Bad Boys!【懺悔と追憶の日々】
ブザーが鳴り終え、ADが、「5、4、3……」と秒読みを始める。
司会者が心の中で秒読みを続け、絶妙なタイミングで話しだした。
「それでは今回お越し頂いたのは、スポーツフィッシングとしても有名な、ブラックバス
を釣りながらアメリカを転戦されている、バスフィッシング・プロフェッショナルの東條
雅彦さんにお越し頂きました」
スタジオ内に拍手が沸き、私は司会者と客席に、軽く「どうも」と微笑みながら会釈した。
司会者が続ける。
「東條さんは、日本人で初めてアメリカのバストーナメントの最高峰、B.A.S.S.(バスマス
ター) クラシックに優勝なされたんですよね」
「はい、ありがとうございます。お蔭様で長年の夢が叶いました」
「アメリカでの大会賞金って凄い金額だと伺いましたが?」
「そうですね、日本とは違い本場アメリカではプロスポーツとして確立されていますので、
今年は50万ドルの優勝賞金を頂きました」
「ほぅ、それは凄いですねぇ、そんなに賞金が出るなら、私も是非出場してみたい」
会場から失笑が漏れる。
私は司会者に笑顔で微笑み返し、「ええ、是非チャレンジしてみて下さい」と答えた。
それから司会者は、私の過去の戦歴がどんなものなのか、解説する年表を示しながら話し
出した。
その年表には20歳以後の、日本国内やアメリカでの活躍が記載されていたが、それ以前
のことは何も触れられていなかった。
司会者が話題を変える。
「ところで、釣りを始められたのはいつごろから?」
「小学生の時で、その頃は純粋に釣りを楽しむだけでしたね」
「どんな魚を釣っていたんですか?」
「まぁ、海釣りや川釣りなど、魚釣りが出来るならどんな魚でも良かったんです。友人と
一緒に遊ぶのが目的でしたから」
司会者との話を交わしながら、その当時の様子を思い出していた……。
そう、私の釣り人生はこの時から始まった。
数十年の歳月を経た今でも、鮮明にその当時の記憶は色褪せない。
大人になれば世界が変わり、好きな事が何でも出来て、ヒーローになれると思っていた、
あの頃。
私は今でも忘れられない、あの懐かしい〈昭和の良き日々〉の出来事を……。
釣りを初めて経験したのが、小学2年生の頃だった。
実家の目の前が大阪一広い、一級河川の淀川ということもあり、必然的に釣りに目覚めた。
その頃、特に好きだったのはハゼ釣りだった。
ハゼが一番たくさん釣れる頃は、夏前後である。
この時期は、ハゼの体調が10〜15cm前後と小柄だが、魚の中では馬鹿な部類で、餌
のゴカイやミミズを丸呑みする。
だから労せずして、釣り糸を垂れるだけで、誰でも楽しんで簡単に釣れる魚なのである。
そしてハゼは秋の時期になると、深い海に戻って行く。
冬場になると、ほとんど釣れなくなり、1日釣りをしても1〜2匹釣れれば良い方だった。
淀川では毎年盛んな時期になると、恒例の〈ハゼ釣り大会〉が催されていた。
ハゼ釣り大会は多分、大阪最大の人数が集まる釣り大会であった。
約3.000人以上が集い、淀川の両岸を人で埋め尽くす。
一位になると、巨大トロフィーが贈呈され、地元新聞にも名前が載るほど有名だ。
大会方式は、ハゼ三匹のトータル寸法を計り、一番合計寸法が長い人が優勝である。
上位10位までの入賞者には、釣具などの商品が貰える。
私と友人のケンちゃんも、ご多分に漏れず、この大会に参加していた。
だが、何千人もの釣り人が競う大会なので、当然入賞どころか下の方の成績ばかりだった。
それから数年経ち、小学5年生の冬に久しぶりに釣りに行った時、ケンちゃんが恐るべ
き提案を私に打ち明けた。
「なぁマー坊、毎年ハゼ釣り大会で勝たれへんやん。考えてんけど、冬にハゼ釣ると無
茶苦茶大きいやん。冬に釣ったハゼを冷凍庫に入れといて、来年のハゼ釣り大会に持って
いかへん?」
私はケンちゃんの奇抜なアイデアに感心し、
「おぉ〜そうしよう!」と言うことで、半年がかりの壮大な計画が実行される事になった。
そしてこの日に釣ったハゼを一匹ずつ持ち帰った。
私は家に着くと、ビニール袋に入れ、そのまま冷凍庫に放り込んだ。
それからしばらくして、そんな事などすっかり忘れていた。
そして翌年の夏が訪れた。
我々は喜び勇んで、その年のハゼ釣り大会に臨んだ。
大会は例年通りの三匹採寸方式だ。
しかし我々には、一匹ずつしか大きいサイズのハゼはない。
その日は残りの二匹を確保する為に頑張って釣るが、どれもせいぜい13cm前後のサイ
ズしかない。
そうしてようやく、その日の釣りが終了した。
我々は採寸場まで、今日釣り上げた二匹と、今日解凍したハゼを持っていくことにした。
解凍方法は、川の水に漬けただけの自然解凍……。
当然、私の巨大ハゼは、ビニールに入れっぱなしだったので、保存状態が悪く、今にも
〈目ん玉〉が零れ落ちそうなほど傷んでいる。
私は生まれてこのかた、味わった事のない恐怖心を持って、ハゼを審査員に差し出した。
表情は、子供の満面の引きつり笑顔だったが、心臓は肥大化して、今にも血流過多で失神
寸前だった。
審査員は、私の巨大ハゼを採寸し、「27.5cm〜!!!」と大声で叫んだ!
周りの人々は、「うわぁぁ〜凄い〜!」と雄叫びをあげる!
記憶によれば、50人は私の周りに群がって来ただろうか?
想像して欲しい……。
僅か12歳に満たない少年が、3.000人以上の大人を欺く怖さを……。
私は優越感など感じる余裕もなく、落ちかけたハゼの目が悟られないように神に祈った。
この時、子供心にも“淀川を泳いでアメリカに移住しよう……”と、訳の分からぬ自己逃
避を考えてしまった。
次にケンちゃんの採寸だ。
ケンちゃんは、やはりプロだった……。
冷凍庫に入れる前に、何重にもアルミホイルに包み、完全包装をして冷凍していた為に、
今釣り上げた!と、思わんばかりの保存状態で、まさに芸術の域に達していた。
ケンちゃんのハゼは、「26.3cm〜!」
またしても歓声が沸きあがる。
……そして、いよいよ結果発表の時が訪れた。
私はこの時ほど心の中で“頼むから1位にならないでくれ〜!!!”と思った事はない。
日頃から信心深かった、私の祈りは神に通じたみたいである。
……結果、私は2位だった。
優勝者との差異は、僅か5mmであった。
ケンちゃんは8mm差で3位だった。
不自然な事この上ない……。
この時期に26cmオーバーのハゼなど、在りえない。
それも友達同士で、一匹ずつだけ飛び抜けた巨大ハゼを、同時に釣り上げるなんて、存在
しないと言ってもいいだろう。
もしも優勝していたなら、今現在の思い出としてではなく、当時の新聞ネタになっていた
かも知れない……。
司会者の問いかけに、夢から覚めたように我に返った。
「最後に伺いますが、どうしたら大きなバスが釣れるのか、教えて貰えませんか?」
「そうですね、まずは最低限度のテクニック、もっと大事なことは、勝とうと思う気持ち
を強く持ち続けることです。そして魚を釣りたいと思う純粋な想いが頂点へと導きます」
「なるほど、ではその秘訣とは?」
私はにやりと笑い、
「それはお教え出来ません、秘密です」とだけ、答えた。
テレビの収録を終え、アメリカにはしばらく帰らないつもりでいた。
長い間の海外生活に疲れ、実家に戻りリフレッシュする予定だ。
私は実家に戻る前に、寄り道をする事にした。
目的地に着くと、店の前に立ち、看板を眺めた。
そこには【山下釣具店】と書かれていた。
私は店に入り、男性に声を掛けた。
「よっ!ケンちゃん、思いっきり久しぶりやな!元気にしてたか?」
彼は私に一瞬驚き、しばらくの間、唖然とした表情をして、
「よぉ〜!マー坊やないか!相変わらず荒稼ぎしてるらしいな、噂には聞いてるよ」
そう言われ、すかさず、
「何言ってやがる、その為にどれだけ血の滲む努力してきたか知らんくせに」
私は、昔と何ら変わりの無い、彼との脳天気な会話が妙に懐かしかった。
私が彼と会うのは学生時代以来で、既に数十年の時が経っていた。
突然、彼が思い出したように、プッ!と吹き出し、
「まさか、俺が教えた勝つための〈裏ワザ〉使ってるんやないやろうな?」
彼が茶化したように言う。
「アホか、そんなことしたら一発でこれや」
そう言って、右手で喉をかき切る仕草をしてみせる。
「ははは!冗談冗談や、しかし俺もお前も死ぬまで釣りからは離れられへんなぁ」
二人して笑いながら昔話に花を咲かせた。
彼は、釣具を扱う会社に就職し、その後退職して今の釣具店を経営している。
「店の経営は順調にいってるか?」
「まぁまぁやけど、最近じゃお前のようにルアーで釣るバス狙いの客ばっかりや。普通の
釣りを楽しむお客さんは減る一方でつまらんわ……」
手元にあった竿を眺めながら、寂しそうに答えた。
私は彼と、しばしのあいだ旧友を温め、そのうち一緒にのんびり釣りに行く約束をして別
れた。
私は実家に戻り、数日間ダラダラと過ごした。
充分精気を養ったあと、何故か〈ハゼ釣り大会〉に無名で参加しようと思った。
多分心のどこかで、純粋に釣りだけを楽しんでいた、少々悪ガキだった過去の自分に戻
りたかったのだろう。
大会主催者に問い合わせ、最近の参加人数を聞くと、ケンちゃんが言ったとおり、昔と違
い近年〈ハゼ釣り大会〉の参加者は減少の一途をたどっていた。
私は参加する変わりに、その年の個人スポンサーになることを頼み、快諾を得た。
賞金は、優勝者に100万円、100位までの入賞者には商品を渡すことにした。
この優勝賞金が話題になり、その年の参加者は以前の活気を取り戻した。
そして大盛況の後、大会は無事終了を迎えた。
次々と名前が呼ばれる入賞者。
そんな中、みんなが喜んでいるにも拘らず、一人よそよそしく、オドオドしている少年。
どうやら伝統は受け継がれていたみたいである……。
私は少し嬉しくなり、その少年に近づき、背中にそっと手を置きながら耳打ちした。
「釣具屋のオヤジによろしく」
その言葉で、少年は緊張感から解放されたような安堵の表情を見せた。
そうして、少年だけに判るように、こっそり微笑みながらウインクした。
私は約束通り、ケンちゃんと一緒にのんびり釣りを楽しんだ後、アメリカに戻った。
そして私はそれ以来、日本に戻ることはなかった。
最初から決めていた。アメリカという大地に骨を埋める前に、日本に戻り、もう一度だけ
自分の原点を感じたかったからだ。
釣りに駆けた人生も、既に60年以上過ぎ去っていた。
天命を全うするのも、あと僅かだろう。すい臓癌は着実に年老いた体を蝕んでいる。
夕日に照らされ、真紅に染まったアーカンソー・リバーに流れ着いた流木に腰掛けながら
写真を見つめていた。
そこには、〈僕〉と〈ケンちゃん〉が肩を組み、少年のような満面の笑顔で、釣った魚を
手にしている姿があった。
それはまるで、あの頃の悪ガキに戻ったように……。
私は過去を振り返り、辞世の句を一人呟く。
“釣りは己との戦いである。釣りを通して精神力を養ってきたと言っても過言ではない”
“そして、ありがとう……”