第一章「毒を吐く少女」
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白色の空間を漂っていた。
ゆらゆらと漫然と揺らめく流れに身体を預けて、川を流れる葉の様に。
身体は動かず、自由が利くのは両の瞳だけ。その唯一の感覚を動かして今の自分の姿を見ようとして、悲鳴を上げそうになった。
――手足がない!?
そう言葉にしようとしても出来なくて、口がない事に気が付いた。
口や手足だけじゃなく、“全てがなかったのだ”。
恐らく今の自分は精神だけの存在なのだと、彼は無意識に理解した。
つまり此処には、少年が少年であると証明する物が何もない。
現に自分が何者だったのか、既に少年は思い出す事が出来ずにいた。そもそも“自分”とは何か、思い出すとは何か、それさえも判らなくなっていく。
なけなしの精神は徐々にその形を無くしていく。最早、考える事さえ困難なその状態で、彼はある一つの真実を悟った。
――これが人間が創られた理由。この時の為に産み出されたのが生命。
恐怖はなかった。それは思考回路を失ったからではなく、これこそが生命に課せられた宿命なのだと知れたから。
最早、僅かに残った意識が溶け切るのに一呼吸もいらないだろう。そしてその時が訪れる――瞬間。
『――ぁ、れ……?』
村が燃えていた。そして地面に腰を下ろした自分の身体を眺めて呆然と呟く。
『生き、てる?』
『いえ、確かに貴方は死んだ』
冷え切った声だった。紅蓮に燃え盛る炎の中心にそぐわない程に。
その声を聞いても大した感慨は抱けなかった。圧倒的な重圧を含んだ気配を目の前に感じても彼の心に恐怖は現れない。
緩慢な動作で顔を上げると、そこには予想通りの女性がいた。
純白の衣を靡かせた女性――少年の村を壊滅させた張本人。
『でも私が再生した。貴方には聞きたい事があったから……』
それは何かと視線で問い掛ける。
『何故、消滅する瞬間にお礼を言ったの?』
その程度の事で死者を蘇らそうとし、そしていとも簡単に成し得た女性に対して驚愕せずにはいられなかったがその感情を隅に追いやり、問いに答えるために彼女の碧い瞳を更に深く見つめた。
『……先生は人の道を外れ過ぎた。お姉さんが来なかったら、いずれ先生は先生じゃなくなってたと思う』
だからこそのお礼、と彼は笑顔で締めくくる。女性は『……そう』とだけ呟き、少年に掌を突き付けた。その掌から溢れる魔力波動は辺り一帯を消し飛ばす程の威力を孕んでいる。逃れ様のない死を目前とした少年は恐怖することはなく、女性を見つめている。しかし、
『……一人ぐらい生き残っても問題ない、たぶん』
突如女性が手を降ろし、同時に集めた魔力も掻き消す。彼女は首を傾げる少年に近付き、徐にその小さな体躯を抱き締めた。
『へっ!?』
『安全な所に移動する。気が散るから騒がないで』
耳元で囁かれた少年は赤面しながらも頷き、彼女に身を預けた。頬に柔らかくて大きな何かが当たっている気がしたがそれは気にしないようにした。
少年は徐々にぼやけていく自分と女性の身体を見ていたがふとある事を思い出し、女性に声を掛けた。
『俺はエスト。お姉さんは?』
『私は――……ォ……テシア。貴方たちの言う■■よ』
直後、二人の姿は掻き消え、紅蓮の炎に包まれた村だけが残った。
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開かれたカーテンから差す陽光が部屋の中を照らす。今は太陽が真上に到達する頃であり、普通の人なら各々の仕事の区切りとして休憩を取る時間帯。
そんな時間にエスト・グレイスは起床し、居間のテーブルにて姉と向かい合っていた。
「ありがとう。お陰で良い運動になった」
そう言うエストの瞳は死んだ魚の様だった。
シアに置き去りにされた後、散々逃げ回り、何とか帰宅したのが三日後――つまり昨日の夜中。その間に死に掛けたのは一度や二度では済まない。
「そう」
対するシアは向けられた皮肉を一言で片付け、手にした本のページを捲る。ぺら、という音がやけに響いた。
エストの額に幾つもの青筋が浮かび上がるが溜め息を吐く事により何とか押し込めた。
――言い返したら更にへこませられる。
今までの経験からそう悟った彼は少し乱暴に椅子を引き、壁に掛けた外套を手に取った。
「何処かへ行くの?」
「……依頼主っつーか仲介人に報告してくる。どーせ、お前報告してないだろ?」
読んでいた本から顔を上げたシアは『まあ、してないわ』と言った。予想通りの返答に溜め息を零しながら褐色の外套を羽織る。そしてやや遅れて、
「……私も行くわ」
聞き間違いではないかと思った。くたびれた外套が靡くほどの勢いで振り返った彼の眼は驚きに見開かれている。視線の先では立ち上がったシアが本棚に本を仕舞っている所だった。
普段なら『そんな雑用は弟の仕事』と言って付いて来ないのが常の彼女の発言としては少々奇妙だ。
そんな心中を悟ったのか、シアはエストの前まで歩み寄り、彼の鼻先に指を突き付けて言った。
「倒したのは私」
「……で?」
「それをきっちり言わないでエストの手柄になるのは――癪」
「癪!?」
「虫唾が走るでも可」
「お前は俺が嫌いなのか!?」
「――大好きよ」
「うぇ!?」
予想外の切り返しに狼狽し、数歩下がる彼を追う様に姉は歩みを進める。壁に追い詰められ、停滞を余儀なくされた彼は頭を掴まれ、引き寄せられた。エストとシアの身長差の関係上、彼は中腰の姿勢を強いられる。
引き寄せる力が不意に止まった。向かい合う顔の間隔は存外狭く、呼吸も重なる程の至近距離。
透き通る程に白い肌は淡く上気しており、掛かる吐息も僅かに熱を帯びている。高い鼻梁の両側に落ちくぼんだ碧い瞳に引き込まれそうになり、咄嗟に顔を逸らした。同時に、彼女が動くのを感じる。耳元で停止した唇がゆったりと、空気を震わせた。
「――屈辱に歪んだ表情が」
ぞくぞくする、そう締め括ったシアは数歩下がる。当然、二人の間には幾ばくかの間隔が空くが未だ壁際で硬直するエスト。十数える時間を経て、彼はとりあえず叫んだ。
「変態だー!?」
「うるさい。良いからさっさと行く」
いつの間にか白い外套を羽織ったシアが玄関の扉を開けている。
「……そういや俺、三日前から何も食ってないんだが」
それがどうした、と目を細める。
「報告に行く前に飯を――」
「却下」
返答は速かった。言い切る前に拒否をされたエストは口をぱくぱくと動かし、絶句する。
「私はさっき食べたからお腹は減ってない」
「俺の分は?」
「……?」
「何故そんな理解できないモノを見る様な目を!?」
結局、決定が覆らなかったのは言うまでもない。
四半刻(三十分)後、グレイス姉弟は城の前に立っていた。城門を見上げたエストがふと、感想を漏らす。
「……相変わらずでかいな」
ここはリノアキシア王国の王都ヴァリアス。グレイス姉弟の暮らす街の要である王城の前だ。
見上げる城門は巨大で、厚い。強度に優れる二枚の樫板を四枚の鉄板で挟んだ鉄門扉。そして、周囲の城壁も分厚い上に高く、物々しい威圧感を放っている。背後は坂となっており、少し高い位置から街を眺める事が出来る。
何故二人がこの様な物々しい場所に足を運んだのかと言うと、彼らに仕事を紹介した者が王城で働いているからだ。
「エス、ト?」
ぼんやりと城門を見上げていると自分の名を呼ばれた。それは隣にいるシアではなく、前方からの声。そちらに顔を向けると甲冑に身を包んだ少女がいた。
「おう、エルミナ。丁度、今行こうとしてたんだよ」
片手を上げて笑顔を向けるエストを確認した少女――エルミナ・スティラートは安堵の余り緩みそうになる顔をなんとか正し、猛然と走り寄ってきた。
腰まで伸ばした銀色のポニーテールを振り乱して駆ける彼女はエストの前で立ち止まると、鼻先に指を突き付ける。吊り目気味の双眸を更に吊り上げながら。
「遅い! 依頼をしてから十四日も経っているじゃないか!」
「お、落ち着けって! 期限はまだ過ぎてないだろ?」
彼女の剣幕にたじろぎながらも弁明するエスト。エルミナは『確かに、そうだが……』と徐々に勢いを無くしていく。少し、ためらう様に、
「何と言うか……心配、するじゃないか」
白磁の陶器の様に白い頬を朱色に染め、俯きがちに心情を吐露する彼女を見たエストは、バツが悪そうに頭を掻いた。
「……すまん。これから気を付ける」
「いや、私の方こそ、急に怒鳴ってすまなかった」
お互いに謝罪し合い、同時に笑みを浮かべ合う。
「おかえり、エスト」
「おう。ただいま、エルミナ」
一気に緩んだ空気が周囲に漂う。が、その空気を唐突に切り裂く者がいた。
「おほんおほん」
わざとらしい咳払いと共にエストの袖を引っ張る存在。それは先程から空気と化していたシア・グレイスその人だった。
エルミナはシアがいる事に気付いていなかったのか驚きに目を瞠っている。シアはエルミナを一睨みした後、ある提案をした。
「既にお昼の時間。食べながら話すのが建設的」
「え、お前減ってないんじゃ――あ、いえすいません何でもないのでその拳を下ろして頂けませんか?」
「……ふっ!」
「痛いっ。振り下ろすな!」
太ももを殴られ悲鳴を上げるエストを無視し、一人で坂を下るシア。その不機嫌さを隠しもしない後ろ姿に、エルミナは鋭い声を浴びせた。
「シア、何も殴ることはないんじゃないのか? エストは大した事は言ってないぞ」
「あなたには関係のない事。姉弟のじゃれ合いに口を挟まないで。迷惑」
「何だと?」
足を止め、睨み合う。小柄なシアが見上げ、高身長のエルミナが見下ろす形となる。今にも取っ組み合いを始めそうな二人に挟まれたエストは冷や汗を流しながら仲裁のタイミングを伺う。下手な場面で割って入れば矛先が自分に向く事は経験上分かっていたからだ。
この二人は何故か仲が悪い。子供の頃からの付き合いだというのに顔を合わせると決まって喧嘩になる。そして、その仲裁役は必然的にエストとなるが、仲裁できた回数はあまり多くない。
殴り合いにはならず、口論となり、エルミナが泣いて終わる――というのが七年前から続くパターンである。
今回はエルミナが泣く前に止められたらいいなぁ、と思いを馳せるエストの前で初の例外が起こった。
「時間の無駄。早く行くべき」
と視線を外して坂を下るシアを唖然と見遣る二人。
「おい、まだ話は――」
「ま、待った、エルミナ。俺、三日前から何も食ってないんだ」
頼むよ、と頭を下げられたエルミナはむすっとした顔で頷いてくれた。それを確認したエストは笑みを浮かべ、城下を目指して坂を下る。三日ぶりの食事に胸を躍らせながら。
坂を下りて直ぐの所に、『宿木』という酒場がある。木造建築の平屋だが店の面積は存外広く、席数も多い。今は昼餉の時間から少々ずれてしまっていることから客の数は少ないが、時間帯が時間帯なら席が全て埋まってしまうほどに盛況な店だ。
エストたちは四人掛けのテーブルに座り、早速注文をした。
シアの隣にエストが座り、彼の向かい側にはエルミナが座っている。程なくして、湯気を立てた料理が運ばれてきた。
豚の血と脂のソーセージ、ジャガイモのスープ、兎肉のシチュー、豚の大振り塩漬け肉など他にも大量の肉料理がテーブルに並べられる。
「……おお――!」
視界に広がる色とりどりの料理。それらはテーブルの全てを占領し、さながら軍隊の様な鮮やかな編隊を以ってその場に鎮座する。それを食い入る様に見つめるエストの口から感嘆の声が漏れた。
「た、食べていいよな!?」
「そうね、膝を付いて床に頭を擦り付けながら『この卑しくも汚らしい愚弟に御馳走して下さる寛大な御心感謝致します、お姉様』と言っ――」
「――この卑しくも汚らしい愚弟に御馳走して下さる寛大な御心感謝致します、お姉様ぁぁぁ!!!!」
食のためならプライドさえも捨てる男、エスト・グレイス十七歳。驚く事に、主人公である。
「うっわぁ……」
エルミナは軽く引いていた。
「さ、お食べ」
「いただきます!」
席へと戻ったエストはナイフとフォークを駆使し、猛然と料理を口に運んでいく。刹那、彼の頬を一筋の雫が流れた。
「う、うまひ……うまひぞぉ! ひっく、うえっおえっ!」
突如、滂沱の如く涙を流すエストの姿にエルミナだけでなくシアさえも動揺していた。関わりたくない――もとい、話し掛けづらいその有り様に少女たちが顔を見合わせている。すると、食事の手を止めた彼は、全てを悟った賢者の様な面持ちで唐突に語りだした。
「魔物の大群に三日三晩、飲まず食わずで追われて何度も死に掛けた末に遂に辿り着いた桃源郷。一瞬で察したよ。――きっと此処が俺の墓場なんだなって」
「どうしたエスト!?」
「俺は大丈夫だよ。ただこの料理の中に確かな……そう、神の存在を感じただけだからな」
「エスト……ごめんなさい。何か、ごめんなさい」
珍しく頭を下げる姉の横で、その弟は淀み無き笑顔で食事を再開した。
「ところで、依頼していた件なのだが」
満足のいく食事を済ませ、杯に残った葡萄酒を飲んでいるエストにエルミナは本題を切り出した。その言葉を聞いた彼は先程の満ち足りた表情から一変、苦虫を噛み潰した様な渋面を浮かべて唸った。
その様子にまさか、と言う顔をするエルミナに気付いた彼は慌てて両手を振った。
「魔物は倒したんだ。……けどまあ、その、塵になっちまったから証明品が……」
「……シアだな?」
エルミナは腕を組んだ状態でシアを睥睨する。当の本人は向けられた怒気に構う事無く色とりどりの甘味に舌鼓を打っていた。
「……まあいい。多少の減額は覚悟するんだな」
涼やかな声での宣告をされたエストは呻き声を上げながらテーブルへと突っ伏す。その姿を確認したエルミナはわざとらしい咳払いの後に彼らに向かってある言葉を囁いた。
「だが、私が多少の頑張りを見せれば減額を取り消すまではいかないが一、二割程度の減額にする事は出来るだろう。――だが一つだけ条件がある」
最早、姉弟には彼女が言う条件が予想できた。初めて出会ったその時から今まで言われ続けたその事柄。――それは、
『――エスト。お前は王国騎士団に入るんだ』
三人の声が綺麗に重なった。台詞を先読みされた事に驚くエルミナに対し、姉弟は呆れの篭った溜め息を吐いた。
騎士の名門、スティラート家の一人娘にしてこの国で唯一の女性騎士、エルミナ・スティラート。
容姿端麗。
文武両道。
巨乳安産型。
様々な才能に恵まれ、その実力故に齢十八にして百人もの下級騎士を指揮、統率する権限を有する騎士隊長の一人。
エストは彼女と初めて出会った時から今まで騎士団への入団を勧められてきた。最早、数える事を放棄してしまうほどの回数を。
“この国に住む者にとって栄誉”“お前には才能がある”“給料は凄いぞ”。様々な口説き文句を携えた騎士の少女に、これまたいつも通りの返答が返される。
「エストは騎士団には入らないわ」
彼の代わりに拒否を宣言する姉にエルミナは鋭い視線を以て相対する。
「私はエストに言っているんだ。お前は関係ないだろう」
「私はこの子の姉で言わば保護者。口を出しても何らおかしい事はない」
うぐっ、と言葉を詰まらせたエルミナはならばまずはその姉を納得させるべく口を動かした。
「入団すれば仲間と切磋琢磨する事で更に強くなれるぞ」
「私が鍛えるから必要ない」
「お前は魔術師じゃないか。剣術指南は務まらないだろう」
「――エストに剣術を教える事にどれ程の意味があるというの? そんな無意味な事に時間を費やす位なら身体を鍛えさせた方がいい」
エルミナが矢継ぎ早に吐き出す台詞はその悉くを粉砕された。しかし、幾度となく断り続けられてもめげない彼女がその程度の言で引き下がる訳もない。ただ意地になっているだけなのかもしれないが。
シアも徐々に弁論の中に悪罵を交えて騎士少女の精神の蹂躙に掛かる。
「平和だなー」
いつも通りの事で――そう言うエストの視線は窓から垣間見える空へと向けられていた。最早、彼自身が介入できる機会は失われている。
「いや、あの、だから騎士になると……」
「あなたは言葉が通じない畜生以下。この遣り取りを何度続ければ気が済むの? その未練がましく女々しい姿に私は殺意を覚えずにはいられない。騎士というのは人の話を聞かない事が仕事なの?」
「違う! 騎士は国を守る重要な――」
「――ならあなたは何? 嫌がる人間の話も聞かずに押し付けがましく迫るあなたは何? 莫迦なの? 死ぬの?」
その後も続く一方的な罵倒。口を開く事さえ許されなくなったエルミナは怒りの工程を飛ばし、最早泣きそうになっている。
――そろそろ止めないとな。
涙に潤んだ灰色の瞳を見たエストは姉の口撃を止めるべくその小さな頭を小突こうとして、動きを止めた。
「……最悪だ」
新たに現れた複数の客を見て、彼は頭を抱えた。正確にはその先頭に立つ男を見てだが。
その男は金色の縁取りがされた豪奢な衣服を纏っていて平民の出ではないことが容易に分かる。年齢はエストと同じか一つ上程度に見える。
その男はエストの姿に気付くと、薄笑いを浮かべて近付いてくる。何故かその高い鼻を摘まみながら。
「やけに臭うと思えば薄汚いドブネズミ姉弟じゃないか。人間の食事が口に合うのかい? ネズミはネズミらしく卑しく生ごみでも漁っていた方が性に合っているよ」
突如放たれた侮蔑にエストは怒りを露わにするのではなく、恐怖した。
――バッカお前そんな事言ったらシアが怒り狂うだろうが!?
しかし、予想とは裏腹にシアは何の反応も示さなかった。まるでその男の存在を無視するかの様に黙々と甘味を口に運んでいる。
「……ちっ。やあエルミナ、今日も一段と美しいね。キミと出会えるなんてこんな薄汚い店に脚を運んだ甲斐があったよ」
整った面立ちを歪めた男は尚も悪罵を放とうとするが、エルミナの姿に気付くと下心が漏れ出た笑みを浮かべて賛辞の言葉を贈る。エルミナ本人は“薄汚い店”という表現に顔をしかめるが男はそれに気付かず、彼女を褒め称え続けていた。
「さ、そんな路傍に転がる屑と一緒にいると妙な噂が立つかもしれない。さあ、僕らのテーブルへおいで、貴族は貴族同士で仲良くしようじゃないか」
「……ギルベルト。悪いが私は彼らといたいんだ。それに彼らは屑なんかじゃない。私なんかより優れた人間だ」
ギルベルトと呼ばれた男の顔が引きつる、がすぐさま笑顔を浮かべ直して食い下がった。
「しかし、貴族は貴族としての身の振り方を考えるべきじゃないか? そんな何処の馬の骨とも知れない輩と共に居る事はキミにとってデメリットでしかないだろう?」
「他者を貶すのが貴方の言う貴族としての在り方なのか? 私はそうは思わない。それに友人関係に損得は関係ない」
その後も首を縦に振らない騎士少女にギルベルトは痺れを切らし、徐に彼女の白い手首を掴んだ。その姿にエストは勢いよく立ち上がり、
「おい、ギルベルト。いい加減に――」
言葉が途中で止まる。いや、言葉だけでなくエストを含め、エルミナやギルベルト、その取り巻きまでもがその行動の一切を停止させてある一点を見遣った。
「……ふふっ」
一同の視線を集めながら、シアが失笑していた。口元を覆いながら小刻みに揺れる彼女をギルベルトは鋭い瞳で睥睨する。
「……何が、おかしい」
殺意の込もった低い声を向けられても彼女の失笑は収まらない。その様子に徐々に苛立っていくギルベルトにシアはこう言った。
「ふふ……貴族と言っても“ピンキリ”なのね」
ギルベルトの顔が瞬く間に紅くなった。
「何だと……貴様、貴族であるこの僕を愚弄する気か!?」
「私は別にあなたとは言っていない。心当たりがあるからそういう被害妄想をしてしまうのでは?」
肩を震わせる男を見上げ、シアは嘲笑う。何かを言い返そうとするギルベルトの台詞を断ち切る様に更に言い募る。
「それに先程から貴族貴族と言ってるけど力があるのはあなたの親であってあなた自身は何もないでしょう? あなたの後ろの取り巻き達はあなたではなくあなたの親を恐れているだけ。あなたは親がいなければ何もできない乳離れの出来ていない餓鬼」
男に口を開く暇さえ与えずに悪罵を叩き込む。その光景にギルベルトとシア以外の者の顔が青褪めていく。
「ところで――」
散々言いたい事を一方的に言ったシアはそう前置きして、トドメの台詞を放った。
「――あなた、誰?」
ギルベルトは最早言葉を発する事はなかった。最後の一言が彼の沸点を振り切らせ、怒り狂う畜生と変えた。
怒りで歪んだ容貌は端正であるからこそ余計に迫力がある。握り締めた拳を振りかぶり、全力を以て眼前の少女へと振り下ろす、が――
「――シアに触るな」
少女の眼前で拳は止まっていた。ギルベルトの手首を掴んでいるのはエスト。ギルベルトは彼に憎悪の篭った視線を向けた。
「……劣等種の分際でこの僕に触るなっ!」
その手を振り解こうと試みるが何故か出来ない。いくら力を込めようが、いくら勢いを付けようが右腕の束縛が解ける事はなかった。
そのままの状態で睨み合う事、しばらく。周囲の緊張が高まりきった所でエストは力を緩め、ようやく拘束を抜けだしたギルベルトは自らの手首を抑える。
「……決闘だ。此処まで侮辱されては引き下がれない」
ぽつりと漏らされたその言葉を聞いたシアは露骨に面倒臭そうな表情を浮かべて椅子に踏ん反りがえる。
「面倒。エストがやって」
「やっぱりそうなるのか……はいはい、分かったよ。ま、そういう訳で俺が相手だ」
いつもの姉の傍若無人さに諦観するエスト。そんな彼らにギルベルトが反論するが、
「俺が負けたらシアに土下座でも何でもやらせるから。それならいいだろ?」
「何を勝手な事をむぐむぐ」
何かを言おうとする姉の口を塞ぐエストの約束をギルベルトは渋々といった顔で了承した。
「じゃあ、この店の裏手が結構広いからそこで――」
「はっ! 貴族であるこの僕がそんなみすぼらしい場所に行けるか」
エストの提案を遮り、拒否をする彼は顎に手を当て『そうだな』と思案する。
「……ふむ、闘技場を使おう。だいぶ煌びやかさと豪奢さが足りないが僕が居れば問題ないだろう」
「…………いや、闘技場ってそんな私欲で使えないだろ」
「お前は誰に物を言っている? このギルベルト・アルドリッジに掛かれば闘技場程度、貸切る事なんて大した事じゃない」
お前たち庶民とは違う、と侮蔑と悪意の満ちた表情を浮かべる彼にエストは溜め息を吐きながら首を縦に振った。
「それでは半刻(一時間)後に闘技場に来い。怖じ気付いて逃げるなよ」
踵を返し、店から出ていく彼らの背中を見遣るエストは、
――あいつら飯食いに来たんじゃないのかよ。
結構どうでもいい事を考えていた。
先程から自分の手の中で暴れる姉を開放しようとするよりも早くエストは手を噛まれた。痛みの余り緩んだ拘束から抜け出したシアは彼の足を踏み付け、蹲るその姿を見下ろす。僅かに怒気が滲んだ表情だった。
「何を勝手な約束を取り付けている」
「お前が怒る理由が分からないのデスガ!?」
「そんな事より」
「流された!?」
「さっきの誰?」
『は?』
エストとエルミナの声が重なる。
「え、あ、いや。あれはギルベルトっていう貴族で、貴族の立場を盾にして好き放題やってる糞野郎で――てか、今まで何度も不本意ながら会ってるし、衝突してるんだけど……」
「あれは記憶に留める価値があるの?」
『まあ、ないな』
エストとエルミナの声が再び重なった。
/2
「ギルベルトは何かを企んでいると思う」
エルミナの言葉にエストは怪訝な表情を浮かべた。
三人は今、眼前に聳え立つ建物の前で立ち止まっている。
闘技場。
それは腕っ節に自信がある者やそれを生業とする者、借金を返す為に選手として参加する者――そんな彼らの雄姿を観戦する場所。
三代目リノアキシア国王、ドミティスが建設者であることから“ドミティス闘技場”が本来の名前だが、この地に暮らす人々は闘技場としか呼ばない。知らないだけかもしれないが。
円形に広がる壁は大理石を用いた物で多少の衝撃程度で破損する事はない程に頑丈だ。
「何かって何だよ」
「悪巧みに決まっているだろう」
――それは流石に……ありうるな。
相手はギルベルトであり、場所もあちらが指定した場所、そして半刻(一時間)もの猶予がある。何かを仕掛けるには十分な時間があった。
どのような仕掛けがされているのか、エストとエルミナはうんうんと唸りながら思考の沼へと深く沈んでいく。そんな彼らを引きずり出したのはシアの溜め息だった。
「まだ起こっていない事、ましてや起こるか分からない事を考えても詮無きこと。エストのない頭で考えても無駄なんだからエストはいつも通りに行けばいい。貴方の足らない所は私が埋める。今までそうしてきたんだから」
平坦な声での言葉に一瞬だけ唖然としたエストは次いで破顔し、確かにそうだったと考えた。
「これからも頼むぜ、“姉ちゃん”」
「それはエスト次第」
素っ気ない物言いに苦笑を浮かべ、隣で佇むエルミナに声を掛けた。
「じゃ、行こうぜ」
「あ、ああ。そう……だな」
「どうした? 何か微妙な反応だけど――」
「いいから早く行くぞ。時間もあまりないからな!」
一人で先に進むエルミナを見て首を傾げるエスト。甲冑に覆われた背中からは何故か不機嫌な気配が滲み出ていたのだが、彼にはその理由は見当もつかない。
「ふふ」
シアは、何故かほくそ笑んでいた。
「確かに本当に仕掛けがあるのか、またどんな仕掛けなのかは現時点では分からない」
闘技場内の通路を並んで歩いてるとエルミナがそう切り出した。灰色の瞳はエストではなくシアを捉えていた。
「しかし、用心するのに越した事はない。だからシア、お前も周りを気にしてくれないか?」
「どんな罠があってもあんなのに負けるとは思えないけど……分かったわ」
明らかに嫌そうな顔で了承した彼女に頷き、ふと周囲に違和感を覚えた。
「妙に騒がしい――まさか!?」
「お、おい、エルミナ!?」
突如走り出した彼女を慌てて追い掛ける。程なくして通路を抜け、彼女に遅れて選手会場へと辿り着いたとき、彼の視界は人で埋め尽くされた。
観客席を埋め尽くすほどの人。長く見つめていると酔いそうな数の客が試合を今か今かと待っていた。
呆然と立ち尽くす彼らに気付いたギルベルトとその取り巻き達は下卑た笑みを浮かべて近付いてきた。その姿は銀色の甲冑に包まれており、腰には剣が差さっている。
「逃げなかったことは褒めてあげよう、劣等種」
鼻で嗤うギルベルトにエルミナは詰め寄った。
「何故客がいるんだ! それもこんなに……。貸切るのではなかったのか!」
「ああ、その事か」
彼はエルミナの方を向き、爽やかな、しかし傲慢さがちらつく笑みを浮かべた。
「貸切ったよ、“客ごと”ね」
あまりにも無駄で壮大な行為に彼女は言葉を失った。目を見開き硬直するエルミナの横を抜けた彼はエストの前まで歩み寄る。その表情は深すぎる笑み故に、醜かった。
「大衆の面前でお前は僕に叩きのめされ、無様に醜態を晒す。そしてあの雌豚は跪き、この僕に許しを請うんだ。――嗚呼、楽しみで仕方がないよ」
恍惚な表所で酔い痴れる目の前の男にエストは何も言わなかった。というより、余りの人の数に圧倒され、それどころではなかった。
「薄汚い性根、親の顔はきっとカエル顔」
遅れてきたシアがよく分からない悪罵を放つ。直後、先程までの恍惚の表情を憎悪へと変えたギルベルトがシアを睨み付けた。
「黙れ! 親は関係ない!」
そう吼えたギルベルトは勢いよく背を向けた。
「図に乗っていられるのも今の内だ。……叩きのめして跪かせてやる、雌」
殺意の篭った宣告。シアはただ、鼻で嗤うだけだった。
肩を怒らして去っていくギルベルトと入れ替わる様にして係員と思しき女性が現れる。
「それぞれの控え室にてルールの説明を行いますので付いて来てください」
そう言われ、連れてこられた控え室で係員の説明が始まる。
「得物は木剣ではなく真剣を使ってもらいます。降参したり、戦闘不能と見なされた方が負けです。あと、第三者が手を出したら失格です。ちなみに不慮の事故で死んでしまわれても我々は一切責任を取りませんのであしからず。質問も受け付けていないのでさっさと行ってください」
ぞんざいな説明と共に控え室から放り出される二人。エルミナだけは丁重に追い出された。ギルベルトの息が掛かっているのだから当然とも言えよう。
「何なの、この扱い」
眉をしかめ、不平を漏らしたところでシアはエストが先程から妙に静かであることに気付いた。
「緊張しているの?」
「え、あ、いや、ダイジョブダイジョブ。ぜ、全然問題ないし?」
「エスト――」
固い笑みを浮かべて選手入場口へと向かおうとするエストを呼び止める声。シアはぎこちなく振り向いた彼に激励の声を掛け――
「――負けたら殺す」
「これ以上追い詰めんな!?」
エストはそう叫び、駆けだした。後ろを振り向かない様に、姉を見ない様に、一直線に目的地へと駆けていく。これ以上シアの傍に居たら重圧に殺されるような気がした。
程なくして明かりが見えてくる。外の明かりだ。
――こうなりゃヤケだ。あんまり周りに意識を向けずに速攻で終わらせてやる!
直後、その決意は完膚なきまでに打ち砕かれる事となる。明かりの先、選手入場口から飛び出した瞬間、言葉を失った。
視界に映るのは観客席を埋め尽くす程の人。いや、それだけなら先程も見たから大した事はないが、今は状況が違った。
“観客全ての視線がエストを射抜いていた”。
好奇、歓喜、期待、憐憫――様々な感情が織り交ざった数百の瞳に捉えられ、彼は完全に冷静さを失った。知らず、足が震え、使い慣れた筈の大剣がやけに重く感じる。
これからの決闘に期待する観客たちが大きな声を上げているが、どれも耳には残らずに消えていった。
闘技場の中心に人影が立っている。ギルベルト・アルドリッジだ。事の発端であるその青年は腕を組み、不敵な笑みを浮かべて己が対戦相手を待っていた。
硬い動きで歩み寄り、一定の距離を保って二人は対峙する。ギルベルトが腰に差した剣を構えるのに合わせて、エストも背負った大剣を構えた。
始め、と僅かに声を聴いた気がした。
/3
熱気の渦巻く闘技場にて一筋の閃光が迸る。鈍色のソレは獣を想起させる俊敏さを備えており、躱す事は容易ではない。現にそれは咄嗟に横へと跳んだエストの腕を浅く斬りつけ、鮮血を滲ませた。
ギルベルトが手首をひるがえし、それに合わせて鈍色のソレは弧を描いて彼の元へと舞い戻る。次いで、鞭の様だったソレはギルベルトの手元に戻るのと同時に剣へと姿を変えた。
蛇腹剣。
他にも連接剣、ウィップソードとも呼ばれる少々特殊な剣だ。普段は剣状だが柄の機構を操作する事により鞭にもなる。先程の一閃は鞭状となった蛇腹剣によるものだった。
「どうした、劣等種? 逃げ続ける事しか能がないのか? この腰抜けめ」
離れた場所から罵声を上げるギルベルトにエストは歯噛みした。実際に逃げる事しか出来ないからだ。
ギルベルトは口だけではなく実際に実力がある。彼が繰り出す一撃は重い上に速く、嫌な所ばかり突いてくる。魔術の才も確かであり、不用意に飛び込めば良い的となるだろう。
――でも、それだけだ。勝てない相手じゃない。
自分の才能を過信し、努力を怠った天才――ギルベルト・アルドリッジは確かに強い。だが、その力は最近死闘を繰り広げた鷲の魔物程ではない。だと言うのに、圧倒的に劣勢な理由はエストの心の問題だった。
“緊張による思考能力の低下と筋肉の収縮”。
つまり、普段なら見える筈の斬撃を捉えられず、思った通りに身体が動かないという事。その所為で戦闘が始まってからエストの傷は増える一方だ。
――このままだと負ける。いっその事、特攻してみるか?
何とか気合で蛇腹剣を躱し、その後に放たれる魔術も気合で避け、手にした大剣で蛇腹剣を気合で破壊する。
「これだな。これしかないだろ」
策とは呼べない策を考え、一人納得する。焦りと緊張で冷静さを欠いた彼にはそれが最善の策だと思えたのだ。シアが傍に居れば罵倒なり愛の鞭で目を覚まさせただろうが、残念な事に彼女はエルミナと共に観客席に居るため、それは叶わない。
故に、彼の敗北は既に決まった。特攻を掛けようとも――いや、掛けるからこそ彼は蛇腹剣の錆となる。闘技場で命を落としても事故として処理され、誰の記憶にも留まる事はなく、ただの見世物として朽ち果てる。
筈だった。
ゆらりと、ギルベルトの腕が上がる。エストは身を低くし、いつでも駆け出せる様に両足に力を溜める。
その状態のまま固まる事、暫く。ギルベルトが剣を後ろに引いたのを確認したエストは溜めに溜めた力を解き放とうとして――
『やめなさい、この莫迦』
突如、頭に響いた声に動きを止めた。
「へ、シア?」
「はぁっ!」
刹那、蛇腹剣が放たれた。剣状から鞭状へと変じた一閃が風を切り裂きながら肉薄する。
――ま、ずい! 完全に出遅れた!
最早、軌道を予測する事は叶わない。全力で横に跳べば躱せるだろうが、隙が大きく、魔術で狙い撃ちにされるのがオチだ。
『問題ない。右に二歩半』
咄嗟に頭に響く声に従い、移動する。直後、鞭状の刃は直ぐ耳元を通過した。
『一度躱しても油断しては駄目』
――シアの念話の魔術か。
エストは理解すると同時に頭に響く姉の声に集中した。
『その斬撃は魔力の篭った、言わば生きている斬撃。死角からまた来るわ。ほら――上よ』
言われるがままにその場を飛び退く。すると先程まで彼が立っていた場所を鈍色の閃光が切り裂いた。
「何とか、躱せた!」
『だから油断をしない。周りに意識を向けて。魔力波動を感じる筈。剣にばかり目を向けず、相手の僅かな動きにも注意して』
直後、地面から妙な気配を感じる。跳び下がろうとするエストより一瞬早く、地面が隆起した。先端が槍の様に尖った細長い土塊がエスト目掛けて突き出される。
しかし、エストはそれを身を捻るだけで躱した。
「馬鹿な!? 完全な不意打ちだぞ!」
何故見切れる、そう叫ぶギルベルトを見据えながらエストは姉に礼を言う。が、既に念話魔術を切っていたらしく、その礼に対する不遜な言葉が返ってくる事はなかった。
「――ありがとな。もう大丈夫だ」
姉が居るだろう方角に視線をやり、僅かに呟く。その表情は戦意に満ちており、最早緊張による弊害はない。
――観客なんて関係はない。今はただ、目の前の敵を打ち倒す事にのみ意識を集中しろ。
エストの気配が変わった事に気付いたギルベルトが蛇腹剣を振り被る前で、エストは大剣を肩に担いだ。声音を低くし、蛇腹剣の遣い手に宣言する。
「行くぞ、ギルベルト。次で終わりだ」
「終わるのは貴様だ、劣等種!」
鈍色の閃光が解き放たれるのと大剣遣いが駆け出すのは同時。頭蓋を貫かんとするその一閃を僅かに屈むだけで躱した。髪の毛が数本、宙を舞う。
――視える!
先程まで捉える事さえ出来なかった筈の軌道が今でははっきりと見えた。それは当然の事と言えよう。
何故なら。
この数年間、血反吐を吐き、様々な死線を彷徨った努力家と自身の才能に溺れ、怠惰な生活を過ごしてきた天才。どちらが上か、それは火を見るよりも明らかだ。
不可思議な弧を描いて死角から再び迫り来る蛇腹剣を難なく躱す。刹那、前方より魔力波動を感知すると同時にその場を飛び退いた。
白い閃光が腕を掠める。服を裂き、その下の皮膚を黒く焦がしたソレは壁に当たると凄まじい轟音を立て爆裂した。大理石で出来た壁がガラガラと崩れ落ちる。
――雷撃の魔術か……でも関係ない。
焦げた部位を見遣る事無く疾駆する。術式を描く暇は与えない為に、目の前の敵へと瞬時に肉薄する。ギルベルトは己の武器を鞭状から剣状へと変じ、腰だめに構えた。
『うおおおぉっ!』
振り上げられる蛇腹剣と振り下ろされる大剣。二本の剣がぶつかり合った瞬間、一本の剣が折れ、刀身の欠片が空を舞う。蛇腹剣の遣い手は“半ばから砕けた己が武器”を見て、言葉を失った。
大剣遣いの少年は無言でその切っ先を相手の首に突き付ける。勝負は着いたと言わんばかりに。
「くっ……は、ははッ!」
ギルベルトの顔が怒りに歪んだのは一瞬だけで、次の瞬間には力の限り、哄笑した。
「……負けたのに何笑ってんだよ」
「いいや、違うね! 負けるのはお前だ、劣等種! やれっ、お前たち!」
彼が叫ぶのと同時に、闘技場内を白い光が立ち昇る。その眩い閃光を直視した観客たちが例外なく呻き、光を遮る為に両の手で目を覆う。その中心地に居たエストも例外ではない。
光は一呼吸する間も無く収まった。強い光によって焼かれた目は、十数える頃にはその視力の大部分を取り戻し、先程と変わらぬ闘技場の風景を映し出す。エストの前にはギルベルトが佇み、砕けた蛇腹剣が床に転がっている。辺りを見回そうと身体を反転させようとしてその身に起こった異変を感じ取った。
――身体が、重い!?
まるで身体中に重りを括られた様な感覚に戸惑うエストの前で、ギルベルトは身体を揺すりながら嗤う。その姿をエストはただ睨み付けた。
「何だよ、これ……?」
「結界さ。闘技場全体を覆う程の、な。今では闘技場内で動けるのは僕だけで、貴様や観客たちは湧き出る虚脱感によって指先さえも動かせないのさ」
結界とは、特定の範囲に何かしらの影響をもたらす上級魔術の事であり、一種の罠の様な物だ。その効果は睡眠や肉体の麻痺、盲目になるなど多岐に渡る。他にも外部からの侵入を防ぐ効果もある。
「闘技場全体を覆う程の魔力を何処から……いや、それ以前にいつの間に術式を……」
「外に何十人もの手下を配置しておいたからね。そいつらが僕が魔術で地中深くに描いた術式に魔力を供給し続けてこの結界は存在していられるのさ」
「……俺たちが来る前に術式だけ書き込んでたって事かよ。確かにそれならあとは術式に魔力を通すだけで発動するな。……つか、暇なのか?」
魔術は術式だけを描いても術は発動しない。術式を描き、そこに己が命である魔力を通す事によって初めて形を成す。予め術式を描いた紙を持っていれば一瞬で魔術を発動できるが、その場で描く術式と違い応用が利かず、臨機応変に立ち回る事が出来ない。
「戦闘中にこの術式を描いたら間違いなくあの雌が妨害してくるからな。しかし察知される前に発動させてしまえば、結界を破壊する事も、ましてや術式を描く事は出来ないだろう?」
「――ふざけるな!」
唐突に響く叫び。怒りに満ちた声を上げたのはエストではなく、客席に居る一人の青年だった。見覚えのない青年は虚脱感に抗おうとしているからか、尋常ではない量の脂汗を滴らせながらギルベルトを睨み付けている。
「俺たちはこんな詰まらない試合を見に来たんじゃねえっ! リノアキシア人なら正々堂々と戦えっ!」
「そうだそうだ! 貴族に誇りはないのか!? 恥を知れ!」
「神聖な闘技場を汚すんじゃねぇ!」
最初の青年に続く様に観客たちは口々にギルベルトを罵る。闘技場内からの罵声を一身に集めたギルベルトは犬歯を剥き、吼えた。
「やかましいぞ愚民ども! この貴族たる僕がこんな下等生物とまともに闘う訳がないだろうが! 勝てばいいんだよ、勝てば!」
その一言に更に会場中が殺気立つ。その異様な雰囲気に僅かにたじろいだギルベルトはエストを睨み付け、口角を吊り上げた。
笑っている。そう気付くのに、少し時間が掛かった。それ程までにその笑顔は歪だったのだ。
罵られた怒りと目の前に佇む獲物をいたぶれる喜び。相反するその感情が彼から人間らしさを奪い去り、その容貌を醜く歪めてしまう。見開かれた双眸に見据えられながらも恐怖する事はなかった。むしろ――
「憐れだな、お前」
「なん、だと?」
「ほんの少しで良い。努力さえしていれば、慢心しなければこんな事にはならなかったのかもしれないのにな。――断言してやるよ」
迷いのない視線を以て、眼前の青年と対峙する。そして少しの間を挟み、彼は決定的な一言を放った。
「――お前には負けないってな」
「だ、まれぇぇぇぇえっ!!!!」
型も何もない、力任せに振るわれる右腕。血がにじむ程に握り込んだ拳は狙いを違う事無く頬へと突き刺さる。が、彼は倒れない。それどころか戦意に満ちた瞳でギルベルトを射抜く。
その姿に焦りを感じた貴族の青年は苛烈さを増して拳を振るう。
――耐えてみせる。絶対に!
外でギルベルトの術式に魔力を供給している配下がどれ程いるのかは分からない。しかし、これ程の大規模なモノにいつまでも魔力を供給し続けられる訳がない。
身体に自由が戻る事を期待して、耐える。耐え続けるしかない。
数十発目の殴打で遂に膝を付いた。すかさず下がった顎を蹴り飛ばされ、後頭部から地面に叩きつけられた。
「ぅぐ! ……は、はは。動きが鈍ってきてるぜ? 疲れたのか?」
「う、るさい! 黙れ!」
肩で息をする程に消耗した彼は吼え、倒れ伏すエストの腕を見て、嗤った。
それは嗜虐に満ちた残酷な笑み。
「ふ、ははっ――殺しはしない。……ただ腕を完膚なきまでに壊し、二度と剣を持てないようにしてやろう」
――相変わらずやる事がえげつないな。結界は……まだ解けないか。
地面より感じる魔力波動の濃さから察するに、身体の自由が戻るのはまだ先になるだろう。
ギルベルトの足が持ち上がり、キリキリと弓の弦を絞るかの様に揺れる。全体重と筋力を合わせた一撃がエストの腕に放たれる寸前――
パキィン、と陶器が割れる様な甲高い音が響いた。
「な、何だ……? 今の音は」
刹那、片足立ちの姿勢で辺りを見回すギルベルトの視界に映る影。猛烈な速度で迫るソレは既に躱す事も出来ない程に近く、瞬く間に彼の顔へと直撃した。
凄まじい衝撃と共に後ろへと吹き飛びながら彼は影の正体を理解し、同時にそれ以上の困惑を覚えた。
ソレは足だった。蹴りを放った主は先程まで地べたに這っていた少年――エスト・グレイスその人であり、その事実が更に彼を困惑させる。切れた口端から滲む血を拭う事も忘れ、彼はその困惑を叫びへと変える。
「く、何故だ!? 何故動ける!? 結界はまだもつ筈なのにっ!」
「――あの程度の術式、破るのは簡単」
地に伏すギルベルトへと冷たい声が掛けられる。少年へと向けていた視線を後ろへと転じると、そこには一人の少女が居た。
豊かな金色の髪を揺らしながら、少女――シア・グレイスは淡々と言葉を発す。
「でも解除の術式が描けないから、魔力で強引に破壊したら時間が掛かった。――さて」
「ひっ!?」
どこまでも冷たい言葉はふつふつと煮えたぎる激情を抑える為のモノ。恐怖の余り、短い悲鳴を上げる青年に小さな手の平を向けた。
徐々に彼女の手の平に莫大な魔力が形成されていき、十数える頃には闘技場内の人間が息を呑む程に濃密な魔力がその存在を主張する。
「う、ああぁぁ――っ!」
その光景に背を向け、貴族の青年は悲鳴を上げて走り出す。
「逃げられると思うな。その汚れきった性根、此の世界に在る必要も無し。せめて最期くらいは、美しく咲き誇れ――」
しかし、ソレが放たれる事はなかった。
「やめろ。んなもん撃ったら闘技場もろとも吹っ飛ぶぞ」
「離して」
彼女の腕を掴み、静止の声を掛ける弟を睨む。鋭い視線に晒された彼は、その表情に困惑の色を浮かべて言葉を紡いだ。
「そんなに熱くなるなんてお前らしくないぞ」
「私は熱くなってなんか……! っ!?」
自らの大声に驚くシアに、ほら見ろと言わんばかりに笑顔を向ける。恥ずかしさの為か、僅かに顔を赤らめた少女は練った魔力を霧散させた。この遣り取りの間にギルベルトは逃げてしまっていたので放つ理由もない。
「……ありがとな。助けてくれて」
「別に、弟を助けるのは姉の役目だから」
顔を背けて早口にまくし立てる姉の様子が可笑しくて、つい苦笑が浮かんだ。
「でも大いに感謝するといい」
「あれ?」
「というか、しろ」
「命令!?」
「誠意は物で」
「買えと!? ――っ痛てて……」
叫んだ事により痛みがぶり返したのか、肩を抑えるエスト。その姿を見たシアは手早く、短い術式を構築する。
「帰ったら代謝能力活性化の魔術を掛けてあげるから。今は簡易的な痛み止めで我慢して。……それと今回は私にも非があるから肩ぐらいなら貸し――」
「大丈夫か、エスト!?」
小さな声は突如現れた騎士少女の大声に掻き消された。客席から全力で走ってきたエルミナはふらつくエストに肩を貸し、ゆっくりと出入り口へと誘導する。その無駄のない素早い動きに、シアは口を半開きにし、呆然とする。
「シアっ、何を呆けている! 早く来い!」
「……いつか殺すわ」
ぼそりと呟いた彼女の言葉にエストは背筋を震わせた。
/4
豪奢なテーブルが音を立てて砕けた。テーブルだけでなく、高価なカーテンや名の在る職人が手掛けた壺、手触りの良いカーペット――その部屋にある全ての家具や調度品が、無残な姿へと変えられていた。
恐怖の余り無様に逃げ去り、部屋で震えていた期間は実に三日。漸く恐怖心が薄れた彼は酷く荒れていた。
「よくも……この僕に恥を」
引き裂かれたカーテンの隙間から差し込む月光が、傲慢な一人の男の姿を浮き彫りにする。
この部屋の主たる青年――ギルベルト・アルドリッジは手に持った酒瓶を呷った。度数の高い酒が喉をちりちりと焼くが、一切気にすることなく飲み干した。しかし、渇きが消える事はない。
「くそがっ!」
中身がなくなった瓶に憤りを憶え、その瓶を罵声と共に壁へと叩きつける。甲高い音が照明の消えた部屋に響き、それが更に彼を憤らせた。
「この世の中はおかしい! 何故血筋も地位も名誉もあるこの僕があんな何も持たない地べたに這いつくばっている筈のゴミみたいな奴に勝てないのだ! 何故あんな雌如きに恐怖せねばならない!」
青年は吼えた。客観的に彼の言葉はただの八つ当たりでしかないのだが、当の本人は自分の発言の可笑しさを微塵にも疑っていない。
「嗚呼、憎い……! この世界が僕を中心に回らないことが、僕をコケにする馬鹿共が!」
思い付く限りの罵詈雑言を吐き出し、酒が飲み終わる度に空き瓶を壁に叩き付けていく。最早、彼は正気の沙汰ではなかった。眼は血走り、喰いしばった歯は数本砕けてしまっている。
「エスト・グレイス……。シア・グレイス……!」
怨嗟の篭った声音で憎き姉弟の名を呟く。すると、彼の中に再び黒い炎が燻り始めた。
「ころ――殺したい……!」
一瞬、湧き出た躊躇いを拭い去り、己が願望を口にする。刹那――
「――その願望、叶える気はありませんか?」
不意に投げ掛けられる第三者の声。自分以外に誰も居ないと思っていたギルベルトは『誰だッ!?』と叫び、辺りを見回した。
声の主は直ぐに見つかった。月明かりの届かない部屋の隅に男と思しき人影が佇んでいた。
ゆったりと、男が一歩を踏み出し、その姿を月の下へとさらけ出す。
黒い神父服を着た男だった。
闇の様に黒い長髪をオールバックにし、後ろ髪はそのまま後ろへ流している。しかしそれらとは対照に肌は病的にまで白く、死人を連想させられる。
最早、『黒』としか表現し得ない男に戦慄を憶えたのは一瞬。咄嗟に手繰り寄せた武器を構えて目の前の男へと肉薄し、その細い体躯を貫いた。
しかし、
「なかなか良い動きです。それに的確に急所を突く辺り、貴方は聡明な様でいらっしゃる」
「なッ!? 何で普通に喋って――」
驚いている場合ではない、そう認識した彼は言葉を止め、自らの武器を引き抜いた。
繰り出される第二撃。その刃の向かう先は笑みを浮かべる男の顔。頭を刺し貫き、今度こそ殺しきろうとするが、それは片手であっさりと受け止められてしまった。
「……僕に何の用だ。化け物め」
「そう恐れる必要はありません。それに、私の用件は既に伝えていた筈ですが?」
「叶えるとはどういう事だ」
「そのままの意味です。貴方の憎悪、欲望、執着、その全てを満たしてあげましょう」
男は口の端を歪め、笑みを作ると同時に受け止めていた剣から手を放す。ギルベルトは『ふん!』と鼻から息を吐き、自分の足元に剣を突き立てた。
「貴様にそれが出来るのか?」
「ええ。と言っても、私は貴方自身の力を開放するだけ……。その力を使い、自分で満たしなさい。貴方にはそれを遂げるだけの力がある。憎ければ殺し、刃向う者を壊し、好きなだけ犯す。貴方を止められる者など、この世界から消失する事でしょう」
その声は不思議と心を安らがせる響きを帯びていた。徐々に苛立ちが安らぎへと変換されていき、意識が曖昧になっていく。
殺し、壊し、犯す――嗚呼、それはなんと心地良い響きか。
己が欲望をさらけ出し、それに刃向う者は完膚なきまでに壊し尽くす――それは彼がこの世界に生を受けてからの十数年間、常に夢想し続けた事柄だった。
「……本当だろうな」青年は薄らと呟く。
「ええ」
対する男は僅かに開いた瞳を歪め、緩慢な動作で首を振るう。
「もう僕をコケにする奴はいなくなるんだな?」
「ええ」
「全て僕の思い通りになるんだろうな」
「ええ」
再三頷く男を見据え、ギルベルトは口を開く。
「……貴様の言葉に丸め込まれたんじゃない。僕は僕自身の意思で選んだんだ」
「そうですか」ギルベルトの言葉に適当な相槌を打つと、男はギルベルトの頭に手の平をかざした。瞬間、青年の中を何かが肥大するかの様な感覚が駆け巡った。
「が、ぁ――!?」
身体中を駆け巡る激痛に悲鳴を上げそうになるが痛みがソレを許さない。目を剥き、血管を浮かび上がらせもがく青年を眺める男は満足気に二度頷いた。
「其の歪んだ心根に犇めく傲慢さ、さぞかし素晴らしい魔人となりましょう」
「ま、じん……?」
魔人という単語に反応し、血走った瞳が男を捉える。薄らと微笑む端正な顔立ちは、人間らしさを微塵も感じさせなかった。
震える声で目の前の男に誰何の声を上げた。
「私は只の――」
歪な笑みが青年に向けられる。不気味としか形容出来ない笑みを浮かべた男は、己が存在をこう表現した。
「――只の“悪魔”ですよ」
黒色の悪魔の背後で、月が嗤っている様な気がした。