奈落のような場所
俺は今、底からぶくぶくともの凄い音をたてて沸騰する赤い湯のはられた金属製の大釜の中にいる。
それは、とにかく熱すぎる。いや、熱いなんていう言葉だけで済まされるようなものではない。
そして、大釜にて茹でられている俺の周囲では餓鬼達が薄気味悪い笑みを浮かべて、ゲラゲラ・・・クスクス――と腹を抱えて笑っている。
それもこれも、俺がこうなってしまったのも全ては、あのことが原因なのだろう。
(――できることならあの日に戻ってやり直したいのだが・・・・・・)
とある日の朝のこと。野島左松という名の男が散歩をしていた。
その男の父と母は、地方で有名な米問屋の一つに数えられる『野島こめ店』を営んでおり左松は次期社長になる予定であった。
そんな左松は現在、街外れにある広場の方へと向かっていた・・・
「あ~ぁ・・・今日の日差しは、いつもよか一段と眩しく感じるぜ。このままだと溶けちまうかもしんねーな」
そのようなことを言いつつ左松は歩いていた。これから何が起こるのかなんて一切知らずに――。
・・・・・・左松が歩き始めてから早いことで一時間程が経過していた。
「おはようさん。今朝は昨日よか暑くなりそうですな」
「そうですね、お互い暑さでバテルことのないようにしないとね・・・」
そんな他愛もない話を左松は道中ですれ違う人々と交わしていたのだった。
・・・・・・間もなく左松が自宅兼米問屋を出発してから二時間が経過するといったときのこと・・・
「ふぅ~やっとだ。ようやく辿り着いたんだ。肝心の桜は・・・うん、いいみたいだ」
左松の視線の先には、桜の木々が並ぶ広場があった。
「さて、目的地に着いたことですし、少しゆっくりしていきますかね・・・」
そう言うと左松は広場の中へと入っていき、入り口付近に設置された木のささくれがいくつもあるベンチに腰を下ろした。
それからしばしの時間を広場のベンチで過ごすこととした。
(ん~・・・春の陽気な風に吹かれて、六分咲きの桜も見れた。今日は最高の一日になりそうだ――)
左松がそうやっている間にも時間は止まることなく流れていく。左松は桜に魅入られているのだった。
「ふぁー・・・いつの間にか寝ちまってたよ。そろそろ帰るとしますか。いや、もう少しだけ・・・」
寝ぼけ眼をこすりながら左松は呟いた。
――その時である。春風とは異なった何かが桜の木々を揺らし始めた。
「おっ・・・なんだ?」
先ほどまでの眠そうな表情をしていた左松は、揺れに気づくと目を大きく見開いた。
そんな左松に対し、揺れは徐々に大きく激しくなっていきメキメキ・・・という音と共に地面を縦に揺らしていく。
「・・・いや、今度のは危険だろ。えーっと、こういうときは・・・・・・」
左松は少し考えるそぶり見せる否や腰を下ろしていたベンチの下にある僅かな隙間へと潜り込んだ。
「いやいや、いきなり何なんだよ。一瞬、心臓が止まるかと思っただろ」
(まぁ、そこまでではなかったけどさ・・・)
左松は大きな縦揺れが収まるまでの間、そんなことを考えながらベンチ下にてじっとしていた。
――縦揺れの大きな地震は長い間続き、広場からさほど遠くないところにある建物の窓ガラスが割れる音、どこかの樹木の枝がボタりと地面に落下した音が聞こえてきていた。
左松が身を潜めていたベンチはというと、奇跡的なことに地震の被害を受けることがなかった。
・・・・・・・・・・・・
「はぁー・・・やっと揺れが落ち着いたみたいだな。さっきは、いきなりのことでびっくりしたんだからな!」
左松は続けて、
「俺なんて、揺れが収まるまで目ぇ瞑ってたんだからな・・・」
と、小さく呟いたのだった。
それから左松は、そのままの姿勢でベンチの下から周囲の状況を見渡したのだが、現在の広場の様子がさっぱりわからなかったため慎重にベンチ下から這い出ていった――。
――うっ・・・・・・
「誰か、私をここから出して・・・・・・ださい」
それは、とても苦しそうで、誰かに必死に助けを求める声であった。
(ん?どこからだ・・・)
ベンチ下からやっとのことで這い出てきた左松は身体を起こし辺りをキョロキョロと見まわしていき、
「あっ、あそこか・・・あそこだよな!?えっ・・・」
左松は自身の双眸に飛び込んできた光景があまりにも衝撃的だったため、つい二度見をせずにはいられなかった。というのも、左松が現在いる場所から約四〇メートルほど離れた所で髪の短い女性が桜の太い幹の下敷きになっていたためだ。
おそらくもなにも、先ほどの大きな揺れで広場からたまたま逃げ遅れてしまったばかりに一人の女性は朽ちていた桜の太い幹の下敷きになってしまったのだろう。
「助け・・・て・・・私を・・・げほっ――」
今、この瞬間にも力尽きてしまいそうに羽音を出す鈴虫のような声を出している女性。そんな女性の腰よりも僅かに上半身、そこには根元からぽっきりと折れた桜の太い幹が倒れていた。
「いや・・・あれは・・・俺の他に人は・・・一人だけか」
一瞬、自分が置かれている状況に戸惑いを隠しきれない左松だったが、自分の他に危機迫る状態の女性を救える人が周囲にいないということを知ると、桜の太い幹の下敷きになる女性の方へと駆けていった。
「――あの、大丈夫ですか?」
「けほっ・・・この状態で、ごほっ・・・平気なように見える?もしそうなら貴方こそ大丈夫?って感じなんだけど。こうやってあなたと話しているだけで・・・声を出そうとするだけで苦しいの。きっと、あばら骨の一つや二つ折れたのでしょうね・・・」
左松の質問に対し冷静に応じる女性ではあったが、その表情は何とも言えないものであった。
それから少し時間が経過して、
「・・・あのさ、あんたのこと俺が何とかしてやっからさ、もう少し耐えてくれよな」
「ありがと・・・げほっ・・・けど、あなただけで太い幹のことどうにかできるのかい?」
「だ、大丈夫ですよ、きっと。俺だけで何とかしてみますから・・・」
「そう・・・なら頼むわ・・・ごぼっ・・・・・・」
そんなやり取りの直後、女性は口から唾液混じりの相当な量の血液を吐き出した。
「あんた、しっかりしろよ。今、どけっからな」
「ふふっ・・・あなたって見た目以上に頼もしいお方なのね。でも、あんただけで私のことを助けようなんて無理な話よ。だから、せめて・・・げほっ・・・私のこれまでの話を聞いてくれない?」
女性は最後の言葉を言い終わる前に再び吐血した。そんな女性に対し左松は自分の無力さを思い知らされたような気分になり、女性の提案にこくりと一度頷いてみせた。
「ええっ・・・俺でよければいくらでも聞きますよ――」
左松は頷いた後に、そのように伝えたのだった。
「ありがと。私ね・・・夫がいるの。ん~ん・・・いたっていうほうが正しいわね。あなたにこんなことを言うのもあれなのだけど、私の夫は、つい先日・・・そうね、だいたい一週間くらい前かしら。不治の病でね旅立ってしまったのよ。もう少ししたらね・・・ごほっ・・・子どもの一人や二人つくりたいね、なんて言い合ってたのに・・・・・・」
「そう、だったんですね。それでなんですけど、俺は・・・このままあんたの話を聞いてればいいのか?それとも・・・」
「いいえ、このまま私の言うことだけを聞いていて・・・。今ね、夫が私に向かって話しかけてきた気がしたの。それに、あなたと話しているだけだというのに、それだけなのに意識が遠くなっていきそうなのよ。
だから、あなたには私の話を聞いていてもらえるだけで満足よ」
「はい、わかりました・・・」
左松は女性に自分が無力でしかないということを再確認させられたような気分になった。
――それから、左松は女性の気が済むまで話を聞き続けたのであった・・・・・・
・・・・・・・・・・・・そして、
「あの、俺やっぱり誰か探して呼んできますね」
「ありがと。けど・・・もう、いいのよ。私なんかの話を熱心に聞いてくれただけで満足よ。それに・・・げほっ・・・この通り、もう長くないみたいだしね」
女性の口元は真っ赤に熟れた林檎や苺よりも紅く染まっていた。
「けど・・・だとしても誰か呼べば助かるかもしれないじゃないですか!」
左松は女性にそのように伝えるも女性は首を僅かに横に動かし否定した。
「あなたの気持ちは痛いほど分かるわ。けどね、私、もう辛くて苦しくて嫌なのよ。だからね・・・あなたのその優しい手を私の首元に近づけてちょうだい・・・」
「こんな感じでいいですかね?」
左松は女性の言ったことを深く考えようともせずに素直に従うことにした。
「・・・うん、その調子よ――」
左松は女性の細く白みを帯びた首筋へと両手を近づけていく。
「次は、どうしたらいいですか?」
左松は、今にも枯れそうな植物のようにぐったりとした女性に聞いた。
「・・・あなた、その前に一つだけ教えてちょうだい。お名前を・・・」
「俺のですか?俺は野島左松って言います」
「・・・そう、だったのね。どうりで・・・。だったら左松くん、あなたの手で私の首をゆっくりと絞めていってくれないかしら?お願い、けほっ・・・私のことを助けると思って」
「はい、そうすることが俺にとっての正しい選択であるというのなら・・・・・・」
左松は、こうすることが自分にとって正しい選択なのだといつからか思い込んでいた。
そうして、左松の両手がゆっくりと女性の首を絞めつけていく。それに対し、女性は苦しみながらも、
「・・・そうよ・・・――ほの調子・・・・・・」
次第に左松の両手の締め付ける力は強くなっていき――
・・・・・・・・・・・・
「・・・・・・」
ついには、女性から漏れてくる声がなくなっていた。女性は左松の手の中で生涯を終えたのである。
「・・・・・・あぁ、俺の手は、俺は・・・なんで、こんなことを・・・もう少し早く気づけばよかった。俺は、何としてでも女性のことを助けたかったんだろ?だとするなら助けられてねーじゃねーかよ。名前も知らない女性の言うとおりになんかせずに誰かに助けを求めていればよかったんだよ。人を探しに行ってればよかったんだ。
けど、もう遅い。どうしてだよ!・・・あぁー・・・・・・」
左松は、女性の首から手をそっと放し、自身のぷるぷると小刻みに震える両手を見つめ、空の青さを貫かんばかりの大声で叫んでいた。
左松は、女性のことを助けたいがあまりに逆に絞殺してしまうこととなったのだ。いくら嘱託殺人であれなんであれ、左松は許されざる行為をしたのであった。
そんな左松こと野島左松は、翌日の朝、布団で永眠っているところを起こしに来た父親に発見された。
大地震のあった翌朝のこと。左松がなかなか布団から出てこなかったため、商いの準備をしていた父親が妻に一言伝え、左松の部屋へとやってきていた。
「・・・左松、朝だぞ。起きろ!今日は、お前にも店の手伝いをしてもらう約束だったろ?」
「・・・」
父親が左松に声をかけても返事はなかった。
「おい、無視してんじゃないぞ!・・・・・・」
「・・・」
いくら父親が左松に声をかけても左松からは、うんともすんともなく――
「ん?左松・・・お前、聞いてるのか?・・・左松!?お前・・・・・・」
起こしに来た左松の様子が変だと思った父親は恐るおそる左手を左松の右手首にある静脈へと近づけていき・・・何かに気づくや否や父親は、その場を去って行った。
「・・・おい、母さん。左松が・・・・・・」
「え?何ですって!?あんた、そいつは真かね?」
自分達の息子のことで慌てふためく左松の父親と母親。二人は身支度を済ませると自宅兼米問屋を後にした。
――左松の父親と母親が、どこかへと向かった頃のこと。左松の布団のある部屋では・・・
「いててっ・・・もうなんだよ。いや、待てよ、いたくない。それどころか何も感じない。それに、俺ときたら、宙に浮かんでやがる。これは、夢だな、そうに決まってら」
そう言っている左松は、自分が浮かんでいる部屋の天井辺りから真下を覗き込んだ。
「あれ、俺じゃないか・・・ったく、気持ちよさそうに眠ってんじゃん。そうじゃなくて、なんで俺の身体があそこにあるんだ?」
その後、左松は宙に浮かんでいる自分の体の至るところを確認してみることにした。
「・・・・・・あそこは、あるんだな。そんなことよりも俺の体、透けてないか?」
若干ではあるものの宙に浮いている左松は透けているように思えた。
ともかく、現在、左松の部屋には宙に浮かんだ体の透けた左松と布団の上で全くもって寝息をたてない左松の二人がいるのだった。
・・・・・・それからしばらくして、左松の部屋には父親と母親、白衣を身に纏った比較的若そうな見た目をした女性が入ってきた。
「先生、息子の容体は、どうなんでしょうか?助かりますよね?」
「・・・」
白衣の女性は左松の母親に聞かれるも、何も答えることなく静かに布団の上で横たわる左松のことを見つめていた。
「・・・先生、左松の呼吸は?脈は?私には、とても生きているようには思えなかったのですが・・・」
「そうですね、お宅の息子さんは、すでにお亡くなりになっておられます」
左松の父親が白衣の女性あらため女医に尋ねると、女医は二人の方を向いてそのように伝えた。
「うっ・・・」
「う・・・うー~・・・左松ー・・・」
女医の言葉を聞くと、父親は唇を噛みしめ、母親は泣き崩れて左松の身体の上に覆いかぶさった。
――そんな噓のような光景を左松の体から抜け出たもう一人の左松は、ただ見ていることしかできなかった。
「おい・・・そんな、俺、嘘だろ!?嘘だと言ってくれよ、白衣のお姉さん・・・それに母さんも父さんも俺だったら、二人の真上にいるんだぞ。俺の声、言っていること全部届いてるだろ?」
しかし、左松のそんな思いも声も宙に浮かんだ左松の真下にいる二人には一切届いていなかった。
・・・・・・・・・・・・
その晩のこと。左松のお通夜が執り行われ、二日後には葬儀があった。
左松は、四十九日と言われる死者が現世に留まることを許された限りある期間を後悔の残らぬように・・・とは思ってもすでに後悔しか残っていなかったが、過ごすことになるのだった。
左松が亡くなってか五〇目。左松は見ず知らずの場所に立っていた。
「こ、ここは・・・どこだ?」
口をぽかりと開けて周囲を見渡す左松の足下には角のとれていないゴツゴツした岩や酸素を多く含んだ血液の色である鮮紅色のように真っ赤な草や花があるだけで、不気味なくらいに静まり返っていた。
(さてさて、どうしたものか・・・?)
これからどうしたらよいのか左松には全くもって判らなかったが、どこからともなく自分のことを呼ばれているような気がしてきたため、その謎の力が作用していると思しき方向へと歩いていくことにした。
・・・・・・そうして、代わり映えのしない景色の中をただひたすらに歩き続けた左松は、三階建てのビルくらいの高さのある不思議な模様が描かれた石のような巨大な扉の前へと辿り着いたのだった。
(え~と・・・ここは、どこだ?さっきの場所から歩いてきたのはいいけど・・・・・・)
今、自分がいる場所の情報について全くと言っていいほど持ち合わせていない左松だったが、
「ん~と・・・ひらけゴマ?・・・んなわけないよな・・・・・・って、それで開いちゃうのもどうなのよ、まぁ、いいんだけどさ・・・」
左松にとって考えなしに言っただけの適当な言葉であったにも関わらず、巨大な扉がギィー・・・っという音をたてて開いてしまったため、驚きしかなかったのだ。
「・・・とりあえず、行けるところまでだけ、入ってみましょうか・・・・・・」
突如として、誰かが扉の向こう側で自分のことを待っているような感覚に襲われた左松は、決意を固め奥の方へと進んで行った・・・
「・・・・・・よく来たな、左松。お前のことを待っていたぞ、人殺しの左松くん・・・」
扉の奥の方へと歩き始めてから少し経過した時だった。左松の前方やや斜め上の方向から野太くて低い声が聞こえてきたのだ。
(ん?誰だ・・・それに、俺のことを人殺しって言わなかったか?・・・)
「左松、そのまま少しだけ首を・・・いや、顔をだな上げてみなされ。そうだ・・・いいぞ・・・」
左松は不思議な声に指図されるままにした・・・
「・・・えーっと、もしかしなくても俺のことを呼んだのは貴方ですか?」
左松は小首を傾げつつ尋ねた。
「うむ、その通りであるぞ。左松、お前は死んだのだ。そして、四〇と九日を現世で過ごし今に至るのだ。あ、後・・・お前を殺したのは私ではないからな・・・」
「えーと・・・じゃあ俺は何で死んだんだね?」
「お前の死因・・・それはな・・・」
「それは?」
「その、なんだ・・・あれだな、お前の死因は色んなことを考えすぎたが故に脳の処理が追いつかなくなって脳死だかなんかだったかな。まぁ、簡単に言えばあれの考えすぎによるストレスで亡くなったというべきかもしれないな」
「そうなんですね。ってかそんなんで人って死ぬんですか?」
「うむ、人というのは案外簡単に死んでしまうものなのだよ。とにかくだな、お前は亡くなってから五〇日目の今日、地獄への入口へとやって来たのだよ」
「そうなんですね・・・ってことは、あれですか?貴方が書物とかに度々登場する閻魔様ですか?」
左松は生前、何かの機会があってか地獄とか極楽浄土とかについて記された書物を読んだことがあったため、つい聞かずにはいられなかったのだ。
「いやなー・・・お前には悪いが私は閻魔ではないぞ。ただまぁ、閻魔直々の命令で地獄の管理は任せてもらってるがな。それとだよ、お前さんは忘れてはおるまいな?あの日の出来事を…」
「はい・・・あれのことなら反省してますし、反省が足りないまま死んでしまったと思ってます」
左松には思いあたる節しかないのだった。
「そうか・・・ならば手短に話すこととしよう。左松くん・・・お前?いや、君としようか。君は大地震のあった日、よかれと思って自分の実の母親のことを殺めてしまった」
「え?ちょっと待ってくださいよ!」
「何かね?質問だったら早めにな・・・」
左松にとっては衝撃的な事実でしかなかった。というのも、自分がひょんなことで亡くなるまでお世話になっていた米問屋の夫婦が自分と血縁関係にある両親だと思っていたためである。
それに、自分の手で実の母親のことを殺したなんて信じたくなかったのだ。
「だって・・・俺は、米屋の息子でそこの夫婦が俺の両親ですよ!?」
「まあ、君にとってはな。たしかに君の父親は米屋の主人だ。だが、その男が現在生活を共にしている妻は君を腹に宿し産んだ母親ではないのだよ。だってな、君の実の両親は君のことを授かってから一年足らずで離婚しているのだからな。
だから、君が実の母親の顔を覚えていないのも無理はないのだよ。にしても、あの女性は不幸だったの・・・。これで君の疑問は解決したかの?」
「・・・はい・・・・・・。有り難うございます・・・」
「まぁ、ともかくな・・・君は過ちを犯し地獄に来たのだよ。それにだぞ、まだよかったではないか・・・」
「何がですか?」
地獄の管理者に聞き返す左松の声は、ここに来たばかりの時よりも明らかに元気がなかった。
「何がって、そりゃー・・・生命とは別に存在している魂を魔の者、すなわち悪魔とかに全て売り渡すことがなかったからだよ」
「だから何だって言うんですか?それに魂と命って同じなんじゃ?」
「それがな、実際は全くの別物なのだよ。仮に魂を全て契約云々で売り渡してしまったとしても人は生きていける。ただし、生前に魂が全て失われた人間はな、死後の四十九日を現世で過ごした後、極楽浄土や地獄には辿り着けないのだよ。
それだけではないぞ。そういった輩はな、あれじゃよ、あれ・・・人々が不要になった用紙とかを粉々にするやつ・・・」
「シュレッダーですか?」
「そうそう、それじゃよ。そんなんでな、存在もろとも消されてしまうのだよ。だからな、君は、そうならなかっただけまだよかったのだよ」
「へー・・・もし俺がそういったことをしていたら地獄にも極楽浄土にも行けず俺っていう存在そのものが消滅していたと・・・。そうなると、俺達人間は、あくまで魂の器であって乗り物のような物でしかないと?」
「そういうことじゃよ。だから、君は地獄へ来れたのも何かの縁ってことで、しっかりと自分自身の罪と向き合いなされ・・・」
赤みを帯びた顔の巨大な男らしき存在は、そのように左松に伝えた。
「はぁー・・・わかりました・・・・・・」
そうは言えど、左松には全てのことが理解できたわけではなかった。
――その後、どこからともなく現れた両手の指が五本ではなく三本ずつしかない腹だけがぽっこりとしていて腕や脚が細い頭から角が生えた赤や青の物達によって左松は、どこかへと連れていかれた。
左松にとって、どこに連れていかれるのかは到着するまで判らなかった。
――そんなこんなあって現在、左松は灼熱の泡が次々に発生する赤い湯のはられた大釜の中にいるのだった。
そんな左松の周囲では餓鬼と呼ばれる鬼達が手拍子をしたり気味の悪いニチャリとした笑みを浮かべているのだった。
(あー・・・このままじゃ身体が芯から温まるどころでなく溶けてしまいそうだ。それだけじゃない・・・熱さで肺が、胃が、腸が・・・ともかくあらゆる臓器が焦げてしまいそうだ。
だというのに・・・俺の身体は動かそうにも言うことを聞いてくれそうにない。それに、何だかクラクラしてくる。頭痛というようなものではないのだろう・・・・・・)
そうして、段々と左松の意識は遠くなっていく。それと同時に餓鬼達の姿もぼやけていく・・・・・・
――――・・・・・・
「・・・うっ・・・うー・・・。なんだ?ここは、どこだって・・・これは俺の掛布団に枕じゃないか・・・ってことは、ここは俺の部屋か?それとも何かしらの幻覚を見ているのか?」
左松は今、眼前で起こっていることが真実か幻か確かめるべく、自分の頬の肉をムギュー・・・っと思いっきし引っ張ってみることにした。
「痛い。いたいって・・・ギブ・・・」
左松は溜め息を一つ吐くと、ここが現実であるということに気づいた。
「・・・だったらよー・・・さっきまでのが全部夢ってことかよ。そういうことなら、俺は死んでもないし誰も殺してないってことだよな?」
その後、左松は左腕の付け根らへんに違和感を感じ、寝間着の裾をまくってみることにした。
左腕には、くっきりとした三本指の跡が残っていたが、それも次第に薄くなっていき、ついには跡形もなく消えてしまった。
「なーんてな。俺もまだ寝ぼけてんだろうな。けど俺も色々考えて行動しねーといけないかもな・・・」
――そうして、いつもの見慣れた自分の布団で目を覚ました左松は、私服に着替え終わると両親のいる方へと向かって行った。
この後の正午過ぎに、これまでに経験したことのないような大地震に見舞われることになろうとは知らずに・・・・・・。
まずは、最後までお読みいただき有り難うございました。
拙い文章力ながら執筆したため、途中判りづらい文章などあったかと思います。
またの機会がありましたら宜しくお願いします。
Good luck. See you again.