⑨
「ごめんなさい。紅茶の飲み方が良くないって言われていて、他の人の前で飲んではいけないこと、忘れていたわ。」
ローズは悲しそうに俯いた。彼女が言うには、最近やってくるマナーの教師から厳しく教えられるのだという。
「じゃあ、練習しようか。」
「でも、悪いわ。」
「気にすることないよ。それに、ほら、せっかくの紅茶が冷めてしまう。」
ユーグは少女のひんやりとした指先にそっとカップを持たせ、ゆっくりと教えた。
「そう、背筋は伸ばしたまま指先に力を入れすぎないで。さっきよりも上手にできている。」
「ふう、なんだか疲れるわね。」
「慣れたら何てことないよ。」
「そうかしら。」
「そうだとも。それに、仕草や言葉遣いが綺麗なマドモアゼルには、素敵な出会いがあるんだよ。」
ユーグが微笑みながら言うと、ローズは楽しそうに笑った。
ローズが持ってきた本を一緒に読み、少し時間が過ぎたころ、彼女は「もう行かなくちゃ」と名残惜しそうに帰っていった。ユーグは紅茶のカップを丁寧にバスケットに仕舞っていく。この頃は夏真っ盛りといった温度ではなく、涼しい風が吹くようになった。もう少ししたら、あっという間に冷たい風になりそうだ。
次の日も、その次の日も、ローズはユーグの待つ庭へやってきた。
「本に書いてあることが、やっと少しわかるようになってきたの」とローズは嬉しそうに言った。
「最初よりも、随分と上手にお茶を飲めるようになりましたね。」
「昨日先生にもびっくりされちゃったわ。これもユーグさんのおかげ。本当にありがとう。」
「ローズがよく頑張ったからですよ。」
「ふふ。嬉しい。」
彼女がそう言ったあと、軽くコホ、と咳をした。
「大丈夫?お茶が熱かったかな。」
「ごめんなさい。最近、時々咳が出るの。」
「夏の疲れかもしれない。頑張りすぎないで、早く休むんだよ。」
「大丈夫よ。ありがとう。」
そう言いながら、また彼女は軽く咳をした。
「そういえば、旦那さまから貸していただいた本はもう少しで読み終わりそうだわ。これが終わったら、また新しい本を貸してもらう約束をしたの。」
「そうですか。楽しみですね。」
「ねぇ、また分からないところは教えてくれる?」
「もちろんですよ。」
やったわ、とローズは無邪気に手を叩いて喜んだ。
その日も、ローズが姿を消すまで二人で楽しくおしゃべりをした。
「ムッシュ・ユーグ。少しよろしいでしょうか。」
ある日の晩、固い表情をした執事に呼ばれ、ユーグは書斎に呼ばれた。ユーグはそろそろだなと思っていたので、別段驚きもせずついて行った。
よく手入れされた階段を登り、執事は迷うことなく奥の部屋の扉を開けた。そこには手紙を見ているジョルジュがいて、執事がやってくると立ち上がってユーグを迎えた。
「すまないね。少し聞きたいことがあって。」
そう言うと、執事のほうをちらりと見た。執事は主人の少し後ろに立って口を結んでいる。
「依頼した仕事のほうはどうなっているかと思ってね。いや、ここに来て随分と時間がたっているが、何も聞いていないのでね。そろそろ私もパリに戻らなくてはいけないんだ。仕事があるのでね。」
「調査はほとんど終わりました。お時間がありましたら、今からお話ししても?少し長くなりますが。」
「それではお願いしよう。」
「これは、この町の人から聞いた聞いた話なのですが・・・」