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桜流し

作者: sato.

季節の本当のことを教えてくれたのはあなたでした。私とあなたは、出会ったのが夏の夜のことでしたから、世間一般でいう「春に出会い、夏は思い切りはしゃいで、秋に少し寂しくなって、冬は寄り添って温まる」みたいな、そういうのとはずれていました。あの夏のことを、私は大人になって擦り切れてしまったいまでも、とてもよく覚えています。いまだからこそ、あの夏の意味が浮かび上がってくるのです。

夏が苦手だった私は、冷房のよく効いた教室の端の方で読書をするような人間でしたから、大勢の友達を引き連れて外で遊ぶあなたのことを、夏祭りだとか海辺でのすいか割りだとかそういう、夏そのもののように思っていました。だから橋の上で突然声をかけられたときは、何かの間違い、そうでなければ暑さにくらんでしまったあなたの、一夜の悪戯なのだと理解しました。声をかけてきたというのに、あなたの目は私を通り越して、墨を流したように黒い川に映る電灯の黄色くて下品な光を、なにか尊いもののように見ていましたね。それからもう一度私の方を見てはにかんで、その笑顔は夏というよりも秋のようでした。ちょっと寒いねというあなたは、ノースリーブから白い腕を剥き出しにしていました。蛍光灯のような白でした。そして、今日教室で読んでいた小説はなに、と小さな声で聞かれたので、すべて真夜中の恋人たち、と囁きました。あなたはその本のことを知らなかったのでしょう、それきり沈黙でしたが、家に帰るよりも橋の上でこうしている方がずっと有意義でした。家に帰れど居場所はありませんし、それはおそらくあなたも同じだったのでしょう。白くて冷たそうな二の腕をさすりながら、永遠を知るような横顔で、川を眺めていました。

高校を普通に卒業して、そのままベルトコンベアに乗せられて大学に入学した私は、正しさのレールから落ちてしまうことも出ていこうとすることもなく、極めて自然に就職しました。それからの流れは、それまでと違って大きな川のような優しいものではありませんでしたから、ぶつかりたくもないのにあらゆる人間と衝突して、余分なものも大事なものも削り取られてしまって、私は何なんだろうと振り返る夜、あの夏のことを思い出しました。流れているのかも分からないような真っ黒で静かな川に、あなたは何を見ていましたか。今でもそれは分かりませんし、あなたはもしかしたら何も考えていなかったのかもしれないけれど、でも、あの夜あなたは確かな孤独を抱えて、私の隣に居たんでしょう。あの孤独が今更になって分かります。人間は信用ならないということは、高校生の時から知っていましたが、だからこそ読み耽っていた小説も人間の言葉に過ぎないのです、結局私たちは何にもすがることはできないのかもしれません。私は当時あなたのことを、友だちに媚びてばかりのくだらない人間だと思っていました。全くそんなことはなかったのかもしれませんが、友だちに囲まれて笑っているというのは、つまりそうだと決めつけていました。人間なんて信用ならないものとずっと一緒にいるには、ある程度媚びて、ある程度自分を削らなければいけませんから。でもそれはまったく仕方のないことだったのです、それに気づかなかった私の愚かしさの方を、今は嘆いています。

あなたとはそれから特に何を話すでもなく、いつの間にか秋になっていました。秋は気温が丁度よくて読書がはかどるというのと、うるさくて幼い同級生たちが、それでも少しは感傷的になるようで、おとなしくなるのが好きでした。あなたも、少しは真面目に授業を受けていましたね。あなたの横顔を覚えている私の方が、集中していなかったのかもしれません。春から付き合っていた同級生たちは、よほど誠実な愛を持ち合わせていない限り乱暴に別れてゆきました。泣かせ泣かされる男女の姿を横目に小説をなぞるとき、ますますひとをくだらなく思い、自分も彼らとたいして変わらない存在であることを嘆きました。

そうして十月が終わるころ、あなたが恋人と別れたことを風の噂で聞きました。あなたはすっきりと綺麗な顔立ちをしていて人気もあったから、すぐに新しい恋人を作って、廊下を腕を組んで歩いていましたね。肘までまくり上げた長袖のシャツの下で、あの夜の蛍光灯が静かに息をしているのだと思うと、隣の男を勢いよく突き飛ばして、その腕に自分の腕を絡めたいような気もしました。でも私の腕はあなたのように綺麗な白ではなかったし、寧ろ下品な黄色をしていたから、いやそれだけではないけれど、隣の男を突き飛ばすことは叶いませんでした。あの夏の夜以来、私にとってのあなたは、ますます特別な存在になってゆきました。特に何かがあったわけではないのに。いや、だからこそ、あの夜ごと美しいものとして記憶のなかにとっておかれたのだと思います。あなたの新しい恋人は、たいして綺麗な顔立ちではなかったけれど、とても柔らかい目をしていました。そこが好きだったのでしょう、あなたには案外見る目があります。しかしその恋人とも、秋が終わる前に別れてしまいましたね。それから暫く恋人がいなかったように思いますから、それなりに彼を愛していたのでしょう。邪推はこれくらいでよしておいて、私とあなたの次の思い出は、二人きりで観覧車に乗ったことです。どうしてだったんでしょうね。どこから連絡先を手に入れたのかは知りませんが、突然あなたから、観覧車に乗ろう、とメールが来ました。どうして、と思うよりも早く、乗ろう、と返していました。風の強い日、学校帰りに、遊園地の最寄りの駅で待ち合わせをしました。特に会話もなく観覧車乗り場まで行って、券売機で二人分のチケットを買って、小さな箱に乗り込みました。安っぽいBGMと共に上昇が始まり、あなたは遠くを見ていました。あなたの目線の先には、小さな川がありました。住宅の合間を縫うように流れるその川は、遠くから見てもわかるほどに水が汚れていました。優しい夕暮れが私たちと街を包んでも、川は綺麗ではありませんでした。小さな箱が頂上に届くころ、さすがに川の綺麗汚いはよく分からなくなりました。それを見届けたあなたは、私に向かって、住吉くんっていつも本読んでる、と言いました。どうして今更そんな、分かり切っていることを言うのか、とも思いましたが、それよりも私を見てくれていたことへの喜びが勝ってしまって、ありがとうと答えました。あなたは、変なの、と笑って、目にかかった前髪を払いました。何重にもなったブレスレットが揺れてしゃらしゃら涼しい音を立てて、忘れていたけれど風が強いので箱はよく揺れていて、あなたは思い出したように自分を抱きしめて怖いと言って、でも本当はたいして怖がっていないように笑っていました。あなたの白いシャツは透けていて、笑うたびに濃いピンクのブラジャーの奥の胸が揺れていました。あれは誘われていたのでしょうか。あれはちょうど、あなたが恋人と別れた頃でしたし。でも私は何もしませんでした。川の汚さが分かるころには、あなたの笑いも止まっていて、風の音ばかりがして、地上について箱から降りるとき、「強風の為運転一時停止」の文字が見えて、また少し笑ってしまいました。私たちが最後のお客さんだったのです。

観覧車に乗ってから、一週間に一度ほどの頻度で、あなたからメールが届くようになりました。時折電話もかかってきました。学校ですれ違いざまに今日電話してもいい、と聞かれたので了承したら、自宅に電話がかかってきて驚きました。あなたは携帯電話の番号までは知らなかったようで、連絡簿に載っていたから、と悪びれもせずに答えました。携帯にかけてきてくれと言ったのに、とうとう番号を聞かれることはありませんでした。あなただって、固定電話の向こうで争うひとの声を、重い音を、聞いていたでしょうに。期末試験の勉強を始める頃になって、私が電話に出ることは減り、あなたは学校ですれ違いざまに、出てよ、と私に囁くようになりました。その吹き込む仕草に最高のエロティシズムを覚えていた私は、電話に出ることをせず、無人のリビングや喧嘩の最中に響くベルの音それ自体に淡く興奮していました。受話器の向こうで、あなたはどんな顔をしていたのですか。私が、下品に笑っていた向こうで。期末試験も無事に終わって、そうしたら二人でまたどこかへ行くのかと思っていましたが、あなたからの電話はすっかり途絶えてしまいました。学校ですれ違っても目すら合わせてもらえずに、私はやらかしてしまったのだと分かりました。そして冬休みに入る前の最後の日、私は学校でとうとうあなたを呼び止めてしまいました。どこか、行こうか。そうだね、と答えたあなたは、すぐに僕を通り過ぎて、少し先であなたを待っているらしかった新しい男の腕に腕を絡めるのでした。あなたの綺麗な金髪は冬というより夏が似合う色でした。あなたの隣に立つ男はまた優しい目をしていました。それからあなたから連絡がくることは無く、私から連絡をすることもなく、そういえば私は、かけてもらうばかりであなたの電話番号を知らないのでした。声が聴きたくて、メールでは不十分でした。いいえ、メールではあとが残ってしまうから、怖かったのかもしれません。どこぞの川が寒さで凍ってしまったニュースをテレビで見て、東京でも雪が降って、雪合戦はできないか、と思っているうちに年が明けました。明けましておめでとう、のメールが何件か来ていたけれど、あなたからではありませんでした。冬休みが明けると、貴方は綺麗な金髪を肩の上でばっさり切りそろえ、とても爽やかな顔をしていました。腕を組む男はいなくなり、背筋をすっきりと伸ばして歩いていました。ますます話しかけられなくなってしまった私は、あなたの後姿をこっそり写真に撮って、携帯電話の待受にしていました。せめて、気持ち悪いと笑って欲しかったです。

こちらはそろそろ春が来ます。大した変化もない春です。春は出会いの季節と言いますが、あなたともう一度やり直せるとしたら、冬がいいです。すっと伸びた細い背中に手を伸ばす夢を、何度も見ました。金髪の合間から見えたり見えなかったりしたあなたのうなじに牙を突き立てる夢も、白い肌を赤いものが幾筋も流れるところまで見ました。あなたはその他大勢と同じように、ひとりで生きられるひとではありません。でもひとりで生きられるような強い目をして、それなのに上手にひとに甘えるから、時折とんでもない寂しさを滲ませて笑ってしまえるのだから、皆愛さずにはいられないのです。あなたと見る雪はどんなに綺麗だったでしょう。橋の上で、今度は私から、あなたに声をかけたかったです。凍っていないでしょうが、流れているかいないのか分からない夜の川の上で、下品な黄色の電灯がちろちろ揺れて、私は安っぽいドラマの話やネットで知り合った友達のことを話したかったのです。雪があなたの睫毛に積もるのを眺めながら、とりとめもなく話したかったのです。なるべく核心から離れた話、あなたが知っても知らなくても、これから全く困らないような話を。そういうことを一通りやったうえで、あなたがそれでも私から逃げなかったなら、今度はまっすぐにあなたの目を見て、愛していると言ったでしょう。そうしたらあなたはちょっとつまらなさそうに笑って、いいよ、とか適当なことを言って、目を閉じて、睫毛の上の雪が落ちたその先の唇で乱暴なキスを受け入れるはずだったのです。

あの年は、呆気なく終わった冬を嘲笑うように綺麗な桜でした。年末はあれほど寒かったのに、年が明けてからの春への移り変わりはあっという間で、一晩寝たら卒業式、本当にそんな感覚でした。最後の日、あなたは卒業アルバムの最後のページにサインを集めて上機嫌でした。就職するから家で染めた、と、ついでに黒髪を自慢して回っていました。私は律義に自分の席に座ってあなたが来るのを待っていましたが、あなたはいつも一緒にいた数人を回り終えると、満足げに席についてしまいました。黒髪に切り取られた横顔は、最後まですっきりと綺麗でした。あなたが、全部清算しなくちゃね、と言うのが聞こえてきて、勢いよくあなたの方を見てしまったけれど、あなたは楽しそうに笑っていました。春の日差しが痛いほどあなたを照らしていたから、あなたの本当のことは何も分かりませんでした。家に帰って卒業アルバムを開くと、最後のページに桜の花びらが挟まっているのに気づきました。花びらを退かしたところは湿っていて、文字が滲んで揺れていました。そこには小さく、いろいろごめん、と書いてありました。あなたのことだから、いつ書いたのかなんてどうでもいいことは気になりませんでした。それより、あなたは私に迷惑をかけたと思ってしまったのかもしれませんが、寧ろあなたがいなければ私はいろいろの本当のことを、知ることができなかったのです。あなたが謝る必要など、どこにもなかったのです。でも私があなたを知りきれなかったように、あなたも私の本当のことが分からなかったのでしょう。あなたと見る季節はあれほど美しく、切なかったのに。私はこの日のことを思い出すたびに、祈るように両手を合わせてしまいます。それからこうしてあなたを思い出して文章にして、どこかに真実を写し取ることは出来まいかと、試行錯誤を続けています。言われたことをパソコンに打ち込むだけの会社の仕事よりも、よほど生きた心地がする、これは人生の仕事です。あなたの見せた永遠の眼差しには、それだけの価値と、重みがあったのです。人間の言葉なんて、事実の近似値をとるようでその殆どが鮮やかな嘘でしょうが、それでも私は、ここにあなたの本当を残しておきたいのです。知りたいのです。あなたを。そうしてまた何か書くことができたなら、小さく折りたたんで夜の川に流して、それからのことは何も考えていません。

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[良い点] 凝った感想は言えないですけど、なんか……良いです! 読んでいて違和感を感じることのない文章で、スムーズに頭の中で映像が流れました。
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