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第三章「魔人の下へ」


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『ひっ!?』

 唐突に短い悲鳴が鼓膜を貫く。壁に背を預けて微睡んでいた少年はその悲鳴に驚き、周囲に視線を走らせた。獣や魔物の姿はなく、随分と穏やかな夜。危険はない、そう判断した少年は安堵の息を吐き、ならば何の悲鳴なのかと、再び首を巡らす。

『ああ、起きたんだ』

 悲鳴の発信源たる少女の姿は、薄闇によって若干見え辛い。それもその筈、今彼らが居る場所は小さな洞窟。そこは女性と別れてから四半刻(三十分)程度で見つけた野宿地だ。

 洞窟の横の広さは少年が両手を広げて壁に手が着くか着かないかというところで、高さは軽く跳ねたら頭を盛大にぶつける程度に低い。奥行きは浅く、入り口は一つだけ。出口も兼ねるそこから夜空に浮かぶ星々の煌めきが入り込み、内部を照らすが、その明かりは心許ない。

 入口に近い所に居る少年はともかく、奥に居る少女に光が届かないのは当たり前とも言えた。

 しかし、暗くとも少女が自分に警戒心を表している事は分かった。試しに一歩踏み出すと同時に少女は一歩下がる。だが、少女の背後は既に土で出来た壁があり、下がる事が出来ないので実質、距離は縮まった。距離を詰める事は簡単だが、それは躊躇われた。

『えーと大丈夫だよ? 何もしないから』

 ……返答はない。

 寧ろ、僅かに警戒が強まった気がした彼は、肩を落としてうな垂れた。

 ――流石に、根掘り葉掘り聞ける状態じゃないなぁ。もう少し時間を置くしかないかな。

 そう結論付けた彼は、心の中で沸き起こる焦りをねじ伏せて再び座り、壁に背を預けた。それでも少女の警戒心が横顔に突き刺さるのを感じ、げんなりとする。

 ――そういえば、お腹すいたな。

 焦りをねじ伏せたら、今度は空腹感が沸き上がった。ひとまず少女の件は保留にし、己が空腹を満たすべく、先程採ってきた果物を食べる事にした。

 赤い、手の平ほどの大きさの果物を服の袖で拭って汚れを落としてから、口元へと運ぶ。かじりつくのと同時にシャリ、と音が響いて口内を瑞々しさと甘さが駆け巡り、自然と頬が緩む。

 ――うん、うまい。いかにも果物って果物だ。

 不味いのは布みたいだからなぁ、とぼやく彼は未だに少女がこちらを見ている事に気付く。しかし、その視線に警戒心はなく、彼は食べる手を止めて視線を向けた。

 ――み、見てる。なんか、すっごい見てる。

 少女の視線は少年が持つ、食べかけの果物に向けられている。その目は物欲しげな色を浮かべており、少年自身は映っていない。

 果物を上にあげると、少女の視線も上を向き、下へおろすと言わずもがな。

 ――お、面白い……!

 その後も少女の挙動で遊んでいたのだが、石を頭にぶつけられ、痛みに涙を滲ませる事となった。

『~~っ! ……ご、ごめんなさい』

 鋭い視線を浮かべて第二射目を放とうとする姿に即座に謝り、石を捨ててもらった。恨みがましい視線を浮かべる少女に苦笑を浮かべ、

『えっと、そっちに行ってもいいかな? じゃないと食べ物渡せないし』

 この暗闇の中、果物を投げ渡せば恐らく取り損ねるだろう。

 対する少女は何も答えない。拒絶の気配は感じなかったのでゆっくりと近付いていき、彼女の横へと腰を下ろした。隣の少女との間隔はヒト一人分。手を伸ばして新しい果物を差し出すと、恐る恐るといった具合に受け取る少女。

 その手付きは少年の指に触れない様にせんとしていたが彼は気にしない事にした。

 果物に小さな口でかぶりつく少女の姿はリスを連想させ、微笑ましい。

『俺はエスト。キミの名前は?』

『名前は、ない……』

 綺麗な声だった。鈴を転がす様な澄んだ声音に聞き入り掛けるが、その内容を心の中で反芻してそのおかしさに怪訝な表情を浮かべる。

『私は“生まれたばかり”だから』

 少女の見た目は十歳の自分よりも少し下に見える。どう見ても“産まれたばかり”には見えなかった。

『それじゃあ色々と不便だから……名前、俺がつけてもいいかな?』

 エストは深く追及する事はなく、そう提案する。薄れたとはいえ、未だに自身を警戒する少女に、無理に聞き出すのは躊躇われたからだ。

『……好きにして』

 目を合わせずに少女はぽつりと呟く。エストは腕を組み、頭を必死に働かせる。次々に名前が浮かぶがそのどれもがこの少女には相応しくない気がし、彼は更に思考の泥沼に沈んでいく。

 ふと、脳を過る像。それは彼の故郷を焼き、同時に彼をその場から救い出した恩人、“フォルテシア”。天啓にも似たその閃きを、少年は半ば衝動的に口にした。

『……“シア”はどうかな?』

『――シア』口の中で、それを小さく反芻する。

 のちに、

『捻りのない名前』

 エストが心臓を鷲掴みにされたみたいに苦しそうな顔をした。一瞬で彼女に名の由来を悟られてしまった事に気付き、自身の短絡さに頭を抱えた。

『でも』羞恥に悶える彼の横で何かを言い募る声。何気なく視線を向けて、目を見開いた。

『……うん。良い名前、だと思う』

 少女が、こちらに顔を向けていた。宝石かと見紛う程に碧く、澄んだ瞳と自身の瞳が見詰め合う。薄闇の中だというのに存在を主張するソレは僅かに細められており、可憐な微笑みとなっている。

『よろしくな、シア』


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 鼻頭に水滴がぶつかった衝撃でエストは目を覚ました。寝起きの視界はかすれており、周りを見る事は叶わない。

 ――あんまり深い眠りじゃなかったな。それに、身体が痛ぇ。

 横になったまま、身体を伸ばしたり捻ったりして固まった筋を解す。その動作はどうにも緩慢で、あまり覇気があるようには見えない。

 一通り身体を解し終えると、視界が回復してきたので周囲へと視線を走らせた。

 左右が石造りの壁で、正面には堅牢な鉄格子。ベッドはなく、薄汚いボロ布が一枚、部屋の隅に転がっている。ごつごつとした硬質な床に頬を付け、随分硬いベッドだと呟いた。天井に照明はなく、陰鬱な空気を助長する。

 ここはリノアキシア王国の王城の地下牢。闘技場で騎士によって捕縛されてから既に三日が過ぎようとしている。

 地下牢に入れられたのはエスト一人であり、シアの行方は彼にも分からない。入牢当初は、エストもその事が気掛かりで騒ぎ続けたが、二日目の朝に無駄だと悟り、やり方を変える事にした。

 魔人との闘いで消耗した身体を休め、隙を突いて脱獄し、シアを助けて逃げる――そう考えて出来るだけ動かない様にし、身体を休めていたのだが流石にそろそろ限界だった。行方知らずの姉、そしてその姉の正体が既に露呈している事実が彼の焦りを更に加速させる。

 ――まだ、本調子には程遠いけどやるしかない。俺にしか、シアを救う事は出来ない。

 そう決意を固めたのも束の間、ガシャガシャと足音らしきものを聞き取った。どうやらこちらに向かって来ているらしく、徐々に音が大きくなっていく。

 恐らく、見回りの騎士だろう。そう考えた彼は音を立てない様に、素早く壁をよじ登り、入口側の天井の隅に張り付く。その姿はさながら蜘蛛そのもの。

 そこは入口から見て死角となっているため、中に入らなければ見つかる事はない。

 足音が直ぐ近くで止まる。彼の姿が見えないからだろう、狼狽の声を発する者は慌てて鍵を開けて牢内に足を踏み入れた。

 ――もっと中に入れ……!

 案の定、その者は騎士だった。暗闇の中でも存在を主張する銀の甲冑が彼のほぼ真下にて立ち尽くす。そのまま報告すべく立ち去るのもいいが、理想としては気絶させておきたい。逃がさず確実に気絶させるにはもう少し中に入ってもらう必要があった。

 騎士は中に入る事も立ち去る事もなく、ただ立ち尽くしている。

 もしや自分に気付いているのか、と思い、このまま落下し、その勢いで殴り付けようか思案していると真下の騎士が一歩前に出た。

 今だ、と心の中で叫び、音もなく着地する。背を向ける騎士の首に狙いを定め、猛然と飛び掛かった。

 ――少しの間、寝ててくれっ……!

 騎士の細い首に触れる直前、さらさらとした長い髪が指を掠めた直後、自身の身体が浮遊感に捕われた。

「は? ――が、ぁ!?」

 次いで、背中から全身に走る衝撃に呼吸が止まる。投げ飛ばされた、そう気付いたのは衝撃を受けてから一呼吸にも満たない短い時間が過ぎてから。

 受け身を取る暇もなく石造りの床に叩き付けられたからだろう、呼吸もままならなかったが立ち上がらなければそこで全てが終わってしまう。

「す、済まない! 大丈夫かっ?」

 どうにか立ち上がろうとする彼に驚きと申し訳なさを足して割った様な声が投げ掛けられた。その声は屈強な騎士にしては高く、透き通っている。違和感を覚えて顔を上げればそこには心配そうに自身を見遣る、

「エルミナ?」

 白銀の甲冑を纏った騎士にして幼馴染のエルミナ・スティラートその人だった。銀色のポニーテールを背に流しながら、呆然とするエストへ手を差し伸べる。

「いきなり髪を触られたから驚いたんだ。許してくれ」

 ――髪を触られたら投げるのか。って今はそうじゃないだろ、俺っ。

 自分の間が抜けた思考を叱咤し、彼女の白い手に掴まると、マメの感触がした。しかし、その手から無骨さは感じず、女性特有の柔らかさがあった。

「ふっ」

 ぐい、と身体が引っ張られる。それが割と急だったのでエストは大して力を込められなかったが、エルミナは特に苦も無く彼を立たせた。騎士隊長の称号は伊達じゃない。

 立ち上がってもなお、エストはその白く冷たい手を離さない。両手で包み込む様にして彼女の右手を揉み解し、僅かに感嘆の声を漏らした。

 ――なんか凄く触り心地がいいな。ずっと触っていたくなる。

「ふむふむ」

「あ、ぁぁぁあの、エストッ?」

 慌てふためくエルミナの声に、怪訝な顔で彼女の顔を見た。エルミナは顔を真っ赤に染め、口を何度も開けては閉めるのを繰り返す。

 その挙動不審な姿に首を傾げていると、彼女の視線が一点に向けられている事に気付く。その先に少年自身の両手に包まれ、揉み解される白い手を見た瞬間、彼は全てを悟った。

「おぅふ」

 奇妙な声を発しながら彼女の手を解放し、慌てて下がるエストはエルミナの『あ……』という声を聴き逃した。

 何とも言えない微妙な空気が、薄暗い牢屋の中に充満する。真っ赤な顔を俯く様にして隠す騎士少女にエストは声を掛けあぐね、少しの間、お互いの呼吸音だけが辺りに響く。

「えと、何でお前が?」

 意を決した彼の発言が気に入らなかったのか、エルミナは眉をひそめて睥睨へいげいする。その迫力にエストは思わず呻き、半歩下がった。

「それは本気で言っているのか? だとしたらお前は薄情な奴だな」

 本当は分かっていた。牢屋に入れられた時に、間違いなく彼女が来るだろう事は。ただ少しでも先送りにしたくて、白々しい質問を投げ掛けた。その悪あがきに対し、彼女は冷めた視線で薄情者と罵った。エルミナと出会ってから今までそんな目で見られた事はなかった彼に、その事実が重くのし掛かる。

「シアの事、だよな」

 その確認の言葉に対し、エルミナは口を閉ざしたまま。言葉にせずとも、彼女の鋭い瞳がそれを肯定していた。

 話すべきか話さざるべきか、その波間をエストの心が漂う。目の前の騎士少女は、自身が話すまで動くつもりはないと気配で訴えているので実質、選択肢が一つしかない。彼が逡巡していたのは僅かな時間。彼は溜め息を吐きながら頭を掻き、訥々(とつとつ)と語りだした。結論から言うと、そう前置きし、

「シアは人間だ。少し、出自が特殊だけどな」

 出自が特殊? とエルミナがおうむ返しに尋ねるとエストは僅かに頷き、話を続ける。

「――シアは、“虚神・フォルテシア”の欠片だ」

「なっ!?」

「つっても、怪我をすれば血も出るし、飯を食わなきゃ腹も減るし、年月と共に歳もとる。あいつは人間で、何より俺の唯一の――家族だ」

 真摯な瞳でそう語る少年を見て、それが伊達や酔狂などではなく心の底からの思いである事をエルミナは悟ると同時に、一抹の寂しさを感じた。

「シアとは何処で出会ったんだ」

 個人的な感情を隅に追いやったエルミナは彼に疑問を投げ掛ける。先程とは違ってその答えが返ってくるのが早い。

「昔、俺の故郷が滅ぼされた時の話をしただろ?」

 それは今からおよそ七年前の事。まだエストとエルミナが出会って間もない時に聞かされた話だ。盗賊に攻め入られたと聞いていた彼女に対し、エストは笑顔で頭に手を遣り――

「スマン、ありゃウソだった」

 たはっ、と笑うエストに絶句するエルミナは、次いで顔を真っ赤に染めて彼に掴みかかった。

「わ、私があの時に流した涙を返せ、馬鹿者がっ!」

 烈火の如く怒鳴り散らし、エストを前後に揺さぶる。当のエストは激しい揺れに目を回しながら言い訳を開始した。

「いやいやいや、本当の事言っても信じてもらえなさそうだし! それに泣くとは思わなかったんだよ!」

 最後の言葉に彼女は息を詰まらせ、エストを揺さぶる手を止める。真っ赤な顔で視線を逸らして唸る少女に、溜め息をこぼす。彼の話を聞き、同情の余り涙した少女の幼い頃を思い出し、感謝と申し訳なさの混じった苦笑を浮かべた。

 けれどもその笑みはすぐに消え失せ、無表情に本題を語る。

「いきなり現れた虚神によって村が焼き払われ、俺を除いた住民は軒並み殺された。そして、俺はその虚神によってその場から連れ出されたお陰でこうして生きてるって訳だ。

 その時に、シアを預けられた。こいつと一緒に生きろって、一方的に言われてな」

 話が脱線し過ぎて少し長くなってしまったからだろう、エストは概要をまとめて素早く告げた。行方不明のシアの事が心配だったのだ。

「……シアを恨んではいないのか?」

 躊躇いがちに至極当然の疑問を口にする。欠片とはいえシアと虚神・フォルテシアはほぼ同一人物と言って良いだろう。その自身の全てを奪った存在と共に過ごし、あまつさえ信頼関係を結ぶなど、エルミナには考えられなかった。

「恨んでねーよ」

 そう言って、彼は笑った。心の底からの言葉だからか、声音に曇りがなく、その姿は無垢な少年そのものだった。だからこそ、彼女は困惑する。少年の在り方は歪で、底が見えない。

 彼女の困惑に気付いたからかエストは感情を消して俯く。

「虚神を呼び出す原因を作った奴がいるんだ」

 握り込んだ、自身の拳を見遣る。小刻みに震える拳を見詰めるエストの瞳には濃厚な憎悪がひしめいていた。

「恨むべきは虚神じゃねえ。“黒色の悪魔”ただ一人だ……!」

 黒色の悪魔とはエストとシアが闘技場で口にしていた人物だと思い出す。あの時も、そして今もその名が出た直後に彼の気配は憎悪に染まる。その人物について聞きたいという思いはあったが、彼に聞いても答えてはくれないだろう。

 私は頼ってもらえないのか、心の中で呟いた彼女は悲しげに目を伏せた。

「……俺の方からも聞いていいか?」

 伏せていた目を向けると、既に少年の瞳に憎悪の色はなく、エルミナのよく知る幼馴染がそこに居た。少年が眼を泳がせ、逡巡していたのは二呼吸程の時間。

「エルミナはシアが怖いか?」

 虚神の欠片である人間――シア・グレイス。エルミナ自身の想い人であるエストの、唯一の家族。

 エルミナが書物や人から教わった虚神は、突然現れ圧倒的な魔術行使で周囲を焼き尽くす邪神だ。遙か昔、顕現した虚神の姿を遠見の魔術で覗いていた宮廷魔術師はその姿を見て言った。

『あれの瞳は何も見ていない。虚ろな瞳で羽虫を潰すかの様に我々を葬る。――あれの名は“虚神”、生きとし生きる者全てにとっての天敵だ』

 その後まもなく、宮廷魔術師は弟子たちの静止を振り切り虚神の下へと向かい、遂に帰ってこなかった。

 その時、『あれは私のモノだ』――弟子たちに対し、宮廷魔術師はそれだけを言い残したらしい。

「少しだけ、怖い。でもそれ以上に私は私が怖かった」

「どういう事だ?」

 エストの問いにエルミナはしばし無言になる。震える自身の腕に手を添えながら、苦しそうな表情を浮かべて俯いた。

「あの時のシアを見たとき、私は私じゃなくなったかのような感覚になった。神々しくも無垢で儚い、しかし圧倒的な存在感を放つ彼女を見て私は一瞬、けれども確かに思ってしまったんだ」

 俯けていた顔を上げる。灰色の双眸は恐怖に揺らめき、潤んでいた。


「――“殺して、奪いたい”と」


 目の前の圧倒的な力の主を蹂躙し、その力を我が物としたい。不可思議な欲求に抗えず刃を向けかけた彼女をエストが止めなければどうなっていたか分からない。

「――いや、私は間違いなくシアに襲い掛かっていた。それが……怖かったんだ」

 不安げに佇む幼馴染の姿に胸が締め付けられた。自分に力がなかった事により、姉だけじゃなく、幼馴染さえも苦しめている。

 自分の不甲斐無さを痛感し、悪態の一つでも吐きたくなるが今はそれどころではない。

「……虚神の力はあまりにも膨大で、魅力的に映っちまう。殺してでも奪いたいっていうのは人として当然の欲求なんだ。だから、エルミナの所為じゃない」

 お前は正常だ、そう言う彼を見つめる瞳は僅かに潤っており、不安を隠しきれていない。それでも先程に比べれば落ち着きを取り戻しつつあるらしく、手の甲で目元を拭い苦笑を浮かべてみせた。

「ははっ、私はエストに助けられてばかりだな。……なんだか、お前と初めて会った時の事を思い出したよ」

 それは今から七年前の出来事でまだ少女が騎士となる前の話。珍しく仕事が休みの両親と共に国外へと旅行に出かけていた彼女は、両親に黙って宿泊地の近くの森を散策し案の定迷子となった。

「あの時は怖かった。大きな木が周りを囲んでて、時折鳴り響く鳥の声にいちいち怯えていた」

 道に迷ってどれくらい経ったのかは分からず心身ともに疲れ果てた時、彼女の前にオオカミの群れが現れた。逃げようにも相手は獣で彼女は子供、それも疲弊した状態では叶わない。あっという間に囲まれ、もう駄目だ思ったとき、一人の少年が現れた。彼はエルミナを背に庇う様にオオカミの前に立ちはだかる。

「その時、エルミナは俺にこう言ったんだよな。『馬鹿者、逃げろっ!』って」

「し、仕方ないだろう。自分より幼い子供が短剣一本で獣の群れに立ち向かおうとしたんだぞ」

 しかし、彼女の心配は杞憂だった。驚くべき事に、エストは短剣のみを武器に獣と互角に渡り合ったのだ。

「お前の剣技は素晴らしかった。幼子がここまで短剣を振るえるものなのかと感心した位だ」

「……何度も言うけどそれは俺の魔術のお陰だから、俺の実力じゃないんだぞ?」

 過去の自分を褒め称える声がこそばゆくなり、頭を掻きながら言うエストにエルミナは『だとしてもだ』と興奮気味に詰め寄った。

「お前の魔術は常識を覆している。その才能を伸ばす為に騎士団に入ってもらいたかったのだが……」

 恨めし気に睨む少女から視線を逸らし、乾いた笑いをこぼす。ふと、エルミナは俯き、『他にも理由はあるのだがな』と呟いた。

「私はこの国で唯一の女騎士だ。それをあまり良く思わない者も居る。……お前には、傍で私を支えてほしかったのだ……」

「エルミナ……」

「結局私は自分の事ばかり考えていたのだ。今まで執拗に勧誘して済まなかった」

 深々と頭を下げる騎士少女にエストは何も言えなかった。黒色の悪魔の事もあり、国に縛られる訳にはいかず断り続けた自分が何を言ってもそれは意味をなさない。

「……そろそろ時間が拙いな。行くぞ、エスト」

 顔を上げた彼女の唐突な言葉に思わず間抜けな顔をしてしまう。『どこへ?』という彼の考えを読み取ったエルミナは苦笑を浮かべて、

「シアの所だ」

「い、いいのか!? こっちとしては願ったり叶ったりだけど……」

「元々そうする様に言われたからな」

 急な展開にエストは困惑するがそれ以上にシアの事が気になった。シアの居場所を問うとそれはあっさりと教えてもらえた。

「あいつなら今は国王の前にいる」

「は?」

「王と交渉しているんだ。ちなみに交渉内容は――」

「――何であいつにそんな事させてんだよ!」

 唐突にエストは怒鳴り、駆け出した。エルミナの横をすり抜け地下牢の長い通路を疾走する。銀髪の騎士は驚きつつも急いで術式を構築し、風を纏って彼を追った。

 その足は存外速く、魔術で身体を軽くしているにもかかわらず追い付くのに少し時間が掛かった。地下牢の出口前で何とかその肩を掴む事に成功する。同時に彼を追い抜き、立ちはだかる事によって彼はようやく止まった。

「どうしたエスト! 何を慌てているんだっ?」

「闘技場でシアは自分の身体に虚神の力を降ろしたんだ!」

 本来の力の一割にも満たないものだが、それは紛れもなく神の力。けれども――

「――シアは人間だ。神の力なんて本来降ろせるモノじゃない」

「そ、それはつまり――」エルミナの言葉を遮る様にエストは結果を叫んだ。


「――あいつは今、死に掛けてるんだ!」


 /2


 両開きの扉があった。扉の表面には、竜に跨った戦神・ヴァルドの雄々しい姿が彫り込まれている。謁見の間だ。

 扉の両脇を固める二人の騎士は武器を構えて、向かい来る少年へと警告の声をあげた。

「貴様、止まれ! さもなくば――」

 重圧を含んだその声音は聞く者によっては本当に立ち止まってしまいそうだ。しかし、少年は臆することなくその警告を遙かに超える音量で叫んだ。

「邪魔だ、退けぇぇええッ!!!!」

 少年の鬼気迫る表情に二人の騎士は僅かに息を呑む。しかし、流石は国を護る役目を請け負う騎士、頭を振って少年の気迫を吹き飛ばし、槍を突き出した。

 石突きと呼ばれる、刃と逆の先端部分がエストの腹部へと迫る。しかし、手の甲で軌道を逸らした彼は、驚きに目を見開く男に拳を振るおうとして――足がもつれた。

『う、ぉぉぉお!?』

 エストと騎士がぶつかり合うもその勢いが衰える気配はない。拳を躱そうと、騎士が後ろに仰け反ったのが原因だ。

 彼と騎士の身体が扉を押し開け、謁見の間へと突入する。騎士はそのまま絨毯の敷き詰められた床へ、エストは宙へと投げ出され絨毯の上に落下すると共にごろごろと転がっていった。

「シア!?」勢いが収まるのと同時に床へと四つん這いになったエストは、姉の名を叫びながら周囲を見渡す。

 少し高い位置に鎮座する玉座に初老の王が座り、その両脇を固める様に二人の近衛騎士が立っている。王の後ろには小太りの女宰相が立っており、丁度王に耳打ちをしていたらしく顔が近い。

 意外にも人が少ないがこの場に居る者全てが突然転がり込んできた不審者に目を向ける。それらは、エストにとって些細な事であり、彼の視界には姉の姿しか入っていなかった。

 そう、姉は居た。謁見を許された者が立つべき位置で“いつも通りに佇んでいた”。

「は?」

 四つん這いの姿勢のまま、呆然と呟くエストに呆れの篭った視線を向けるシアは王へと向き直り、『国王』と言った。

「取引は成立。もしもそれを反故ほごにするのなら――分かっているわね?」

「……分かっている。そうしたところで、我々に益はない」

 忌々しげに吐き捨てる国王に、シアは無表情のまま鼻を鳴らす。『どうだか』と口の中で呟いた。

「え、お前、何で……?」

「黙って」

 状況が掴めず困惑するエストを黙らせ、謁見の間を後にする。出口の傍で待機していたエルミナが先導し、長い廊下を黙々と歩いた。

 立ち止まったのは謁見の間から少し離れた場所の、ある部屋の前。主に客将に宛がう部屋だ。

「ここがシアの部屋で、エストの部屋はその隣――って、おいっ」

 エルミナの説明の途中だというのにシアはそそくさと自分に宛がわれた部屋へと入ってしまった。まだ説明する事があるのだろう、シアを追い、部屋へと入っていくエルミナにエストも続いた。

 部屋の中心でシアは彼らに背を向け、佇んでいる。何かがおかしい、そう直感したエストは姉へと近付いた。

「今、この部屋に私たち以外に誰か居る?」

「……俺とお前とエルミナの三人だけだけど。そんな事より、身体、大丈夫なのか?」

 振り向かない姉に対し、エストは怪訝な顔で質問に答えた。実際に人の気配はない。何か魔術的なモノがある事を考慮し、エルミナに目だけで問うと彼女は首を横に振った。

「……なら、もういい」

 僅かに考える素振りを見せたシアは納得の声をあげ――膝から崩れ落ちた。

「お、おい、シア!?」

 突然の事態だったが、エストにとっては予想の範疇だ。シアの身体が床に衝突する前に受け止める事に成功したが、それでも感情の昂ぶりを抑える事が出来ず大声で姉の名を呼んでしまう。

 支えた身体は異様に熱く、その整った相貌は熱に浮かされたかのように赤い。だというのに、唇は青ざめ身体が小刻みに震えている。

 その様子はどう見ても尋常じゃない。エルミナは衛生兵を呼ぼうと扉に向かうも、シアの静止の言葉に足を止められた。

「今の、私を誰かに見ら……れたら全て、が終わる。私の命も……エストの命も」

 だから待って、少女の必死な訴えを受け入れるべきか、否か。普通なら誰かを呼ぶべきだが、シアの必死な訴えは受け入れざる負えない何かを含んでいた。エルミナは僅かに開いた扉から顔を出し、周囲に人の気配がない事を確認してから扉を完全に閉めた。

「……私は助かる為に、国王と取引をした。その取引が成り立ったの、は私に力があるから」

 だから、弱っている事を知られたら問答無用に始末される。自分は世にも恐ろしい虚神なのだとこの国の連中に思い込ませなくてはならなかった。

「だから、お前、平気な振りしてたのかよ……」

 エストの瞳が悲しげに伏せられる。恐らく、彼が牢獄に入ってから間もなくして交渉は始まっていた。そして、エストが謁見の間へ突入すると同時にその交渉は成立した。

 彼女は三日もの間、ひたすらに堪えていたのだ。今の様な死に体を隠し、周囲の人間全てを敵と見なして誰も信じずに一人で戦い続けた。それは彼女自身の為だろうが、同時にエストの為でもあった。悔しさと情けなさに、エストは歯を食いしばる。

 エルミナは扉から離れて、悔しさに震えるエストの肩に触れた。

「ひとまず、シアをベッドに移そう。詳しい事は私が話す」

 次いで、苦しさに喘ぐシアと視線を絡ませる。エルミナの瞳は不安と複雑さに揺れていたが、それでもいつも通りの口調を意識した。

「だから、シアは眠っていろ」

「……居たの?」

「さっき私と話していただろうが! こんな時でも憎たらしい口だな!」

 彼女らの普段通りのやりとりに、エストは苦笑を浮かべた。まだ、自分の不甲斐無さを許せそうにないが少しだけ気が紛れたのは事実。抱きかかえたシアの身体を揺らさない様に配慮しつつ、ベッドに横たわらせた。

 その後、エルミナに手拭いと水桶を持ってきてもらい、シアの身体を拭いてもらった。部屋を退出する時エストは、露骨に眉をしかめて睨み合うシアとエルミナを見たが気にしない事にした。

 四半刻(三十分)より短い時間が経ち、拭き終わった旨を伝えられたエストは再度入室するとシアはベッドで寝息を立てていた。あまり安らかとは言えない寝息に不安を感じずにはいられないが、部屋の隅でエルミナに件の取引内容について聞く事にした。今の自分に出来る事は情報を仕入れる事だけなのだ。

 内容は要約するとこうだった。

『魔人を討伐する代わりに、今後私たちに関わるな』

「……よくそれで国王が受け入れたな」

 エストは率直に自分の感想を言った。勿論声は抑えてある。エルミナも彼と同様に小声だ。

「虚神を取り逃がす事より自国から魔人が誕生した、という事実の方が重大なんだ」

 寧ろ、虚神が現れていながら滅びなかった国として、他国からの侵略に対し抑止力となる。しかし、魔人を生み出したという事実が他国に知れ渡れば、少々厄介な事になる。

「ギルベルトは曲がりなりにも貴族。その貴族が魔人になるような国だと思われれば粛清という名目で、他国同士が手を組み戦争を仕掛けてくる可能性が生まれるんだ」

「なら、何でこんなに交渉が長引いたんだ? 悩む必要なんてないだろ」

 腕を組み首を傾げる赤茶色の髪の少年にエルミナは曖昧な表情を浮かべ、言い淀んだ。

「……王によって頑なに拒まれたのだ。今すぐ虚神を殺せ、我が国を滅ぼさせはせぬ、とな」

 遙か昔より虚神によって滅ぼされた国は少なくない。この国の責任者である王からすれば、その様な危険な存在が目の前に居れば心中穏やかではいられないだろう。

「けれど、王も頭では分かっていらっしゃったのだろう。最終的には納得して下さった」

 僅かに安堵の笑みを漏らすエルミナを余所に、エストは謁見の間での国王の姿を思い出す。大柄な体躯は、老いてなお鍛錬を怠っていない為、引き締まっている。白髪の混じった豊かな毛髪と鋭い瞳は、彼が高齢である事を忘れさせる。

 しかし、その事はエストにとってどうでもいい事だった。彼にとって問題なのは、王がシアを見る時の瞳だったのだ。

 怯えの篭った、それでいて敵意をにじませた双眸。

 ――国王は納得なんてしてない。取引を守るかどうか怪しいな。

 魔人を倒し、消耗した所を叩く、などと考えている可能性は充分ある。だがその考えをエストは胸の内で思うだけにし、口には出さない。根拠のない憶測を、それも王に忠誠を誓うエルミナの前で口にするのは流石によろしくない。

 ――今はそれよりも大事な事があるな。けれど、頼んでいいものか……。

 シアが弱っている事を知る者はエストとエルミナの二人だけ。エストがそれを他者に喋る事はありえないが、エルミナは違う。

 もしも、エストがエルミナに口止めをして彼女が受け入れてしまえば、それは国への明確な反逆行為と相違なく、騎士とはいえ少女に負わせるにはあまりにも業が深い。かと言って、報告されてしまえばグレイス姉弟はお終いだ。

 頭を悩ませる少年の葛藤に気付いたのだろうエルミナは何て事のない様に言い放った。

「言う訳がないだろう? 何故私がそんな事をしなければならない」

「え、だってお前……」

 妙に軽い彼女の反応が予想外で彼は言葉を詰まらせる。彼の様子が予想通りだったのか、エルミナは僅かに笑いを漏らす。口に手を当てるその仕草は貴族らしく、とても上品だった。


「友人の姉が体調不良だなんて、誰に言う必要があるんだ?」


「……ありがとう」

 ――シアを人間扱いしてくれて。

 エストは熱くなった目頭を押さえ、騎士少女へと背を向け礼を言う。『何に対しての礼なのか分からないな』と呟く幼馴染に頭の中で再度礼を言った。今、口を開いてしまえば自分の声の震えに気付かれてしまうから。

「何か必要な物があれば言ってくれ、可能な限り揃えよう」

 そう言い残し、彼女は部屋を立ち去った。その後、広い部屋の中にシアの吐息とエストの鼻をすする音だけが響いた。


 /3


「汗で気持ち悪い」

 ベッドに横になっていたシアは天井を見つめながらそう呟いた。姉の唐突な呟きにエストは腕立て伏せを止めて、立ち上がる。

 一晩経ってもシアの体調はあまり回復せず、一人で汗を拭く事さえままならない。だが、朦朧としていた意識が今ははっきりしている辺り、回復の兆しはあるのだろう。その事実にエストは、密かに胸を撫で下ろした。

「じゃあ、少し待ってろ。今エルミナを呼んでくるから」

「エストが拭いて」

「……はぁっ!?」

 彼女に背を向け、扉に向かおうとするも直後の発言に再度振り返る。あまりにも唐突かつ衝撃的な申し出に、彼は何度も口を阿呆の様にぱくぱくと動かした。

「酷い間抜け面。早くして」

 言い終わるや否やシアは服に手を掛けた。今の彼女の服装は普段着である厚手の黒衣ではなく、上衣とスカートが一体になった麻服だけ。袖のない服から露出する肩が朱く上気しており、やけに艶っぽい。

 身体に力が入らないからか、それ一枚脱ぐのに悪戦苦闘する姉に対しエストは大声で静止の言葉を叫んだ。

「待てって! 今すぐエルミナ呼んでくるから!」

 顔を真っ赤にして慌てるエストに構う事無く、シアは脱衣を続けようとするも、『……脱げない』と呟き、両手をだらりと下げた。ベッドの上で、ぽすん、と力のない音が響く。

 その姿に安堵の息を漏らす彼へと、鋭い視線を送る。

「早くしてと言ってる。何をそんなに慌てているの?」

「いや、俺の反応はかなり当たり前なものだと思うんだが……」

 彼の呆れの篭った反論に対し、姉は僅かに嗜虐の入った笑みを浮かべる。それはろくでもない事を考え付いた時の反応だという事が過去の経験で理解した。

「私とエストは姉弟。何もお互いに恥ずかしがる事はない筈。それにこれはただの看病、恥ずかしがる方が変だと思う」

「あのな、姉弟っつってもお前は女の子だ。それの、何だ……は、裸はマズイだろ?」

 視覚的に精神的、それと身体の一部分的に。

 歯切れの悪い弟に対し姉は普段の無表情を僅かに歪め、ショックだといわんばかりに顔を覆った。

「まさか、エストがこんな肉付きの乏しい幼女体型に欲情する変態だったなんて……。お姉ちゃんは大変ショックです」

 自分で言うなよ、と心の中で呟くエストの前で泣き真似をするシア。何故か口で『しくしく』と言っている。

「こうなったらエストを殺してその死体を持ち帰るしかない」

「そこはお前も死ねよ! それに持ち帰ってどうするつもりだ!」

「愛でる」

「怖っ!?」

「大丈夫。エストがどんな姿になっても私は変わらず愛せる。そう、私だけがアナタヲアイセルノ」

「いきなりグロい目つきするなよ……」

 姉の形容し難い目つきに引きながら、エストは額に手を当て大きく息を吐いた。こちらが折れなければならない状態だと悟ったのだ。

 いつまでも汗に濡れた身体では風邪を引いてしまう。自分の羞恥心は一度脇に置いておくことにしてベッドへと近付く。水桶と手拭いはあらかじめ用意していたのでわざわざ汲みに行く必要はなかった。

「ほら、脱がせるから後ろ向け」

「別に前でも――」

「向・け!」

 渋々と言った表情を浮かべて背を向ける。緩慢な動作でずりずりと動く姉を見ながらエストは深呼吸を一つ。相手は姉だ、と頭の中で何度も繰り返す事で平常心を保とうとするも、

 ――あれ、でも血は繋がってないから姉弟ではない?

 結局、より平常心を欠く事になったままシアが彼へと完全に背を向けた。――脱衣の時が、来た。

「……腕、上げろ」

「ばんざーい」

 気だるげな声を出しながら腕を上げる。彼女の服を掴んでからエストの動きが止まったのは一呼吸分程度の時間。生唾を呑んだ彼は次の瞬間、その双眸に決意の光を宿らせ姉の服を脱がせた。剥ぎ取った、という言葉の方が似合うその動きは、彼女の肩まで伸びた金髪を大きく揺らめかせる。それによって彼女自身の甘い匂いと汗の匂いが混じった甘美な香りがエストの鼻腔をくすぐった。

「ぐっ――!」

 僅かに苦悶の声が漏れた。理性が僅かに飛び掛けたのだ。今のは不意打ちだった、そう思考した彼は無意識に逸らした視線を姉へと向けた刹那、言葉を失った。

 さらさらと揺れる金色の髪。ほっそりとした首筋の下には薄らと浮かんだ肩甲骨と背骨。白い筈の背中は仄かな朱色に染まっている。

 呼吸の度に上下する肩がやけに艶めかしかった。

 エルミナと比べると全体的に肉付きが乏しい細い身体だが、それでもそこには確かに色気が存在した。成熟した大人の身体とはまた違う、幼さが放つ不可思議な魅力にあてられ、手拭い片手に魅入ってしまう。

 そんなエストにシアは慈愛の篭った声音で、

「もしもこの身体に欲情したというのなら、エストの称号は“近親○姦の幼女○愛者”になるから頑張って」

「他に励まし方はないのか!」

 ――流石にそんな称号は嫌すぎる……。

 自身の未来の為に――ではなく、姉の為に気合いを入れて、エストは汗を拭く作業に取り掛かった。

 絞った手拭いをその柔らかい背中へ当てた瞬間、

「は、ぁ――――」

 喘ぎにも似た、熱い吐息が吐き出された。止まり掛ける身体を叱咤し、脊髄を通して更なる命令を与える。若干のぎこちなさが帯びた手付き。けれども眼前の美しい柔肌を傷つけまいとして慎重に動く腕。そのゆったりとした動きがいけなかった。

 肉付きが乏しく見事にくびれた腰へ到達した刹那、

「ん、ぁ……はぁっ……!?」

「変な声出さないでッ!?」

 彼の悲鳴は裏返っていた。その悲鳴の直後、小さく笑いを漏らすシアの反応に、エストはそこで初めてからかわれていた事に気付いた。

「大丈夫。私の性感帯は腰ではなく腋だから」

「そんな告白いらん」

 憮然とし、再び汗を拭く作業に戻るエストにシアは少し神妙な声音で弟の名を呼んだ。真面目な話なのだろう、気配でそれを悟ったエストは彼女の話を聞くべく、意識をそちらに向けた。

「出発は明日。この国の騎士団に同行し、竜の巣に潜伏する魔人を討伐する」

「竜の巣……ラトルカ国との境の山か。ところでシアは留守番だろ?」

 魔術も使えず、それどころか日常生活を送る事さえままならない程に衰弱した身体。竜の巣とは名前の通り、竜が住む場所だ。そんな所に今の彼女が同行する訳がないと――

「――行くわ」

 姉の回答に思わず汗を拭く手が止まる。何で、と言葉に出す前に、彼女が口を開いた。

「取引材料は私が力の有る虚神だという事。その私が行かなかったらそもそもの取引が破綻する」

「だからってお前、そんな身体じゃ危険だ!」

 理解は出来ていた。彼女自身が行かなければ取引が破綻し、自分たちは殺される事くらい。自分が駄々をこねた所でその行動は無意味でしかなく、それどころか彼女の死力を以て行ったソレを否定する事になる事ぐらい。

 それでも、納得出来なかったのだ。

 そんなエストに対し、シアはいつも通りの平坦な声で、


「エストが私を護ればいいだけの話」


 振り向く事なく提示される解決案。あまりにも杜撰ずさんなソレにエストは言葉を失う。手拭いが、手からずり落ちた。しかし、絶句したのも僅かな時間。ベッドに落とした手拭いへと視線を転じる。

「……俺にそんな事が出来るのか?」

 脳裏に過ぎるのは闘技場での一戦。魔人の圧倒的な力の前に自分は何も出来ずに敗北を喫した。死力を振るう自分を赤子同然の扱いをするその存在から姉を――唯一の家族を守れるのだろうか。もしも、自分の力が足りずにシアを失ってしまったら――そう考えるだけで彼の心を暗い“恐怖”が蝕む。

「出来るに決まっている」

「……その根拠は?」顔を上げる事無く問い掛ける。それに対し、シアは――


「――この私の弟なんだからその程度出来て当たり前」


 迷いのない声音に、伏せていた顔が上がる。視線の先には姉の背中。背筋を伸ばし、威風堂々たる振る舞いが、弟の力を信じて疑わない姉の姿がそこにはあった。

 呆然としていた時間は僅か。自然と頬が緩み、笑顔となった彼の表情はそれでも不安が抜けた訳ではない。

 ――あんな自信満々に言われちまったら、頑張らない訳にはいかねぇな。

 姉の顔に泥を塗らない為にも。

「それじゃあ、家族を護る為に頑張りますか!」

 己を鼓舞するかの様に声を張り上げる。シアは僅かに微笑み、横目をエストへと向けた。

「ええ、だから安心して肉の壁になるといい」

「安心できる要素が微塵もねぇ!?」

 全てが台無しになった様な気がした。


 /4


 シアの身体を拭き終えてから暫くして、部屋の扉が何者かによって叩かれた。

 エストは腹筋運動を止め、扉の先に誰何すいかの声を上げると聴き慣れた騎士少女の声が帰ってきた。安堵の息を漏らしたエストはシアの身体を拭いたのとは別の手拭いで汗を拭き、扉へと近付いた。

 恐らく、朝食を持ってきてくれたのだろう。扉の先から僅かに漂う匂いを嗅ぎ取った彼の予想は見事に的中しており、開いた扉の先にはステンレス鋼で出来た台車があった。台車の上にはばら肉とキャベツを煮込んだスープや小さなパンが数個と、随分と質素な物だった。にも拘らず、やけに量が多い。恐らく四人分はあるだろう。

 台車の後ろに立つエルミナは眉をひそめ、半眼でエストを睨む。

「エスト、もしかしてこの部屋にずっと居たのか?」

「え、いやだって、シアがアレだから俺がずっとここに居た方が良くないか?」

 そう返され、複雑そうな顔で唸るエルミナに対し、エストも首を傾げた。

「……まあいい。ところでお前たちに会いたいと言っている人が居るのだが……大丈夫か?」

「俺たちに?」

 ベッドを振り返るとシアも怪訝な顔を浮かべている。グレイス姉弟はエルミナに仕事を紹介してもらうときは、街の食物処で話をするのであまり城に入った事はない。つまり、王城に深い仲の人間はおらず、ましてや虚神だと思われているシアの下にわざわざ会いに来る者が想像できなかった。

「私の知り合いなのだが、信用に足る人物だ」

 そう言う彼女の瞳に揺らぎは見当たらず、その人物に対しての信頼が見て取れた。だからといって、今の姉を人に合わせるのはあまりよろしくないと思ったエストは断ろうとして、

「会ってもいい」

 その声は背後のベッドからだった。振り向くと気だるげな動作で身を起こしたシアがエルミナを見ている。

「大丈夫なのか」と気遣わしげにエルミナ。

「心配は無用。エスト、椅子に座るから肩を貸して」

「……無理すんなよ」

 半身を起こした姉へと肩を貸し、部屋の中央に鎮座するテーブルへと移動しながらエストは呟く。シアは眉をしかめて鼻を鳴らすだけだった。

「さっき伝令魔術を送ったから、まだ時間が掛かるだろう。だからとりあえず、料理をテーブルに並べるぞ」

「エルミナもここで食うのか?」

「話し合いの席でお前たちだけが食べているのも妙な絵面だろう。それとも話し合いが終わるまで我慢できるのか?」

 からかう様な口調で彼女が問うたのと同時に少年の胃が唸る。はっ、と腹を押さえるエストの前で騎士少女は噴き出し、慣れた手付きで皿をテーブルへと並べていった。

 シアの鋭い視線が肌を突き刺すのを感じながらエストは引き攣った笑みを浮かべた。



 †



「遅いな。何をやっているんだ、あの人は」

 エルミナは銀で出来た匙を置きながら呟いた。エストとエルミナのスープは既に空になっており、既に食事が終わった事を如実に告げている。シアは二口ほど口にしただけで止めてしまったので、彼女の分の料理はだいぶ残っている。

 もう一人分用意された食事はその本人が来ていない為、全くの手付かず。既にスープは冷めていた。

「そういえば、どんな人なんだ?」

 彼らは飽くまで“会いたい人がいる”としか聞いておらず、その人物の性格はおろか、性別さえも分からない。

 エルミナはナプキンで口元を拭いながら目を瞑って唸る。その様子は言葉を探しているというより、言葉を選んでいる様な雰囲気だ。

「はっきりとモノを言う人でな……その、口が悪い。それに無愛想で目付きが恐ろしい男性だ」

「やっぱり会うのやめようか、シア」

「そうね」

「待て待て待て!」

 曖昧な笑みで会合を取り下げるエストと同意するシアにエルミナが静止の大声を上げた時、扉が叩かれた。エルミナは直ぐ様扉を開け、そこに佇む一人の、甲冑を着た男性を部屋に招き入れる。

 確かに、目つきが悪かった。整った顔立ち故に、その鋭さは余計に目立ち、相手を委縮させるのだろう。男性はエストからシアへと視線をずらすと共に呟いた。

「ガキだな」

 部屋の空気が凍った。絶句するグレイス姉弟と頭を抱えるエルミナに構う事無く、男性は自己紹介を始めた。

「クライム・アルドリッジだ」

 そこで言葉が止まった。彼がそれ以上何かを語る気配はなく、その姿にエルミナは溜め息を吐いた。

「……言葉が少な過ぎます。自己紹介するならもっとあるでしょう?」

「名前さえ知れば他はどうでもいいだろう」

「良くありません。それと流石に開口一番に『ガキだな』は如何なモノかと」

 呆れた様子のエルミナに、クライムと名乗った男は僅かに首を傾げるだけだ。だが、シアが怒っている事は分かったのか、無表情のまま謝罪する。

「つい、本音を言ってしまった。済まない」

 謝罪になっていなかった。

 更に睨み付けてくるシアに不可解な物を見るかの様な目を向けた。

「謝罪したのに何故怒る」

「もう貴方は少し黙っていてください……」

 頭痛を堪える様に頭を抱えるエルミナにエストは同情の目を向けずにはいられなかった。

 その視線に気付いたエルミナは苦笑を浮かべるもすぐさま、こほん、と咳払いを一つして気持ちを切り替えた。一人の少女から、騎士としての自分に切り替えたのだ。

「この方は今回の魔人討伐隊の責任者、クライム・アルドリッジ――私と同じ騎士隊長の一人だが私とは比べ物にならない程の実力者であり、“リノアキシア最強の騎士”だ」

 嫌味の篭っていない賛辞の言葉。誇らしげなエルミナのそれを聞いても、クライムは眉一つ動かさない。端正な顔には何の感情も宿っておらず、人間味があまり感じられなかった。

「ん? アルドリッジ?」

 ふと、クライムの苗字に引っ掛かりを憶える。それは最近壊滅させられた貴族の苗字であり、今回の討伐対象の魔人の旧姓。

 そういえば、目の前の無感情な男の顔立ちには見覚えがある。輪郭の形や高い鼻、後ろで無造作に束ねた癖のある金髪が、僅かにあの魔人の青年の姿を想起させる。

 エストの独白にも似た疑問を騎士少女ではなく、この国最強と謳われる騎士が氷解する。

「ああ、俺はギルベルトの“実の兄”だ」

 僅かに鋭さの増した瞳にエストとシアは警戒の色を浮かべる。あの男の兄だというのだからその警戒は三割増しだ。

「睨み合わないでください!」

 慌てて両者の間に割って入るエルミナにクライムは不満げに眉をひそめる。眼の鋭さの所為か、威圧しているようにしか見えない。

「睨んでいない。ただ見ていただけだ」

「貴方は、その……あれなのですから相手は睨まれたとしか思いません」

「“あれ”とは何だ?」

 無表情でエルミナと目を合わせるクライム。鋭い金色の瞳は灰色の瞳から一切離れず、その威圧感を徐々に増していく。背中に冷たいものを感じたエルミナが言葉に詰まっていると突如、小さな声が割って入った。

「目付きが悪い。血に飢えた殺人鬼を連想させる瞳。人を常に惨殺する事ばかり考えていそうなアブナイ瞳だから周りはあなたに引いている、という事をその娘は言いたがっている」

「そこまでは思っていない! ただ目付きが恐ろしいから子供が見たら泣くと思っただけで……あ、」

 急いで口を塞ぐがもう遅い。立てつけの悪い鉄門扉を連想させる動きで首を青年へと向ける。けれど、クライムの表情は変わっておらず、不快に思った気配はない。事実、彼は特に気にしていなかった。恐ろしいとまで言われた鋭い瞳は何の変化もない。

「そうだな。よく言われる」

 尊敬する先輩騎士に無礼を働いた事に対して狼狽するエルミナと、先程の仕返しが出来なかった事に歯噛みするシア。その光景を見詰めていたエストは、

 ――すげぇ、誰も得してない……!

 完全に他人事だった。

「あー、結局……クライム、さんは俺たちに何の用があるんだ?」

 あまりにも話が脱線し過ぎたからだろう、傍観していたエストが堪らず話の軌道を戻しに掛かった。顔をしかめ不機嫌な気配を撒き散らすシアと自分の失態にうな垂れるエルミナを視界の隅に追いやった。金髪の騎士に片手で席を勧める。

「呼び捨てで構わない。お前は俺の部下という訳でもないだろう?」

 そう言いながらエストの向かい側の席に腰を下ろした。目の前に並んだ冷めた食事には目もくれずに、赤茶色の髪の少年と視線を合わせた。

「俺の用件は二つある。その一つ目がお前に会う事だ」

「俺と? 何でまた」

 虚神であるシアならともかく、自分はただの人間だ。興味の対象になる理由が見当も付かない。

 首を傾げるエストに対し、クライムは表情を変えぬままに溜め息をこぼす。その様子は少し、妙なものだった。

「自分の立場を思い返してみろ。人間だけでなく魔物にさえ恐れられる虚神と、幼少の頃から共に過ごしてきた人間は恐らくお前以外に居ないだろう」

 冷静に考えると、クライムの言っている事は正しいと気付いた。しかし、彼の言う通り幼少の頃より共に彼女と過ごしてきたから、それは当たり前の事であり、何よりシアは虚神とは少し違う。そして、本当の虚神を見た彼にとってシアは『普通とは少し違う人間』程度にしか思えなかった。

 けれど、結局は虚神と過ごしていたのは間違いではなく、彼の異様な境遇が普通と認識される事はないのも頷ける。

「どれ程、異様な人間なのか、そもそも本当に人間なのか。それが気になったから、会ってみたくなった」

 成る程、とエストは苦笑する。クライムの予想していたエストとその実物があまりにも違い過ぎて思わず笑みが漏れてしまった。期待にえず悪かった、そう言おうとしたエストを遮る様にクライムは先を続ける。

「お前を見て確信した」

 切れ長の瞳が細められる。先程までこれといった感情が宿っていなかったその瞳には確かに一つの感情が宿っていた。

 それは困惑。最強の騎士の瞳に確かな迷いがあった。

「在り方や気配、他にも色々どれをとってもお前という存在を推し量る事が出来ない。希薄なんじゃない。ただ何故か、お前を理解する事が出来ない。――お前は何かが“異様”だ」

 目の前に居る少年はどう見ても普通の人間なのに、何かがおかしい。自身が感じるその違和感が何なのか、それを理解出来ないからこその困惑。

 突然、お前はおかしい、と言われたエストは特に気分を害した気配はない。クライムが言う自分のおかしさはよく分からず、特にその事について思考する気もない。目の前の騎士の瞳には困惑の色が浮かんでいるだけで、自身に対する悪意は感じられない。

 ただ不思議な物を見ているだけ、ならば自分が激高するのも妙な話だとエストは思った。

「第二に、明日からの遠征についての説明をしにきた」

 急な話題の転換。先程の話をだいぶ掘り下げられると思っていたエストは訝しげに眉をひそめる。エストの考えている事が分かったのか、クライムは話を中断する。

「俺は飽くまで会いに来ただけで、暴きに来た訳ではない。それに俺が感じた違和感の正体を、お前も知らないのだろう? なら、問いただしたところで、不毛な結果にしかならない」

「……鋭いのは目付きだけじゃないんだな」

 自身の思考を読み取られた事が癪なエストは軽口で返すも、クライムは構う事無く本題へと移る。表情に出ないだけで、案外気にしているのかもしれない。

「出立は明日の明朝。到着は二日後だ。お前たちに同行する騎士は俺とエルミナの他に十人、計十二人になる」

「十二人って少なくないか? 相手は魔人だぞ」

「お前の言う通り数は少ない。だが、場所は敵対国との境だ。大軍を率いて行けば、敵国を刺激する事になる」

 少数精鋭、という言葉がエストの頭を過る。

「それと実際に魔人と闘うのは俺やエルミナ、お前ら姉弟の内誰かだろう。多対一には持ち込めないものと思っていた方がいい」

 自分たちが到着する頃には恐らく、竜の巣は掌握されているだろう。漠然としたものではあったがそれは彼らの中で確固とした確信となっていた。あの自尊心の塊ギルベルトは、他者を屈服させずにはいられない筈だ。それが魔物の軍勢、そして、竜であろうとも……。

「話は以上だ。何か質問はあるか?」

「あー、じゃあ一つだけ」

 教師に対するソレの様に片手を挙げるエストに対し、クライムは目線だけで先を促す。

「随分来るの遅かったけど、クライムはどこに居たんだ? 城の中には居たんだろ?」

「眠っていた」

「……またですか」

 立ち直ったらしいエルミナが話に入ってきた。灰色の瞳を細め、先輩騎士を睥睨する。エストは『また?』とおうむ返しに首を傾げた。

「この人は暇を見つけては眠ろうとするんだ。いつでも何処でも、他国からの使者との謁見の時でさえもッ!」

 キッ、と睨まれてもクライムは表情一つ変えない。そう聞くと、この無表情は何となく眠たげに見えなくもない。

 目付きの鋭さや口の悪さ、そしてその悪癖も相まっているから彼は外交には向かず、基本的に厄介な魔物討伐の為の遠征に駆り出される。そしてその遠征の最中、国より魔人出現の知らせを受けて昨日ようやく帰ってきたのだ。

「明日からの遠征の準備がまだ残っているから俺は戻る」

 席を立ち、出口へと向かうクライムの背中に『まだ話は終わってません!』という言葉がぶつけられるも、彼の歩みが止まる事はない。けれども扉を開けた瞬間、クライムは動きを止め、振り向いた。

 急な動きに訝しむエストたちに視線を合わせたクライムは、

「今回は俺の愚弟が済まなかった」

 おもむろに頭を下げた。軽い会釈程度であったが紛れもない謝罪にエストとシアは口を開いて唖然とした。まさか、あの糞貴族ギルベルトの兄からその様な言葉が聴けるとは思っていなかったのだ。

 クライムが退室したあとの扉を見たエルミナは口元を押さえて苦笑する。

「クライムは愛想もなければ口も悪いしで初対面の相手には嫌われる事も多いが、彼を慕う者はとことん慕うんだ」

 その言葉に、エストは僅かに頷く。分かる様な気がしたのだ。


 /5


「軍神ヴァルドの加護があらんことを」

 王が自身の演説をそう締め括った直後、目の前に整列する十二人の騎士は一斉に手にした剣を頭上に掲げた。シャキン、と鞘と剣が擦れ合う音でエストは目を覚ました。

 場所はつい先日にシアと王が取引を交わした謁見の間。時は既に出立の日。

 エストとシアの二人は謁見の間の脇に設けられた客将用の席に腰を下ろしていた。上質な革張りの椅子に背を預けたシアは演説が始まった直後に寝息を立て始めていた。王の話の内容は魔人の過去に起こした事件や虚神の恐ろしさといったもので真面目に聞く事など到底不可能な内容だった。

 故に、エストが意識を手放すの当たり前の事であり、必定でさえあった。中央に整列する騎士の中から覚えのある憤怒を感じ取ったが気付かない振りをした。

 エルミナの怒りに冷や汗を流した彼はふと妙な視線に気付いた。感じる視線を辿っていく。

 白髪の混じった豊かな毛髪と鋭い瞳。老いてなお、大柄な体躯は年齢を感じさせない程に逞しい。白い顎ひげを撫でながら、現リノアキシア国王、ジェラルド・フォン・ハイム・リノアキシアは侮蔑と恐怖の篭った視線をシアに向けていた。

 僅かに身体をずらし、ジェラルドの視線から姉を隠す。敵意に満ちた視線で睨み返すと、初老の王は鼻を鳴らして謁見の間を後にした。

「気に入らないといった顔だった」

「……起きてたのかよ」

 突然の声に驚き、横を向くと、早々に眠ってしまった筈のシアが目を覚ましていた。椅子に背を預けたまま、不愉快そうに鼻を鳴らす彼女に自身が感じる不安を口にした。

「王は取引を守ると思うか?」

「破るに決まっている。もしも破らなかったら食事係を変わってあげる」

「それは俺への罰じゃ――ああ、いえ何でもないです」

 射殺さんばかりの瞳で威圧する姉へと即座に頭を下げた。未だにシアの身体は衰弱したままだが視線から放たれる威圧感は歴戦の戦士並みだ。もう少しすれば、軽い魔術ぐらいなら遣える様になるだろう。それは喜ばしい事だが今は別に考えるべきものがある。

「破るって分かってんならどうすんだ?」

 魔人を倒しても倒せなくても消される。ならば、

「魔人を倒して情報を聞き出し、その場から逃げる。この国とも永遠にお別れね」

 シアが口にした予定に呆れの溜め息を吐く。しかし、残念ながら彼自身にはこれといった案は浮かんでいない為、苦言を呈する事は出来ない。ひとまず、自分は魔人を討伐する事だけに集中した方がいいと判断した。

「おい、お前たち!」

「ん? おお、エルミナ。話はもういいのか?」

 腰に手を当て、怒りを滲ませた瞳で見下ろす騎士少女にエストは片手を挙げて気軽に声を掛ける。彼の様子に更に目を吊り上げたエルミナは犬歯を剥き出しにして食って掛かる。

「もう終わったぞ! 見ろ、私たち以外誰も居ないぞ!」

 周りを見渡すと、確かに、自身と姉とエルミナ以外の姿が影も形もなく、豪奢な装飾が施された空間に無機的な冷たさが満ちている。

「おおぅ……」心底といった具合に驚くエストを見たエルミナは頭を抱えた。

「で、何を熱心に話していたんだ?」

「あー……いやほら、シアと飯の当番を変えるか変えないかの話だよ」

 お前の主は嘘をついてる、そんな話をしていたなどと言える訳がない。この生真面目な騎士少女が相手では尚更だ。

「エスト……お前ついにそんな性癖を……!」

 口元を押さえて身を引くエルミナ。その姿は、恐れていた事が現実になったと言わんばかりだった。

「ついにってなんだ。人をマゾヒストみたいに言うな」

「シアの料理が食べたいから当番を変えようとしているんだろう? ならマゾヒストじゃないか」

「その理屈はおか――いやおかしくねぇわ」

 エストの言葉にエルミナが堪らず噴き出す。

 件のシアが弱っているからこそ、日頃のあれそれも込めての話題であり、ちょっとした冗談のつもりだった。しかし、笑い合う二人の少年少女は知らなかった。

 ――全快したら、“殺す”。

 無表情の中で静かにたぎる、憤怒の炎の存在に。



 †



 程なくして、数十もの王城関係者による見送りを背に受けながら王城を後にする魔人討伐隊。十二人の騎士と二人の万屋という奇妙な組み合わせはどうやら街の人間の興味を引いたらしい。

 王都には東西南北に一つずつ、巨大な門がある。それぞれの門では検問が行われており、外から入る事は容易ではなく、商人でさえ通行証を持たなければ門前払いにされる。しかし、逆に出る事は意外と簡単である。

 そしてエストたちが向かっている場所は東門であり、そこに行く為には城下町を通らなければならない。

 本来は人でごった返しになっている道は街人が端へと避けている為、通行に不便はない。重厚な金属音をならしながら行軍する騎士たちへ、街の子供たちが尊敬の眼差しを向けている。微笑ましい、そう思ったエストだが笑みを浮かべる事は出来ない。

 銀甲冑に身を包む騎士たちの後ろに追従する様に歩く姉弟に向けられる感情は畏怖と嫌悪。大人たちは否定的な視線を向けていた。

 シアが虚神だという事は王国騎士の中で箝口令かんこうれいが敷かれていた筈だが、彼らの様子から察するに、人の口に戸を立てる事が出来なかった様だ。騎士団と共に居なかったら、石でも投げ付けられていたかもしれない。

 悪意の視線に晒され、気が滅入りそうなエストは横を歩く姉へと視線を向ける。流石というべきか、彼女は周囲の悪意を意に返さず、ぼんやりとした顔を浮かべていた。本来ならそこで納得してしまうが、今は状況が違う。エストは直ぐに気付いた。

 彼女は意に返さないのではなく、“返せない”のだ。回復してきたとはいえ、未だ安静にしていなければならない身。それを圧して無理をしている為、周囲の状況に気を配る余裕がなく、足取りも僅かに重い。青褪めた無表情が痛々しく、エストは咄嗟にシアへと肩を貸すべく近付いた。

「都市を出るまで待て」

 耳元で囁かれ、身体が身震いする。声の主はクライム・アルドリッジその人だった。列から抜け出たクライムが何故ここに居るのか、などはどうでもいい。驚くべきは彼の言葉だ。

「あんた、気付いて……」

「そんな事はどうでも良い。いいか、都市を出るまでそいつに肩を貸すな」

「でも……!」

「そいつの苦労を無駄にする気か」

 正面を見据えたまま、顔すら向けずに放たれたその言葉にエストは何も言えない。精々歯を食い縛り、どうしようもない憤りを鎮める努力をするだけだ。目的地が遙か先の様にも思えた。

 そして、道中の国民たちからの冷ややかな視線に晒され続けて暫く。前方に巨大な門が見えてきた。エストは逸る気持ちを懸命に抑え、背筋を伸ばした堂々とした姿勢で門へと歩みを進める。勿論、横に居る姉の動きにも注意している。もしも、転びそうになったら支えるつもりだった。

 結局、城からここまでシアが一度も転ぶことはなかったが、それで彼が安心する訳がない。転ぼうが転ばなかろうがシアが無理をしている事には変わりはないのだ。

「門を開けろっ!」

 短い手続きを済ませたエルミナが高々と叫ぶ。それを合図に、分厚い鉄門扉に繋いだ鎖を、数人の門衛たちが引っ張った。

 重厚な、鉄を引き摺る耳障りな音が周囲に響く。完全に開かれた門の先は人の手により舗装された平らな道だった。道の両脇には起伏のない草原が続いている。そして舗装された道の中央に鎮座する物体にエストは思わず呟いた。

「馬車?」

 木材で出来た籠の様な物に四つの車輪が付いており、鞍が取り付けられた二頭の茶色い馬が引く形はどこからどう見ても馬車だった。それも、輸送や運搬、はたまた旅客用に使われるキャリッジと呼ばれる種類だ。

「何を突っ立っている。早く乗れ」

 馬車の扉を開け放ちながら、クライムがエストとシアに淡々と言い放つ。唖然としていたエストは、我に返り、『何で馬車?』と言った。

「竜の巣までそれなりに距離があるんだ。歩いて行く訳がない。それにお前たちは万屋だろう。遠出するときに馬車を使った筈だ」

「いや、そんな金ないからいつも徒歩だったぞ」

「……いいから乗れ」

 呆れの溜め息を吐く騎士隊長。エストは疑問符を浮かべたまま、シアを抱えて馬車に乗り込んだ。後ろの門は閉められており、他の騎士たちは馬車より先に止められていたそれぞれの馬に構っている為、見られる心配はない筈だ。

「大丈夫か、シア」

「……ッ!」

 余裕、と言おうとして声が出なかった。青褪めた顔で浅い呼吸を繰り返すシアの背中を擦り、労いの言葉を掛けた。

「よくやるな」

 向かいの座席に腰を下ろしたクライムが感心したかの様に呟いた。

「それで、その……」

「待て。話すなら馬車が動いてからにしろ」

 馬車が動けば、走行音のおかげで馬を操る御者に話を聞かれる心配はないだろう。

 エストは不安を胸に抱きながら口を閉ざす。不意に裾を引っ張られ、視線を横へと移動させる。

「大丈夫」

 淡々とした声音と眠たげな瞳。普段通りの姉の態度には不安の色は見当たらず、本当に何も問題がないかの様に思わせられた。

 程なくして、馬車がゆっくりと動き出す。道は舗装されているとはいえ、完全に平らという訳ではなく、存外大きな音を立てて走っている。これなら確かに、外の御者に会話を聞かれる心配はないだろう。

「……他の騎士たちの統率とかしなくていいのかよ」

「俺は元々そういうのが苦手だ。だからエルミナに全て任せた」

 よくそれで騎士隊長が務まるものだと感心する。同時に決意も固めた。

「いつから、気付いてたんだ?」

 無論、シアの衰弱の事である。城下町を行軍中にシアに肩を貸そうとしたエストをクライムは静止した。

『都市を出るまで待て』。シアの衰弱について知っていなければ、そんな言葉は口をついては出ないだろう。

 問われたクライムは腕を組み、鼻息を吐き出す。無表情の中に僅かな呆れの感情が見えた。

「初めからに決まっているだろう。しかし、心配するな。俺は誰にも喋っていない上に、俺以外で気付いた者は居ない筈だ。

 居たとしたらお前たちは既に殺されている」

 青褪めるエストに補足するクライム。安堵の息を漏らすエストだが、すぐさま彼の行動の不可解さに首を傾げる。クライムのその行いは王に対しての反逆行為と取られても仕方がない行為だ。

「……何で誰にも言わなかったんだよ」

 誰にも話していないというのが事実ならばエストとシアにとっては都合の良い事だ。都合が良いだけで精神的にはよろしくない。

「弱っているとはいえ、虚神の知識は役に立つと思ったからだ」

 帰ってきたのは事務的な言葉。能率だけを重視した物の考え方に、思わず気のない返事で返してしまう。けれども話はそこで終わりはしなかった。クライムは切れ長の鋭い瞳をエストからシアへと移し、

「彼女は自分が死ぬ事が嫌で、辛い思いを我慢してまで衰弱を隠そうとした訳ではない。もしそうなら俺は既に王に報告している。彼女はもっと大切な――」

 突然、言葉を区切るクライム。その姿にエストは疑問を抱く事はない。何故なら、彼が黙った理由が自身の横に座る姉にある事を肌で理解したからだ。

 シアがクライムを見詰め――いや、最早それは睨み付けていると言った方が正しい。普段の無表情ではなく、怒気と羞恥の朱色に彩られた顔は言葉を発さずとも、確かに告げていた。

『黙らなければ殺す』、と……。

 肩を竦めて溜め息を吐く。もう続きを話すつもりはないと、その姿が告げていた。

「夜までには小さな村に着く。今日はそこの宿で夜を明かすつもりだ。それと、竜の巣へ着く頃までには一人で歩ける様になっておけ。でなければ流石に邪魔だ」

 言い放つや否や瞳を閉じられる。五つ数えるまでもなく、静かな寝息が立てられ始めた。

「えぇー」

 話を途中で区切られ、エストは混乱していた。シアが何故あそこまで感情を露わにして怒っていたのか、皆目見当も付かなかった。

「な、なぁ、シア」

「なに」

 鋭い瞳と声音がエストの肌と鼓膜を蹂躙する。小動物ぐらいなら殺せそうな程に濃厚な殺意を浴び、エストは冷や汗を流しながらゆっくりと目を背けた。

「……何でもないです」


 /6


 太陽が隠れた世界では視界が暗闇に覆われ、足元さえも満足に視認できない。けれども、エストの足取りに迷いはなく、やや速足に夜道を進む。

 ここは王都ヴァリアスの東にある、アルバンと呼ばれる小さな村。今よりだいぶ昔、王都と竜の巣のちょうど中間に位置するこの村は度々、魔物の襲撃を受けてその人口を減らしていった。村を去った者と魔物に殺された者、人口が減る理由はおよそその二択。

 今では村に駐屯する兵の数の方が多いくらいだ。東側には堅牢な城砦が、その逆側には村人が暮らす家屋と旅人が宿泊する施設がまばらにある程度の過疎化した村がここ、アルバンだ。

 そして、エストが夜中に宿を抜け出してまで向かおうとする場所はどういう訳か、その宿の裏手。よく手入れされたそこは足を取る様な物が落ちている事もなく、安心して進む事が出来る。裏手のちょうど中心地点で立ち尽くすエストは空を見上げて深く息を吐いた。

「やっぱり夜はまだ少し冷えるな」

 と言っても、流石に息は白くはならない。いずれは夜中ですら蒸し暑くなるだろう事を想像し、肩を落とす。そんな彼に『遅い』と言葉がぶつけらる者が居た。聴き慣れたその平坦な声の方へ振り向くと、建物に寄り掛かった姉の姿。

「遅いって……お前に念話で呼び出されてから三百も数えてないだろうが」

「私よりも遅いのだから遅いと言っても何も可笑しい事はない」

 確かにそうだけど、と若干釈然としない顔のエストは念の為にと疑問を投げ掛けてみる。

「ちなみにお前、どこで俺に念話した?」

「ここ」

「おっかしーなぁ。俺、何だか無理難題を吹っ掛けられてる気がするんだけどなぁ」

「でもそれが良いのでしょう?」

「……ち、違ぇーよ」

「どもらないで」

 シアは僅かにエストから距離を取る。微妙に気まずい雰囲気を払拭する為にエストは本題へ入ろうと言葉を紡いだ。

「俺の武器を変えるんだって?」

 今より少し前の事。宿の、自身に当てられた部屋のベッドで横になっていた彼に突然シアの念話が繋がったのだ。内容を要約すると、『武器を変更するから宿の裏手に今すぐ来い』。

 一方的な念話を受けた彼は、宿内の騎士たちに見つからない様に慎重に宿を抜け出し、次に外を見まわっているアルバンの兵士の目を掻い潜り、今に至る。今宵は月隠つきごもりの日だったので闇に紛れるには都合が良かった。常人には暗い闇夜の先を見通すのは難しいが、夜目の利くエストにとっては大した弊害にはならなかった。

 問われたシアは僅かに顎を引き、肯定を示す。

「この間は巨大な魔物と闘うから大剣を使ったけど、あの魔人相手にそれは不利。もっと小回りの利く物に変える」

 そう言うや否や、シアが手を突き出す。武器を寄越せ、という事らしい。対するエストは背から外した大剣を握ったまま動かない。その姿に訝しげな視線を送りつつも、彼女は手を突き出し続ける。やがて、エストがぽつりと『大丈夫なのか?』と言葉を漏らした。

「魔術を遣っても、大丈夫なのか?」

 気遣う様な視線と声音に、軽い溜め息を吐く。それは呆れではなく、嬉しさを誤魔化す為の吐息。それを表情に出す程、彼女は素直ではなかった。

「何を今更。さっき念話を使ったし、ここに来るのに暗視の魔術も使った。身体は回復してきている」

 けれども、エストの懐疑の目は晴れない。再び、溜め息。隠す必要もないか、と思考した彼女は肩を竦めて自身の現状をありのままに語った。

「確かに、あまり大丈夫じゃない。念話は短時間しか出来なかった。暗視は大した魔術じゃないから問題ないけれど少し疲労を感じる。

 戦闘はまだ無理だろうけど、ちょっとした支援ぐらいなら問題ないわ」

 徐々にしかめられる弟の顔を見詰めながら、シアは言葉を続けていく。平坦でありながら饒舌な自分に、僅かな奇妙さを感じていた。

「それに、最初から武器を創ろうとしている訳じゃない。飽くまでその大剣を他の武器に“変化”させようとしているだけ」

 無から創り出す“創生”に比べ、形を変えるだけの“変化”の方が消耗は少ない。

 一通りの説明を受けたエストは渋々と言った具合に首肯する。その顔は明らかな不満に彩られており、シアは少し笑ってしまった。

「……分かったよ。というか、俺が駄々をこねた所で仕様がないんだよな……」

「そうね、時間の無駄」

 はっきりとした言葉が刃となり、彼の胸を貫く。苦しさと悔しさに唸るエストは、彼女の言葉が紛れもない事実であるから言い返す事はしない。しかしそれ以上に、シアが何故か嬉しそうに見えたから余計な反論をやめたのだ。

 普段通りの無表情だが、僅かに柔らかく見えた。シアの突き出す手を無視して、地面に大剣を置く。弱っていなくとも、姉にこの鉄の塊が持てるとは到底思えなかった。

 がさり、と音を立て、切り揃えられた草の上に大剣が横たわる。

「無理すんなよ」

 エストの気遣う様な言葉にシアは鼻息だけで応答し、指先を走らせた。術式がすぐさま完成し、大剣が光に包まれる。光はすぐに収束した。それ程の光量ではなかった為に、エストの瞳はあっという間に闇夜に慣れ、視線の先に一本の剣が映った。

 握り、柄、鍔、剣身――一切の装飾が施されていない長剣。細長く鋭い剣身を持つ両刃剣は十字架に見えなくもないと思った。

「装飾は面倒だったから付けなかったわ。ほら、エストも早く魔術を使いなさい」

 額に浮かんだ汗を拭い、シアは弟を急かした。そもそも、人目を憚って夜中の、それもこんな人気のない場所を選んだ理由はエストにあった。ただ武器を変化させるのなら、騎士団の目の前でやっても構わない。

「最後に使ったのっていつだっけ?」

「半月――ひと月近く前だと思う」

 地面の上から長剣を拾い上げながら問うエストに首を傾げながらシアは答える。『意外と長かったな』とぼやきながら、エストは片手を振り上げた。

 素早い動きで宙を走る指先。僅かな魔力が篭った赤い軌跡が文字となり、瞬間的に融けて消える。その術式は存外短く、魔力の高まりと指は瞬く間に止まった。

「どう?」

 エストの顔を見上げたシアが魔術の手応えを問うも、当の本人は目を瞑ったまま答えない。

「……早く答えなさい」

「痛いっ、蹴るな! ……ああ、たぶん大丈夫だ。成功してるよ」

 ふくらはぎの痛みに涙目になりながらエストはそう答え、長剣を構えた。その構えは堂に入っており、その長剣と長い間苦楽を共にしたのではないかと思わせられる程。

「ほら、エスト」

 いつの間にか距離を開けたシアが何かを放る。明らかな不意打ちにも関わらず、エストは冷静に長剣を振るった。鋭い、風を斬る音が鳴ったのは都合三度。均等に三つに分断された内の一つを宙で掴んだエストは間近でソレを見遣った。

「やっぱり枝だったか」

 言うや否や、長剣を横に凪ぐ。自身に迫るもう一本の枝は、いとも簡単に断ち切られた。

「うん、完璧だな。この武器は完全に“理解した”」

「そうね、惜しいけど」

「あん?」

 自身の魔術の出来に頷くエストを、シアが鼻で笑う。満足げな顔から一変し、怪訝な顔を浮かべるエストの頭に軽い衝撃が走った。

 突然の事に驚いたエストは地面に落ちたソレを拾い上げる。それは枝だった。二本目の投擲の際に、こっそり上にも投げていたのだ。

「油断大敵」

 自身の失敗にほくそ笑むシアを恨めし気に見つめる。その姿が更にシアを喜ばすと知っていたがせずにはいられなかった。

「――何だ、今のは」

 それはエストでもシアでもない第三者の声。突然、耳に届いた声に警戒心を高める姉弟は首を巡らし周囲を探る。声の主は影も形もなく、軽い困惑が彼らを包んだ。先に気付いたのはエストだった。

「……上だっ」

 鋭い声と共に上空を見遣ると同時に、宿の屋根から影が飛び降りた。音もなく落下する影に剣を向けた瞬間、その正体を理解する。

「――く、クライムっ?」

 魔人討伐隊の責任者であり、リノアキシア最強の騎士、クライム・アルドリッジその人だった。何故かその身に銀甲冑はなく、動きやすさを重視した様な飾り気のない服を着ていた。

 何故彼がここに? そう思考する姉弟に構う事無く、クライムはエストに詰め寄った。

「今のは何だと聞いている」

 その一言で、先程までのやりとりが見られていた事を知り、エストは心の中で悪態をついた。

「……た、ただの“解析魔術”だって」

 万物は生まれた瞬間から意味や性質を持つ。“解析魔術”は物の性質を読み取り、その物の名称や用途を知ることが出来る古代学者向けの魔術だ。日常生活においてほとんど役に立たない魔術で、好き好んで使う者は居ない。

「……成る程、“解析魔術”か」

 顎に手を遣り頷くクライムにエストは何とか誤魔化せそうな雰囲気を感じてほっとする。

「そ、そう言えば、お前何でこんな所に――」

「――エスト」

 刃物の様に鋭利な視線と共に少年の名が呼ばれる。その迫力は思わず息を呑んでしまう程だった。

「俺を舐めているのか? その術式は明らかに解析じゃない上に効果も違う」

 解析魔術は名称と用途を知る魔術であり、決して、“使い方”を知る魔術ではない。

 けれども、エストは最近まで大剣を使っていたにも関わらず、刀身の長さや重さを正確に把握し、暗闇の中で――それも空中で細い枝を断ち切って見せた。その剣筋に大剣を使っていた時の癖はまるでない。例え、大剣と長剣の二つを扱えるのだとしてもこんなに素早く順応できるとは考え難い。

「話してあげたら?」

「シア?」

 先程から無言を貫いていた姉が突然口を開いた事により、エストとクライムの視線が自然と彼女へ向く。暗闇の中でも映える金の髪を指先で弄る彼女は面倒臭げに溜め息を吐いた。

「別に、教えたところでその男がべらべらと吹聴して回るとは思えない」

「成る程、俺はそれなりに信用して貰えている様だな」

「ええ、信頼はしてないけど」

 お互い無表情なまま、視線をかち合わせる二人の横でエストは居心地が悪いのか、一歩下がった。お互いの腹を探る様な目付きの二人は遠巻きに見ていても冷や汗を流してしまいそうな迫力を持っている。

「早く話せ、エスト」

 突然声を掛けられたエストはびくりと身を震わせて、クライムと向かい合った。目を瞑り、頭に手を遣りながらエストは訥々(とつとつ)と語り出す。自分の中の情報を整理しながら話そうとしているのだ。

「……あれは確かにあんたの言う通り『解析魔術』じゃないよ。かと言って、名前がある訳じゃないんだ」

 名前というのは他の物との差別化を図る為の記号の様な物。しかし、エストの使う魔術は“全てのモノの使い方を知る”事が出来る魔術。そんな便利な魔術が普及しない訳がない。

 それでも、クライムがその存在を今の今まで知らなかった様に、その魔術は異端なのだ。『解析』は飽くまで性質を道具から読み取る魔術であり、使用方法は道具に記されている訳もない。

「つまり、俺は道具から情報を読み取ってる訳じゃないんだ」

「なら、何処から読み取ってるんだ、お前は」

 クライムの問いにエストは腕を組んで唸り出す。どう言葉にすればいいのか、上手い表現が浮かばない彼は直感に任せて呟いた。

「……“世界”、かなぁ?」

 自信なさ気な彼の言葉にクライムは眉をひそめた。“世界”にはこの世界全ての情報が内包されていて、その量は膨大だ。人間一人が受け止められるものではない。

 つまり、エストの言葉が真実ならば、彼は膨大な知識の中で自我を保ちながら、剣一本の使用方法を正確に読み取ったという事。それは、砂漠の中に紛れた別の砂漠の砂を見つけ出す事よりも難しい。

 無言でシアに視線を送るクライムに、彼女はそっぽを向くだけで助け舟を出す気配はない。

 ――信頼されていないのは本当らしいな。まあいい、恐らくエストの発言は俺の推理とは違うだろう。

 でなければ、最早、こいつは人間じゃない。

 分からない事をそのままにしておくのはあまり気分が良くないが、エストも考えあぐねて出した回答が“世界”だったのだろう。ならば、これ以上問うたところで有益な情報を得られそうもないと判断した。

「……原理はともかく、便利な能力だな」

「そうでもないさ。この魔術を使うに当たって欠点が三つある」

 僅かに羨ましそうな響きで告げるクライムにエストは苦笑し、三本の指を立てた。『欠点?』と首を傾げるクライムの前で『まず一つ』と指を折り畳む。

「記憶できるのは一つまで。今さっき長剣の使い方を読み取ったから、今は大剣の使い方は憶えてない。そして二つ目、剣を振っている最中は俺自身の体術がほぼ使えなくなる」

「どういう事だ?」

「クライムなら敵と鍔迫り合いになったらどう動く?」

「蹴る」

「短い答えをどーも。俺はそれが出来ない。読み取った情報に意識が引っ張られて剣を使った闘いしか考えられなくなるんだ」

 シア曰く、それはエスト自身の未熟さ故であって、克服しようと思えば克服できるらしいが。この能力を数年使い続けていても、克服される兆しは一向に訪れなかった。

「そんで三つ目、これが重要だ」

 僅かに真剣な表情で三本目の指も折り曲げる。握り拳となった手を腰の位置に戻しながら、

「俺はこの魔術しか使えない」

 武器を創りだす『創生』、武器の形を変える『変化』も使えない。もしもその内、どちらかだけでも使えたならば、状況に合わせて武器を変える事ができ、確実に彼を強者にしただろう。

 けれどもそれが出来ないのならば、エストはただ基礎に従って剣を振っているだけだ。それは、中途半端な強さでしかない。

「……その剣に、お前の意志はあるのか?」

 黄色の瞳に見据えられ、エストは苦笑いと共に肩を竦める。その姿は僅かに自嘲している様にも見えた。

「さあな。……でも、俺にはこれしかないんだよ」

 その言葉を最後に場が静まり返る。流石にそろそろ宿に戻った方がいいだろう、誰もがそう考え、一歩を踏み出そうとした刹那、

「……おい、何か聞こえないか」とエスト。

「硬い何かがぶつかり合う音……剣戟の音?」

 シアの言葉と共に大地が大きく振動した。城砦がある東側で煙が上がっている。月のない暗闇の中で炎が際立ち、あからさまな緊急事態を知らせていた。

「何だよ、あれ……」

「お前たちは宿に戻っていろ」

 呆然と呟くエストを余所に、クライムは城砦へ向けて走り出す。その後ろ姿にどうするつもりだと問うも、最強の騎士の姿は最早どこにもなかった。

「くそっ。シアは先に宿へ――」

「早く行く。せっかくだからあの無愛想騎士の実力を見定める」

 そう言い、歩き出そうとするシアの前にエストは立ち塞がり、苦言を呈する。それを鬱陶しげな瞳で睨んだ後、

「エストが護ってくれるのでしょう? なら、問題ないわ」

「……ぐっ、ああ! 分かったよっ。でもせめて城砦までは俺がお前を運ぶからなっ!」

 言い争っている時間が惜しい。それにシアは言い出したら聞かない性格だから、自分が折れなければ延々と続くだろう。

 嫌そうな顔をするシアを無理矢理背負った彼は、城砦へ向かって駆け出した。



 †



「クライムっ!」

 城砦に着いたと同時に騎士隊長の名を叫ぶ。城砦に居た兵士に指示を送っていたクライムは僅かにエストに視線を遣ると同時に舌を打った。

「宿に戻れと言った筈だ」

「んなこと言ってる場合じゃないだろっ。何が起こったんだ?」

 シアを背から降ろしながら問うエストに対し、最早何を言っても無駄と悟ったクライムは溜め息を吐いた。今は言い争う時間さえも惜しい。

「魔物の襲撃だ。どれも大した強さではないが如何せん数が多い。アルバンの兵士と俺たちの部隊が迎撃に動いているが手が足りていない」

 それを聞いたエストは腰に差した長剣を揺らし、戦意を示す。シアはやる気なさそうに城砦の壁にもたれていた。

「分かった。だが、お前らはあまり動かなくていい。向かって来る魔物だけを狙え」

 足手まといだと言われている様に感じたエストは不満を露わにして噛みつこうとするが、それは片手で制された。

「足手まといだとは思っていない。だが、お前は彼女を護るのだろう?」

 それに集中しろ、そう言うクライムの視線はやはり無感情で、心の内を正確に測る事が出来ない。けれども、何処かこちらを気遣っている様な気がした。

「……来たか」

 その言葉に反応し、城砦に視線を転じると数匹の魔物が城砦を越えて来たところだった。

 猿に似た魔物と狼に似た魔物、そのどれもが獰猛な目つきをしており、明らかな悪意を持って行動している。

 獣臭さを気にする事なく剣を構えるエスト。しかし、反してクライムは一切構える事無く、無防備に歩み寄っていく。予想外の行動に驚いた少年が静止の声を投げ掛けるが、騎士隊長は止まる事はない。

「俺一人で十分だ。下がっていろ」

「おまっ、何言って――」

 エストの声を遮る様に数匹の魔物が一斉にクライムへと飛び掛かる。その動きは獣を超える速さだ。それに加えてこの数。いくらクライムが強いと言っても所詮は人間であり、魔物とは埋めがたい性能の差がある。剣を引き抜き、駆け出そうとするエストの前で突如、数匹の魔物が二つに別たれた。

「は?」

 思わず声が漏れ、動きが止まる。引き抜かれた長剣が所在なさ気に揺れている。

「次は、どいつだ?」

 冷たい声を吐き出しながら、腰から抜いた剣の切っ先を魔物の群れに向ける。

 ――えっ、いつの間に剣を。というか動き見えなかったんですけど……。

 愕然とするエストと魔物。

 後ろで待機していた魔物たちは我に返り、雄叫びをあげながら目の前の青年に襲いかかった。それでも、クライムは歩みを止めない。風を斬る音は都合四つ。次いで落下音が八つ響くのを最後に魔物の姿はなくなった。

「俺は前に出る。お前らは城砦を乗り越える奴だけ相手にしろ」

 そう言い残し、城砦を飛び越えていく最強の騎士の後ろ姿を眺めていたエストは袖を引っ張られ、ようやく我に返った。

「大丈夫?」

 心配するかの様に覗きこんでくるシアに小刻みに頷くが、その様子に姉は更に心配げな気配を濃くする。

「あいつ、強すぎだろ……」

 最強の騎士というのは伊達ではないという事を、否応なく理解させられた瞬間だった。


 一方、城砦を乗り越え、戦線に向かったクライムは走りながら周囲を見渡す。銀甲冑を纏い、馬を駆る騎士や多人数で各個撃破を狙うアルバンの兵士たちの姿に構う事無く思考を巡らせる。

 ――いくらなんでも数が多い。それに、粗いながらも統率が取れている。ならば、指揮を執っている者がいるという事か。

 襲い来る魔物を悉く一瞬で屠りながら更に奥へと進む。その先に――それは居た。

 薄汚れたローブを纏った魔術師の様な姿。しかし、下半身は馬のソレであり、魔物である事が分かる。皺だらけの手に握られた杖を振るう度に、虚空から複数の魔物が現れる。そのどれもが下級の魔物だが、その数が尋常じゃない程に多い。

 ――あれか。さっさと片付けて寝るか。

 瞬時に加速し、魔物の群れに斬りかかる。斬り伏せられた魔物は断末魔の叫びをあげながら地へと伏し、少しの痙攣の後に動かなくなる。

 全てを倒す必要などない。半人半馬の魔物を倒せば、恐らく全ての魔物は消えるだろう。

「ふっ!」

 魔物の頭を踏み台にし飛び上がり、半人半馬に斬りかかるもそれは紙一重で躱される。

 舌を打つクライムの前で距離を取った半人半馬の魔物は杖を天高く振り上げた。変化は直ぐに起こった。

「何だ……? 周囲の魔物が融けていっている?」

 どろどろとその姿を崩れさせていく魔物たちを眺めていたクライムは、何かに気付くと同時に半人半馬から距離を取った。魔物の魔力が急激に膨れたのだ。

 ――成る程。この魔物たちは召喚で呼び出された者ではなく、この魔物が自身の魔力で造り出したモノか。

 どうりで雑魚が斬り伏せられても奴に影響がない訳だ。そう思考したクライムは次の奴の行動に備える。

 造り出した魔物を魔力へと戻して再び自身に取り込んだ――つまり、今の奴は大量の魔物を自身に取り込んだようなモノ。一匹一匹は大した力ではなかったがそれが一点に集まった事は危惧すべき事柄だろう。

 杖を握った皺だらけの手は瑞々しさを取り戻しており、体格も二回り程大きくなっている。

 ――来る。

 魔物が土煙を巻き上げながら迫り来る。手にした杖はいつのまにか長槍へと変わっており、凄まじい速さで横に振るわれる。

「ぐっ!」

 咄嗟に長剣で受け止めるも、凄まじい衝撃がクライムを吹き飛ばす。難なく着地するも腕に走る痺れに舌を打つ。

 魔物がローブを剥ぎ取ると、上半身裸の男が居た。若い男の上半身に馬の下半身をした魔物はにやりと口元を歪める。本能的に勝てると思ったのだろう魔物は、長槍を構えて再び地を蹴った。

 凄まじい速度で突き出される長槍。常人ならば捉える事さえ不可能なその一突きを僅かに逸らし、

「はっ!」

 隙だらけの魔物に剣を振るった。手応えは浅い。魔物が咄嗟に跳び下がった故に、決定打にならなかったのだ。

 顔を青黒い体液で染めた魔物が咆哮をあげる。その表情は憤怒の色に染め上げられていて、何とも醜い。

 魔物の威圧で肌がびりびりと震えるのを感じたクライムは溜め息を吐き、虚空へ指先を走らせた。

 薄い黄色の魔力の軌跡が宙へと描かれ、刹那の内に消えていく。同時に、クライムの身体を淡い光が包んだ。

「■■■■――ッ!」

 人語ではない奇声を上げ、魔物が駆け出す。再び突き出される長槍は今までで一番速く、重い一撃。けれども、クライムはそれをあっさりと弾いてしまった。

 魔物の目が驚愕に彩られる。しかし、驚いている場合ではない事は分かったのだろう、弾かれた長槍で咄嗟に防御する。

「――無駄だ」

 無情に告げられた言葉に絶望する暇もなく、半人半馬の魔物は長槍ごと断ち切られ、絶命した。

 どうっと音を立てて倒れた魔物の死を確認してからクライムは自身に掛けた魔術を解いた。淡い黄色の光は闇夜に霧散し、再び月のない暗闇が辺りを包む。

 ――“強化”を使う事になるか……。この辺りの魔物じゃないな。

 倒れ伏す魔物を眺めながら自身の見解を組み立てていく。この辺りは定期的に魔物狩りを行っている為、これ程力を持つ魔物が出没する事はない。つまり、

「……ギル、か?」

 彼の実の弟、ギルベルト・アルドリッジ。魔人へと堕ちた肉親は召喚魔術を扱うと聞いた。以前はそんな魔力も技術もなかったというのに魔人というのはやはり規格外だ。


「――惜しい。貴方の弟君は関係ありませんよ」


 暗闇に溶ける様な、薄暗い声が響いた。

 その声を聴いた瞬間、僅かに緩んでいた気が引き締まるのを感じる。それは無意識の行い。生命の危機を感じた事に対し、咄嗟に働いた防衛本能。そうしなければ、一瞬で殺されてしまいそうな、そんな妄想に捕われた。

 前方の闇に更に深い闇が広がった。それは刹那の内に人型を創り、一人の男の姿を浮き彫りにする。

 神父服を身に纏い、闇より暗い黒色の髪をオールバックにする男。その存在を見止めた瞬間、無意識に『強化』の魔術を自身に掛けていた。

 淡く発光する剣と自身に愕然しながら、前方の黒い神父を睨み続ける。自身の本能がここまで警戒信号を出すのは彼自身初めての経験だった。

 対する神父は構える事無く、苦笑を漏らす。

「そう怖がらなくとも良いでしょう? 私は、殺気を出していませんよ」

「……お前に対して、恐怖を抱かずにいられる奴は狂っているな。――それで、何の用だバケモノ」

 言い知れぬ気味の悪さを放つ男に対し、毅然と言い放つ。敵意を滲ませた視線に、黒色の悪魔は感心する様に溜め息を吐いた。

「ふむ、兄弟とは思えませんね。貴方の弟君も似た様な台詞を言いましたがあちらは虚勢でしかありませんでし――ああはい、何の用かでしたね?」

 ゆったりと武器を構えるクライムを静止する様に、話の軌道修正をする。武器を構えた姿勢のまま耳を傾けるクライムの姿に黒色の悪魔は苦笑を浮かべる。

 ――胡散臭い笑みだ。全てを見透かされている様な気分にさせられる。

「貴方に用はありませんよ。弟君とは違って魔人としての素養は皆無ですからね」

 ならば何故、魔物を放ち、アルバンを襲わせたのか。自分が標的じゃないなら恐らく、グレイス姉弟が目的か。

「虚神が本当に弱っているのかを確かめる為だったのですが、貴方の所為で少し思惑がずれてしまいました」

 そう言う男の顔に残念そうな表情は浮かんでおらず、胡散臭い笑顔のまま。クライムの不快度指数が跳ね上がった。

「確実とは言えませんが、虚神は本当に弱っているのでしょう。戦闘は支援しかしていませんでしたし」

「――魔人に伝えておけ。“お前は俺が止める”とな」

 突然の宣言に首を傾げる。その姿を睨んだまま、剣先を突き付けた。

「消えろと言っているんだ。お前など眼中にない。俺の目的は飽くまで愚弟の悪行を止める事だけだ。

 ――精々、伝言役に努めると良い」

 二呼吸分ほど、呆気にとられた黒色の悪魔は突如噴き出した。何がそんなに面白いのか、腹を抱えて蹲る。

 ひとしきり笑うと、目尻に浮かんだ涙を拭い闇に紛れて姿を消した。だというのに、暗闇に声だけが響き渡る。

『ふふっ、それでは確かに貴方の伝言を承りました。必ずや弟君にお伝えしましょう』

 それを最後に声は聞こえなくなった。得体の知れない薄気味悪い気配は融ける様に消滅し、代わりに不気味な静寂がこの場を包む。けれども、先程、あの神父が居た時に比べたらこちらの不気味さの方が可愛らしいものだ。

「ひとまず、アルバンに戻るか。あの姉弟にアレについて色々聞かなければならん」

 魔物との戦いの時には浮かんでいなかった汗を拭い、彼は迎えに来た部下の下へと歩み始めた。



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