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或る勇者  作者: 入江九夜鳥
辺境の騎士
1/4

1/4  寒村の墓地

  †



 鈍い色の空だった。

冷たさを孕んだ風は、冬の到来を予感させた。

 目にかかった前髪を掻きあげて、壮年の男、ジェイスは北の方角を見た。そびえる山脈の頂には、既に白い雪が降り積もっている。あとひと月もせぬうちに、この辺りも雪に閉ざされることだろう。

 ジェイスがいるのは、王国の辺境にある小さな村の、そのまた端にある墓地だった。

 柵に寄りかかる彼の前には、小岩が置いてある。


 墓石である。

 その下に眠る者の名は刻まれていない。

 何の変哲もない、只の墓石だった。


 聞けば、『彼』が永遠の眠りについたのは今から十年ほども前のことになると言う。

 十年前と言えば、ジェイスが王宮騎士の位を返上した頃だ。以来、王都に戻ることは無く、辺境の村や街を巡る旅の暮らしが続いている。使い込まれた剣を腰に、冒険者の真似事で日銭を稼ぐ日々であった。


 この村に寄ったのは、商隊の護衛を引き受けたからだった。

 魔王は滅んだとは言え、辺境の旅は危険が伴う。魔物や盗賊から身を守る為、護衛を雇うのは常識だ。ジェイスはその仕事を受けて、受けた後で行程の半ばにこのラッケン村で二泊もすることを知った。中継点であるだけでなく、そこでも商売をするらしい。間抜けなことに、ジェイスは別の村を通るのだと勝手に勘違いしていたのだ。


 もし知っていたとしたら、仕事を受けなかっただろうか。

 わからない。受けなかったかもしれない。

 だが、こうしてこの村に辿り付いた以上、ジェイスはある人物の元を訪ねずにはいられなかった。

 そうして訪ねた小さな民家で、彼の死を知ったのである。


 ジェイスは何度目かの嘆息をせずにはいられなかった。

 彼の死は――実のところ、さほどの衝撃ではなかった。

 最後に見た彼の姿は、素人目に見ても余命幾許かというものだったからだ。むしろ、別れてから一年以上も保っていたことに驚くほどだ。

 だから嘆息の理由は別にある。

 それは、この小さな墓石だった。

 何の変哲もない墓石だ。周りを見れば、似たような石が墓地にはいくつも並んでいる。

 何も変ではない。


 問題は、彼が――今や墓石の下で永遠の眠りにつく彼が、本来であれば国葬によって見送られるべき英雄であるということ。

 そしてジェイスが、彼が望んだとはいえ、彼がこの村にいるという情報を握りつぶした張本人であるということ。


 小さな墓石の下で永遠の眠りについた、彼。

 栄達を望まず、辺境の村で余生を過ごすことを望んだ彼。

 

 それは勇者。

 

 魔王を倒し、人々の世に平和をもたらしてくれた、勇者シンその人だった。


  †


 今や壮年となったジェイスにも、当然だが少年だった時代がある。

 その頃を指して、歴史家は『黒い季節』と呼んだ。

 極北の魔族領に魔王が生まれたのである。魔王は混沌を呼び起こす。ただ存在するだけで、世界に満ちる精霊力の巡りを狂わせ、飢饉や異常気象を起こすと言われる。

 事実、王都に住んでいたジェイス少年の耳にも、魔物の大量発生やら何カ月も雨が降らない土地の噂が届いていた。思い返せば、あの頃見上げる空はいつも、うすくどんよりと曇っていた覚えしかない。

 通りを行きかう大人たちの顔は誰もが不安そうで、胡散臭い祈祷師が終末と救済を叫び街角で人々の耳目を集めていた。


 そんな折、王都に、一人の青年が現れた。

 シンと言う名の彼は精霊の導きによってこの世界に訪れた、只一人闇を払うことが出来るもの――勇者であると、精霊教会の巫女にお告げがもたらされたという。


 文字通り、降って湧いた希望の光。

 一年の準備期間を経て、勇者シンは魔王を討つべく王都を旅立つ。


 盛大なパレードの中、ジェイス少年も人々の希望の担い手を一目見ようと人ごみを掻きわけて観衆の前へと出て勇者を見送る。そして――もしかしたら気のせいかも知れないが、精一杯手を振るジェイスに、勇者シンもまた手を振り返してくれたのだ!


 その時に湧きあがった感情を、今でもジェイスはまざまざと思い出すことができる。全身に震えが走り、心臓の動悸が激しくなり、不思議な程に力が湧いてきた。

 少年ながらも、ジェイスは心に誓う。

 輝かしい精緻な騎士鎧に身を包んだ勇者様のように、自分もなるのだと。

 勇者様のように魔王を討つことはできずとも、王国を、王都を、人々を護るべく王宮の騎士になるのだと、精霊様に誓いを立てたのだ。


 その日より木剣を振りまわし、身体を鍛え、勉強に勤しんだジェイスは長じて後、厳しい試験を突破し、見事王宮騎士見習い一人となった。

 余談だが――ジェイスの同期や近い先輩後輩には、同じく平民の出身者が多い。雑談混じりに王宮騎士を志した理由を尋ねれば、なんてことは無い。皆考える事は同じであると彼らは苦笑した。


 そして更に厳しい訓練を経て、ジェイスが青年となり、見習いから正式に騎士へと昇格するころに、新たに精霊様からの宣託があった。


 魔王は討ち滅ぼされた、と。


 その頃から少しづつ魔物の被害は減り始めた。異常気象も納まり、人々の顔に笑顔が戻る。

 誰もが、勇者様がやってくださったのだと確信していた。王都の通りという通りに、勇者万歳の声と笑顔が溢れていた。


 だが、肝心の勇者は行方を眩ませていた。

 

 魔王討伐の旅の最中、勇者シンは様々な土地を巡り、奇縁から三人の仲間を得て旅を共にしている。しかし、その仲間もまた二人が行方知れずとなっている。残りの一人も魔族領から王国領に戻ってきた後の勇者の足跡を知らずにいた。

 剣士である彼は、群がる人々に勇者シンの行方を尋ねられて苦々しげに「知らん、王国領に入ってすぐに別れた」とだけ告げると、王宮騎士へ取り立てるという国王の申し出を蹴って再び旅に出た。噂では帝国領のある街で行われる武闘大会に参加しているとか、人里離れた山奥で剣術を極めようと修行しているとか……。


 とにかく、勇者シンの足跡は途絶えた。

 だが、王国の意向としてはそれで良しとするわけにはいかない。

 救世の英雄である勇者を迎え、讃えねばならない。でなければ王国は勇者をただの暗殺者扱いだし、当時の世論はそれを許さなかった。

 もちろん、政治的な思惑もそこには無数に蠢いている。

 世界を救った勇者を王宮に迎え入れることができれば――さらには勇者に娘を嫁入りさせ、貴族として盛り立てることができれば。

 そういった政治的な駆け引きのためにも、勇者と言う存在は重要だ。間違っても野放しにしていて良いものではない。

 そこで、勇者捜索隊が選抜された。王国領の隅々まで――帝国領まで、間にある小国群まで赴き、行方不明の勇者を探し出して王宮へとお連れする。それが任務だ。


 王宮騎士ジェイスは、捜索隊に志願した一人だ。

 その任務の裏に政治が絡んでいることは勿論知っていた。だが、もしそれが達成されれば、勇者様は王宮騎士となり、自分たちの同僚になる。もしかしたら、彼は王女を娶り次期国王となるかもしれない。とにかくあの時憧れた勇者シンと、轡を並べてともに戦うことができるかもしれないのだ。

 ジェイスは意気込み、王都を旅立った。

 少ない人数で広い地域を探さなければならないため、ともに出立した同僚たちとは道半ばで別れることになる。

 そうしてジェイスは割り当てられた北側辺境地方を旅し、勇者の行方、その手掛かりを探した。ほとんどがデマだったが――ついに小さな寒村で、ジェイスは、勇者シンを探し出すことに成功した。

 魔王討伐が成されたと精霊のお告げがあってから、四年後のことだった。


 そして彼は、変わり果てた勇者様と対面する。

 右腕と左足を失い、両目とも殆ど見えず、痩せこけかさついた肌、老人のように白髪交じりとなり、介護無しではベッドの上から身を起こすこともできない勇者と。


  †


 今でも、ジェイスはその時のことをまざまざと思い出すことができる――少年だった自分が、勇者様に手を振ってもらった時に覚えた興奮をその身に刻みつけているのと同じように。青年となったジェイスは、変わり果てた勇者様の姿に立ち竦み、戸惑った。

 その時勇者シンは、まだ青年と言って差し支えない年齢のはずだった。だが、そうと知らなければ老人と勘違いしてもおかしくはない程の姿である。

 そして思い知る。

 魔王討伐が成されたとジェイスや王都の人々は呑気に喜び快哉を叫んでいたが、それは死闘だったのだ。手足を失い、文字通り命を削りに削って、ようやく手に入れた勝利だったのだ。王宮の、王都の、王国の、そして世界中の人々の笑顔の代償こそ、勇者の変わり果てた姿だった。


 それでも任務は任務だ。

 ジェイスは自分の身分と、勇者を探し出しに来た理由を正直に告げた。

 だが、というべきか当然、というべきか。

 王宮に迎え入れたい、という申し入れは、勇者本人、及び身の回りの世話をする女性によって拒絶された。アリアと名乗る彼女は、行方不明である勇者の仲間の一人とのことだった。

 彼らは、自分たちのことをそっとしておいて欲しい、と願った。

 また、その場を辞するとき見送られた際に、アリアからは念入りに釘を刺され、懇願された。


 申し訳ないが、自分たちを見つけることは出来なかったことにして欲しい。見ての通り彼は、おそらく長くはもたないだろうし、そのことに自身気付いている。もし、王宮に召し上げられることになれば、その旅は彼の寿命を削ることになるだろう。命がけでこの世界の人々を守ったのだから、その程度の我儘は許されるのではないだろうか。


 王都へと戻る旅の途中、何度もジェイスは考えた。

 ジェイスは、王に忠誠を誓った騎士である。勇者シンを王都へとお連れするのがその任務だ。歩けない勇者様のために、馬車が必要だ。最寄りの街に辿り着いたら、そこの領主と交渉し馬車を用意する。同時に王宮に勇者様発見の早馬を走らせねばならない。

 だが、本当にそうすべきなのだろうか?

 この地方から、早馬でさえ王都まで一週間の道のりだ。馬車で、そして勇者様の体調を考えると最低でもひと月は見なければならない。その長旅が勇者様の残った命を、容赦なく削る――女性の言葉は真実となるだろう。

 また、王都に着いてからの問題もある。

 行方知れずだった勇者シンの発見は、きっと話題になる。馬車の行き道には人々が押し寄せるだろう。そこが大丈夫だったとしても、王宮内の謁見の間まで馬車で乗り込むわけにもいかない。つまり、どうあっても勇者様のあの姿は見世物になってしまう。

 もし、そこまでが上手く行ったとしよう。

 その後、彼はどういう扱いになるだろうか。

 本来であれば、莫大な褒賞と名誉を与えられるはずだ。領地をもらい、貴族に叙せられる。或いは王族の姫を娶り王族の一員となることも有り得る。

 しかし、あの姿ではそんな褒美に何の意味もないと誰もが思うだろうし、事実勇者シンもそれを望んではいなかった。

 おそらく、王宮の一角を借りうけ、そこでひっそりと余生を過ごすことになるだろう。その傍にはあのアリアが付き添う。つまり、部屋とベッドが多少豪華になるだけで今と何も変わらない。


 王都への道程でジェイスは悩んで悩んで悩みぬき、王宮騎士団の団長に報告した。

 自分の担当した地域に、勇者はいなかった。東の帝国へと向かう街道で、それらしき青年が見られたという噂があった、とだけ。

 その噂は王国の東を担当する捜索隊へと伝えられることになった。だが、噂の存在は事実だが、ジェイス自身がその青年が別人であったことを確認している。つまり、ジェイスは勇者を庇い真っ赤な嘘をついた。ジェイスのついた嘘が元で捜索は混乱し、さらに二年ほどを経て捜索は打ち切られる。

 その頃には行方不明の勇者のことを人々は忘れかけていたし、貴族連中や王さえも、今更勇者に出てこられては面倒だ、と思っていた。

 魔王討伐直後ならばいざ知らず、このまま行方不明でいてもらった方が都合が良かったからだ――勇者がその気になれば、莫大な富と名声、そして権力を得ることだろう。それは現在の権力的な序列を大きく揺るがすことになるだろうから。富と権力の中枢に居る者は少ない方が良い、と常から権力者たちは思っている。彼らの間に混乱が起こることもまた望ましくはないのだ。

 結局平和を享受できればそれでいいのか、とあっさり勇者のことを忘れる人々にジェイスは落胆を覚えるが、それを非難する資格は嘘吐きのジェイスには無かった。

 東の捜索に加わったジェイスは、捜索隊の解散とともに王宮騎士を辞した。

 富と権力にしか興味のない王宮とそこに群がる王と貴族たちにも、国と王に忠誠を誓ったのにあっさりとそれを翻した自分にも見切りをつけてしまったからだ。


 人々を護るための騎士になったのになぁ、と自嘲するジェイスは、この先どうしようかと考える。見習いから王宮騎士となってから殆ど間をおかずに捜索隊に加わったから、騎士らしいことを殆どしていない。

 王都の酒場の一角で、酔った頭で自分に残っているものをぼんやりと考える。

 手元にあるのは僅かばかりの退職金と、鍛えた体、身につけた剣術。旅のための知識。そして、勇者様の代わりに、人々を護るのだという幼い頃の誓いだけ。

 たったそれだけだった。


 そして彼は、冒険者もどきとなった。

 他の冒険者と違うのは、誰かを護る仕事しか受けないからだ。希少な薬草や鉱石、あるいは魔物の持つ毛皮や牙などの採取系の依頼は頑として受けなかった。だが盗賊や人里の近くに巣を張った魔物の討伐依頼は進んで引き受けた。

 冒険者は、一般人の想像もつかないような危険の中で生きて行く。だが、冒険者だって人間だ。必要のない危険は冒さない――死なないために、生き延びるために。それはむしろ、危険が身近であるからこそだ。そのために仲間と組み、拠点を定めて依頼をこなすのだ。

 だがジェイスは違った。

 特定のパーティを組まず、一つ所に留まらず旅を続け、迷宮の奥にある財宝や迷宮を攻略することで得る名誉や金、あるいは強大な精霊の加護を得ることにも興味のない冒険者らしからぬ冒険者。

 それが、もどき、と揶揄されるジェイスの評価だ。その評価を聞いた時、ジェイスは怒るでもなく、「騎士としては見習い同然、冒険者としてはもどきも良いとこ。なるほど、半端者の俺に相応しいな」と妙に納得し、からかってきた顔見知りの冒険者を困惑させた。


 そして十数年もの時が過ぎ、ちょっとした勘違いと偶然から、ジェイスは、勇者がその晩年を過ごしたこのラッケン村へと戻ってきた、というわけだった。


  †


 商隊が村に辿りついて落ちついた頃、ジェイスはこの民家を訪れていた。

 道中ではいっそこの家に立ち寄るまいと思っていたのだが、案の定無駄な決意だった。商隊が村の広場に着いて、馬が馬車の頸木から外された頃には、ジェイスはそわそわと落ちつきを無くし、雇い主に断りをいれて広場を離れた。護衛は他にもいる。村の中なら彼一人くらいいなくても、何も問題は無い。


 かつてと同じように民家の扉を開き、ジェイスを迎えたのはアリアだった。中年の婦人となった彼女ではあるが、その面影に若りし頃の美しさが見て取れた。いや、美しいのは顔の造作ではなく心の有りようかも知れないな、などと益体も無い事をジェイスはぼんやりと思った。


 居間に通されて、紅茶を振舞われる。外は晩秋。柔らかな香気と温かみが臓腑に沁みた。

 突然の訪いにも関わらず、アリアはジェイスの来訪を歓迎してくれた。それどころか、自己紹介の必要も無くジェイスのことを覚えてさえいた。


「だって、こんな所に私やあの人をわざわざ訪ねてくる人なんて数えるほどもいませんから」


 そう言ってアリアは微笑む。

 事情はどうあれ勇者シンが望んで姿を隠したのであれば、彼らの生活は必然と慎ましやかに、そして文字通り隠れ潜むようなものになる。短くない期間を過ごしているこの村でさえ、今もアリアは自らの出自を隠し欺いており、アンリという偽名で通している。当然、余所から訪ねて来るものなどいる筈も無いのだ。


 だが、とジェイスは尋ねる。


 アリアは勇者と共に旅をした仲間の一人だ。それだけでも王都に招聘され、精霊教会によって聖人として叙せられてもおかしくないのではないか、とジェイスが問うと、アリアは頬笑みながら首を横に振った。仕草は柔らかかったが、瞳にはきっぱりとした拒絶の意思が込められていた。


「私は、あの方と共に有り続けると決めましたから。この村を離れて暮らすことは有りません」


 その言葉に、ジェイスは居間から寝室に続く扉へと視線をやった。

 かつてであれば、その部屋には勇者シンがいた筈だ。


 たったそれだけの仕草で、アリアはジェイスの考えていることを察したようだ。


「……あの方は、もうずっと前に」

「……そう、でしたか」


 ジェイスは大きな溜息をついた。

 嘘の捜索をしていた時から、ずっと心の中に降り積もり続けていた物がある。

 それは諦念だった。毎日毎日少しずつ積み重なっていく諦めはやがて、もしかして精霊様が奇跡を齎してくれるのではないかという儚い希望の芽を押し潰していた。冒険者としてそれなりに長くなってからはそんな希望を夢想することも無くなっていた。

 冒険者として活動すれば、否応なく様々な形の死に触れる。その機会は、むしろ平和な時代の騎士よりも多い。魔物に襲われて亡くなる農民もいれば、ジェイスが手を掛けた盗賊もいる。昨日酒場で一緒に飲んだ冒険者が、明日迷宮で物言わぬ骸になっていることなど珍しくも無い。

 だから熟達した冒険者たちはみな、一種達観した死生観を有している。

 死は、誰にとっても気まぐれな隣人だ。幾ら厭えども傍にあり、早い遅いや形の違いはあれど、人にはいつか必ず訪れる。貴賎に関係なく、種族に関係なく、善悪に関係なく。ジェイスだっていつか亡くなるし――勇者様はそれが、人より少しばかり早かっただけ。その最期が安らかなものであったことを祈るばかりだ。


 ふと視線を上げれば、柔らかく微笑むアリアの顔があった。


「ありがとうございますね、ジェイスさま」

「何故、俺に礼を言うのです?」

「ジェイスさまは、私たちのささやかな願いを叶えて下さいましたから――あなたこそ、あの時あの人がここに居る事を報告しておけば、今頃は騎士団の長になっていたとしてもおかしくはないではないですか」

「ああ――それは、確かに」


 言われてジェイスは苦笑する。

 アリアが淹れてくれた紅茶の甘い香りと白い湯気に、騎士団を率いて勇敢に戦う自分の姿が映って見えたからだ。それは、見習い時代に仲間たちと語った夢ではあったが……そこには轡を並べて走る、勇者様の姿がいつも一緒だった。でなければ、ジェイス騎士団長は苦境に陥った勇者シンを救けに赴く任務を帯びているに違いなかった。

 根底にあるのがそれだから、ジェイスはあの時、勇者様の行方を上に報告しなかったのだと今更ながらに思い知る。同時に、そんな自分が騎士団長になれることなど、どれほど努力を重ねていたとしても無かっただろうとも。なにを差し置いても王国を護るという覚悟こそ、騎士団長に求められる第一の資質であるからだ。

 おそらく、勇者捜索の件がなくとも遅かれ早かれジェイスは騎士団を辞していたことだろう。

 辞めてしまってから騎士としての自分の限界に気がつくとは、全く何たる皮肉だろうか。

 奇妙な笑みを浮かべたジェイスにアリアは怪訝そうな顔をした。


「いや、何でもないのです。……それよりもアリアどの。宜しければ、教えていただきたいことがあるのですが――」


 そしてジェイスはアリアに案内され、勇者シンの墓所を訪れたのである。


  †


 小さな墓石は、それでも苔一つなく小奇麗にされていた。

 毎日訪れるアリアによって掃き清められているからだ、ということは聞かずとも察せられた。そのアリアはしばらくジェイスとともに並んで墓地の柵に腰かけていたが、用事があると言って家に帰った。

 なんでも、アリアは村では教師のまねごとをして糊口を凌いでいるらしい。こんな小さな村では教師など居る筈もなく、大半の大人たちもせいぜい自分の名前を書けるかどうかといったところ。それでも読み書きと初歩算術くらいはできるようになりたいと願う者は少なくない。でなくばせめて子供たちには将来街に出る機会くらいは与えたいと思っている。だから、村長の家で三日に一度、夕方に行われる『アンリの学び舎』はそれなりに盛況なのだという。


 アリア、ではなくアンリか。

 土の下へと葬られた勇者シンは、最期を看取ったであろう女性の現在をどう思っているのだろう。アリア自身は、今の暮らしも満更ではなさそうではあったが――そんな益体もないことを、独りとなったジェイスはぼんやりと考える。

 

 勇者さま。

 勇者シンさま。

 もし、今の彼女や俺を見て、王国や王都を見て、あなたは一体なんと思うのでしょう。


 問いかけても答えが返ってくるはずもない。それでもジェイスはぼんやりと、勇者が眠る墓石を眺めながら答えが返ってこない色々な問い掛けを投げかけていた。


 北風の冷たさに首を竦めて、ジェイスは日暮れも深まりそろそろ夜になる頃だと気がついた。商隊の元に戻らねばならない。

 アリアとは、明日また会う約束を取り付けてあった。ジェイスたちがこの村を立つのは明後日のことだから、なんとか時間は捻りだせるだろう――そんなことを考えながら広場への道を歩いていると、遠くから硬い、鐘の音が聞こえてきた。カンカンと短く繰り返し何度も叩かれる音は、非常事態であることを告げている。

はっとして顔を上げる。火事か? いや、周囲を見回しても闇に染まりつつある空のどこにも、火の手が上がっている様子はない。

 とにかく何かが起こったことは間違いない。広場へと戻り他の護衛たちと合流し、情報を得なければ――そう思った時ジェイスは、確かに聞いた。鐘の音とともに、必死に張り上げられた声を。


 魔物が、攻めてきたぞぉーーッ


 その意味を頭が理解するよりも早く、もどきと揶揄された冒険者の脚は全力で地面を蹴っていた。



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