エピソード4
父親の手にはスマートフォンが握られていた。
――ああ、見つかったんだ。
良かった、と卓也は思った。だが父親の表情は、喜んでいるようではない。
「卓也……」
と自分の名前を呼ぶ。名前を呼びながらも、どこかぼんやりとしている。何か気になることがあって、そのことが頭から離れない、という表情だ。
「卓也は、これを触ったのか?」
「これ」というのは父親の手のなかにある、スマートフォンのことだろう。
卓也は大きく首を振った。そんなことはしていない。勝手に触って壊れるといけないから、慎重に扱ったつもりだ。どこを触ったらいけないのかも、よくわかっていない。そんなものをうかつに触れない。
――でも、どこかにうっかり触ってしまったのかもしれない。土の中に埋めていたし……。
たとえビニール袋に入れていても、埋めてしまうのはまずかったのかもしれない。不安になって、父親を見上げた。
父親がそれ以上、卓也に問いかけることはなかった。
「そうか……そうだよな」
ポツリとそう言って、卓也に背を向ける。「どうしてデータが消えてるんだ。誰が……まさか……」と、つぶやきながら、書斎へ歩いていく。
卓也を責める様子はない。それよりも気になることがあって、ほかのものは何も目に入らないという態度だった。
――スマートフォンは、壊れてしまったのかもしれない。
そして、それは自分のせいかもしれない。
――どうしてあんなことをしてしまったんだろう。
考えても、答えは出てこない。「こんなことになるはずじゃなかったのに」という卓也の言葉を、聞いてくれるひとはいない。
書斎の机に手を伸ばして、スマートフォンをポケットに入れる。思わずしてしまった自分の行動を、あのときに戻って止めたいと思っても、それは叶わない。
父親は卓也に何も説明することはなかった。そのまま子供部屋を出て行ってしまった。
心配するなといわれたから、心配してはいけない。
忘れようといわれたから、忘れなければならない。
何が起きたのか、質問することもできない。
どれだけ不安に思っても、卓也はひたすらに、何事もなかったかのような顔をしているしかなかった。
***
夕食の時間になり、リビングのテーブルに座ったときも、父親は浮かない表情のままだった。だが、それを隠そうとしているようでもあった。
食事の最中も、なにくわぬ顔でじいっとテーブルを見つめながら、こっそり周囲の様子をうかがっている。誰とも視線を合わせることがない。
その緊張感は卓也にまで伝わっていた。静かにしようと気をつけているのに、ちょっとした動作が引き起こす物音がやけに大きく聞こえる。
「そんなに、美味しくなかったかしら!」
突然、母親が叫んだ。こんなことははじめてだった。箸を落としそうになる。
父親は卓也以上に驚いているようだった。口を半開きにして、声が出ない様子だ。
「美味しいよ。おかあさん」
なんとか心を落ち着けて、卓也がそう答えると、父親もそれに続く。母親は「そう」とだけ言って、食事を続けていた。
さっきまで、おかしなところのない、いつもと変わらない母親だった。髪の毛も綺麗にしている。なのにいまは、顔の半分が別の生き物のようにビクビクと動いて、目の位置が移動してしまっている。
――どうしてしまったんだろう。
母親がおかしくなるのは、父親がいないときだけだったはずだ。それが、食事のときまで、こんなふうになってしまった。おまけに、父親の様子も普通ではない。いまも真っ青な顔で、それでも普段と同じように食事をしようとしている。
誰もが無理をして、何事もないように振る舞おうとしている。それは、卓也も同じだった。なにが起きているのかはわからなかったが、そうするしかない。
その日の食事は味がしなかった。
***
それからが不思議だった。
父親が家に帰ってから仕事で呼び出されることがなくなった。スマートフォンを触る姿もほとんど見かけない。ときおり使っているから、壊れて使えなくなってしまったというわけではないようだ。だが、そういうときも、すぐに触るのをやめる。
どういうわけか、父親はスマートフォンの使用を避けているようだった。あれほど熱心に使っていたものなのに。
父親が夜に出かけなくなると、母親がおかしくなることもなくなった。いつもの綺麗な母親だ。突然叫びだすこともない。いままでのことがすべて夢で、その夢から覚めたようだった。
なにが起きたのか、卓也にはさっぱりわからなかった。だが悪い状況ではないようだった。
父親は卓也の話を聞いてくれるようになった。宝物のゴッドのカードを見せると、一緒に喜んでくれた。映画のことも、ちゃんと覚えてくれていた。
何もかもがもとどおりになったように思えた。
ただ、父親だけは、何かに怯えるようなびくびくとした表情で、母親の様子をうかがっていることがあった。
だが、それも次第に少なくなり、いままでどおりの――むしろ以前よりも優しい父親になったようだった。いまではつねに、卓也と母親のことを気にかけてくれている。
――本当に夢だったのかもしれない。
優しい父親と綺麗な母親。いまの姿からは、しばらく前のふたりの姿は思い浮かばない。まるで別のひとだ。
卓也が不安を感じるようなことは、もう、何もない。
だから、なにが起きていたのかなんて、卓也は考えなくなった。すっかり嫌なことを忘れて、思い出さなくなってしまった。