セフィロトの樹
連は振り返る。
ここ《セフィロトの樹》に至るまでの出来事を。
眼前に広がっていたのはこの世の物とは思えない壮麗な光景。
空は青く澄んでいるだけというわけでなく、浅緑や薄紫が混じった不可思議な空模様だった。例えると、昼に現れるオーロラといったところか。
それにその上には僅かに覗かせる地面──別の世界がある。
辺りを見渡すと、果てしなく広大な景色が広がっていた。
その水平線の彼方に見えるのは絵の具の白色を一面に塗った感じで、空も地面も白色で染まっている。
しかしそこに行くのは不可能である。なぜならこちらとそこの境界線に結界が張られているからだ。
その行くことの出来ない世界はこう呼ばれている。
────『無』と。
どちらにせよ、そう呼ばれているということは何も無いのだろう。
俺はただ上を目指すだけだ。
……と意気込みだけは良いものの先程から俺は顔をしかめている。
何に対してかというと、この世界の地図にだ。
まさか地図も読めないのか? と馬鹿にされる前に言っておくが地図は読める。だが、この地図は読めない。矛盾していることを言っているわけではない。
小さな子供が一生懸命に描いた落書き──いや、落書きは失礼すぎるか……絵画とでも言っておこう。読めって言われて読める人が何人いるだろうか。
徐々に蟠りと苛立ちが増してくる。
ついに耐えきれなくなった俺は隣にいるのにそれをぶつけた。
「……なあ、ネロよ」
「はい?」
きょとんとした様子で返事をしたネロは猫? である。
なぜ疑問系になってしまったかというとネロはパッと見普通の黒猫だが、尻尾は八本あり、しかも言葉を話せるからである。
ちなみにネロはこの世界の案内人みたいな存在だ。分からない事も多いらしいが少なくとも俺よりかは遥かに情報量は上だろう。
「こんな地図読めるか! 何がこの地図見たら分かりますよだ! はっきり言おう。ちっとも分からん!」
ネロを怒鳴りつける。
するとネロはかなり落ち込んだ様子になる。少々言い過ぎてしまったか。
「ネロはネロなりに頑張ったのです! それときたらあなたという人は! ネロはとっても不愉快で堪りません! ほらこれを見るのです!」
ネロは座って、一方の前足を俺に見せつけてきた。
勿論それは肉球である。
「肉球がどうした」
「肉球がどうしたじゃないです! これを見てもまだ分からないのですか!」
「分からない」
どういうわけか逆ギレされてしまった。言いたいのはこっちの方なんだが。
しかしそれを言ったら好き好んで火に油をかけるようなものだ。うん、止めておこう。
「……はあ……。がっかりです。肉球があるとペン持つの意外と苦労するんですよ」 そう言われてようやく分かった。自分の非を深く反省する。
「俺が悪かったよ。ネロ」
「謝ったので許します」
ネロは機嫌を取り戻した様だ。
良かった良かったと安堵しているとネロがある提案をしてきた。
「ならこうすればいいのです!」
「どうするんだ?」
「あなたが地図を書くのです!」
「……え?」
「ネロが説明するので、あなたはその通りに地図を書けばいいのです!」
ネロが不敵な笑みを浮かべてそう言う。尤もな提案であるが、ネロはまだ怒っているのであろう。機嫌を取り戻したと思った今の時点で俺の事を名前で呼ばない辺り、それは間違いない。呼ばれ方は別にこのままでもいいが、最悪の場合の状況を考えるとそうもいかない。
「……書こう」
俺が辛うじてネロの要求を飲むと、早速ネロは説明し始めた。
もう分かっていると思うが、先刻この世界を見ていた時に感じた、この世の物とは思えないというのはここが現実世界であるからではない。
──異世界であるからだ。
ネロの説明によると、この世界は結界が円状に貼られていて、十個の球体とそれらを繋ぐ通り道から成り立っている。
階層構造になっており、下から順に俺達が今いる物質界、形成界、創造界、流出界の四つの世界に分かれているそうだ。
それらのバランスをとっているのが、否応無く視界に入ってくる三本の大きな柱──峻厳の柱、均衡の柱、慈悲の柱。その三本の中でも一際大きいのが均衡の柱である。
単純に上の世界に行けるわけではなく、その世界内の球体にいる守護天使を全て倒さなければ行けないらしい。
そしてこの世界はまるで樹のような構造から……。
────『生命の樹』または『セフィロトの樹』。
地図を書き終えると、俺はふと思い出していた。
元の世界。つまり現実世界を。
瞼を閉じると、一筋の涙が頬に伝わり、底知れぬ哀感が俺の身に襲い掛かった。それと同時に、右手をギュッと握りしめた。
今になって心底そう思うのだが、平穏な日常とは不安定な所で成り立っている為、少しのことで少しずつ崩れていく。
いや、最初から崩れているかもしれない。それを隠すために覆われていたものが壊れ、そこから崩れていくと言うのが正しそうだ。
そうして一度崩れ出したらそこから一気に総崩れしていく。どんどん湯水が溢れるかのように崩れていく。止めようとしても止められない。
──振り返ろう。この世界に来るまでの変化の日々を。
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