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第二章「虚ろな神の真名」


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『そのを連れて行くと良い』

 女性は、静かに寝息を立てる少女を指差し、そう言った。場所は先程の村から遠く離れた森の中。瞬きの間も無く遠く離れた地へ移動した事実に驚きながら少年は、自らの腕に抱えられる少女を一瞥する。

 肩まで伸びた金色の髪、白磁の様に滑らかな肌。瞳を閉じ静かに眠るその姿を見て、自然と頬が熱くなるのを感じつつ、その少女の面立ちが目の前の女性と似ていると思った。

『えぇと、この娘は? 何で俺が連れて行かなきゃいけないの?』

『これから先、貴方が進む道は茨の道。だからその娘と共に生きて』

 女性は少年の問い掛けを無視し、一方的に言葉を発する。少年が再度、腕の中の少女について質問するべく口を開く瞬間、女性の思いもよらない言葉に喉を詰まらせた。


『その娘は私を呼び出す――貴方の故郷を滅ぼす要因を造った真の原因を知っている。私は此処に長くはいられないから彼女から聞いて』


『ま、待って! 先生が原因じゃないの!?』

 師が原因でこの女性が現れ、故郷が焼き尽くされた――そう認識していた彼は驚きの余り、口角泡を飛ばしながら女性に詰め寄る。対する女性は掛かった唾を無表情に拭いながら、

『だからそれは彼女から聞いてと言って――まあいい、“黒い男”と会っていない?』

 刹那、彼の脳内に数ヵ月前の出来事が想起される。

 ある日、胡散臭い笑みを張り付けた神父が師と少年の家に現れた。それは『黒』を連想させる不吉な男。玄関口で二、三言葉を交わした師は大事な話をするから部屋に戻るよう、少年に指示を出した。彼は不審人物と師を二人にするのが酷く心配だったが、それ以上に仲間外れにされた様な気がして面白くなかった事を憶えていた。

 師がおかしな行動をするようになったのはそれからだったのではなかったか? 少年の思考はそこへと至り、更に深く考え込もうとしたところで声を掛けられた。

 その呼びかけに応じ、俯けていた面を上げるとそこには半ば身体が透けた女性の身体があった。

『えっ……』

 女性は、呆然とその光景を見遣る少年に近付き、その短い赤茶色の髪をゆったりと撫でた。

『もう二度と会う事はないでしょうけど――死なないで』

『……ぁ、まっ――!?』

 そして女性はその姿を消した。

 それはあまりにも唐突で、自分は実は夢を見ているのではないかと勘繰ってしまいそうになる。目が覚めたら村は無事で、そこには村の同年代の友人たちが、そして変人だったけど優しかった師匠が――。

 ――いや、夢じゃない。だって、この娘がいる。

 その証拠となるのは腕の中で眠る少女。少女の存在が先程の女性との邂逅を、そして己の故郷の消滅を確かに物語っていた。

 女性は言っていた。

 この惨状を創り出した者がおり、そして未だ眠り続けるこの少女はその者について知っていると。

 ならば、まだ死ぬ訳にはいかない。真実を知り、仇を探し出し、この手で――。

 もぞり、と少女が身じろぎをするのを感じた。起きたのかと思い、顔を覗き込むがその双眸そうぼうは未だ閉じられたまま。同時にその細い身体が僅かに震えている事に気が付き、寒いのかもしれないと思い至った。

『どこか野宿が出来そうなとこを探さなきゃ』

 そして少女が目覚めたら話を聞こう、そう考えた少年は眠る少女を背負って森の中を進む。

 その心の中に、怨嗟という名の炎を滾らせて――。


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 闘技場での決闘から早くも五日が過ぎた。ギルベルトの策略に嵌り、全身の至る所に負った傷はシアが掛けた魔術のお蔭で早くも完治しつつあった。

 ちなみに傷を癒す方法は本人の自然治癒力に依存する以外にない。一応、代謝能力を強化する事により、自然治癒力を高める事は出来るが、それでも瞬きの間に怪我が完治する事はない。だから魔術が発展する世界においてなお、医者という職はなくならず、人々に求められるのだ。

 本来ならエストの傷も医者に見せなければならない程であったが、元々代謝能力が高いエストにシアの魔術が掛けられたのだ、よほどの事がない限り医者の世話にはなるまい。

 と言っても回復の際に失った体力はどうにもならず、あまり激しい動きは出来ない。

「そう言えばさ」

 パンにバターを塗りながら、エストはテーブルの向かい側の人物へと目を向けた。

 視線の先では彼の姉が卵と豚肉のスープをちびちびと飲んでいる。勿論、視線を返す事はない。

 場所は万屋『朝凪』の事務所であり、彼らの自宅でもある一軒家。朝日を浴びた鳥たちのさえずりが住民の重い瞼をこじ開ける時間帯。

 姉からの相槌は得られなかったが、構う事無く口を動かす。

「昨日ギルベルトの家――アルドリッジ家が全焼したんだってよ」

 昨日の夕方頃、街の中心から少し北に位置する貴族領にて火災があった。火は瞬く間に燃え広がり、屋敷を呑み込む程に肥大した。

 通報を受けて駆け付けた騎士団の尽力によりそれ以上の火の手の拡大を防ぎ、鎮火させたが時既に遅く、煌びやかだった屋敷は見るも無残な廃墟へと変貌してしまった。

「で、一応形式的に生存者を探したらしいんだよ。瓦礫退けて」

 見つかった遺体の数は相当な数だった。その屋敷に仕えていた執事や侍女が数十名、果てにはアルドリッジ家の当主とその奥方の遺体までもが発見された。遺体はどれも焼け爛れていて、身元の判別さえもままならなかったが、アルドリッジ夫妻は身に着けていた貴金属により本人であると判明出来た。しかし、全ての遺体には火傷の他にも共通点があった。それは――

「――鋭利な刃物で貫かれてたらしい。それと、ギルベルトの遺体だけが見つかってないそうだ……」

 重苦しい声音でそう告げる。対する姉は食べ終えたスープの皿を脇に避け、じゃがいもとヨーグルトのサラダに手を付ける。

 どう思う? 言葉にせず問い掛けてくる弟に対し、『誰から聞いたの?』とだけ返す。

「……昨夜、寝る前にエルミナから風の魔術を使った伝令が届いたんだよ。もしもギルベルトが犯人だったら俺たちも危ないって」

 以前より確執があったが闘技場の一件によりそれは決定的なモノとなっただろう。エルミナはそれを危惧し、いち早くエストに伝えてくれたのだ。

 その説明を聞いたシアはじゃがいもをフォークで弄りながら、

「食事中に話す内容じゃない」

「……いや、食ってる最中に遺体がどうのってのは確かにどうかと思うけどさ。そんなこと言ってる場合じゃ――」

「あの男の話は美味しいご飯を不味くする」

 そっちかい、と心の中に呆れの念を浮かべる。シアはどうやら本格的にギルベルトを毛嫌いしてしまったらしい。今までの『興味ない』から『嫌い、死ね』という評価へ移行を果たした貴族の青年へこっそりと合掌した。

「まあ実際俺らも念話でやりとりしてたし、あいつの事を責められる立場じゃない様な……」

 直後、ばん! と衝突音が辺りに響き、彼は口を半開きのまま目を剥く。視界の先ではテーブルに叩き付けた手を支えに椅子へと上がる姉。何故か椅子の上で腕を組み、見下ろすシアは口端を歪め、嘲笑を浮かべた。

「――ばれなきゃあ、イカサマじゃあないのよ」

 バレるイカサマをしたあの男が悪い、そう言う姉に対し、咄嗟に口が動かなかった。色々と言いたい事があるけれどあり過ぎて定めきれない、そんな心情で彼は呻き、とりあえず席を立った。そして、彼女とほぼ同じ目線になった瞬間、全力で叫んだ。

「クズの理論じゃねーかッ!?」

 そこまで溜め込む程かと自分に問い掛けたくなった。



 その後、話は曖昧なまま終わり数時間が経った。あと、一刻(二時間)程で太陽が中天へと到達し、各々の仕事の休憩時間へと入るだろう時間帯。万屋『朝凪』の所長であるエストはソファーに横たわり、呻き声を発していた。

「ぐぬぬ、仕事が来ねえ……!」

 数日前の魔物の討伐を境にぱったりと依頼が来なくなってしまった。エストとシアの収入源はこの万屋稼業だけであり、他に金銭を稼ぐ手立てはない。つまり今の状況は生きていくという事において、非常にマズイ状態を表していた。

「結局、あの魔物の討伐報酬も六割以上引かれたしなぁ……ははは」

 最早笑うしかない。万屋稼業は元々収入が安定する事はない仕事、蓄えなどある筈もない。

「いや、食い物はその辺の森で狩りでもすりゃいいんだよ。問題はヘンシェルさんに払う借金だよ……」

 彼らが暮らすこの家は元々はただの空き家だった。それをエルミナの父、ヘンシェルが幼い頃のグレイス姉弟に買い与えたのだ。素性不明の子供に嫌な顔どころか嬉々として家を与える豪気さが、現スティラート家の当主の器の広さを物語る。

 しかし、エストは何が何でも金を払うと豪語し、定期的に金をエルミナの父に納めていたのだ。

 ――森でエルミナを獣の群れから助けて、ヘンシェルさんに気に入られて家まで貰って、もう七年か……。

 自分はどれほど強くなったのだろう。これから先、更に強くなる事は出来るのだろうか。

 仰向けになり、天井へと伸ばした手を見つめると、その手は子供の時より大きくなっていた。

 当たり前だ、と心の中で呟いた。

 人は生きている限り成長する。多少の差はあれど心身ともに成長し、いつかは朽ち果て、大地に還る。

 横目で、共に成長してきた姉の姿を盗み見た。机に座り、黙々と読書に励む少女もまた同様にいつかは寿命を迎えて死ぬ。

 どちらが先だろうか。そもそも、自分たちは寿命を迎える前に死んでしまうのではないか。そんな考えが頭の中をぐるぐると駆け巡り、何とも言えない気分にさせられる。

「何? さっきからジロジロと」

 気付かれていたらしい。

 本を閉じ、半眼で睨み付ける姉に対し、『え、あ、いや……』としどろもどろになるエスト。

 ――そういや、金の心配から何でこんな思考に至ったんだ?

 己の思考の飛び具合に首を傾げながら、未だこちらを睨む姉への言い訳を考えていると――。

「――伝令」外を向いてシアが呟く。

「あ?」

「来た」

 玄関の隙間から風が入り込んだ。その風はエストへと一直線に進み、彼の顔にぶつかり破裂した。

「うわっ!? ……ってこれ、エルミナの伝令魔術だ」

 伝令魔術とは、風に伝えたいメッセージを載せ、遠くの者へと用件を伝える、比較的難度の低い魔術の事だ。

 内容は? とシアが視線だけで問い掛ける。

 “闘技場にて応援求む”。それが風の中に記された内容だった。

「何? 端的過ぎて状況が掴めないんだけど」

「確かに。でも、あのエルミナがこんな大雑把な伝令出すのっておかしくないか?」

 真面目で几帳面な彼女の伝令はいつだって細かい上に長く、人の閲覧意欲を削ぐ。しかし、今回は流石に短過ぎる。

「伝令に時間を割けない程に切羽詰ってるって事か……? シア、留守番頼む」

「待って。私も行く」

 早速身支度を始める彼をシアは引き留め、動向を願い出た。胡乱な瞳で見据える彼を気にすることなく、彼女は闘技場の方角へと視線を向ける。

「闘技場から感じる魔力波動が尋常じゃない。これは恐らく――」

 しかし言葉は続かない。黙したまま身支度を整える姉にエストは準備の手を休める事なく、問い掛ける。

「恐らく、何だよ」

「いえ、とりあえず行ってみましょう。行けばはっきりする」

 姉のはぐらかす様な物言いに釈然としないエストだったが今は一刻も早くエルミナの元へと参じるべきと考え、深くは追及せずに自宅を後にした。

 闘技場へと近付くにつれ、妙な気配を肌で感じ取った。

 エストは元来、魔術の才能がなく、同時に魔力波動を感知する能力が他者よりやや劣っている。その鈍いエストの感覚でさえ、遠くの闘技場から溢れる魔力波動を鋭敏に感知しているのだ。

 その感覚は次第に強さを増していき、闘技場の前に到着する頃には肌を突き刺す様な痛みへ変わっていた。

「何だよ、これ……」僅かに息を乱れさせ、エストは呆然と呟く。

 闘技場の様相は昨日とはだいぶかけ離れた物となっていた。大理石で出来た円形の壁は所々が崩れ、最早廃墟の様にも見える。

 出入り口の前で佇んでいると突如、轟音が響き渡った。音の発生源は言うまでもなく闘技場内部から。直後、彼へと伝令を送った騎士少女の姿が頭によぎった。

「くそッ――!」

「待ちなさい、エスト!」

 エストはシアの静止の声を振り切り、闘技場内へと飛び込んだ。瓦礫が散らばる通路を一気に走り抜ける。

 通路を抜けた先の広い空間で、男女が対峙していた。

 甲冑に身を包んだ銀髪の少女――エルミナ・スティラート。華奢な体躯に不釣り合いな、大きな両刃剣を構えた彼女の表情は悔しさに塗れている。

 対するのは同じく甲冑姿の青年――ギルベルト・アルドリッジは下卑た笑みを浮かべ、両手をだらりと下げている。

 彼女の背後に倒れ伏す甲冑姿の男たち――騎士団員――の姿を見止めたエストは勢いを殺さず、彼女の横を駆け抜けた。

「え、エスト――!?」

 背後でエルミナの驚く声が聞こえる。彼はその声に耳を傾ける事無く、目の前の青年に斬りかかった。

 ギィン、と金属音が鳴り響く。

「なッ!?」

 驚きの声は一人分だけ。

 それもその筈、走った事による勢いと、彼自身の膂力りょりょくも込めたその一撃を、目の前の青年は手にした剣で軽々と受け止めたのだ。

 あろうことか、“片手のみ”で。

「策もないのに畜生の様に突っ込むか。お前は馬鹿だな!」

 嘲笑と共に剣を持たない手から雷撃が放たれる。しかし、それはエストに到達する直前に青白い膜に遮られて爆散した。

「うあッ!?」

 だが、防いでもなお、その衝撃が消える事はなくエストは背後へと吹き飛ばされるも空中で身体を捻り、無事に着地した。彼を護る様にエルミナが正面に立ち、大剣を構えながら怒声を浴びせる。

「馬鹿者! 安易に突っ込む奴があるか!」

「全くの同意。頭にうじが沸いているとしか思えない程に無謀。私が障壁を展開させなかったら危なかった」

 背後からも悪罵が聞こえ、エストは僅かに苦い顔を浮かべた。

「何なんだよ、あいつの魔力と力。本当にギルベルトなのか?」

 大剣を軽々と受け止める膂力と人のソレを大きく上回る程に強大で濃厚な魔力を持つその姿は、数日前に闘った男と同一人物だとは信じ難い。

「私にも分からない。ただ、奴一人が騎士たちを倒し、闘技場を廃墟同然の姿へと変えたのは確かだ」

 エストとエルミナは横に並び、各々の武器を構えて敵を睥睨する。対するギルベルトは構える事もせず、口元を歪めるだけでその場を動く気配はない。

 ――こいつ、完全に舐めてやがる。

 熱くなりかける頭を何とか冷ます。どうやって得たのか知らないがギルベルトの力はエストを上回っているのは確かだ。熱くなれば、ただでさえ低い勝機を失ってしまうだろう。

「エスト、あいつを生け捕りにしなさい」

 シアからの唐突な命令にエストとエルミナは、怪訝な顔を浮かべた。勿論眼前の敵からは目を逸らさない。

「あれは人としての境界を見失った哀れな存在――魔人」

 “魔人”という言葉に少年と騎士少女は言葉を詰まらせる。それ程までに衝撃的な言葉だったのだ。

 魔人――それは何かしらの出来事により狂気に蝕まれ、人としての限界を超えた存在。人が自身の身体が壊れない様に無意識に掛けている制限を排除した彼らの腕力や魔力は人間の比ではない。

 同時に、莫大な力を得る代償に理性を失っている彼らは軒並み気が触れており、目に入ったモノ全てを破壊せずにはいられない。故に、魔人によって滅ぼされた国は少なくない。

「でもあれは見た所、多少は理性がある。普通の魔人とは違う」

「つまりあれは“黒色の悪魔に”――」

 エストの言葉引き継ぐ様にシアははっきりと断言した。

「――“造られた魔人”」

 刹那、少年の気配が一変した。魔人に向けるその瞳は鋭く、それでいて濃厚な憎悪が宿っている。否、眼前の魔人ではなく、その背後に居るだろう悪魔に対してだ。

 その明確な殺意に、普段の彼とは思えない迫力にギルベルトだけでなくエルミナさえも息を呑んだ。

「は、はっ! 実力がない癖に気配だけは歴戦の戦士並みだな、劣等種! 睨んでないで掛かって来たらどうだ?」

「一度だけ聞いてやる。その力をくれた奴はどこに居る?」

 ギルベルトの安い挑発を流し、端的に問い掛ける。対するギルベルトは『話す義理はないね』と肩を竦めて嗤った。

「そうか。――なら、力尽くで言わせてやるよ」

「……随分と偉そうな口を叩くじゃないか、この僕に対して。どうやら凄惨な死に方がしたい様だなぁ?」

 額に青筋を立て、怒りを滲ませる魔人に対して嘲笑を浮かべて足を踏み出した。

「はっ! 他人から貰った力で偉そうな口を叩いてんじゃねぇよ、お坊ちゃまが!」

「き、貴様……ッ!」

 二人の間に見えない火花がぶつかり合う。今にも死闘が始まりそうな熱気と己が内に広がる憎悪に当てられ、エストの頭は徐々にその熱さを増していく。実力差は決定的だというのに怯む気配のない自分に自然と獰猛な笑みがこぼれる。

 その戦意に満ちた目は猛禽類を思わせる程に鋭く、吐く呼吸は浅く、速い。

 脚部に溜めた力を爆発させようと屈んだ瞬間、エストは後ろから尻を蹴られた。

 予想だにしない場所からの衝撃を受け、地面に倒れ伏すエストをその場に居る者は呆然と眺めていたが、衝撃で我に返ったエストは急いで立ち上がり後ろを振り返る。そこには腕を組み、呆れの表情を浮かべたシアが立っていた。

「あんなのでも魔人。激情を以て挑めば負ける。あれは黒色の悪魔ではなくてただの手掛かりに過ぎない。――エストの憎悪を向ける価値はない」

 憮然とした物言いにエストは呆然と佇む。そして驚きの余り半開きになった口を、僅かに歪めて苦笑を浮かべる。そこに憎悪は浮かんでおらず、いつものエストの姿だ。

「……ははっ、確かにお前の言うとおりだな、シア。これはただの通過点であって俺の標的じゃない」

 目の前の強大な存在を前にしての余裕な発言にエルミナはただ唖然とするしかできない。何か策があるのかと僅かに希望を持ってしまう。

 対する魔人ギルベルトは舐められていると理解したのだろう。その身体は小刻みに震え、整った相貌は紅く染まっていた。

 戦いの火蓋はもうじき切って落とされようとしていた。


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「先程から随分と余裕に見えるが何か策があるのか?」

 エルミナは魔人ギルベルトへ注意を向けたまま、傍らに立つ姉弟へと小声で問い掛けた。問われたシアとエストもまた己が敵へと敵意を向けながら声を揃えてこう言った。


『ない』


 自信満々なその声音に思わず大剣が手からずり落ちそうになり、慌てて大剣を持ち直すも彼女の心に動揺が渦巻く。先程の彼らの会話を聞く限り、何かしらの自信が見て取れた。その自信は目の前の化け物を打倒しうるだけの策があるからこそのモノだと銀髪の騎士少女は解釈したがそれは彼女の思い込みだったらしい。それどころか――

「お、お前たち。無策なのにあそこまで挑発したのか?」

 動揺の余り、声が震える。その所為で小声は更に小さくなり、最早姉弟の耳に届いたかどうかさえ危うい。しかし、グレイス姉弟はその声がはっきりと聞こえていたのか、間を置かずして言葉を返す。

 弟は笑顔で。

 姉は無表情に。

 双方違った反応を、けれども同じ答えを発した。

『まあ、大丈夫だろ(でしょ)。……たぶん』

 この場にそぐわない、緊張感に欠ける適当な返答に思わず呆気にとられた。

「……はぁ、分かった」

 エルミナは頭痛を堪える様に頭へと手を置き、溜め息を吐く。だが、その表情に絶望の色は浮かんでおらず、戦意に満ちた瞳で魔人の青年を睥睨した。

「これより国に仇す魔人を駆逐する。力を貸してほしい」

「言われなくともやるつもりだぜ。任せろ」

「精々足を引っ張らない様に」

 エルミナは高い鼻を鳴らすと同時に術式を発動させ、自身の身体に風をまとわせた。

「行くぞ!」

 エストとエルミナが同時に魔人との間合いを詰め、各々の武器を振るう。幼馴染ゆえの、息の合った連携。しかし、魔人の前では息が合っている程度でしかない。

 そして、エストの剣は蛇腹剣で、エルミナの剣はあろうことか素手で受け止められた。

「邪魔だ劣等種ッ!」

 ギルベルトはそう叫ぶと同時にエストの腹を蹴り抜く。小石の様に吹き飛ぶエストに視線すら向けずに、ギルベルトはエルミナへと微笑みかけた。

「エルミナ、僕の下へ来ないか?」

「な、に?」

 己が大剣を振り抜こうと力を込めながら、疑問の声を上げる。大剣は僅かに震えるだけだ。

「僕は力を手に入れた! もうこの世界で僕を馬鹿に出来る奴はいない! そんな僕に相応しい女性はキミしかいないだろう!」

 才能、美貌、家柄、血筋。

 その全てを兼ね備えたエルミナだからこそ、自身の伴侶として相応しい――魔人はそう言いたいのだ。しかし、

「すまない、が」

 刹那、魔人の視界からエルミナが消失すると同時に、衝撃が彼の顎を突き抜ける。

「がっぁ!?」

 苦悶の声を上げながら顎を抑え、数歩下がる魔人の前で、少女が長い銀髪をなびかせながら着地する。宙返りをした事により、乱れた髪を梳きながら、軽蔑の眼差しを浮かべて吐き捨てた。

「その曲がった性根が私は嫌いだ」

 束縛から解放された大剣を構える。その切っ先は微動だにする事はなく、彼女の戦意の高さが見て取れた。

「……そう、か」

 ギルベルトは蹴られた顎を押さえながら、僅かに呟く。顔は地面へと向けられている為にその表情は見えないが、声音から濃厚な怒りを感じ取れた。

「折角この僕のペットにしてやろうと思ったのに馬鹿な女だ。貴様も所詮はそこらに転がる雌と同じという訳か。……ならば貴様などもういらん!」

 怒りの咆哮を上げ、手にした剣を振るう。鞭状へと変じた蛇腹剣が凄まじい速さを以て騎士少女へと肉薄する。

「はぁっ!」

 裂ぱくの気合いと共に迫り来る脅威へと大剣を振るうが、その一閃は虚しく空を切る。蛇腹剣が横へ垂直に曲がったのだ。

 物理法則を無視したその動きに目を見開くが、今は剣を振り抜いた直後。硬直した身体で躱す事は無理だろう。

 そして、二度目の軌道変化をした蛇腹剣がエルミナの首を貫く刹那――

 火花が散った。先程蹴り飛ばされたエストが大剣を蛇腹剣に叩きつけたのだ。鞭状の刀身が地へと叩き付けられ、死んだ蛇の様に横たわる。

「邪魔!」

 背後からシアの鋭い声が掛かり、エストとエルミナは横へと跳ぶ。一拍の間を置き、背後から業火の塊が射出された。高速でくうを走るソレは魔人の下へと一直線に突き進み、着弾と同時に爆炎をまき散らした。

 しかし、シアの攻撃はそれだけではない。大剣遣いの二人が時間を稼いでいる間に虚空へ描いた術式は都合五つ。

 火球、雷槍、氷柱、土鉾、風刃――それぞれ属性の異なった魔術は、一呼吸分の間隔も開けずに魔人へと着弾する。

 嵐の様な猛攻が巻き起こした爆風と轟音に晒され、エストとエルミナは堪らず数歩下がった。

 シアは額に浮かんだ汗を拭いながら、立ち昇る煙を睨み付ける。僅かに乱れた呼吸を整えながらエルミナに風の魔術行使を促し、煙を晴れさせる。

 煙が晴れた先には半透明の壁が鎮座していた。所々に亀裂が走ったその壁の先には魔人の青年が両手を突き出した姿勢で立っていた。その両手は無数の裂傷が刻まれている。

「ま、魔人である僕の障壁を貫通するだと!? 貴様、化け物か……!?」

 乱れた息を整える事もせず、驚愕の叫びを上げる男。それに返す少女の言葉は何処までも冷たく、ナイフの様に鋭い。

「あなたが未熟過ぎるだけ。その力は本来の魔人とは程遠く、己が力を制御出来ていない故の弊害。

 ――程度を知れ。それが本来の実力だとしても、あなたが使うには百年早い」

「だ、まれ。――黙れ黙れ黙れェ!」

 ギルベルトが憤怒の表情で指を走らせる。指先が黄色い軌跡を残しながら彼の周囲を文字と記号で埋め尽くしていく。その光景に危険な色を感じ取ったエルミナが風の刃を飛ばすが、眼前の強大な魔力波動に弾かれてしまった。

「僕はこの力で全てを手に入れる! 脆弱な人間共が圧倒的な“知”と“力”の前にひれ伏すのは当たり前の事であり、貴様らも例外ではない! 駆逐してやるぞ、劣等種共――!」

 魔人の叫びに呼応するかの様に地面が輝いた。不可思議な紋様が彼を中心に浮かび上がり、その余剰魔力が周囲に風を巻き起こす。

 その紋様は扉だ。魔法陣に酷似したソレから一匹の獣が躍り出た。

 それの上半身はワシと酷似していた。しかし、下半身は百獣の王そのものであり、ただの獣でない事が窺える。なおかつ、その体躯の大きさが尋常ではなく、口の大きさだけでも大人を軽く丸呑みにしてしまえそうだ。

 魔獣が咆哮をあげる。大気を震わせる大音量にエストの腰が抜けそうになった。

 彼らの目の前で魔獣が戦闘態勢をとる。

「来るぞ、気を付けろ!」

 エストが叫ぶと同時に半鳥半獣は地を蹴り、瞬く間にエストとエルミナの横を通過する。元より、魔獣の狙いは大剣遣いの二人ではなかったのだ。それは背後に居る――、

「ま、ずい! シア――!」

 声を張り上げながら振り返るエストの視界には、既に己が姉へと喰らいついた魔獣の後ろ姿が映る。しかし、丸呑みにしようと開いた大きな口が全く閉じられていない事からすんでの所で障壁を展開したのだと分かる。

 それでも、いずれ障壁は破られる。実際、速さを重視したこの術式は綻びだらけで防御範囲も彼女の前方のみだ。

「くそッ。今助けに――」

「行かせる訳がないだろう?」

 背後から迫る殺気へと、大剣を振るう。咄嗟の一撃は魔人の武器と衝突し、盛大に火花を散らす。ぎりぎりと音を立てながら徐々に押し返されていく剣先を睨みながら歯噛みした。

「邪魔だっ、どけ!」

「まあ、そう言うなよ。どうせあの程度じゃ、あの雌は死なないだろう? 雑魚とはいえ、徒党を組まれると厄介だから、少しばかり席を外して貰うだけだ」

 下卑た笑みを浮かべたギルベルトはそう言うと、眼前の従僕へと指示を出す。

「おい、鳥モドキ! しばらくその雌をこちらに近寄らせるな。それとそいつは僕が殺す――勝手に殺すなよ?」

 魔獣は僅かに首を振り、主の命令を聞き入れるとその場を走り去った。エストは魔人を鋭く睨むも、その魔人は愉快気に口端を歪めるだけだ。

「僕を倒せば助けに行けるぞ? やってみろよ、劣等種」

 直後、雷にも似た大声が魔人の鼓膜を容赦なく叩き、蛇腹剣を持った腕が弾かれる。次いで、猛然と繰り出される大剣を紙一重に躱しながら感嘆の声をあげた。

「ほう? やるじゃないか。なかなかの膂力と剣筋だ」

 そこにエルミナも加わり、二対一と、数的に有利になるが、彼らが劣勢なのは変わらず、魔人を断ち切る事は叶わない。二本の大剣が繰り出す剣技は悉く弾かれた。

『はぁっ!』

 呼吸を合わせた一撃。左右から同時に繰り出したソレは頭と脚、それぞれの部位に肉薄するも、突如現れた半透明の壁に遮られた。

「やれやれ、こうも差が出来てしまっては面白くないな」

 嘲笑がエストとエルミナの耳に突き刺さる。魔人は相手との力の差を確認したのか、余裕を含んだ傲岸な笑みを浮かべる。ふと、魔人の指先が宙をなぞった。

 ――魔術か……!

 二人の大剣遣いは身の危険を感じとり、退避しようとする。だが、魔人相手にその行動は、余りにも遅すぎた。

「無駄だ。もう遅い」

 白い光が見えたのは、一瞬にも満たない僅かな間。躱そうなどと、思考する暇さえなかった。それ程までに速い一撃を視界の端に捉えた刹那、衝撃が二人の身体を突き抜けた。

「ぁ――!?」

 あまりの苦しさに声が出ない。苦悶の声の代わりにたてられるのは地へと叩き付けられる衝撃音のみ。

「……エス、ト――!?」

 少年の名を呼ぶ声がする。無意識に向けた視線の先には己が大剣を地へと突き立て、どうにか身体を支える騎士少女の姿。魔術による風を纏っていたからだろう、身体を軽くする為のソレは防御壁ともなり、魔人の神速の一撃を耐えたのだろう。

 だが、少年にはそれがなく、まともにソレを喰らってしまった。先程の白光は雷を模倣した物、手心を加えたソレは命を奪うまでは行かなくとも身体中の命令系統をかき乱す程度の効果はある。

 現に、エストは指先を僅かに震えさせる事しか出来なかった。

「これで動きは封じた。――さて、お楽しみの時間だ」

 憎悪と歓喜が交差する笑みを浮かべ、ギルベルトは己が武器を構える。

「魔術で殺したんじゃあ、物足りない! 貴様は! 僕自らの手で! 殺したかったんだ!

 貴様は初めて会った時から気に食わなかったんだ。才能も血筋も何もないクズの癖に僕に意見する貴様がッ!」

 ギルベルトの蹴りが倒れたエストの脇腹をえぐり、骨が砕ける音が響く。悲鳴は、呑み込んだ。

「雑魚の癖にこの僕に楯突き、あまつさえ僕に勝利するだと? ふざけるな! 見下しやがって! ――僕を産んだあのクソ親もだ! 僕の実力を見誤って勝手に出来損ない扱いしやがって!」

 最早、ギルベルトはエストを見てはいなかった。ただひたすらに自分を取り巻く諸々に対して喚き散らし、ふと思い出した様にエストへと蹴りを放つ。

 その姿を見て、狂っている、と思った。憎悪と憤怒、そしてそれ以上に高まる“傲慢”という感情――自分自身に非はないと驕る魔人の心が最早ヒトのソレではない事を認識させられた。

 故の魔人。魔に魅入られ心を売った者の末路。身体を襲う痛みと痺れに顔を歪める少年にはどうする事も出来ない。

 一頻り喚き、酸素が足りなくなったのか、魔人が呼吸を乱す。

「……もう、駄目だ。苦しませてから殺そうと思っていたのに抑えられる気がしない」

 頭を抱えて悶えるその姿に、エストは嫌悪の念を抑えられない。

「どうやって殺そうか。殴って、蹴って、絞めて、斬って、刺して、裂いて――……そうか、全部すればいいんだ」

 にたりと、歪な笑みを携えた魔人が剣を構える。その切っ先が日の光を反射し、エストの視界を遮った。

 ――俺は、こんな所で終わる訳にはいかないんだ!

 絶体絶命の局面において、彼の中には恐怖はなかった。その代わりに、溶岩にも似た怒りがふつふつと湧き上がり、僅かな活力を生み出した。

 ――剣は、離してないな。腕の感覚はほとんどないけど、一撃ならいける筈だ。

 そう自分に言い聞かせ、気付かれない様に機会を伺う。“剣を振るった直後”、それこそが目の前の魔人を倒せる瞬間だと本能的に察知する。

「精々、良い声で鳴いてくれよ、劣等種……!」

 振り下ろされる剣。必殺の威力を孕んだそれを見て、死力を振り絞った一撃を見舞おうとした直後、激しい揺れが闘技場を襲った。

 その異常事態に蛇腹剣の遣い手は動きを止めるが、エストはそうはいかなかった。本来、魔人が踏み込んだ所に合わせる様に繰り出した一撃は虚しく空を切る。そのまま大剣の重みと勢いに振り回され、地面と激突するかに思われたが――その先に“地面はなかった”。

「なっ――!?」

 闘技場の床がまるで巨大な剣に切り裂かれたかの様に左右に別たれ、光の届かない奈落が生まれた。

 何かにつかまろうにも、先の一撃に全てを掛けた彼にそんな力が残っている訳もなく、悲鳴と共に暗闇へと呑み込まれた。


 /3


 エストが奈落へと消えるより少し前。魔獣に咥えられたまま戦線の離脱を余儀なくされたシアは、忌々しげに舌を打った。

 眼前に広がるのは魔獣の口腔内部。湧き出る唾液が彼女の靴を濡らし、喉奥から漂う獣臭さが鼻につく。そして未だなお、魔獣が疾駆する故に起こる揺れの所為で、吐き気が込み上げてきた。

「うぇっぷ……。――っ!?」

 嫌な気配を感じ、背後にも障壁を展開した瞬間、轟音と衝撃が彼女を襲った。魔獣が闘技場の壁へと衝突したのだ。噛み砕くのは厄介と察したのだろう魔獣は、壁へと獲物を叩き付け怯んだ隙に噛み砕こうと思考したのだ。

「ぐぅ……ッ!」

 魔獣の目論みは外れ、シアは無傷だが流石に衝撃は抑えきれない。衝撃に喘いだシアは障壁ごと自身を噛み砕かんとする魔獣の喉奥目掛けて右手を突き出した。

 彼女の掌が青紫の光弾を連射する。

 喉奥への衝撃に魔獣は奇声を発して仰け反り、嘴と障壁の間に僅かながらの隙間ができる。シアは異臭漂う口の中から脱出し、地面に降り立つと同時に両手で二つの術式を描きだす。

 右手に描いた術式は直ぐ様完成し、微かな閃光と共に蒼白い膜が彼女を中心に広がる。膜は薄いけれど、彼女と魔獣の間に明確な境界を敷いた筈だ。

 ――この鳥モドキは相当硬い。並大抵の魔術じゃ大した傷にはならない。――なら、

 左手で描いた術式が完成するのと同じ頃、体勢を立て直した魔獣が憤怒の気配を携え大地を蹴る。往来の獣を超えたその速度を前にしても彼女の心に動揺の色はない。

 突き出した左手が蒼白い火花を纏う。狙いは言うまでもなく、敵対する異形の獣。狙いを定めた彼女が掌に集めた力を一気に解き放つと、白く輝く雷の槍が余波を撒き散らしながら魔獣へと肉薄する。その速度は獣を超えた魔獣の速度をも軽く凌駕する程。魔獣は必中の雷槍をその身に受け、爆発に包まれた。地面の破片がシアの障壁とぶつかり、がつがつと音をたてる。

 ――これ程の威力ならあの硬い身体も貫いている筈。

 突如、不自然に煙が揺らぐ。シアが怪訝な表情を浮かべるのと同時に、土煙の中から魔獣が飛び出した。

「なっ!?」

 その姿にこれと言った傷はなく、素早さも衰えている気配はない。驚きも束の間、一息で距離を詰めた魔獣が鋭い爪を振り下ろした。爪が障壁へと衝突し、その周囲の床を陥没させる。休む暇もなく第二撃が障壁を襲い、蒼白い膜に僅かなヒビが走った。

「……っ」

 右手で描いていた術式が完成し、再び雷槍が放たれる。それを魔獣は大きく跳躍する事により躱して距離をとった。

 ――手強い……。

 目の前の魔獣に対し、冷静にそう判断する。流石に自分の魔術が効いてないと思った時は驚いたが、どうやらその考えは間違っていたらしい。

 ――躱したという事は喰らいたくないという事。つまり、効いていない訳じゃない。

 ヒビの入った障壁を補修しながら遠くへと目を向ける。視線の先では一人の魔人と二人の人間が剣を交えている。その戦況は見るからに芳しくなく、劣勢なのだと如実に理解させられる。

 その光景を前にして、冷静な筈の心が揺れ動くのを感じた。

 ――エストが危ない。……“アレ”を使うしかない。

 最早、事態は一刻を争う。目の前の魔獣に割いている時間もなければ自分の身体の心配をしている時でもない。

 少年を守る――それだけが、自身の存在意義だから。

 決意を固めた彼女の行動は早かった。切り札を使う為の準備に取り掛かるべく、意識を集中させようとして、違和感を覚えた。目の前の魔獣を中心に膨大な魔力が渦を巻いていたのだ。

 ――まさかっ!?

 魔獣の真意に気付き、その巨大な体躯を黙らせる為に術式を描く。しかし、それよりも早く魔獣は、振り上げた前脚を地へと叩き付けた。

 刹那、闘技場を激しい揺れが襲った。ぐらぐらと揺れる大地の上で、シアは平衡感覚を失いその場で転倒する。その揺れは激しいが故に、術式を描く事が出来ない。

 突如、地面に亀裂が走る。その亀裂は丁度シアの真下に広がり、唐突に二つにわかたれた。闘技場に広がる奈落の底。その真上にいたシアが巻き込まれない訳もなく、物理法則に従い落下を始めた。

 ――さっきの揺れに比べればまだマシ。今なら……!

 落下しながらも風の魔術を発動させ、風を纏ったことにより宙に浮く。滞空しながら頭上を見上げれば痛々しく別たれた大地の隙間から青空が見える。下は対照的に暗い黒色が広がっており、深さを測る事もままならない。

 地鳴りと岩石の落下音に紛れて小さな悲鳴が彼女の鼓膜を叩く。その悲鳴が聴き慣れた少年の声の様な気がした彼女は、悲鳴の下へと猛然と飛び去った。



 †



 突如割れた闘技場の床を、ギルベルトは肩を震わせながら凝視していた。その背に近付くのはこの異常事態を引き起こした存在である、一匹の魔獣。半鳥半獣のソレが魔人の横へと並んだ刹那、ギルベルトはその大きな体躯へ拳を叩き込んだ。

 鈍い音が闘技場内部を木霊する。突然殴られた魔獣は己が主を見下ろし、僅かに首を傾げるだけだ。

「誰が――」

 魔人はぽつりと、言葉をこぼす。その声音にははっきりと分かる程に怒りの色を帯びていた。俯けていた顔を上げると、そこにはやはり、怒りに歪んだ醜い顔が一つ。

「――誰が魔術を使えと言った!」

 続け様にもう一撃。しかし、握り込んだ拳を叩き込まれても、その魔獣は衝撃によって僅かに身体を揺らすのみ。その光景が彼を更に苛立たせ、その拳の勢いを苛烈なものへと変じさせていく。

「あの姉弟は僕がこの手で殺したかったんだ! 貴様の様な畜生がそれを邪魔して良い事ではない!」

 まだ彼らが生きている可能性は十分にあった。今すぐこの割れ目に飛び込み、くまなく必死に探せば見つかるのかもしれない。けれども――

「――それは僕のプライドが許さない!」

 劣等種と呼び、取るに足らない存在と見下した相手を、必死に探す――その行為はヒトを超え、ヒトを支配するに相応しい自分にあまりにも“相応しくない行為”に思えたのだ。

 故に、彼は割れた大地へ赴く事ができず、その歯痒さに身を震わせる。

 数発の殴打のあと、僅かに痺れる両の手を睨んで舌を打ち、一発の蹴りと共に己が従僕へ命令する。

「おい、此処を閉じておけ! 間違いなくそれで死ぬだろう。……くそっ! これだから畜生は嫌いなんだ!」

 背を向け、一人不満を漏らし続ける主を余所に、魔獣は再び術式を展開させていく。同時に、大きく割れた地面が震動と共にゆっくりと動き出す。

 じきに、割れた大地は閉ざされてしまうだろう。……少年少女と、その他大勢を残して。



 †


 気が付いたとき、エストは頭部に走る鈍い痛みに声を漏らした。その患部に手を当てようとし、柔らかい何かによって静止される。次いで、その患部を撫でられる。優しく、慈愛に満ちたその手付きに、思わず溜め息が漏れた。頭部を走る痛みは撫でられるごとに和らいでいき、彼の表情は安堵の色を帯び始める。

 ふと、後頭部にも柔らかな感触がある事に気付く。その後頭部と患部に伝わる柔らかさを肌で感じながら、『ずっとこうしていたい』と、自然と思わせられた。それ程までの心地よさ。

 不意に患部を撫でるソレがその動きを止め、徐々に彼から離れていく。その代わりに他の何かが近付いて来ている様な、そんな気配がする。

 ――何だろう。嫌な感じはしないけど……。

 疑問に思った彼は未だなお、閉ざされていた己が双眸をゆっくりと開いた。

 目の前に碧い瞳があった。顔を俯けている為か、さらさらと揺れる金髪の奥にある両の目は僅かに見開かれており、小さな唇がわなわなと震えているのを視界の隅に捉えた。

 妙に顔が近かった。どれ位近いかというと、それは、呼吸さえも重なる位置。ほんの少し唇を突き出すだけで触れてしまえそうな距離。

「……あー、おはよう?」

 とりあえず挨拶。普段無口な姉と言えど、朝の挨拶を無視した事はない。故に、これなら何かしらの反応を返すのではないかと無意識に考えたのだ。

「おは、……おはよう」

 かくして、彼の目論みは功を奏し、硬直状態の姉はその意識を取り戻す事に成功した。……若干噛んでいたのは気にしない事とする。

 シアはゆっくりと頭を上げていき、若干の距離を以て、エストと視線を絡ませた。その頬は僅かに朱に染まっていたが、場所が薄暗い事もあってエストには気付かれる事はなかった。

「ところで何でお前が俺を見下ろす体勢になってんだ? 背ぇ伸びた?」

「……人の膝を枕にして何を言っているの?」

 先程の様子から一転し、いつも通りの調子に戻るシア。同時に自分が彼女に膝枕されている事にようやく気付いた。

「で、言う事は?」

「……意外と柔らかいです。それとありがとう」

「意外は余計」

 徐に頭を押された。枕である膝から退かされた事により、本来膝があった場所に隙間が出来る。故に、支えを失った彼の頭が地へと落下するのは極自然な事であった。

 ゴツッ、と鈍い音が鳴り、痛みに悶絶し地を転がろうとする彼の腹部をシアは踏み付けた。

「げっほ! な、何しやがる……」

「それ以上行くと落ちる」

「落ちる? 一体どこに……――ッ!?」

 怪訝な表情のまま横へと視線を移した彼はその光景に絶句する。眼下に広がるのは何処までも暗く、黒い風景。彼が地面があると思っていた場所には何もなく、ただ底が見えない奈落となっていた。自分の居る場所も崖の様になっており、それは割れ損なった地盤が崖の様になっているだけという、足場としては些か心許ない物だという事に気付く。

「な、ばっなななッ!?」

 驚きの余り、意味不明な言語を発する彼だが恐慌状態にはなっておらず、暴れる気配はない。それを確認したシアは彼の腹部に乗せていた足を退かし、一歩下がった。

「状況の説明、要る?」

「た、頼む」

 魔獣が魔術を使って地を割った事、それに巻き込まれて落下するエストをシアが助けた事、落下した岩石がエストの頭を直撃した事などをシアは簡潔に語った。要点が纏められ、なおかつ、エストに分かる様に噛み砕かれたその説明に彼は二、三度頷く事により、理解出来た事を姉に報告した。

「俺は、どのくらい気を失ってたんだ?」

「百数えるくらいか、それより少し遅い程度。あまり長い時間は経ってない」

 エストはまだ僅かに痛む患部を押さえながら、周囲を見回す。そして幼馴染の騎士少女の姿がない事に心臓が跳ね上がった。

「え、エルミナはどうなった!?」

 十中八九、彼女も地割れに巻き込まれた筈だろう。だというのにこの場に彼女が居ないという事は――最悪の事態が頭を過り、エストはシアに詰め寄った。

「あの娘なら少し離れた此処と同じ様な場所で他の騎士の介抱をしているわ」

 安堵の息を吐いたエストは、次いでとある違和感に首を傾げた。

「何で離れてんだ? こんな状況で散らばる理由が分からないんだけど」

 その問いを受け、シアはエストから視線を外す。その碧い瞳は言い訳を探すかの様に泳いでおり、彼女が口を開く事はない。

 そのまま無言の状態が続き、エストが再度問い返そうとするが、

「別にいいでしょ。何でも」

 にべもない声音で言い放ち、風を纏って宙に浮いたシアはそのまま何処かへと向かおうとする。エストはその背中を呼び止めるも、彼女は視線を向ける事無く、先へ進みながら口を開いた。

「あの娘のところに行くのでしょう? 早く着いて来なさい」

「何なんだよ、一体……」

 頭に大量の疑問符を浮かべながら、彼は遠ざかっていく背中を追い掛けた。最早、此処は道ではないので、崖から崖へと跳び移り、時には大地の断面にへばり付き、前進する。普段なら大して苦にならないが、今の彼は怪我の治療によって体力を半ば以上消失している。更に、先の魔人との戦いにより、体力が減りに減っており、動きはだいぶ緩慢だ。

 それでも無事にエルミナの下へと到着したのは偏に、彼の日頃からの努力のお陰と言えよう。

 エルミナの近くには六人の男が倒れていた。そのどれもが大柄な体躯に傷塗れの騎士甲冑を着けており、屈強な戦士なのだと窺えた。しかし、彼らは軒並み意識を失っていて今この場において役に立つとは思えない。寧ろ、足手まといだ。

「エスト! 無事でよかった……!」

 エストの顔を確認したエルミナが喜色に溢れた表情で迎える。しかし、その笑顔には疲労の色がちらついており、彼女の状態もあまり良いとは言えない。

「俺は大丈夫だけど、お前は大丈夫なのか? その……酷い顔色だぞ」

「私は、まだ大丈夫だ。鍛えているからな」

 そう言って笑う彼女はやはりどう見ても大丈夫ではない。彼女も先のギルベルトとの戦いで相当の消耗を強いられている筈だ。それに加え、彼女は一人で地割れに巻き込まれた騎士たちを救出していたのだ。既にその体力は底を尽き、今すぐにでも倒れてしまいそうだった。そうしないのは彼女が倒れてしまえば、二人の姉弟に全てを押し付けてしまう為。魔人と闘う事、騎士の救出、そして倒れた自分の介抱。

 彼らの――彼の負担になる事だけは、避けたかった。

 エストは何も言わなかった。彼女の虚勢を暴く事も、納得する事もなかった。ただ無言で空を睨み付ける。視線の先には縦長に広がる青い空。今、自分が居る所は相当に深い。自力で這い上がるのはまず無理だろう、そう考えた自分の不甲斐無さに憤りを憶えた。

 魔人に敗北し、姉に助けられ、疲労の濃い幼馴染を休ませる事さえ出来ない。

 エストの煩悶と悔恨を、シアは無言で見つめている。やがて、シアがエストとエルミナの側面に立ち、言い放った。

「悔しがるのはいつでも出来る。でも、それは今じゃない」

「そう、だな。悪い……。それで、どうする?」

 無論、脱出の方法だ。三人は地面に腰を下ろし、様々な案を出していく。

「私の浮遊魔術は流石に無理だ。一人ぐらいなら担げるが、六人となると……」

 一人を担ぎ、地上に下ろしてまた担ぎに戻る、を繰り返すという案も出たがそれは即座に却下される。

「魔人がまだ上に居たら確実に追撃を受ける。人を担いで相手取れるとは思えない」

「シアの転移魔術ならどうだろう? 私たちをまとめて遠くに転移させ、負傷者を安全な所へ運び、外から奇襲を掛けるというのは――」

「無理」

 エルミナの声を遮り、シアはその提案を却下する。問答無用に意見を打ち消されたエルミナは僅かに眉をしかめて不満を露わにする。

「私が一度に使える魔力量だと一人が限界」

「なら、一人ずつ外に転移させればいいのではないか?」

 その問いを受け、これ見よがしに溜め息を吐いたシアは『あなたは風以外の魔術も学ぶべき』と言い、解説を始めた。

「転移魔術は元々、一個人が扱える程に易しいものじゃない。膨大な術式に、何十人もの魔術師が膨大な量の魔力を送り、それでも失敗する事もある難度の高い魔術。

 術者が同伴せずに転移させたら壁の中に転移する事も十分にありうるわ」

 壁の中に転移した者は窒息を待たずして、壁に押し潰されて命を落とすだろう。シアは、元々の術式を改良し、最小限の魔力と術式で何とか自分だけを転移させる事に成功したのだ。

「最小限と言っても結局、膨大な魔力が必要よ。そう何度も使えるものじゃない」

 解説を終えたシアは、一息吐く。話を聞いたエルミナは肩を落とし、『なら、救助を待つしかない』と呟いた。

「流石にそろそろ城からも応援が来るだろう。それまで待とう」

 幸い魔人が追ってくる気配はない。それが何故かは彼らには見当も付かなかったが都合が良い事だけは分かる。それに、今の足場は比較的しっかりとしており、今すぐに崩れ落ちる心配はないだろう。問題は水と食料がない事だが、流石に餓死する前に救助されるだろう。

「つまり、時間はあるって事か……」

 しかし、その考えが完全に間違っていると言う事を三人は否応なしに思い知らされる羽目となる。異変に気付いたのはエストが先だった。

「? なぁ、何か揺れてる気がしないか?」

 彼の問い掛けに二人の少女は顔を見合わせ、確かめるべく呼吸を止めた。先に口を開いたのはエルミナだった。

「確かに揺れてる気が……――うわッ!?」

 彼女たちが僅かな揺れを感知した刹那、それは巨大な地響きと変じた。それは先程、この奈落を作り上げる際に起こった衝撃とよく似ている。

「なん、だっ? 何が起きている!」

「あの魔獣、もしくは魔人が穴を塞ぎに掛かっている。成る程、これならわざわざ私たちを探す必要もない。低能な割に頭を使った様ね」

「ど、どうするッ? 何か手はないのかよ!?」

 ゆっくりと、亀にも劣る速度だが、確実に壁面は彼らに向かって迫って来る。残された時間は以ってあと、五百数えるかどうかという所だろう。外部からの救助は絶望的であり、最早自分たちの力で切り抜けるしか方法はない。エストとエルミナが策を考えるが思い付くのは気絶する騎士たちを見捨てるという選択肢のみ。

 ――それは駄目だ。きっと全員が助かる道はある筈だ。

 確かに、全員を助ける方法はいくつも存在はする。しかし、その数ある方法を行うには彼らの力は圧倒的に不足していた。今の彼らでは一人か二人程度しか救えない。

「少し、五月蝿い。黙って」

 慌てふためく男女とは正反対に、シアは落ち着いていた。普段通りの無表情。この状況にあまりにも不釣り合いなその姿にエルミナが食って掛かる。

「何を――何を落ち着いているんだこんな時に!」

「こんな時だからこそ落ち着くべき。私に策があるわ。ここに居る全ての者を救い、同時に魔人を退かせる策が」

「何だと!? そんなものが、本当にあるのかっ……?」

 シアはエルミナの問いを無視して弟を見つめた。その姿にエストは、まさか、と呟く。静止の声をあげようとするエストよりも早く、彼女は宣言する。

「――“アレ”を使うわ」

 仕方ないから、そう付け足した彼女の瞳に迷いはない。純然たる決意を滲ませた彼女に、彼は詰め寄り華奢な肩を掴んだ。

「それだけは駄目だ! 許すわけがねぇだろ!」

「ならどうするの? エストにこの状況を打開するだけの策と力があるの?」

「……それ、は」

 そう言われてしまえば、彼はもう黙るしかない。彼女には力と策があり、彼はそのどれもを持たないという、ただそれだけの事。ただそれだけの事なのに、彼は情けなさに歯を食いしばり、俯いた。

「……悪い。お前にばっかり負担を掛けちまって」

「力不足なのはエストだけじゃない。私も似た様なものだから」

 気にしなくていい――言外に語る瞳を見据え、更に無力感に苛まれた彼はエルミナの下へと歩いていく。

「エスト……?」

「少し、離れよう。それと、この後のシアは直視しない方がいい」

 それだけを言い、二人の騎士を引き摺っていく彼に、何を始めるのかを聞いても答えてくれそうな気配はない。エルミナは釈然としない顔で今は彼の言う通りに動く事にした。

 騎士甲冑と大人――それも男――の身体の重さに四苦八苦しながら運んでいる彼女の耳に、地割れに交じって何かが聞こえてきた。

 それは唄の様だった。空の様に澄み切った、清涼な歌声が奈落に響いていた。

「シア?」

 彼女たちから離れた所で佇む少女は、天に向かって祝詞を紡ぐ。一切の濁りを感じさせないそれは、耳に心地よく、ずっと聞いていたいと思わせる程に綺麗だ。

 しかし、

「“――――”」

 その唄の内容が全く頭に入ってこないのだ。まるで他国の言語を聴いているかの様に、理解が出来ない。出来ない筈なのに、エルミナの身体は自然と熱を帯びていき、胸を締め付けた。

 唄に呼応する様にシアの身体を濃厚な魔力が取り巻いていき、徐々に彼女の姿に変化が現れ始めた。肩まで伸びていた筈の絹糸の様な金の髪が伸び、背中を隠す。魔力の迸りにより巻き起こる風が長髪を弄ぶ中、彼女は己が名を囁いた。


「“――――我が真名は、フォルテシア”」


 エルミナは辛うじてソレだけを聞き取った。しかし、聞き取っただけでその内容は理解していない。今はただ、心が妙な熱に浮かされ、思考する事が出来なかった。

 唄はとうに終わっていた。ゆったりとこちらに歩み寄る“女性”を見ているとその熱は徐々に温度を上げていき、彼女と向かい合った時にはエルミナの呼吸は浅く、速いものへとなっていた。

「はぁ、はぁ……」

 “ほぼ同じ目線の女性”を見詰めていると、自然と大剣へと手が伸びた。身体は困憊している筈なのに自然と力が沸いてくる。

 ――今なら誰にも負ける気がしない。確実に“殺せる”……!

 大剣の握りを確かめ、一息に踏み込もうとした刹那――

「エルミナ」

「――え?」

 肩を掴まれた。次いでぐいっと引っ張られ、女性から強引に目を逸らされる。代わりに見慣れた少年の顔と見つめ合う。

 少年の表情はどこか、悲しみを堪えている様な気がした。引き結んだ唇を開き、間近で騎士の少女と目を合わせる。

「落ち着け。それ以上はギルベルトと同じになっちまう」

 少年の言葉に徐々に心を滾らせていった熱が跡形もなく霧散していくのを感じる。五つ数える頃には熱は完全に消え失せ、先程までの自身の思考に彼女は恐怖した。

「わたっ、私は何をっ……?」

 目を見開き狼狽するエルミナをエストは優しく抱きしめる。

 ――落ち着くまで待ってやりたいけど流石に時間がねぇ。こうやって暴れない様にするしかない。

 視線を胸の中で震える騎士少女から目の前に佇む女性へと向ける。腰まで届く金の髪と少年とほぼ同じ高さにある碧い瞳が、否が応にも故郷が滅びた夜を彷彿とさせる。女性の顔立ちは姉よりもだいぶ大人びている、

「シア」

 エストは故郷を滅ぼした存在と瓜二つの女性を姉の名で呼ぶ。シアはこくりと頷き、蒼白く輝く指先で術式を描き始める。その魔力は先程までの彼女の比ではなく、瞬く間に転移の術式を構築した。

 自身の身体だけでなく、胸の中の少女と足元に倒れ伏す騎士たちの姿も徐々に透けていくのを確認したエストはただ一言、

「――ごめん」

 姉は何も返さなかった。

 そして、術式は発動する。一瞬、視界が暗闇に閉ざされたかと思うと、先程までいた場所と風景が変わっていた。地面は二つに割れ、壁も崩落した、見るも無残な闘技場が視界に映っている。

「なっ!?」

 その闘技場の中央にいる魔人と魔獣が彼らに気付き、驚きの余り、目を見開いている。しかし、流石は獣といったところか、魔獣の立ち直りは早かった。横で混乱し、硬直する主を置いて、矢を彷彿とさせる勢いで肉薄する。

「私の後ろから動かないで」

 普段以上に抑揚のない声で不動を命令するシアに従い、エストは落ち着きを取り戻したエルミナと共にその場を動かない。

「■■■■――ッ!」

 奇怪な咆哮をあげ、振り下ろした前脚は蒼白い膜が防いだ。今度は周囲の地面が陥没する事はなく、その様子に魔獣も本能的に何かが違う事を察する。言い知れぬ悪寒を感じ、距離を取ろうとするが、

「遅い」

 一本の槍が魔獣を貫いた。突如地面から生えた槍は魔獣の腹を突き破り、背から飛び出す。しかし、地へとはりつけにされた魔獣は奇声を発しながらもがいており、絶命する様子はない。

「しぶとい」

 再び魔獣の身体を貫く。今度のソレは槍ではなく、長剣だった。それを皮切りに様々な武器が魔獣に襲い掛かる。

 大剣、長剣、鉾槍、長槍、鉈、戦斧――それ全てが半鳥半獣の身体を貫き、地へと縫い付けた。

「……、■■、■■……――ッ」

 途切れ途切れな呼吸を漏らし、同時にどす黒い血を吐きながらも生きている魔獣を見て、エルミナが、圧倒的だ、と呟いた。

 この魔獣は決して弱くなく、それどころか、魔獣の中でもかなり高位な存在だ。だというのに、目の前の女性は息を乱すことなく、瀕死にまで追い込んだ。その事実が背筋に冷たいものを走らせた。

 女性の表情は変わらず、無表情のままだ。無表情のまま、右腕を伸ばし、五指を開く。魔力の高まり感じたのは一瞬、

「還りなさい。――“世界”は貴方を受け入れる」

 直後、白い閃光が解き放たれた。その閃光は周囲一帯の音を奪い去り、一時的に周囲を無音にする。帯状の閃光は、瀕死の魔獣へと直撃した。

 衝撃。

 凄まじい轟音が大気を激しく揺らし、破裂させる。圧倒的な光と音が闘技場を揺らし、崩れかけていた壁を完璧に崩した。

 シアの背後に居たエストたちの肌は衝撃と轟音によってびりびりと震え、白い閃光が彼らの目をいた。

 光が遠くへと消え去る気配を感じながら、薄らと目蓋を持ち上げるが、視界は未だ不明瞭。徐々に、灼かれた視界が回復していくに連れ、エルミナは驚きに目を見開き、絶句した。

 磔にされた魔獣の姿がなく、その先の壁が消滅していたのだ。大理石の壁は瓦礫の山となり、その様相は最早廃墟だ。魔獣を消滅させ、その余波で背後の壁を粉砕するなど、魔人にさえ不可能だろう。

 エルミナは目の前の事態に呆然と佇み、瓦礫の山を眺める。その横で辺りを見回していたエストが鋭く叫んだ。

「ギルベルトがいないぞっ! 逃げやがった!」

 魔人が放つ強大な気配は既にこの場になく、圧倒的な破壊の跡があるのみ。その破壊行為を行ったシアはふらつき、目を覆った。

「魔人になっても逃げ足が速い。もう追うのは無理ね、――そろそろ、私も限界……」

「――なんだ、これはッ!」

 突如響いた怒声に目を向けると、甲冑姿の男たちが変わり果てた闘技場に目を剥いていた。彼らはシアに気付くと驚きの表情を浮かべ、ざわめきだす。

 その直後、シアの身体が淡く発光し、姿を変えていき、三つ数える頃にはいつもの小柄な姉となっていた。その小さな体躯が傾ぐ。膝から崩れ落ちる姉を咄嗟に受け止めたエストは彼女の様子に歯噛みした。

 吐く息は熱い上に速く、白い肌は紅く上気しており、抱き留めた身体は異様に熱い。

 鼻先に剣を突き付けられ、顔を上げると、幾人もの騎士が自分を取り囲んでいた。

「――同行を願う。有無は言わさん」


 /3


 人気がなく、太陽の陽射しも届かない裏路地を疾走する影が一つ。懸命に右腕と両足を動かす影は追手の気配がない事を確認すると共に、その勢いを徐々に殺していく。終いにはその場で立ち止まり、左腕を押さえながら膝を突いた。

「な、何だったんだ一体……?」

 影――魔人ギルベルトは呼吸も整わないままに先程起こった事の整理をしようと試みるが、思う様にいかない。それ程までに彼の心は掻き乱れていた。

「あの雌は、シア・グレイスだったのか?」

 地割れに落ちた筈の仇敵たち。そのあとに突如虚空より現れ、瞬く間に己が従僕である魔獣を滅ぼした女性。

 姿かたちがだいぶ変わっていたが、僅かにシアの面影があった様な気がする。神々しく、荘厳な気配を放つあの存在は間違いなく、彼が憎むべき存在の片割れだ。だからこそ、

「頭が混乱する……。おい、何を見てるんだ? 向こうへ行け!」

 彼の怒声と共に、近付いていた複数の気配が立ち止まる。囁く様な声を何度か交わした後、それらの気配が再び動き出すのを感じ、忌々し気に舌を打った。

「強盗の集団か? 実力差も分からない馬鹿共が」

 蛇腹剣の切っ先を正面の闇へと向け、距離を測る。

 ――呼吸の数は六……いや七人分か。恐らくは騎士共ではないだろう。動きが明らかに“粗末過ぎる”。

 全ての気配は彼の射程範囲内。故に、仕損じる道理はない。

 ――一瞬で殺す。

 しかし、彼が動く前に、全ての気配が掻き消えた。何かがおかしい、闇に武器を構えたままのギルベルトの頬を汗が伝う。不気味な静寂が嵐の前兆を感じさせた。

「誰だっ。出て来い!」

 その呼び掛けに答えるかの様に、暗闇から靴音が鳴り響く。コツコツ、と上質な革靴を想起させる足音の主が闇から現れた時、魔人の青年は更に警戒心を強める事となった。

「……貴様か、“黒色の悪魔”。奴らはどうした?」

 “奴ら”とは無論、ギルベルトを襲おうとした強盗たちの事だ。黒色の悪魔は相変わらずの胡散臭い笑みを浮かべながら舌なめずりをした。ギルベルトの背筋を冷たいものが走る。

「少々邪魔だったので席を外して貰った、ただそれだけですよ」

 殺したのか、とは聞かなかった。実際強盗がどうなろうが知った事ではない上、それ以上に何をしたか聞くのが恐ろしかったのだ。

 そう、恐れている。魔人となり、以前とは比べ物にならない程の力を手に入れた筈の自分が恐れている。目の前の悪魔と名乗る男の気配、装い、笑顔――その全てが不明瞭かつ不確実で、人間特有の未知への恐怖が掻き立てられる。その事実は酷く不愉快なモノだった。

「それで何の用だ。詰まらない事なら――切り捨てるぞ」

 内心でくすぶる恐怖を押しやる為に、強気な態度を崩さないギルベルトの姿に黒色の悪魔は口元を更に歪めた。

「『何の用だ』ですか。……そうですね。簡潔に言うと、指示を与えに来ました」

「指示、だと?」

「ええ、この国を出て東の方角に山がありますね? 名前は……」

「……竜の巣」

 リノアキシア王国から東に位置する場所に『ラトニア』という国があり、そこはリノアキシアとは敵対関係にある国だ。その国との国境の代わりを務める大きな山、それが『竜の巣』。多数の魔物がひしめく山を多数の竜が統べている事からその名で呼ばれ、数多の人々は恐怖の余り、近付きたがらない。だからこそ、両国は未だに小競り合い程度で済んでいるのだが。

「そう、それです。竜の巣」

 何が嬉しいのか笑みを更に深める男に、ギルベルトは視線だけで先を促した。

「暫く、竜の巣に隠れていて頂けませんか?」

「……何故だ?」

「隣国との境でもある竜の巣ならおいそれと手は出せま――」

「違う」

 黒色の悪魔の言葉を遮り、否定の念をぶつける。自分の質問は“何故その場を選んだ”ではなく、

「何故、隠れなければいけない」

 ヒトを辞め、超越者として目覚めた自分が隠れる道理が見当たらなかった。

「今すぐにこの国を襲い、劣等種どもを駆逐し、国を滅ぼせばいい。それで僕の願望は叶うんだ」

 隠れる必要など何処にもない――言外に語る魔人の瞳を悪魔は見据え、次いで、その左腕に視線を向ける。だらりと力なく垂れ下がった左腕に外傷は見当たらない。しかし、

「――その左腕、動かないのでしょう?」

 悪魔のその指摘を受けたギルベルトは、不愉快な顔で舌を打った。身体の向きを変え、悪魔の視線から左腕を隠すもその行動は無意味だ。

「召喚魔術は呼び出すモノにも依りますが大変高度な魔術です」

 魔獣を呼び出すには術者の肉体を媒介にしなければならず、魔獣の力によって媒介となる量は変わる。

 下級であれば指。中級であれば腕一本。それ以上となると術者の肉体全てという事もよくある。

「貴方が呼び出した魔獣は上級中の上級。並の人間なら全身を媒介にしても足りません」

 魔人故の膨大な魔力で強引に左腕のみを媒介として召喚したのが先程の彼だ。そして、媒介となっている以上、魔獣が傷付けば術者に跳ね返るのは必定。

「それもあれ程完膚なきまでに滅せられれば、それ相応の反動がある筈。再度問います――左腕、動かないのでしょう?」

 数歩進み、自身の目の前で立ち止まる男。近距離で見開く双眸は闇の様に暗く、奈落の様に深い。その威圧から逃れんが為に、ギルベルトは顔を逸らし、吐き捨てた。自分が一歩下がった事に気付かないまま。

「片腕が動かないから、何だと言うんだ! 僕は魔人だ! たかが人間如き、片腕だけで充分だ!」

「――少なくとも、あの娘は“人間ではありませんよ”」

「なん……え?」

 烈火の如く燃え盛る情念は、その一言で周囲へ霧散する。間抜けな顔で固まる魔人の青年を見て、黒色の悪魔の声音に僅かな喜色の色が浮かんだ。

「あれは、――“虚神うつろがみ”です」

「うつろ、がみ……だと!?」

 ギルベルトの顔が一瞬で青褪める。その存在はそれ程までに彼の中で――否、人間だけでなく魔物にとっても畏怖の対象なのだ。

「ですが」

 僅かに震えるギルベルトに黒色の悪魔は言葉を続ける。その声からは僅かに懐疑の色が見て取れた。

「アレは少々、いびつです。虚神にしてはあまりにも“弱過ぎる”」

「あ、あれで弱いのか!?」

 男の発言に魔人は悲鳴にも似た叫びをあげる。それもその筈、己が呼び出した最高級の魔獣を圧倒的な力で蹂躙した存在が、弱い等と、何故信じる事が出来ようか。

「手を抜いていたのか、それとも本当にあれが限界なのか。それを私は調べます。その間、貴方は竜の巣で傷を癒し、其処の魔物相手に修練をしては如何でしょう?」

 顎に手を遣り、思案していた男はその手を下げると共にそう提案する。今度は反対の声は上がらなかった。

 ギルベルトが竜の巣へと出発した後、黒色の悪魔は再び顎に手を遣った姿勢で思案を巡らしていた。

「さて、暫くしたらこの国へ情報を流しましょう」

 ――魔人の潜伏場所を。

 手で隠れた口元が、僅かに吊り上ったかの様に感じた。



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