1話
研究所のあった名無しの惑星から目的地クインリッジまでは航路距離にして約300航時、すなわち光速の1%で黒点経由で移動した際300時間かかるかなりの長旅だ。間に3度の黒点跳躍があり、その内1度目と2度目の黒点は軍事機密指定されているため跳躍ポートが整備されていない。おまけに1度目の跳躍から2度目の跳躍までは中程度の大きさの銀河系のど真ん中を通るのである。星間物質マシダークマターマシマシ、あまつさえ50万太陽質量クラスの超巨大ブラックホールまで存在する場所で重力波放出による黒点励起をするのだから、恐ろしい。一縷の望みをかけてヴェルヌに聞いてみたが、宙賊たちが通ってきたルートもこの危険宙域を通るルートであったそうだ。そう考えると彼らの宇宙船乗りとしての腕もかなりの物だったのだろうか。
《そんなわけありませんよ。あそこの通過で半分も船を失っているんですから、運が良かっただけでしょう。この私でさえ優秀な操縦者無しでは10回に1回はしくじる航路ではありますが、あの程度の腕でも半分は通過できた程度でもあるのです》
「まあお前でもミスるっていうなら相当なんだろうね」
先の戦闘でよくわかる、ヴェルヌの実力は本物だ。こちらのオペレートに角度をぴたりと追従させ、何より船の姿勢が尋常じゃなく安定していた。斥力場シールドの維持に敵砲撃の弾道予測をしながらそれだけできるのだから、たいそう素晴らしい経験を積んできているのだろう。
《分かっているじゃありませんか、そうですよ。この私はサー・ウェリントンの乗船の管制AI、操縦性がどうとか日和ったレイノルズ級如きの低スペックAIでは100年たってもかないませんし、ましてやあんなちんけな連中に操縦されるなんて以ての外です。……まあ、あなたはぎりぎり及第点といったところでしょう》
「へいへい、精進いたしますよ」
器用にも3次元投影モデルの頬まで赤くしよってまあ。芸の細かい奴だ、ツンデレかいな。
戦闘が終結した後、ヴェルヌは3次元投影で体を指令室に映し出した。彼女曰く、まあ一応操縦者として認めてやるから、コミュニケーションを円滑にするため、そして俺のメンタルケアのために体を投影したのだとか。孤独には研究所での生活で慣れているつもりだが、傍に人がいるというのは間違いなく長期間の旅において心を楽にしてくれるだろう。
ただ、問題となるのが。
《どうしました?惚けて。ああ、この体に見とれているんですね、なるほど納得です。人類の創造し得る最高峰の美しさを誇るこの体ですから無理もないことでしょう。ただあなたがいかに欲情したところで実体はありませんから虚しい自慰行為以外何も出来はしませんが。というか正直なところ船に欲情するとか、ええ。……ドン引きですね》
「してねえよ!」
そう、間違いなく美人なのだ、悔しいことに。いや、AIの体のモデルは初期設定ですでにかなりの美形であるのだが、そこからAIは体を組み替えることが出来、そして組み替えられたヴェルヌの体は大和撫子という言葉を思い起こさせる和風の美人であった。いったい誰の好みなのか、前世の日本人としての意識の捨てきれない俺からすれば好みドストライクだ。というかこんな格好をしているなら和風の名前を付ければよかったなと。
……ちなみに初期設定のAIの肉体モデルはイージス社では西洋風の上品そうな見た目で、バニシング社ではやはり西洋風だがやや濃いめでキツい雰囲気、ついでにフジ工業だと東洋風の穏やかな顔つきである。どうも会社の方針と社員の異性の好みには相関関係でもあるのだろうか、かつての大エースたちの記憶を見ればほぼすべての乗船にこの通りの傾向があった。つまりヴェルヌは例外に位置する。
「あー、ここを潜ったらかなり荒れるからどう動くかを確認してたんだよ。ほんと何とかなるかなあ、せっかく出られたんだしこんなところで死にたくないぞ……」
《まああなたの実力が高ければ問題ありませんよ。あなたはビビりのチキンですしこの程度の跳躍で無茶もしないでしょう、通過もさして問題は起きないかと》
「……デレた?」
《……あまりくだらないことを言っていると放り出しますよ?》
「……はい、すいません」
まだ好感度が足りないようだ。でもあれだよね、照れ隠しっぽいよね?
《そろそろ行きますよ。早く脳波直結して、指示をお願いします》
「了解」
黒点跳躍は、黒点に重力波を放出することで空間特異点を励起して拡張し、拡張された特異点が重力波を放出して基底状態に戻るまでの間に特異点内部をヒッグス場干渉により高次元化して通過するという跳躍航法である。黒点と呼ばれる空間特異点は対となる別の場所の空間特異点と位相が近く、励起により直結し空間跳躍が可能になるものを指す。
未整備の黒点での跳躍において厄介なのは1つに重力波の調節の難しさ、2つに跳躍のタイミングのシビアさ、3つに外乱である。
まず放出する重力波が強すぎると黒点の励起には成功するが空間が揺さぶられ過ぎるため位相がそろわず直結に失敗するし、弱すぎれば位相は即座にそろうが今度は黒点の拡張が足りず船体が通過できなくなる。無理に通過しようとすれば黒点の境目に当たる場所が引き延ばされてちぎられて、ソーセージとドーナツに分離するだろう。つまり船員は死ぬ。
更に未整備の黒点が励起状態でいられるのはせいぜい数十ミリ秒程度の間、ということは船体が50mの長さであれば最低でも秒速1km以上の速度で突っ込まなければならないのだ。さらに黒点の位相がそろうのに10ミリ秒弱はかかるので、さらにその分タイミングがシビアになる。これが意味することは即ち、速度1k以上で移動しながら黒点中心を通過する時間から20ミリ秒±数ミリ秒前に重力波を黒点に打ち込む必要があるということだ。恐ろしくシビアなタイミング管理を行わなければならない。失敗すれば途中で閉じた黒点による輪切り船体の活け造りの出来上がりだ。つまり船員は死ぬ。
ここまで合わせ切ったとしても外乱、例えば近くの巨大重力源の運動で重力波が放出されるだとか、周辺の統計論的温度が高温で重力場に強い揺らぎが生じるだとか、そういった理由で黒点の状態が遷移し跳躍が不可能になることがある。むろん周辺の重力場の観測は可能だが、高精度な重力場観測の可能な範囲は船体から2km程度、ということは停止状態で安全を確認してから突入するためには最低でも加速度500メートル毎秒毎秒が必要となるがもちろん人体はその加速度に耐えられないし、慣性緩和は跳躍時のヒッグス場干渉と対立するから使えない。人体が耐えられる上限の加速度はせいぜい100メートル毎秒毎秒、速度1kで突入すればこの程度の加速度では突入時刻を200ミリ秒程度しかずらせない。もちろん突入中に先のようなアクシデントがあれば黒点内部は船ごとグニャグニャに引き延ばされてスパゲッティになるだろう。つまり船員は死ぬ。
ソーセージだろうがスパゲッティだろうがこの時代の船乗りにとって戦死の次に身近な死因であるが、まあ当然整備されていない黒点に飛び込もうなんて無茶は普通はしないし、駅が整備された黒点ならフルオート操縦でもまず安定して跳躍できる。これで死ぬ人間の多数派ナンバー1は逃亡中のお尋ね者、ナンバー2はどこぞを奇襲して来いとか無茶ぶりされた作戦行動中の軍人だろうか。後者は同情の余地があるが、前者はまあ仕方ない。
長くなったが、俺も似たような訳ありの人間なわけで、この先もロシアン・ルーレットに挑む必要が間違いなくある。つまり、この緊張に慣れなければならないのだ。
《加速2kまで、見たとこ割と安定してそうだから定速で》
《2kですか、攻めますね……1.5、1.8、1.9、2.0、乗りました。黒点まで距離12k》
50キロメートル位からでも精度は低いが重力場揺らぎの光学測定は可能だ。そして機器が検出するほどの揺らぎは未だ観測されていない。
……まもなく重力波測定が可能になる2k圏内だ。
《距離4、3、2、重力場安定を確認》
《定速継続、重力波は3.2kHzで出力1メガワット》
《はい……解放成功、跳びます!》
◆◆◆◆◆◆◆◆
跳躍時特有の一瞬のぐらりと揺れるような酩酊感の後にスクリーンを見やれば、先ほどまでは主恒星その他星々を映していたそれは、真っ白で何も映していなかった。
左手に強く感じるのは先に述べた通りの超大質量ブラックホール、事象の地平面まではまだまだ遠いがこの名もなき楕円銀河系の中心に鎮座するそれの存在感は重力という凶悪な引力を放つ。その力強さは跳躍直後から慣性緩和をしていて血液がすべて左半身に行ってしまうと錯覚するほど、ちょっとした回避機動並みのえげつない加速度を感じる。……とはいえこれは次の黒点に旋回軌道を合わせるためブースターをふかしているからであって、重力による加速度は軌道に乗れば感じなくなるのだが。
そう、今出てきた場所は名無しの銀河の中央にして銀河全可視質量の1万分の1を占める超巨大ブラックホール、そこへの降着円盤のど真ん中なのだ。ブラックホールへと凄まじい加速度で吸い込まれていく星の欠片や成り損ないは、しかし保存される角運動量によってどんどん加速しながら渦を巻いていき、終いには角速度の限界に達して渦の極方向へとジェットとして噴き出していく。加速の過程で生じる摩擦で高温に加熱された物質による超速のジェットは今日のエネルギー資源としていくつもの星を支える恵みでもあり、生じる強烈な電磁波でいくつもの宇宙船を行動停止へと追い込んできた試練でもある。
《投影を遠赤外線透過画像に切り替えます》
スクリーンが高エネルギー線をカット、遠赤外線透過の画像に切り替わる。周囲の降着ガスからの熱輻射をカットし、透過性の良い遠赤外線の映像を映し出す。
「ああ、これは……」
素晴らしい。思わず感嘆の吐息が漏れる。
中央のすべてを吸い込むような黒球、そこにかかる円盤。奥は球に隠されて見切れているが、内側はらせん状に両極へと伸びついには煌々と輝く紅いジェットの奔流と化す。
「美しいなぁ……」
ああ、もしも宇宙に大気があったならさぞ荘厳なる音が聞けたろう。すさまじい迫力の、そうだな落差百メートル級の滝さえも及びもつかないくらい重厚なコーラス、出来ることなら聞いてみたかった。しんと静まり返った極めて真空に近いこの宇宙、初めてそれを惜しく思った。
「っうお!」
急にGが後ろ向きに変わった。そういえばそうだ、ここはただ美しいだけの場所ではない。此処はU.S.O.Fも通過の難しさを信頼する立派な危険領域、気を抜いている暇などないに決まっていた。
《第2黒点軌道に乗りました、これより等速航行に移ります。……惚けている暇はありませんよ》
《……ああ、すまない》
意識を船の操縦へと切り替える。このブラックホールへの降着円盤、落下していく物体はガスだけでなく、彗星や小惑星、はては引きちぎられた惑星の成れの果てまで数々の危険な物体が落ち込んでいる。そして此処から次の黒点まで周辺の降着円盤の平均速度に合わせた秒速3キロで12時間、それだけの間こうしたミンチサイズのデブリを回避しながらこの危険地帯を抜けねばならない。速度を上げれば周辺のデブリとの相対速度が増加するから、斥力場シールドの負荷を最小限にするためにはあまり速度を変えるわけにもいかない。
……初めてこの航路を見つけた第107次探索船団は一体何を思ってこんな無茶苦茶な場所を通ったのだろうか。ここを通過するだけで船団の半数が宇宙の藻屑と化したと聞く、それでも彼らを突き動かしたのは何だったのか。
「……いや、分かってるさ」
そう、間違いない。
今こうして口からこぼれ出た嘆息、言葉に表せない感動。この広い広い宇宙のまだ見知らぬ光景はそれだけの、それこそ命すらかけられるほどの、価値があるのだ。
先人たちに続く、冒険の道を己にも。
《……ありがとう、もう大丈夫、管制に就く。斥力場の状態は?》
《ええ、問題ありません。半径0.1kで通常稼働中、放熱レベル0.3です。出力は0.1ギガワット、ミンチの遭遇頻度は現状0.2トン毎秒》
《ハンバーグクラスのデブリは?》
《半径30k以内で透過遠赤外線探知中です。反応する大質量源はありません》
潮汐力で磨り潰された小惑星やらの挽肉が衝突・合体を繰り返しハンバーグが出来上がるという比喩と、まあ船がぶつかれば乗員がミンチになるよねというブラックジョークの2つを込めたハンバーグという呼び名は数百mサイズのスペースデブリを指す。このサイズまでくると斥力場で逸らすのは無謀に近く、それにまあこの辺りのサイズから重力による集積が起きるので必ずよけられる程度の密度でしか存在しないので通常は光学観測により探知して回避している。
ちなみにこの手の例え、合成栄養食が普及したこの時代では富裕層相手でないと通じない。食材を調理なんて言う概念はもはや廃れ、今日の料理とはゲル状の合成有機化合物にいくつかの香料を加え、ナノ収束電子ビームにより適当に構造をいじって好みの食感や香りを作り出す、その程度である。さらに下層階級の人は電子ビーム調理器ですら持てず、彼らは調理前の合成栄養素をすすって日々暮らしている。前世でやっていたような真っ当な料理はごく一部の条件に恵まれた住惑星に観光に行って食べるか、バカみたいな金額を払って農園プラントと種子をそろえ、取扱い許可の資格を取らねばならない。必然的に、ハンバーグという”料理”の作り方を知っている人間はそれなりに金銭的に恵まれた人間である、ということだ。
《んじゃ、落ち着いていきますか、直結切って大丈夫?》
《……ええ、ええ。大丈夫ですとも。直結切るだけで大丈夫ですか?そこに座ってぼーっと呆けて頂いても一向に構いませんよ?もちろんですとも、その間それはそれはきちんと私がこの船を動かしておきますから。私はたいそう心が広いのでこのお飾り要らないんじゃないの、とか決して思ったりは致しませんよ?》
《……お、おう》
結構さっきのこと、怒ってるのね。
ただ、此方としても一旦ヘッドセットを外したいのだ。此処へ来るのにもそれなりに緊張をしていたし、その前の戦闘からずっと付けっぱなしでそろそろ2時間、汗が蒸れてきているのである。ちょっと加齢臭がするのもまた気持ちが悪いし、何より頭皮にダメージを追ってエースの悲劇にさらされたくはない。
《あー、さっきはすまなかった。ただ、航行が安定しているようだし、この辺の重力場もむらがだいぶ少ない。しばらくは俺は必要ないと思うから、頭を洗って、ヘッドセットもタオルで軽く拭きたい》
《なるほどなるほど。そうですね男のプライドというやつですね。分かりました、洗面所に育毛剤を追加しておきましょう。ついでに10分ほどカメラを切っておきますので仮に育毛剤が減ったとしても何に使われたか私にはさっぱり分かりませんね?ああ、なんて気の利く素晴らしい管制AIなのでしょう、私。サー・ウェリントンも素敵な作り笑顔でほめてくださった私の気遣い、五体投地で讃えて下さっても良いんですよ?》
《……本当に気が利くなら余計なことは口にせずそっと気付かなかった振りをしてやれよ……》
あの人も被害者だったのか……。
うん、お察しいただけるだろうが、このヘッドセット、脳波直結のディレイを極力少なくしてくれるのはいいが、大きく、蒸れる。そしてエースと呼ばれる人外たちは当然のごとく過酷な戦場に年がら年中身を置いているから、総装着時間はすごいことになっているし、まあ頭の孕む熱気も恐ろしいものだったろう。
つまり、禿げるのである。いやもう本当に、禿げるのである。反射神経やとっさの頭の回転が人外でも毛根細胞は人外ではなかったのだろう、どこぞのゴシップ紙がU.S.O.Fのエース戦艦乗りを片っ端から付け回してつかんだ事実によれば、男性陣の実に6割は一度以上植毛治療を行う総合美容院に通ったのが目撃されているという。女性ですら薄毛に悩む人がいたようで、とある雌ゴリラ系武闘派エースが美容院手前の路地で記者と鉢合わせして黙秘するよう脅してかかったらしい。なおそのことを俺が知っていることからわかるようにその記者は結局ジャーナリスト魂に殉じ、記事発表後見事に散ってのけた。
6割である。もう一度繰り返すが、6割である。今日髪が薄くなった軍艦乗りをエースの頭だなんてからかうくらいには浸透したエース=ハゲというこの忌まわしき公式、どうやらサー・ウェリントンも悩まされていたらしい。
とにかく俺もまだ若いとはいえ同じ未来をたどるのは絶対に嫌なので、今のうちからきちんとケアを怠らないようにしたいところだ。
「……じゃあ、少し外す」
《どうぞ、行ってらっしゃいませ。抜けないといいですね?》
……余計なお世話だ!