口からガラスコップに水を注ぎ込み、一気に飲み干した。

 その冷たさが身体の中を駆け巡り、彼はホッと一息ついた。


 その後、彼は台所の奥にある風呂場へと向かう。

 脱衣所で服を脱ぎ、換気扇のスイッチを入れ、一酸化炭素チェッカーの動作確認をしてから、すのこが置かれた風呂場に足を踏み入れた。

 内釜のガス栓をひねり、ダイヤルを種火に合わせ、スイッチを押すと、ガスがボッと着く。この感じが直人は大好きだった。

 独り暮らしをしていた時のアパートは、内釜ではなく、ユニットバスだったので、スイッチ一つでシャワーが出る便利さはあったが、やはり、この内釜のアナログ感は何物にも代えがたい、嬉しい面倒くささなのだ。

 

 内釜のダイヤルをシャワーに合わせ、さっとシャワーを浴びた後、彼は居間で軽く着替えを済ませた。

 部屋の窓を全開にし、古い扇風機のスイッチを入れると、部屋にはすぐに心地よい風が流れ始める。

 古い木造の家は、冷房を入れるとなると効率が悪く、電気代も馬鹿にならない。それに、直人は自然の風を感じながら過ごす方がずっと心地よいと考えていた。

 そのため、親孝行で20年以上前に取り付けたエアコンも、30度を超える猛暑日や、大雨が降るような日でない限り、稼働させることはない。それでも、暑さが厳しい時は、近くの図書館が彼の避暑地となる。電気代を気にせず、涼しく過ごせるからだ。

 

 直人は、この家で生まれ育ち、両親との思い出が沢山詰まっていた。彼の両親は既に他界し、この世にはいないが、受け継いだこの家は大切にしている。

 物静かな父が先に亡くなり、後を追うように母が数年で旅立ってからは、彼の心にぽっかりと大きな穴が開いたが、両親との思い出が彼の心を癒やしていった。

 

 母は直人が子供の頃から、彼が読んだ本の感想を聞いてくれた。

 いつも彼の話に耳を傾けてくれたし、色んな質問をしてくれた。母は、彼に感想を話させることで、彼の思考力や表現力を養ってくれていた。学問的な背景はそこまで深くなかったが、直人の話を真摯に聞いて、共感を示すことで、彼の自信を育ててくれたのだ。

 母だけが、直人にとって唯一の気兼ねなく何でも話せる話し相手であり、母から色んなことを教わった。

 話すのが苦手だった直人に、言葉にすることの大切さを教え、直人が感じたことや、考えたことを、言葉にする力を養ってくれたのも、母だった。


 直人が社会人になり、独り暮らしを始めた時、母は少し寂しそうにしながらも、彼の成長を喜んでくれた。帰省するたびに、直人は母と沢山の話をし、それを静かに聞いている父の姿が、今でも直人の心に残っている。


 この頃から、直人は大学ノートに色んなことを綴るようになった。その日の出来事、旅行先での体験、仕事のこと、読んだ本の感想など、子供の頃良く話を聞いてくれた母のように、彼にとってのコミュニケーションの相手になっていた。

 この大学ノートに書き込むたびに、母の面影が蘇り、母との会話を続けている様な、そんな気持ちにさせてくれ、今や母を偲び、隣に座る父を偲ぶ手段にもなっていた。


 そして、両親が他界した今、両親から受け継いだ価値観は、今でも直人の中に息づき、大切にしていた。直人にとって、読書をしその感想を大学ノートにしたためるのは、ただの趣味ではなく、両親との絆をつなぎ止め、自分自身を表現する手段にもなっていたのだ。


 居間を通り抜ける風と、扇風機から吹きつける風で、漸く人心地ついた直人は、居間のテーブルに置いた、昨日貰った読書感想会のチラシを眺めながら、参加するかどうか悩んでいた。

 彼は本を読むこと自体は大好きだが、その感想を人前で話すことには抵抗があった。母の教えをもってしても、直人のこの苦手意識を克服させることはできなかった。長年、自分だけの世界に閉じこもり、本とノートを相手に感想を綴ってきた彼にとって、他者の前で自分の考えを表現することは、未知の恐怖と言えた。


 しかし、昨日読んだ「遙かなる約束」が彼の心を揺さぶり、人に伝えたいという気持ちが湧き上がっていたのだ。

 大学ノートに溢れる想いをしたためたが、それでも気持ちは収まらなかった。別段普段と変わらない感想を持ったはずだが、この本の魅力を誰かと共有したい、誰かに話したい、誰かの想いを聞きたい。そんな気持ちになっていたのだ。

 これまでも、内心では母との対話を通じて培った、感想を共有することの喜びや、本を通じて人と繋がることへの憧れも、もちろんあった。

 それが、今になって表面に現れただけなのだ。


 直人はひたすら逡巡した。彼の心は恐怖と憧憬の狭間で揺れ動いていた。

 ふと、母の言葉が頭をよぎる。

「本は友達だけど、人との繋がりも大切にしなさい。本は人と直人を繋いでくれるけど、直人が人と繋がりたいと思わなければ、本は何もしてくれないのよ。」

 直人の心は一瞬止まった。彼の内なる迷いが、彼の心に問いかけを発したのだ。


 母は人付き合いが上手く、母が亡くなった時などは、多くの人が弔問に訪れてくれた。そんな母が、人に受け入れて貰いたいのなら、多様な価値観を受け入れること、直人は本から沢山の価値観を学んでいるのだから、後は直人次第なのだと、何度も諭してくれた。


 今回のこの読書感想会は、母が彼に望んでいた「人との繋がり」を広げる絶好の機会であることを直人は理解していた。

 参加をすれば、新しい自分自身を発見したり、自分の可能性が広がったり、大きな変化をもたらしてくれるだろう。


 しかし、理解するのと決断するのは大きな隔たりがある。

 直人は、母の教えを思い出し、自らの迷いに向き合う決意を固めた。彼は大いに逡巡することにした。

 読書感想会にはまだ三日あるのだ。



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