エピソード1
卓也は子供部屋のフローリングの床に、カードを広げていた。
べたりと座りこんで、
――これはすごい。
と目を輝かせている。
床に並んでいるのは、先日まで大人気だったカードゲームのキャラクターカードだった。それが百枚以上はある。
いまは妖怪のカードゲームが流行っていて、みんなそちらで遊ぶようになった。もう誰も、昔のカードには見向きもしない。だが、卓也は、人気のなくなったこちらのカードのほうが好きだった。
このカードに描かれているのは、アニメにもなっていて、父親も知っている有名なマンガのキャラクターだ。アニメだけではなく、映画にまでなっている。ずっと昔から雑誌に連載されていて、人気があったらしい。
だから、卓也はこのカードゲームもまた人気になるんじゃないかと考えている。いままでに集めたカードも、そのときのために大事にとってある。
新しいもの好きの友人がそんな卓也に、「もう飽きたからいらない」と集めたカードを全てくれた。それがいま、フローリングに広げているカードだった。
――これ、ゴッドだ。
最新の映画で出てきた最強のキャラクターが、カードになっていた。表面がキラキラと光り、複雑な輝きを放っていて、相当なレアカードの雰囲気を漂わせている。間違いなく、めったに手に入らないカードのはずだ。
――これだけは、別にしておこう。あとは……これも。
そんなふうに、一枚ずつ、卓也はカードを確認していった。大好きなキャラクターたちだから、これは楽しい。眺めているだけでも嬉しくなる。時間を忘れて、いつまでも同じことを繰り返してしまう。
そうして熱心にカードを仕分けしていると、リビングでガタンという大きな音がした。何かが倒れたようだ。
――どうしよう。
誰がその音をたてたのかは知っている。だが、どうしてこんなに大きな音をたてるのかは、わからない。
そっと足を忍ばせて、リビングへ向かう廊下を歩く。リビングのドアは僅かに開いていて、そこから中を見ることができた。
部屋のなかでは、母親がソファーに座っていた。
空中を見上げて、ぶつぶつと何かをつぶやいている。こちらを向いていないから、表情はわからない。
一学期の授業参観では「えー、卓也くんのお母さんきれいー。うちのお母さんみたいなオバサンじゃないー」とみんなから羨ましがられた記憶がある。卓也は得意になって、みせびらかすように、母親の手を引いてつれ回った。
このときだけではない。いつでも母親は目立っていた。綺麗で、少し厳しいところはあるが、本当は優しくて――卓也としても自慢の母親だった。
だが、いまの母親は違う。
髪の毛はぼさぼさで、何十歳も年をとったように見える。行動もおかしくて、ときおり叫んだり、いまのように何かをつぶやいている。
なにより不思議なことに、これは父親が仕事に行っているあいだだけのことで、家に帰ってくると、いつの間にか普段どおりの母親に戻っているのだ。
――いまは、静かに。我慢しないと。これは誰にも言ってはいけないことなんだ。
卓也はそう考えていた。だから父親にも、このことを話さない。こういうときの母親に声をかけることもなかった。何も知らないふりで、息を潜めて時間が過ぎるのを待つだけだ。そうすると、もとの母親に戻っている。
だけど、
――こわい。
まるで別人のようになってしまった母親の姿は、いつ見ても恐ろしかった。卓也には、どうしてこんなことが起きているのかわからない。
声を出してしまわないように口を押さえて、来たときよりも慎重な足どりで、子供部屋に戻った。
――そうだ、カード。カードの整理をしよう。
先程きれいに並べ変えたはずのカードを取り出して、また最初から並べ直し始めた。
同じ作業なのにだんだんと夢中になって、時間がたつのも、リビングの物音も、気にならなくなっていった。
***
「ご飯よー」
と呼ばれてリビングに向かうと、そこにいるのはいつもの母親だった。父親も帰ってきている。それにも気づかないほど、卓也はカードの整理に夢中になっていたようだった。
テーブルのうえには夕食が並んでいる。ごく普通の食卓だ。なにもかもが、いつもと同じだった。さきほど見たものは夢だったのではないかとさえ思えてくる。
食事も終わりかけたころ、「あっ」と声をだして、父親が薄い板のようなものを取り出した。
これは父親の宝物だ。スマートフォンというらしい。とても大事なもののようだ。
卓也に触らせることはないし、母親にも触らせない。いつも持ち歩いていて、何やらいじって、嬉しそうにしている。電話にもなるし、ゲームもできるらしい。
――僕にも宝物はあるんだよ。
と卓也は思った。
一番新しい宝物は、今日伸也くんからもらったカードだ。キラキラのゴッドのカード。あのすごさが父親にもわかるだろうか。一緒に映画を見に行ったから、覚えているかもしれない。
――いや、きっと覚えている。
父親は、こういうことをちゃんと覚えていてくれる。カードを見せたら一緒に喜んでくれるに違いない、と卓也は思った。
父親は立ち上がり、
「あっ、また仕事の呼び出しだ」
と言った。
「あら、こんな時間に大変ね」
と母親が唇を尖らせる。
「本当にな。勘弁してほしいよな。でも仕方ない」
と言いながら、父親が出かける準備をする。スーツを着たままだったから、靴下を履いて、カバンを用意するだけで、すぐに準備は終わった。
「じゃあ、行ってくるから」
「気をつけて、いってらっしゃい」
母親が玄関まで送っていく。
最近はこういうことがよくある。だから、卓也はこれからどうなるのかも知っている。
「ごちそうさま」
と声をかけて、卓也も子供部屋に戻った。父親にゴッドのカードを見せるタイミングはなかった。
――これはまた今度にしよう。
と卓也は考えていた。
***
しばらくすると、ガチャンと何かが割れる音がした。叫び声も聞こえた。
「わからないとでも、思ってるの!」
母親の声だ。家のなかにはほかに誰もいないはずだ。
――わからない。わからないよ。
どうしてこんなことになるのかわからない。何が起きているのかわからない。どうすればいいのかわからない。
自分も叫びだしそうで、慌てて卓也は口を押さえた。
――そうだ、カード。
カードを並べよう。
そうすれば、時間が過ぎていく。
いつの間にか、きっと母親ももとに戻っている。
だから、カードを並べよう。
その日、何度目かのカード整理を始めると、同じことを繰り返しているのに、やはり夢中になってしまう。
最初はカードのことだけを考えようと自分に言い聞かせていたが、途中からはその必要はなくなった。
ふと、卓也の脳裏に何かがひらめいた。カードを並べる手を止める。
――仕事が忙しいのは、「じょうし」のせいだ。
どこかで、そんな言葉を聞いた気がする。
「じょうし」というのは、家に帰った父親を呼び出すひとだ。いつもスマートフォンで呼び出している。
そのひとのせいで、父親は夜も仕事に出かけなければならない。
――そうだ、最近は休みの日も遊びにつれていってくれなくなった。このカードゲームで遊びたいのに。
もしかすると、母親の様子がおかしいのも、「じょうし」のせいかもしれない。
卓也は、そのひとの声を聞いたことがある。
父親がスマートフォンで話しているのを聞いてしまったのだ。
「じょうし」は女のひとだった。女のひとの声をしていた。