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かいなに擁かれて~あるピアニストの物語 第二章~

作者: ヒロ

  ~2.出逢いの章~


 音楽に興味があったわけではない。

 音楽のことなどよく分からない裕介がクラシックを聴いてみようかと思ったのに大意はなかった。

 設計事務所を立ち上げる少し前、まだ会社勤めをしていた冬。

 その日裕介は、休日の時間を持て余していた。

 昼食を摂るために街に出かけ、文化会館の前を通りかかっただけのこと。

 偶然に。ただそれだけのこと。何かを期待などしていなかった。

 それなのにコンサートが終わってからも裕介はしばらくの間、何を考えるともなくロービーのソファで不思議な余韻に浸っていた。

 急いで帰る理由はない。部屋に帰ってもどうせ独りだ。

 会館のティーラウンジに寄ってみた。

 席についてどれくらいの時間が過ぎたのだろう。既にコーヒーは冷めていた。何本目かのタバコに火を点けようとしたときだった。

 コンサートの舞台にあった彼女の姿が裕介の視界の隅に入った。

 売れているピアノ弾きなのかどうか、有名か無名かなど裕介には分からなかった。

 ただ、彼女のピアノの旋律がヴァイオリンの音色よりも彼の奥深い部分の何かを揺り動かしたのは確かだった。

 もう随分と長い間、ずっと張り詰めて、彼に重く圧し掛かっていた何かが潮が引くように取り除かれてゆく心地よさをその旋律は裕介に遺した。

 ラウンジの中央に設えられた大きなガラステーブルを隔てて独り座る彼女を見るともなくみると、涼しげな切れ長の瞳と目が合った。

 涼しげな瞳だけれど、冷たさは微塵にも感じなかった。

 無意識に裕介は目礼をしていた。はっと我に返る。

 すると彼女も目礼で答えてくれた。

 ヴァイオリン奏者の友人に頼まれて、コンサートに共演していた魅華は一足早く控え室を出て、ラウンジで待ち合わせをしていたのだった。

 裕介はその日から、自分でも驚くほど、どんどん抑えきれない想いに胸が押しつぶされそうになっていった。

 そんな想いが通じたのか、天が逢わせてくれたのか、ふたりが付き合うようになるまでそう長い時間は必要なかった。


 ふたりが付き合いだして半年が過ぎ裕介が設計事務所を立ち上げた頃だった。

 魅華は時間が空くと裕介の事務所を訪れ、カレの仕事が終わるのをそっと待つことが多かった。裕介がその日の予定を終えると、ふたりは食事をして、魅華がカレの部屋に泊まるってゆくこともあった。

 裕介の腕の中で、何時になく細い声で魅華は呟いた。

「ソロのコンサートをしようと思っているの、何年も前からもうずっと考えていたことなの。今しなければもう果たせないような気がするから……」

 それは裕介に話かけているというより独白に近かった。魅華のストレートの髪を撫でながら、僅かに強く魅華を抱き寄せた。何時もと同じデオドラントの香がした。

「ソロのコンサート、ああ、良いじゃないか。オレに出来ることならどんなことだって協力するし誰よりも応援するよ。魅華のソロのコンサート聴いてみたいよ」

「ほんとう。嬉しいわ、ありがとう。それじゃぁ、ひとつだけお願いがあるの。いいかしら?」

 細い魅華の肩に腕をまわしたまま、裕介は頷いた。

「あのね、コンサートが終わるまで、ワタシに構わないで居て欲しいの。怒らないで、ごめんなさい。アナタのことが嫌いになったとか、煩わしいとかそんなことじゃないの。アナタと知り合えて本当に感謝しているのよ。知り合ってこの半年、夢を見ているような気分。こんなに大切にしてもらったのは初めてだから。いつも会う時には、素敵なレストランや週末には泊まったことのない立派なホテルに泊めてもらったり。仕事で結婚式やイベントでゆく機会は何度もあったけれど、ワタシがお客さまとして泊まれるなんて、ほんと感謝しているのよ。あ、もちろんそんなことしてくれるヒトだから付き合っている訳じゃないのよ。それは分かってね。申し訳ないくらいの贅沢をさせてもらっているわ。本当に感謝しています」

「ああ、要するにコンサートに向けて集中したい。て、ことだろう?」

「うん。それもある。だけどそれだけじゃないの。気を悪くしないで聞いてね。ちゃんと話しておきたいことだから。このワタシがコンサートを開催するってことはね、凄く大変なことなの。知名度なんて全く無くてお金もないし、それなりに年齢も重ねてしまったワタシがそれを主宰するってことはね、これまでどんなことも自分の力で押し通して誰かに平伏せたことも無く負けたことのないアナタには理解できないようなことが、この先に多分たくさんワタシに起きてくると思うの。だから構わないでいてほしいの」

「だから、オレに出来ることならどんなことだって協力も応援もするって言っているだろう。ある程度ならこのオレにも資金の応援だって出来る力はあるぞ。協力するよ。無駄な苦労はする必要なんてさらさら無いさ」

 穏やかな声ではあったけれど、力で何かを平伏すように自信に満ちた表情で裕介は云った。

「うん。ありがとう。だけど、それじゃぁ――意味――がないの。少し眠りましょう」

 とだけ云って。そのあとカノジョは何も話さなかった。



 クライアント先での会議が始まって既にもう二時間が過ぎていた。一向に纏まらない。

「だから何度も説明しているようにいくらお宅たちが責任を負うっていうことだとしても、設計者として納得できないことは出来ないってことさ。理解してもらえるよね。予算や工期のことの云々じゃぁないのだ。オレが気に入らないのは上辺だけ取り繕って中身が全くお粗末だ。てことだ。予算が厳しいのはよく理解している。お宅たちもそうだけど、オレはプロだぞ。コンセプトをしっかりと持ったモノをその厳しい予算内にきっちりと、いや何割かのコストダウンが出来る設計をしてやるって言てるじゃないか。それでもコンセプトも何も無くただ上辺だけを取り繕ったモノを作りたいのなら、そんな設計ならオレじゃなくその辺の駆け出しの連中に絵を描かせればいいじゃないか。オレがやるまでもない。無意味だよ」

 どうしても裕介に依頼をしたいという連絡にクライアント先に出向いた彼は、そこで見せられた仕様書にうんざりしていた。こんな依頼なら出向くまでもなかったと。

「いやぁ……、榊先生にどうしてもお願いしたいのですよ。というのは実は……」

 と営業部長がそこまで言うと、裕介は言葉を遮った。

「申し訳ないが、お断りする。が、もしオレの思ったようにやらせてくれる気になったらいつでも連絡をしてくれ。失礼する」

 榊裕介は、自分の方から頭を下げて誰かに平伏すようなことはこれまで一度もない。

 それが彼のプライドだ。

 そのプライドを得るために彼はそれなりの苦労を人の何十倍も何百倍もいや何千倍も積み重ねてきたと自負している。当然だと考えていた。

 故に、一流と呼ばれる巨大な企業に勤めていてもその中の歯車のひとつに成り切れなかった。協調性や妥協性が無い訳ではない。

 しかしこと技術に関してはその絶対的な技量の前に、技術とは無関係な自分の意に反した制圧された力関係が微妙に作用する枠に繋ぎ留められることを極端にまで強く拒んだ。

 要するに企業人には成り切れなかったのだ。

 自分の意に背き、それに成り切る理由を見出すことが出来なかったのかも知れない。

 裕介は自分で築きあげた自らのプライドという世界の中で絶対的な自信を得た代わりに、その世界の中に留まり続け生きなければならない苦役を背負ってしまったことには気づいていなかった。


 腹立たしい思いで、クライアント先のビルをでると、裕介はジャケットのポケットから携帯を取り出した。

 魅華からの電話もメールもない。もう一週間以上もなんの連絡もなかった。

 裕介の部屋で魅華と過ごしたあの夜からもう一ヵ月近くなる。その間、何通かの短いメールのやり取りがあっただけだ。

 交差点の手前で、流しのタクシーを拾う。行き先を告げ、再び携帯を開いた。

送信5月23日23:18〈しっかり食べているか? 無理するなよ〉

着信5月23日23:49〈うん。ありがとう〉

送信5月24日22:36〈大丈夫か? 何かあったら何時でも連絡しろよ〉

着信5月25日00:18〈大丈夫。大丈夫〉

送信5月25日08:03〈昨晩遅かったな。体調崩すなよ〉

着信5月25日16:23〈ありがとう。心配しないで大丈夫だから〉

 あの夜を境に、魅華から連絡をよこしたことがない。そのことに苛立ちとも不安とも言い難い感情が裕介の中で頭をもたげ始めていた。かつてこんな気持ちを抱いたことはなかった。


 タバコを灰皿にもみ消して、デスクの時計をみると午前一時を過ぎていた。

 納期を気にしながら仕事を進めるが、どこか薄ら寒い感覚が頭をもたげて捗らない。

 これでは決まったスケジュールに支障を来す。焦る。だけど、一向に捗らない。

 裕介はこんな焦りはこれまで一度も感じたことがなかった。

 仕事には自分の技術には、絶対的な自信を持っていた。その自信が彼のプライドで彼を支える全てでもあった。

 ふと思う。設計という仕事は見た目より過酷な仕事かも知れない。

 今更何を言っているのか――、仕様書に再び眼を通す。そこにある要求事項を眼で追いながら思考は別のところにあることを裕介は嫌になるくらい分かっていた。

 離婚――。それはもう随分と昔に起きた出来事であったように思う。あの時から裕介は二度と恋愛感情を抱くとか、ましてカノジョなんて、誰かを好きになることは生涯もう有り得ないと思っていた。

 それなのに――どうしてこんなにも魅華のことを。裕介は溜息をもらす。

 だめだ。仕事なんて手に付かない――。

 パソコンの電源を落とし、裕介は吸いたくもないタバコに再び火を点けた。

 


 静まり返った深夜の神社の御神木を魅華は見上げた。

(この樹は何時の時代からどれだけ沢山の人たちを眺めてきたのかな。そして、どれだけの人たちがこの樹を見上げてきたのだろう)

 魅華はこの場所がすきだ。

 こんなにも雑踏に塗れた街中にあるというのにここだけは別世界だ。

 この場所にくると心が洗わるような気がするのだ。

 自分に憑いた一切の邪気が清められ、まるで古くなった衣を脱ぎ捨てて、新しく生まれ変われたような感覚を覚えるのだ。何かに願を掛けるとか、念じるとかそんな崇拝的な意味をもってこの場所を訪れるのではない。

 しいて言えば、この場所に感じる『無』が魅華にとっては何よりも心地良いのだった。

 自分の意思には関係なく、視たくないモノ、聞きたくないモノが、魅華には余りにも多く――届きすぎる。

 耳が痛くなるような静寂の中で、携帯の振動音が無を破る。

 バッグの中の携帯を開いてみた。

 着信6月5日01:43〈元気にしているのか?〉

 裕介からだ。魅華はそのまま携帯を閉じた。

 嫌いになったわけではない。煩わしいわけでもない。カレの気持ちを弄んでなんかいやしない。むしろその逆だ。今すぐにでもカレの声を聴きたい。そしてカレの腕に抱かれて眠りたい。苦しいほどに、ちぎれるような想いをカレに馳せている。

 握りしめた携帯をバックに戻し、魅華は、御神木をもう一度見上げると踵を返した。


~次章へつづく~


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