終章「始まりの終わり」
そこは何もない空間だった。
奥行きを感じられず、広いのか狭いのか、高いのか低いのか判別できない白の空間。その空間の中心地点と思しき場所に黒色の悪魔が佇んでいた。
その双眸は閉じられており、酷薄な笑みは浮かべられていない。
「……来ましたか」薄らと、瞳が開く。
刹那、白色の空間にぽっかりと黒い孔が空き、一人の青年が投げ出された。地面に叩き付けられたギルベルトは呻きながら起き上り、目を見開く。
「悪魔が二人、だと……!?」
中心地点に佇む男といつの間にか魔人の真横に立っていた悪魔は顔が全く同じだった。鏡合わせの様な二人の存在に困惑するギルベルトの真横に居た悪魔が中心地点の男へと近付いていく。近距離から向かい合う二人。先に口を開いたの元よりこの空間に居た男だった。
「ご苦労様、“私”。首尾は上々だった様ですね」
酷薄な笑みを張り付け言う悪魔に対し、後から来た悪魔はやや疲れた笑みを浮かべて、
「ええ。ですが、流石に私も少し消耗しました」
言うや否や、後から来た悪魔の身体が黒い粒子となり宙を舞う。それは元から居た悪魔の身体に纏わりつく様に浮遊したのち、融ける様に消えた。まるで、吸収されたかの様に。
その光景に唖然と口を開いて固まるギルベルト。訳が分からないがそれでも心の中で高まる憤りが彼の原動力となり、黒色の悪魔へと詰め寄らせた。
「貴様はこの力があるなら全てを思い通りに出来ると言ったな。だと言うのに、僕はあんな劣等種に敗北した!」
話が違う、と喚く青年を前にして男は愉快そうに笑う。
「当たり前でしょう。貴方が敗北する様に“私が仕向けた”のですから」
「きさ、ま――!」
指先が走る。殺意を宿らせた瞳を鋭く尖らせ、目の前の悪魔を睥睨した。濃厚な魔力を立ち昇らせ、“世界”へと奇跡を起こす様に命令する。けれど、
「油断と慢心――それは貴方の成長を阻害する。故に貴方には一度、敗北を味わってもらう必要がありました」
「は、――え?」
“世界”は何も答えなかった。彼の魔力は何者にも届かず、行き場を失い霧散する。困惑に固まる彼を、長身の男が見下ろした。
「此処は私の“世界”であり、あちらの“世界”とは形も在り方も何もかもが違う。――今までの術式は使い物になりません」
衝撃が腹部を中心に全身へと走り、ギルベルトは地へと伏した。術式なしの魔術行使が生み出した魔力の塊。単純であり、強力なソレが魔人を襲った物の正体だったが彼はその事実に気付かない。自身に起こった出来事が理解できずにもがく彼へと、言い放つ。
「その程度で満足しているようではたかが知れているというものです。力は授けました。――今度は貴方が私の役に立つ番です」
口の端から胃液をこぼしながら、ギルベルトは起き上る。そして、得体の知れない男へと問い掛けた。
「……お前は何者――」
それは既に聞いた事。目の前の男は悪魔だ。彼が本当に聴きたいのは別の――
「――お前の目的は、何だ?」
問われた悪魔は酷薄な笑みを消し、剣呑な目付きで空を仰ぎ見る。空と呼ぶことに抵抗を感じる程に虚しいソレに、想いを吐き出す様に言った。
「“世界”の崩壊と――命有る者全ての救済」
†
険しい山道をひたすらに進んでいた。先の闘いで身体も精神も限界に達していたエストにこの道はツラいらしく、先程から何度か躓き、その度に冷や汗を掻いていた。
周囲から視線を感じる。それは血に飢えた獣や魔物の殺意の篭った視線だが、彼らが自身に襲い掛かってくる様子はない。彼らを統べていた竜を倒した魔人をエストが倒したのを魔物たちは知っていたのだ。倒れない限り、彼らが襲い掛かって来る事はない。
そう確信していたからこそ、エストは倒れる訳にはいかなかった。
不意に頭を小突かれる。
「もういい。自分で歩けるから」
耳元で囁く声に背筋を震わせながら、申し出を無視して姉を背負い続ける。小突く力が強くなった。
「俺は男だからな」
明朗な声でそう言う弟にシアは『意味が分からない』と呻いた。
そこで会話が途切れ、時間と風景だけが過ぎていく。強めの風が吹き、衣服と髪をなびかせた。
「悔しい?」
何を指しているのかは直ぐに分かった。長年探し続けていた仇敵とようやく出会えたのに、敗北し、あっさりと逃げられた。エストは何とか宥めようとしていた心に再び熱が灯るのを感じながら、出来るだけ平坦な声を出した。
「……悔しい。はらわたが煮えくり返るくらいに」
「どうするの?」
七年も鍛えて、入れられたのは一撃だけ。それが効いたのかさえ分からない。これから先鍛え続けても、あの悪魔に届かないかもしれない。答えは判りきってはいたが、シアは彼の口から聴きたかった。返答は間を置かずに返ってくる。
「強くなる。もっともっと強くなっていつかは――!」
「エスト一人じゃ無理」
水を差すその一言に、思わずエストは躓いた。何とか体勢を整え、地面へと倒れ込むのを防いだ彼は背負った姉へと胡乱な視線を向ける。彼女の表情は決意に満ちていた。
「――だから、私がいる。私も、強くなる。少しでもフォルテシアに近付ける様に」
エストを護れる様に。
その意を汲んだエストは照れ臭さを感じて視線を逸らす。何と返したら良いか判断に迷った彼はつい口を滑らせた。
「……体型の方もか?」
突き刺さる肘鉄。後頭部に走る痛みに涙を浮かべた彼は、遠くを見下ろす。
西に浮かんだ太陽の光が起伏に富んだ緑豊かな草原に降り注いでいる。緩やかな風を肌で感じながら、これから自分たちが歩む道程へと想いを馳せた。
「頼りにしてるからな」
「それはエストの態度次第」
背中に掛かる僅かな重さと温かさを感じながら、エストはまた一歩を踏み出した。
了。