西武新宿線で痴漢に遭った私のケツ。
昨今、痴漢問題は深刻です。
私は男性なので痴漢冤罪がひどくおそろしいものですが、当然痴漢のような卑劣な行いを許すことも出来ません。
かといってあのような人が密集した環境では偶然触れてしまうこともあり、難しいところです。
出社時間とかいうクソみたいなのをなくして電車の本数を増やし満員電車を法で規制すれば痴漢はすぐに減ると思うのですが、私より頭のいい方々がそういう手段をとっていないので、おそらくこの方法では解決しないんでしょうね。難しい。
そのような様々な事情を全て放り投げ、気ままに書いたのがこのお話です。
楽しんで!
私のケツを撫でる痴漢の手に気付くことが出来たのは、今日が最悪の日だったからだ。
凍り付くようだった冬が終わり、春になって、古い友達からlineが来た。聞けば、付き合っていた彼氏が浮気をしたのだと言う。きっと春のせいだろう。
優に四時間を超える相談と言う名の愚痴に付き合わされて寝不足、起きてみたら冬に戻ったのかと勘違いしてしまうほど寒々しくて、タンスにしまっていた冬物のスカートを引っ張り出した。つい一昨日、衣替えをしたばかりだというのにだ。
どうしても外せない用事があり、慌てて電車に駆けこんだ。スカートのケツの辺りに虫食いがあることに気付いたのはその後だ。お気に入りだったのに、一センチ大の穴が開いていた。
朝の満員電車の中、なんとかドア付近にまでたどり着いてスカートの穴を隠した瞬間、私の背中を守ってくれていたドアが開き新たな乗客が押し寄せてきたのだ。
もはや自分の手で隠すことも出来ず、私はばんざいのまま、どうか誰もスカートに空いてしまった穴とその奥にあるすり切れたベージュのパンツに気付かないでおくれと願うばかり。
そんなふうに、今日は最悪の日だ。そしてケツに全神経を集中していたから、私は触れるか触れないかの距離でスカートの穴をさするおっさんに気付くことが出来たのである。
尻もちもついたことのない大事な大事な私のケツを撫でているのは、小さなおっさんの代表者である池乃めだか師匠よりもなお小さいおっさんだ。
いっそ力強く揉みしだいてくれれば大声で痴漢と叫び小さいおっさんの人生をめちゃくちゃにしてやるのに、小さなおっさんは私のケツに対して触れるか触れないかの距離を頑なに守っている。思春期のカップルかよ。握るなら握れ、力強く。
私は小さいおっさんの足の甲をヒールで踏み砕き鳩尾に膝を入れ延髄に両肘を叩きこむイメージトレーニングを何度も繰り返しながら、ただ停車駅に電車が辿り着く瞬間を待っていた。
小さいおっさんの手が、私のケツから離れたのはそんな時だ。
ようやく終わってくれたのか――というのは私の予断でしかなくて。
小さいおっさんはスーツのポケットに手を突っ込むと、中から――ああ、そんな――小さくて、ピンク色のそれを取り出した。
そう。
ワッペンだ。
デニム地によく知らないメーカーのロゴが刺繍された一片のワッペン。語呂がいい。
小さなおっさんは驚くべき手際で私のケツにワッペンを縫い付けていく。刺繍針の先端がほんのちょっとでも突き刺されば、私は大声で喚き散らしながら小さいおっさんの残り少ない髪の毛をむしり取ってやる。
そう決めていたのに、小さいおっさんはものの二分でワッペンを縫い付けると、出来栄えを確かめるように軽く引っ張る。
下着を引っ張られるような感覚はない。
小さなおっさんは見事にスカートの穴を塞ぎ、修復してくれたようだ。
「……おねえさん、これね、ボクの名刺。今やったのは応急処置だから、問題があればこのお店に寄って。そしたらちゃんと直してあげられるから」
折よく、電車は駅に停まり扉が開く。
小さいおっさんは人込みの隙間を縫うようにして電車を降り、その背中はすぐに見えなくなった。
乗客が減り、ほんの少し開いたスペースで、私は私のケツを観察する。
ワッペンを縫い付けたその手際ももちろんだけど、何より凄いのはデザインを崩していないことだ。穴が開いてしまった大量生産品のスカートは、今、小さいおっさんの魔法のような手によって世界に一つだけのスカートになった。
――今日は本当に最悪の一日だけど、たまにはこんないいこともあるらしい。
小さいおっさんに押し付けられた名刺を見て、私もまた、電車を降りる。
降りるつもりだった駅はあと三つ先だ。これで遅刻は確定で、けれどまあ、それも悪くない。
なんで降りたのかって?
理由は簡単だ。まずはワッペンのお礼を言って――それから小さいおっさんの魔法のような手を取り、駅員に突き出すためだ。
それはそれとして、痴漢なので。
痴漢冤罪のない社会を目指して。
本当の痴漢には、せめて苦痛なき死を。
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