ネバ―モア
青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。
――コヘレトの言葉12章1節
自分が書いた文章を読み返すということは、とても気持ちの良いことかもしれない。自分が忘れていた、小さな自分が浮き上がってくるように。自分が知っていた愛おしい自分を再発見するように。
増幅されたデコレーション(世界の外側から)
標本
「作品というものはね、世に出た時点で作者のものではなくなるんだよ」
世界ちゃんは言いました。穏やかな午後、私たちは紙の束を持ち寄って互いの書いたものについてやりとりを交わします。それは校閲のようなものですが、ここには重たい責任もなく、私と世界ちゃんのやりとりは雲のようです。
何か書く度に自分が擦り切れてまがい物になっていくという感覚をもつことに、困惑と呆れを感じていると打ち明けたところ、世界ちゃんは素早くこのような返事をくれました。世と作品の関係から、私を慰めてくれるようです。ちょっと違うかも。
世界ちゃんは私とズレています。もちろん他人ですから、少々のズレはご愛敬なのですが。同じような感覚を私も持っているよ、と私は世界ちゃんに言ってほしかったようです。
世界ちゃんは私の憧れの人だから。
私はゆっくりストローからアイスティーをちう、と一センチほど吸ってから返事をすることにしました。世界ちゃんは私の原稿に目を落としています。長い睫毛と、キラキラのアイシャドウはいつものミントグリーン。
「世ってなに」
世界ちゃんが世について話すのはなんだかギャグの風味が漂うので、私は質問するのにけっこう大きな決心のボタンを押さなくてはなりませんでした。まじめな話をしたいのです。
「わたし」
世界ちゃんは笑わずに顔をあげてまっすぐ私を見て言いました。
「それと、細ちゃん」
抽出
私がペンネームを更更細に決めたのは、世界ちゃんと互いの書いたものについて話すようになってからです。細というのは細胞からとりました。生物の先生曰く、「君たちが親からもらったのは愛ではなく遺伝情報それだけ」だそうです。細やかな部屋が集まってこの体なのだと思うと不思議と落ち着きます。更更は音だけで決めました。さらさら、さらさら。どこまでも流れて行けそうです。
世界ちゃんと私は一度だけ中学生の頃クラスメイトになって、それが始まりでした。私たちの学校の娯楽と言えば、人の噂と買い食いぐらいでした。女の子だらけでは何も始まりませんでした。
世界ちゃんは世界の中心でした。少なくとも私にはそう見えていました。生徒会長で成績優秀、誰とでもあたりさわりなく距離がとれる人、笑顔がまぶしい人。だから、私が全集から生きた言葉を拾い上げているときに話しかけてきたときはびっくりしました。お昼休みも終わりかけのとき、私の前の席の椅子にこちらを向くようにして静かに座った世界ちゃん。そのとき世界ちゃんはすべて見透かすような目をして、拾ったものは食べちゃいけないよと言ったのです。私には読書を「拾う」と思うのは慣れ親しんだ表現でしたが、読書を「拾う」と言った他人は世界ちゃんが初めてでした。
それからというもの私は世界ちゃんを意識せずにはいられませんでした。世界ちゃんの書くものはできるだけ目を通すようにしました。日誌、作文。世界ちゃんの文章はまぶしいものでした。今まで読んだことのない文章でした。私の知らないうちに拾い食いできていたらうれしいのですが、世界ちゃんはどう思うでしょうか。私が世界ちゃんの文体や文字からあふれる輝きを少しでも身につけることがあれば、世界ちゃんのまぶしい笑顔はもう二度と見ることができないだろうと思いました。拾い食いは世界ちゃんの禁止事項ですから。それでもやっぱり私は世界ちゃんから多大な影響をうけているのは間違いありません。世界ちゃんと出会う前の私はまだ材料の段階で、出会ってやっと調理が始まったような感じです。
実は世界ちゃんとの中学生時代のエピソードはこれだけです。世界ちゃんとクラスが別れた中学三年生の新学期から、世界ちゃんはしばらく学校をお休みしていました。私が世界ちゃんといろいろ話すようになったのは高校に入ってからです。そうでした、その頃はまだ世界ちゃんは世界ちゃんではありませんでした。ペンネームで呼び合う関係になるその昔、世界ちゃんは春野さんでした。
反復
「ねえ、春野さんだって。笑えちゃう」
世界ちゃんは受付を済ませたあと私に耳打ちしてきました。今夜は同窓会です。映画館、レストラン街のフロアのさらに上にあるホテルの宴会場にサテンやレースで飾られた二十歳の女の子達が集まってきます。
世界ちゃんは、大きなリボンのブラウスを着て、そして黒いジャケットに華奢な肩を包み、すらっとした足元はパンツスタイルでした。黒髪の澄みきった生徒会長の面影とはかけ離れた、ハイトーンのミルクティーベージュの髪色と黒いジャケットがコントラストを作って、世界ちゃんはますます輝きを放っていました。
私たちが会場に着いたのは少し早くて、私はちょっと困りました。広い会場に二人きりなのはとても気まずい感じがしました。遠くて遥かに高い天井が私たちを見下ろしていました。そんな中でも、世界ちゃんはいつも通りで会場のシャンデリアがいくらするのかとか、雑談を続けていました。ちょうど私が世界ちゃんの今日の装いについて話そうとしたとき、割れんばかりに大音量のグループがげらげら笑いながら会場に入ってきました。みな手足がひょろひょろしていて、ファッションとコスメの国の妖精たちといったありさまでした。世界ちゃんを見るなり、駆け寄ってきて話を始めてしまったので、私は端っこで絨毯の模様を想像上のペンでなぞるなどしていました。
いったりきたり、いったりきたり。何回かも数えられないほどなぞっていましたが、視界の端で世界ちゃんが心配そうにこちらを確認しているのがわかって、恥ずかしくなりました。やっと抜け出てきた世界ちゃんにちょっと意地を張ってしまいました。
「生徒会長でしょ、先生に挨拶でもしておいでよ。それに、ほら」
私は世界ちゃんと話したがっている、世界ちゃんの後ろで待ち構えている彼女の方に目線をやりました。どこかで見た顔ですが、名前も思い出せません。
私は世界ちゃんを送り出しました。世界ちゃんはやはり中心にいなくてはなりません。私のそばにいることはやっぱり変だと思いました。慣れてきていても、不思議なことってあります。
私は世界ちゃんと違って教室でははみ出し者の自覚がありました。今日も本当は来たくなかったのですが、世界ちゃんの姿を見たくて来てしまいました。いつか私は世界ちゃんに後ろ姿を間違われたことがありました。私たちは髪を下の方で二つに結んで、同じような背格好でした。今ではもう間違われることなどあり得ません。髪色とヒールの高さ、何より私たちに制服はもうありません。
同窓会には過去にうしろ髪を引かれている人が行くものと、誰かが言っていました。きっと私もそうなのでしょう。教室の世界ちゃんや廊下の世界ちゃん、私の過去に住んでいる世界ちゃんの姿に焦がれているのです。私の心はどうしようもなく。
乾杯の合図でパーティーは始まりました。私は隣に戻ってきていた世界ちゃんとグラスを合わせました。
「さっきの子、誰だか最初分からなくて焦ったんだよねー。メイクってあんなにも別人になるんだね。生徒会の書記だったって。細ちゃんは分かった?」
「ぜんぜん」
分かるわけないよ。ここにいる大半の人の顔と名前も一致しないのに。
返事をしてからしばらくして、いつも世界ちゃんを会長と呼んで生徒会室へ連れ戻していたのは、先ほどの書記の彼女だったと、じわじわと思い出されました。私が世界ちゃんと一緒いる時間の終わりにはだいたい彼女がいました。世界ちゃんが連行されてしまった後は、手早く帰り支度を済ませ、ぼんやりした寂しさを抱えつつバスに揺られていました。そんなことを回想していると少し苦々しい気持ちになりました。あいにく初めて飲んだシャンパンも同じような苦々しさだったので、私は頭の先からつまさきまで苦々しさで満たされてしまいました。
「細ちゃん。ご飯取りにいこ」
「うん」
口直ししないとここでやっていけそうにない。時計はまだ七時半でした。
並んだオードブルはあまりおいしそうに見えませんでした。
検索
少女たちがめくるめく疾風怒濤の青春を過ごしてきた学び舎。中高一貫のキリスト教系女子校。高等部から入学した私にも、ステンドグラスのように色濃く光る思い出がある。それは生徒会室に差し込む夕日と、春野。
生徒会のグループラインの既読は四つのまま。「明日楽しみだね」に並ぶスタンプ四つ。副会長、会計、書記、議長の四人は返してくれた。生徒会長は、いつもそう。同窓会の出欠表に〇がついていることを確かめて再びため息をつく。別にいいよな。返事ぐらい。明日会えるんだし。でもさ……。
部活紹介の発表会の挨拶も文化祭の挨拶も卒業式の答辞も、全部春野。私は知ってる、春野は中学でも生徒会長をやっていたことを。不登校の生徒会長をやっていたことを。何で不登校になってたのかは、知らない。噂にもならないし、わざわざ言わせるのもなんか……、意識してるみたいだし。高校からは普通に優等生だったから無理に迫るのも変だった。本当にムカつくぐらい優等生だった。テストが満点でも、答え合わせの授業をまじめに聞いていたし。風紀検査に引っかかったこともないし。席替えの時、ちゃんと隣の子によろしくねって言うし。先生にはお世辞とか言っていたし。
ああ、でも、春野は私のことを全然知らないんだと思う。いつも誰に対しても初対面みたいな話し方をしていた。それでも持ち前の魅力とか人当たりの良さで、皆から好かれていた。
だから、すごい気持ち悪くって。なんであいつだけには違う話し方をするんだろう。
明日もあいつと二人でこそこそしているんだろうな。
……。本当にこそこそしていた。クロークにコートやらを預けている。
なかなか眠りにつけなかった夜、鏡の前で時間をかけて準備した時間がふっとぶほど、二人の空気は異質だ。
「まじか」
絶対ギリギリに来るんだろうなって思ってたけどこんなに早く来ることある⁉ 一番乗りかよ。意味分かんない。頭バカみたいな色に染めてるし。
「どったのもっちゃん」
一緒に受付に立っていたゆかは私のことをもっちゃんと呼ぶ。
「や……」
親友の言葉にも上手く返事出来ず、視線は春野を追いかけるばかりだった。やっぱり隣に暗いあいつがいて、にこにこしている。機嫌、良いんじゃん。は、まじか~……。
春野がこちらの方へやって来る。まっすぐな姿勢で、まるで結婚披露宴に花嫁が登場したかのように。眩しい。
「春野です。皆、受付とか他にも仕事任せっきりになっちゃってほんとごめんね。私なんにもしてないや、締めの挨拶だけすれば良いんだよね?」
なんにもしてないのは高校からだよな。いや中学も不登校生徒会長だったろ。私は震える手でなんとか名簿にチェックをつけた。
「春野~! もっちゃんがライン返さないって怒ってたよ~」
「ゆかちゃん、久しぶり。持田さんも、久しぶりだね」
春野は、やっぱり私のことを知らないんだな。一秒にも満たない間が、とても長く思えた。あれは顔から名前を引き出そうとしている表情だった。顔以外にもいろいろあったんだけどな。挟まる放課後の廊下の思い出がちらちらうるさい。サブリミナル広告じゃないんだよ。思い出は商品じゃないんだよ。
「春野さん、締めの挨拶のタイミングは後でりりに聞いといて。今日も遅刻してるみたいだから」
受付の机というバリケードがあることで、なんとか心臓は破裂を免れたように思えた。机があっても、目を合わせれば心臓はぶどうのように潰れそうだった。皮と実の細胞と細胞の間から、ゆるやかに果汁を溢しながら潰れていくように。なんとか止めようとするほど、手にまとわりついてしまうので、きっと触らずに腐らせてしまうのが正解なんだろう。
「持田さんありがとう。りりちゃん、また遅刻かあ」
ふふ、と笑う春野は高校の頃より何だか大人っぽかった。優等生とたとえるには少しはみ出ていた。何がはみ出ていたのかはよくわからない、雰囲気とか、また私の知らない所で日々を送ってきたんだなとか。はみ出ていたのは、変化した部分なのかな。
「ではでは! 会場入られてお待ち下さい!」
ゆかの変なイントネーションの明るい声が宙をぽわぽわ流れていく。春野は何かまた暗いあいつにささやきながら遠くへ行ってしまう。
「もっちゃん、よく頑張ったね」
バレた。
恐る恐るゆかの顔をうかがうと、満足・労い・興味といった文字が透けて見えた。こいつ、明るいだけじゃないんだった。
「……終わったみたいにゆーな!」
張り上げた声は空しく漂う。
恋とかそういうものって、人知れず終わっていくものだって誰かの歌にあった。誰にも言えないまま、私は恋を失ったんだなって実感がわくらしい。私にはまだ、そんなことは考えたことは一度も無い。ただ春野の横顔を追いかけている。これは恋じゃない、なんかよくわからないもの。きっとそうだ。絶対そうだ。
「まだパーティーは始まってないから。りりも来てないし」
始まって終わるのはパーティー。一応付け加えてみたものの、ゆかは何か考え事をしているようだった。
「そうだねえ」
保存
受付の名簿はテストが始まる前のように、まだ空欄がたくさんあった。
ゆかはもっちゃんってかわいいなと思っていた。中学の頃は違うグループであまり話さなかったけど、同じ高校に進学してからよく隣のクラスに遊びに行ったなあと思い出していた。もっちゃんのお弁当には味の薄いほうれんそうのおひたしがよく入っていたな。私のロッカーから雪崩れた教科書と大量のプリントをよく片付けてくれた。もっちゃんの横顔はとっても大人っぽいのに、内面は案外そうではない。りりに彼氏ができた時も、一番動揺していた。私がもっちゃんのクラスに遊びに行くのを急にやめたときはラインがうるさかったなあ。どんなことを考えていたんだろう。考えていないならそれはそれで、頭の中を探検してみたい。
懐かしい名前と顔ぶれ。高い声がそこいらに響きわたっている。名簿は埋まってゆく。毎日同じ大学で顔を合わせている子同士もいるだろうし、会いたくない人だっているはずなのに、いかにも楽しそうな顔ばかりなのはなんか納得いかないな。
「しかしみんなきっちり参加するんだね~。成人式でもどうせ会うのに」
「あ、私成人式行かない」
「そうなんだ。もっちゃん振袖似合うのに」
「前撮りの写真送ったからもういいでしょ」
もっちゃんは遠くの大学に進学したけれど、私たちは良い友人関係を保てていると思う。もっちゃんが経験する色々な初めてを、そばで見守っていたいなって思うけれど、きっと無理だろうな。もっちゃん。私がもっちゃんに会いに行っていたのは、純粋な理由じゃないよ。三年間、隣の席になることはなかったけど、今隣にいて、とっても嬉しい。
「よし、私はカタをつけることにした。ちょっと行ってくる」
人の流れもまばらになった。もっちゃんの意志が暴れだしたのが目に見えるほどだった。もっちゃんがとうとう隣からいなくなってしまう。そっか、今日このために来たんだよね。臆病者のもっちゃん、どうか後で話を聞かせてね。写真もたくさん撮ろう。それで、私が記憶に留められてさえいればいいのだ。
削除
また同じことを尋ねてみようと思う。忘れているのなら、再演してもらうしかない。足が勝手に進む。耳に血液がどくどく流れていく。イヤリングの冷たさで落ち着いたつもりになる。
春野がちょうど暗いあいつのもとに戻ろうとしていた。私は振り向かないかなと、睨みつけていたらしい。暗いあいつが私の方を指さした。この二人の間に割って入るのは何回目だろうか。私が春野を呼びにいくと、叱られた子供のように所在なさげな顔をしていた。私が二人の独特の雰囲気にのまれているうちに、春野は生徒会室に着けばいつの間にかいつもの笑顔に戻っているのだ。
春野が振り返る。眩しい。眩しい。
「あ~っ、持田さん」
今度はすぐ私の名前を口にした。私はそっと手を振って、穏やかな表情を作る。
「春野さん。あのさ……春野さんには、どんな世界が見えているの。なんであいつには違う話し方をするの」
春野は小首をかしげたあと左上を見つめた。私は待つしかない。パーティー会場の隅で、私は壁にもたれていないと、春野の眩しさで倒れそうだった。水面から顔を出して餌を食べる魚のように、唇をぱくぱくさせながら、上を向くしかなかった。溺れそう。
「もう一回訊くんだね。忘れちゃった? 私は全く独りよがりでこのお目目がついている方しか見れないし、見ていないよ。あの子、私と似ているの。どっちがどっちにってこともないんだけど、似たもの同士なの。持田さんとは使う言語が違うの、って言おうと思ったけど様子を見ていると、案外持田さんと私も似ているのかもね」
春野はまっすぐな背筋のまま、そう返事をした。
前半はあの時と同じ。春野が分からない。思えば私はすぐ人を味方か敵かに分けたがる。春野はどっちなのか。私が返事に困っていると追い打ちをかけるように
「持田さんも、言葉にしてみるといいよ。持田さんが思っているより、私は特別じゃなかったりするかもよ」と言った。
そんなことはないって思ってるくせに。自分が一番特別って知ってるくせに。私はまた春野のテンポに巻き込まれる。念入りな会話プランに修正液が雨のように振りかかる。
「春野さんは今元気なの」
「元気だよ。大学もちゃんと行けてる」
「そっか」
「持田さん、またソフトクリーム一緒に食べたいね」
網膜がとらえた春野は、眩しい笑顔だった。いつも見ていたあの笑顔だ。
修学旅行のときのことだ。何でか二人きりでソフトクリームを食べたのだ。春野のゆがみひとつない綺麗なスカーフにぽたりと落ちた一滴。べたべたになった手を洗う場所を探したり、べたべたのままわざと手を触りあったり。転がっていく笑い声。あの時私が持っていた春野への気は、ソフトクリームと一緒に溶けてしまったのかもしれないな。私は春野のことが知りたかった。もっと話がしたかったのだ。教室で、生徒会室で、美術室で、体育館で、下駄箱で、帰り道で。
バカみたいな色に髪を染めた春野が私を見つめている。
「そう、だね」
私はたったいま終わりというものを経験しているんだ。訪れた実感は確かに私のものだ。周りの子たちが卒業式で泣いていた。私は全然悲しくなかった。今でも卒業式を思い出して泣けるわけじゃない。だけど、今になってやっと泣きたくなる気持ちが分かった。全然間違いじゃないか。
私はまた受付のほうにゆっくり戻る。金輪際、春野には会うことはないと思った。
切取
「細ちゃん、私春野さんをやるの結構だめだったみたい」
そう言ってきた世界ちゃんは悲しそうな顔をしていました。私は世界ちゃんが誰かに借りられていく度に、特にやることもなかったので甘いお酒を飲んでいました。全種類を二周ぐらいしていたので、頭がおいつきません。
「このお~にんきもにょ~せいとかいちょお、せかいのちゅうしん~」
「あはは、細ちゃん酔ってる。飲みすぎ」
「よってにゃい‼」
世界ちゃんはパーティーの始まりから髪の毛一つ変わっていませんでした。姿勢が良くて、アイシャドウはいつものミントグリーン。あああ、私はもしかして顔が真っ赤になっているかもしれません。お酒のにおいをさせているのかもしれません。世界ちゃんに謝りたくなってきました。
「せかいちゃん、わたしはとてもおりょかなんだけど、だから、いつもはなしができて、せかいちゃんといっしょにいて」
「どうしたどうした」
「わた、し! おてあらいに」
受信
世界ちゃんが、世界ちゃんが百人……。見渡す限りにたくさんの世界ちゃんがいます。私だよ、細ちゃんだよ。あれ、反応がありません。ここは、ショッピングモールでしょうか。ああ……コンタクトを忘れたから、ちゃんと見えていないんだ。世界ちゃんが百人もいるわけないですよね。えい。コンタクトを着けてみると、世界ちゃんはマネキンでした。とても良く作られているマネキンで、世界ちゃんに見せたくなったので抱えてもっていきましょう。喜んでもらえるかな。重た、ってあれ、マネキンがさらさらさらさら砂になっていきます。どうしたんでしょう。
「おい! お前! 神様の像を持ち出して何をするつもりだ」
とても怖い顔のおじさんが怒っています。いつか礼拝にきた牧師さんに似ていましたが、穏やかな表情ではなかったので違和感に怯えました。手にまとわりついた砂は、確かに世界ちゃんの姿にそっくりなマネキンだったものでした。
「それってどういう……」
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」
そう言い残しておじさんは慌ただしく駆けて行きました。急いでどこへ向かうのでしょう。
青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。
私はこの言葉を知っている。文化祭のときも体育祭のときも、イベントがないときの礼拝でも、この聖書の箇所はよく読まれていました。青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。私の青春は紛れもなく世界ちゃんとお話をしているときでしょう。創造主とは一体、私は洗礼を受けているわけではないので、神様が創造主というのもしっくりきません。そもそも創造とは何なのでしょうか。私は世界ちゃんに出会ってやっと人になれたような気がしているのですから、今の私を形作ったのは世界ちゃんでしょう。あ……、世界ちゃんのまぶしい笑顔が見たいなあ。
送信
「お~い、細ちゃん」
うう、うるさいなあ。
「細ちゃん」
「ひ」
目の前に世界ちゃんの顔が飛び込んできました。大きなシャンデリアは見えないので、ここは会場の外のようです。私、寝ていたのか。まばたきを何回かすると、目の端が乾いていました。私、泣いていたのか。
辺りを見回すと、同窓会はもう終わったようでした。さきほどまでドレスを着て華やかに笑いあっていた女の子達はコートを着て身支度をしていました。また会おうね、この後どうする、プリクラ撮ろうよ、聞こえてくる会話はなぜかうるさくはありませんでした。
ソファから体を起こすと、世界ちゃんは私のコートを持って嬉しそうにしていました。
「さっきさ、細ちゃんのコート着ちゃった。これもこもこしてあったかいね」
「うん。もこもこしてて癒されるから通学中もよく触ってる」
世界ちゃんがコートを差し出すまま、私は袖を通しました。まるで子供がパジャマを着せられているようです。
「細ちゃんもう帰るでしょ」
世界ちゃんは、私のコートのボタンをかけながら私の鼻に顔を近づけて聞いてきました。掠れた声でした。
「世界ちゃんはバスで帰る?」
「うん、ちょうどいいバスがあるから」
「そっか。じゃあバス停まで送るよ」
世界ちゃんとはいつでも会えます。連絡をすれば、またお話ができます。でも、今日は特別な日のような感じがして、世界ちゃんのそばにいなくてはいけないと思いました。
エレベーターで地上に降りていきます。あっという間でした。会場の熱気はもうそこになく、冷たい冬の風が通り抜けていきます。
酔っているのでしょう。よくわからないテンションのまま、世界ちゃんと私は手をつないでふらふら歩いて行きます。猫の集会でもあれば、参加してしまいそうな勢いです。
「寒いね」
「うん……」
「細ちゃん、リップ落ちてる」
「ほんと?」
唇を触ってみたら思いの外がさがさしていて驚きました。世界ちゃんは何一つメイクが崩れていないので、魔法でも使っているのかもしれません。
私はショルダーバッグからリップを取り出して塗り直しながら、言い忘れたことがないか確認していました。今日はあんまり話せなかったな……。
「世界ちゃんの今日の服、とっても似合ってたよ」
「でしょ、お気に入りなんだ」
世界ちゃんはその場で一回転しました。ふわり、コートが丸く浮かびます。
「あとね……変な夢みた。世界ちゃんって神様なの?」
訊くか迷っているうちに、思わず口からこぼれてしまうことってあるのですね。
「私は、細ちゃんの隣にいるただの人だよ」
それでも世界ちゃんは特別な役割を、私の世界で担っていると思いました。私の世界だけではなく、世界ちゃんに関わる人の世界で、世界ちゃんは輝いているのでしょう。まぶしい朝日のように。それはやはりだめになってしまうわけです。輝きを放つのも、何かを犠牲にしなければ、魔法でも使わない限りできないでしょう。私がはかり知れないような重荷を、世界ちゃんは抱えているはずです。
「私は世界ちゃんが神様でもいいな」と答えると、世界ちゃんは困ったように笑いました。
「じゃあ二人で神様やろうよ」
「私で、よければ」
私でよければ、世界ちゃんと同じステージに立てなくとも、一緒にいたいと思いました。
「あ、なんか書きたくなってきた」
世界ちゃんはバス停ここだ、と教えてくれました。あと二分ほどでバスは来るそうです。
「私も帰ったら書こうかな」
また世界ちゃんの書いたものが読めるなんて、とてもうれしいな。
突然でした。世界ちゃんは私の手を強く握りました。そして私の体はすっぽり世界ちゃんの腕の中に引っ張られてしまいました。
「私は細ちゃんと一緒じゃなきゃだめだなあ」
そう私の肩に言い残してバスに乗り込んだ世界ちゃんの後ろ姿は、神様でもなく、世界の中心でもなく、年相応の等身大の女の子の背中でした。
紙の上では自分が擦り切れてまがい物になっていくという感覚になっても、きっと大丈夫なんだと思いました。やっと世界ちゃんがこの間言っていたことの意味が分かったような気がしました。何を書いても、それは世界ちゃんとの間で共有されるものだから、私は大丈夫なんです。世界には二人で大丈夫なんです。だよね、世界ちゃん。
余りに、余りに詩的な過去帳(世界の内側から)
私は焦っていた。もう何も書けないんじゃないかって。中高生だった頃の、青春の期限への焦りと似ている焦りだ。女性作家は結婚するとつまらなくなるとか、女子高生の心の叫びとか、そういう類の世評にやられてしまっている。何も私は女性作家でもないし女子高生でもない、だけど何でか知らないけどやられてしまった。一体何パーセントの青春が私に残されているのだろうか、友達とくだらないことで笑いながら考えて、バス停の一番前で寒い手を擦りながら考えて、いつの間にかなんだかんだで大学生をやっている。変化。ずっと昔の話ばかりする人と話していると、とても疲れちゃうね。そういう人になりたくないけど、黙ってうんうんって相槌をうてるようになった私は、ちょっと丸くなりすぎたのかも。
私は焦っていた。ワードを開き、真っ白なページの初めの方を少し埋めて、またバックスペースを押し続け、気が付くとイヤホンから流れる歌を聴くことに集中している。スマートフォンのメモ帳に残した、私の限界いっぱいの詩情を見ても「何も書けない!」何も書けない。自己保存は罰・世界と溶け合う・輪っかの外・いつもそんなかんじ。並んだ文字を見ても、全然響かない。むしろ苦しいよ。私、何を思っていたのかな。私は誰にも成りきれない、頭の悪い女の子が行ったり来たりあれやこれやを思い巡らす様子しか書けない。実は。だってそれが私、残念ながら、私。元アイドルも女子高生も忍者もアンドロイドも、ぜーんぶ。悲しいなあ。でもこれでいいの。私の好きな作家はみんな“私”を鬻いできた人だから、リスペクトを込めて、これがいいの。こういうこだわりが、後世に愛とか執着って評されることになるんじゃない。私はまだまだ未熟。未満の人間。アマチュアにもプロにもなれない。ゴミ。光る画面。ブルーライトぴかぴか。
私は焦っていた。結局言い訳のようなものしか書けず。あまりにもこれをそのまま他人に読ませるのは身がちぎれそうになってしまうだろう。そして、ここに誤字があった・面白くなかった・ストーリーはないのか・小説ぽくなかった・句読点が変なんて言われてしまおうものならそれは苦痛でしかない。恥ずかしさとは嫌悪に酷く似ていると思う。でも押し寄せる嫌悪のなかに、「私は好きだった、なんか泣きそうになった」という涙ぐみながらこっそり教えてくれたAちゃんの感想のような光が降り注ぐこともあって、私はまたその細い光に当たりたくて、こうして短い人生の時間を書くことに費やしているのだ。光は詩の朗読に当てられたものだった。こうして声に出さずキーボードを叩くことは、やり方が違ったのかな。向いていないのかな。あれ、もしかして書くにしろ書かないにしろ時間は無くなって、寿命は縮むってことなのかなあ。よく分かんないけど早めに死にたいよね。死ぬならね。死ねないけど。
私は焦っていた。めっちゃ焦るやん笑。はい。だってジリジリ、だってギリギリ。ね。今日はもうダメだ。明日こそ、まともなものを残したいね。まともが一番つまらないんじゃない。そういうことじゃない。最近ため息ついてばっかりじゃない。え、そうかな。知らない笑。知らないのか、もう寝る? 朝焼けが見たいの。朝焼けってどんな色。きっと素敵な色だよ。すぐ忘れるような色さ。忘れたくないな。本当に? スマートフォンのキーボードを触りながら書く作業をするとやっぱり何かおかしい。指が勝手にままごとを始める。たくさんのビーズをボウルに入れてかき混ぜる幼い子供のように。おいしいクッキーを焼いたの。食べて。
私は焦っていたような気がする。思い出したいことがあるのだ。それは私が過去に書いた小説というか煮凝りのような文章のこと。白い粉で変身する少女が、この世界から逃げたいと思っている少女を連れて空を走る電車で遊園地へ行く話だった。電車から見える景色は深い青の銀河で、少女は戸惑いながら変身少女に問うのだ。「あなたは私なの?」「そうかもしれないね、とにかくボクは君を連れ出しに来たんだ」緊張感の無い甘い語らい。過剰なオノマトペの装飾でピカピカふわふわになったピンク色の文章。白い粉は何の粉だったのか、少女たちの名前は何だったか、思い出したいのだ。何故ルーズリーフを捨ててしまったかな。失敗した。白い粉って何。ファンデーション? 小麦粉、砂糖、チョークの粉。貝殻を砕いて粉にしたら白くなるかな。変身少女はミルクティー色の髪色だったから多分砂糖なんだろうけど、塩だったらどうしよう。甘い時間だから、ひとさじのお砂糖なんだろうけど、塩だったらどうしよう。小麦粉だったらうどんになっちゃうよね。忌まわしいワードの真っ白い画面が粉になったものかもしれない。私は歩道を渡る。そうだ、この白線の粉だ。変身できない私は、一緒に溶けて固まって、はんぺんのような四角になって、並んで、踏まれて、顔を、身体を、子供に、大人に。叫びたい、泣きたい。
≫けたたましい消防車のサイレン≪
道を空けてよ。私の叫びが駆け抜けるはずだった道よ。
叫びたかった気持ちが、サイレンに先を越されてしまったように思えて、やりきれなさを感じた曇りの日の午後。もうやめようかな。やめちゃえ。
私は焦っていた。だって書かなきゃいけなかったから。ああ。私はあまりにも、シニフィアンとシニフィエが織りなす差異に気を取られすぎていたのだわ。違いがあるから別物ではなくて、こっそり影響し合っているやつらもいることをどうして見落としていたのかしら。似ているからこそ、似たような名前をつけることもあるって、それは一体何のために。私が言葉を使う限り、共有とか共感すること・してもらうことにアレルギー反応を出さないなんて不可能。正直「わかる」と言われてもこっちはなんとも思えないのだ。お願いだから共感とかは自分の中でやっていてよ。同じ人間なんだからそりゃ同じようなことを考えるでしょう。当たり前のことじゃん。でもやっぱり違う人間なんだから、私たちは。わかったままじゃあそこで終わりなんだよ。事実やそれ以外をはっきりさせても、それは仮止めのようなもので、テープの隙間から差異はあふれ出てくる。結局私は孤独であって、不安はひとりでこねくりまわすためにあって、その時間が大好き。あいまいさって結構好き。理解させようとしないのは無遠慮なのかな? わからないから好きになることもあるけど、そう言うにはあまりに稚拙で、やっぱり未満って感じかな。美しくないことだって美しく思ってみなよ。お前はどんな美しい文章を書けるんだよ。思い出以上に美しいものなんかないじゃん。整っていないのは、増幅されているから。過剰な装飾で、本物のかたちをかたどることでしか、思い出を記述できないから。……わがままでごめんなさい。だけど、理解できるものだけを読んで面白かったって、それはどうなの。いつか図書館の司書に言われた。「その人の本、わかるの? 難しくない?」私は答えた、「わからないから、読みたいって思います」と。馬鹿馬鹿しい。早く解放して。私の日本語を翻訳してくれる人が必要だわ。だって、あまりに独り善がりになってしまうんだもの。全てを理解できなくても、お話ぐらいしてよ。むしろそのくらいでいい。暴かれない部分に安心している自分もいる。私も日本語を使っているつもりなのに。読む人、話し相手と対峙すると、ぽつんと残された気持ちになる。説明したいわけじゃなくて、やりとりをしたいわけじゃなくて……。通じてる? もしもし……。
私はとても焦っているの。私の大事な宝物のキラキラのかけら、それは白い雪のような冷たい破片。風を起こして、お祈りをして、増幅させて。いつか消えないか怖いの。ひとつの破片を苦しくなるほど膨らませて、何か書くの。書いたら消費されて、私、なんか、向いてないのかも。おもしろいものが読みたい、読んだことのない日本語に出会いたい、消費することに疑問は持たないのに。私は小説を書いているのではない、つもりなんだけれど。ああ、言われてしまうだろう、小説を書く者として残念な考え方だとか。君は詩人だねとか、言ってくれたらいいのに。読んでくれた人みな口を揃えて、こんな風に表現できないとか言う。良くて、君は散文とか、こういうものを書き続けてくれとか言う。私は小説のスケールも何も分からないまま、書き綴り、小説のスケールの中で評価される。ここは文芸部ではなかったの? 私は、偽物大量生産工場。本物は一度きりなんだ。偽物は詩”的”って納得。詩ではない偽物。詩のような、似て非なる言語。詩的って言わないで。ズレに気付くのはとてもやるせないの。詩的な言葉遣いが良いとか、それって、君は変なコピー機だねと言われているような感じ。再生する度に形を変えて、書けば手元から離れて、偽物になる。でも、書かないと、どうにかなってしまいそう。私の大事な宝物、光り輝くあの日の思い出。
思春期はとっくに終わっている。
「大丈夫」
え、――ちゃん。
「大丈夫だから」
そうだよね。
「私が一緒にいてあげる」
ずっとこうしていられたら、世界とつながっていられる気がするのだ。