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#1

 私が大学の囲碁サークルに通うようになって、もう一月ほどがたつだろうか。知り合いも増えて、少しは馴染んできたと思う。囲碁の腕前はまだまだだ。


 私は大学一年だから、サークルに後輩はいない。同期も少ないから、ここで知り合ったのは、ほとんどが先輩ということになる。なかにはまだあったことのない先輩もいるらしい。大学にも顔をださないとか、そもそも大学生ではないとかいうひともいる。

 気が向いたときに集まって、おしゃべりをして、ときどき囲碁をする。ほとんど決まりごとのないゆるい集まりだったから、そうしたひとたちも、何の気がねもなくサークルに参加していた。この気楽な雰囲気は、私の性格に合っていると思う。スポーツ系の集まりによくある上下関係の厳しい雰囲気は、私は苦手だ。


 サークルの先輩たちのなかに、星野さんというひとがいる。星野さんは、ちゃんとした学生だ。


 この星野さんとは、いままでに何度か顔を会わせていた。特別親しくしているというわけではないが、普通に世間話をするくらいの関係性にはなっている。


 目が細くて、髪の毛はくしゃくしゃのくせっ毛。口元はきゅっと一文字に閉じられていて、からだつきはがっしりとしている。

 清潔感のあるワイルド系という印象で、ちょっとしたイケメンの男性だ。


 口を開くと、その印象は少し変わる。見た目とは違って、優しくて柔らかい物腰だ。

 そしてこのひとは、いつもぼんやりとしている。話しかけられても反応が遅れたり、見当違いの返答をしたりする。目が細いせいもあって、どこを見ているのかもよくわからない。常に心ここにあらずといった様子だ。

 たぶん、現実にあまり興味がないんじゃないかと思う。


 それなら何に興味があるのかというと、日本文学だ。専攻も日本文学で、まだ学部生のはずなのに教授の部屋に入り浸っているらしい。このあいだも、「教授に連れられて長野のほうのお寺に行ってきたんだ」と言っていた。


 日本文学の研究者がなぜお寺に行くのかというと、お寺に保存されていた資料を見せてもらうためらしい。「ちょっと珍しい、古い資料を読むことができた」とうれしそうに語っていた。


 星野さんはそういうときだけ、雄弁になる。口を挟むすきもない。本当に夢中になって話していて、そのときの私が退屈そうにしていたことには気づかなかったようだ。


「こういう資料がたくさんあってさあ」と写真を見せてもらったこともある。

 黄色く変色した紙のうえに、ぐにゃぐにゃとした線が並んでいた。たぶん、草書体だとか変体仮名だとか、そういうものなのだろう。教科書に載っていたような記憶がある。だが、とても内容はわからない。文学部の学生なのに、私はこうしたものにあまり興味がなかった。


「これじゃあ、何が書いてあるのかわかりませんね」


 私がそう言うと、ちょっとびっくりした顔をして、「当時はね、みんなじゃないけど、読み書きができるひとはこういう文字を使っていたんだ。だから、学習すれば読めるようになるんだよ」と語っていた。

 私は当時のひとではない。



 ***



 この日、私がサークルの「部室」に顔を出すと星野さんの姿が見えた。向かいの長椅子に腰かけてあいさつをしても、軽くうなずくだけでぼんやりしている。すこしたってから、私の顔を見つめて、「あっ、アユミちゃん。来てたんだ」と言う。


 普通なら、この反応はありえない。もし星野さんのことを何も知らなければ、きっと気を悪くしていただろう。名前と顔を忘れられたと勘違いしていたかもしれない。だが、星野さんはそういうひとなのだ。

 私がこのサークルに顔を出すようになってしばらくたつから、彼の振る舞いにはもう慣れている。特に不満に思うこともなく、「はい、こんにちは」と答えておいた。


 そもそも名前を忘れられるというのは、さすがにありえないことだった。

 別に絶世の美女というわけではないが、私だってそれなりの顔のはずだ。告白されたことも、かなりの回数になる。二十回は、確実に越えている。

 女性比率の少ないこのサークルで、男性から名前を忘れられるような存在ではないのだ。


 というようなことを考えていると、櫻井先輩が音もなく現れた。こちらもサークルの先輩だ。

 背が高くて、目付きは鋭い。つねに微笑みを浮かべていて、表面上は感じのいいひとだ。しかし、本当のところは人当たりがいいわけではない。その真逆だろう。

 このひととは最悪の出会い方をして、その後、いちおうの和解をした。いまはもう、向こうはなにも気にしていない様子だった。


 私と星野さんを見つけて、


「やあ」


 と微笑んで、椅子に座る。そして、いつものように缶コーヒーを飲み始めた。


 彼に対してのわだかまりはそれほど残っていないが、どういう距離感で接すればいいのか迷うところはある。


 ――何か話したほうがいいかな。


 椅子が少し低いせいもあって、窮屈そうに曲げられている長い足を見つめながら、当たり障りのない話題を探す。するとタイミングよく、授業の終わったチカちゃんがやって来た。

 チカちゃんは私の同級生で、大学で初めてできた友人だ。私をこのサークルに誘った張本人でもある。目が大きくて、とても可愛らしい顔をしている。性格はさっぱりしていて、誰にたいしても物怖じすることはない。

 慌ててバッグを移動させて、隣に座ってもらった。チカちゃんがいれば、私が会話に頭を悩ませる必要はない。


 こうして向かい側の長椅子に櫻井先輩と星野さん、こちら側に私とチカちゃんが座ることになった。

 すると待ち構えていたように、星野さんが、


「ちょっと聞いてくれる?」


 と身をのりだしてきた。

 どうやら話したいことがあったようだ。

 星野さんのこういう態度は珍しい。


「あのさあ、スライムって、本当にいるんだね」

 

 星野さんの口からでてきたのはこんな言葉だった。


「昨日、家の近所でスライムを見かけたんだ」


 あまりにも予想外のことで、何を言っているのかすぐにはわからなくて、意味がわかったあとも理解はできなかった。そんなものがいるわけがない。


「へえ、珍しいことがあったんだね」


 櫻井先輩は眉をあげて、驚くというよりも面白がっているようだった。


「スライムって、なにそれ」


 チカちゃんが冷たく言い放った。


「スライムっていうのはね、あの、ゲームに出てくるような、半透明の」


 と星野さんが身振りを交えて説明を始める。チカちゃんが言いたかったのは、たぶんそういうことではないと思う。

 説明をさえぎって、


「どこで?」


 とチカちゃんが尋ねた。


「あのね、うちの近所。コンビニに行く途中の空き地」


 星野さんが答える。

 布団のなかで見たという話ではないようだ。


「何かと見間違えたんじゃないの。星野さん、そのときメガネかけてなかったんでしょ? そんなのいないよ?」


 チカちゃんの言葉に、星野さんがうなずいた。


「そう、だから見間違いかなあ、とも思うんだけど。はっきり見てるわけじゃあないし。やっぱりいないのかなあ」


「あれ、星野さん、メガネかけるんですか?」


「あ、うん。目が悪いから。と言っても、いつもはかけてないんだけど」


 どうやら目が細いのも近眼のせいらしい。


「碁を打つときはかけてるよね。興味があることをするときにだけ、かけてるんじゃないの」


 と櫻井先輩が言うと、「ああ、うん。そうそう。見る必要ないときにはかけない。見る意味ないから」と大きくうなずいていた。


 ――これはどういうことだろう。


 私は思った。

 私といるときに、星野さんがメガネをかけるのを見たことはない。

 これをどう解釈すればいいのだろうか。

 怒ればいいだろうか。


「そもそも、スライムとかいきなり言って、変でしょ。星野さんゲームやるの?」


 とチカちゃんが聞くと、


「ああ、うん。休みの日は、家でずっとやってる」


 と答えていた。ワイルドな見た目の印象とは、いろいろギャップのあるひとだ。


「そのスライムを見た空き地って、本当に空き地なの? 駐車場?」


 櫻井先輩が質問をする。


「えっと、空き地。地面が見えてて、草も生えてる。けっこう広いから、車も停められると思うけど」


「ふーん」とうなずいて、


「見間違いだとしても、何と見間違ったんだろうね。スライムに見えるものって、何かあるのかな」


 と櫻井先輩が言った。

 言われてみれば、それも不思議なことだった。そんなものは思いつかない。


 ――もしかしたら本当に、スライムとか、そんなわけのわからない生物がいるんだろうか。


 そう考えて、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、少し不安になった。

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