⑥
男は軽々と梯子を抱えると、外にある荷馬車に積み込んだ。ユーグも、遅れをとるまいと早足で男の後を追った。二人は並んで腰掛け、屋敷までの道を茶色の馬と共に進んだ。街から屋敷までの道のりは短いものではなかったが、道中に二人が言葉を交わすことは無かった。汚れた身なりの体格に良い男と、一目で質の良い服を着ていると分かる痩せた男との組み合わせは目立っていたのだろうが、幸い通行人が少なかったこともあり、特に人々の口に上ることなく街を通り過ぎた。
そうこうしているうちに見慣れた木々が見え、畑を通り過ぎ、立派な門の前に着いた。陽射しが明るく屋敷を照らしていた。男は荷馬車を止め、中に入って良いものか振り返ってユーグを見た。ユーグは、鍵のかかっていない門をゆっくり押した。男は馬を近くの木に縛り、軽々と梯子を持つと、ユーグに後れを取ることなくしっかりとした足取りでついて行った。
少し歩いて屋敷の裏手に到着すると、ユーグは男に梯子を置く場所を伝えた。ユーグは梯子の位置を神経質に調整し、やがて男の手でしっかりと支えられた梯子を迷うことなく登っていった。
(ここか・・・。)
ジョルジュが以前に少女を見たと言っていた窓から覗いた部屋は、話に聞いていたとおり何十年も前の時代のまま時が止まったままになっていた。部屋の中はかつて人が住んでいた時のまま、椅子には服のようなものが掛けられていて、机には色褪せた本が開いたまま置いてあった。戸棚には何かの入れものに使っていたであろうガラス瓶が所狭しと並んでいて、布で出来た粗末な人形もいくつか見えた。調度品や小物類からは上流階級の貴族が住んでいたようには思えなかったが、全体的に感じ良くまとまっていて、そこそこ立場の高いメイドが暮らしているように見えた。部屋は奥のほうにも続いているようだったが、窓から見えたのは一部分だけだった。ユーグが窓枠に手をかけ、窓を開けようとしたが、鍵がかかったままになっているのかがたがたと音がしただけで、窓が開くことはなかった。
ユーグは少しのあいだ部屋の中を観察すると、ゆっくりと梯子を下りた。そしてユーグがすることに何も言うことなくずっと下で梯子を支えてくれていた男に礼を言うと、再び梯子を持たせて街へ帰らせた。何とも変わった依頼を受けた男だったが、文句を言うことなく仕事場に帰っていったのは、男が無口だからではなくユーグが払った割の良い謝礼のせいもあるだろう。
屋敷の主であるジョルジュが、客人と顔を合わせたのは久しぶりのことだった。大抵、この何を考えているのかいまいちつかめない男は、自分よりもずっと早起きして動き始めるらしい。ジョルジュが起きるのは決して遅すぎない時間のはずだが、一緒に朝食をとることはまず無かった。だから、ジョルジュがぼんやりとした頭で食堂に入っていったとき、日の光を浴びて脚を組み、ゆっくりとコーヒーを飲んでいるユーグの姿を見てとても驚いた
。 ユーグはジョルジュの姿を認めると、音を立てることなくカップを置いてにこやかに挨拶した。
「今日も調べもののために屋敷のまわりをうろつきますが、お許しください。」
「ええ、結構ですよ。頼んだのは私ですから。」
「ありがとうございます。」
ジョルジュが席に着くと、温かいコーヒーと焼き立てのパンが運ばれてきた。食事を運んできた執事が、ジョルジュに小声で耳打ちした。
「そういえば、私は今日、急な用事で屋敷を離れることになりました。少しのあいだ留守にしますが、執事やメイドはこの屋敷に残しておきますので、何かあれば遠慮なく申し付けてください。」
「ありがとうございます。どうかお気をつけて。」
そう言うと、ユーグはコーヒーを飲み終えたのかゆっくりと立ち上がった。その姿は、パリの社交界で見かける紳士と何の遜色なく優美だと思った。
ジョルジュの近くまで行くと、ユーグは軽く会釈してジョルジュに囁いた。コーヒーの香りと、彼の纏っているすっきりとした爽やかな香りが、ほんの少しジョルジュの目を覚ました。「次に会う時までに、仕事の成果を報告できるよう、私も手を尽くしましょう。それでは、良い一日を。」