四ッ谷 マンション
「ったく、思いっ切り引っ掻きやがんの」
田村優貴は頬のひっかき傷を触ってぼやいた。ひりひりと痛む。指先を見ると血がついている。皮が剥けてるな、こりゃ。おれは中学生か。
「あの、ギャルめ」
優貴はさらにぼやくと腰を曲げて、ドアとドア枠のあいだに突っ込んでおいた名刺を確認した。出がけにセットしたときと位置は変わっていない。引き抜いて裏表も確認する。「ディプロマット 田村優貴」という文字が印刷された側が上を向いている。
「招かねざる客はなしってことで」
優貴はキィを取り出して解錠した。そのまま浴室に直行してシャワーを浴びる。熱いシャワーにようやくと人心地がつく。
バスタオルで躰を拭いて、リヴィングダイニングで頬に絆創膏を張る。案の定、斜めに皮が剥けている。
「ひでえ目に遭った」
そう呟くと優貴は寝室のドアを開けた。キングサイズのベッドの片方が可愛く盛り上がって、艶やかな黒髪が広がっている。
優貴はベッドに潜り込んだ。
可愛い盛り上がりが振り返り、近づいてくる。
「どうしたのだ?」
可愛い盛り上がりの主、前田莉愛が優貴の頬を触ってつぶやいた。眸は閉じたままだ。
「ネコに引っかかれたのさ」
「そうか、じゃ、おやすみ」
莉愛はそう言うと優貴に抱き着いた。
「あったかいのだ。いい匂い。落ち着くぅ」
「そりゃ、よかった」
優貴はそう答えると莉愛を抱きしめる。
「くふぅ」
満ち足りた声を立てると莉愛はすぐに安らかな吐息をついた。優貴もそれにすぐ続く。
優貴がひょっこりと帰ってからもう半年が経つ。初めて四ッ谷のマンションに帰って来た時もこんな感じだった。読者には悪いが、劇的な再会にはほど遠い、ロマンティックさの欠片もない帰還だ。
莉愛が心を開いて、優貴の痛みを思いやったあの夜から二週間経たずに優貴は戻ってきた。そして、今日と同じようにシャワーを浴びると莉愛の隣に潜り込んだのだ。
寝ていた莉愛は驚く様子もなく、お帰りなさいと言うと同じように優貴に抱き着いた。そして、片っぽの目だけを開けて、
「再会は消毒液の臭いだね」
とつぶやき、そのまますやすやと眠り込んだのだ。
莉愛にとっては優貴が帰ってくることは既成事実だった。それがいつになるかということだけが問題で、帰ってきたことそのものは驚くに値するものではなかった。しかも、あとで優貴が聞いたところによると、感じる痛みが引いていたので、ここに三日以内だと確信していたという。
幸せというのは、日常の不安や不幸を乗りこえることだ、と巧いことを言ったヤツがいるが、莉愛はすでに不安を乗り越えて幸せだったというわけだ。
だが、莉愛はもっと幸せになることに貪欲だった。
朝、目を覚ました莉愛は二月のCIA・FEB(極東支部)地下での約束の履行を優貴に迫り、その日から一週間大学を休んだ。もちろん、完全にマンションに引きこもりだ。優貴が一緒だったというのは言うまでもない。まぁ、一週間も男女がマンションに閉じこもって、なにをしていたのかはご想像にお任せする。もちろん、トランプ遊びに決まっている。
ただ、莉愛がゲーム中にくりかえし、「あたしに惚れられてうれしい」と言ってとせがむのには困った。いや、優貴は本当にそう思っているので、困りはしないのだが、その度に莉愛が不戦敗をしてしまうのだ。優貴としては最後までトランプをしたいところだったのだが。まぁ、男としてはかなりいい思いをしたのは間違いない。