王子様
それから本格的にヴォルフラウのための勉強をすることになった。
まずは貴族としての立ち振る舞いや礼儀作法などをみっちりと叩き込まれた。教育係には侍女頭の壮年の女性と侍従頭のレイブンだった。特にレイブンの教え方は容赦がなく、ありがたくも半月経たない内にワルツが踊れるほどになった。
「ユーノ様の覚えが早いんですよ!」
ミーアはやっと梳くことを許された(ユーノは自分で身支度をしたがる)髪を丁寧に梳きながら最高の賛辞をしてくれる。
「あのレイブンさんのしごきに半月も耐えたなんて感心するわ~。」
ヘレナは鏡台に腰掛けて髪飾りを物色している。
「…とにかく、殿下や陛下にご迷惑だけは掛けちゃいけないと思って…。」
「迷惑に思うわけないじゃないですか。」
ミーアは困惑して櫛を止める。
「そうよ~。ユーノ様は努力家ね~。あたしたちだってこんなに礼儀ただしくなるのに3年以上かかってるんだから~。」
「あんたに礼儀正しいとか使ってほしくないわね。」
シェールがバスケットを持ってやってきた。ヘレナのお尻を叩いて鏡台から降ろす。
「ユーノ様、今日も読書ですか?…お供も無しなんて心配です。」
お小言を言うのが性分のシェールにユーノは笑って答える。
「大丈夫よ。いつもリンデにいてもらってるから。」
「それならいいんですけど。」
「そうよ~。いっつも誰かに傍に居られると息が詰まっちゃうわよね~。」
ヘレナがいってらっしゃいと手を振るとシェールはその手をペチンと叩く。
「あんたはちょっとぐらい息をつめてみたらどうなの?」
なんだかんだ言ってメイド三人は仲良しなのだ。いつものじゃれあいを見てユーノはリンデを連れていつもの読書場所に行く。
もうすっかり葉が落ちてしまった木にもたれて本を広げる。バスケットにはシェール特製のスコーンと水筒に紅茶が入っている。
レイブンに読むように渡された国の歴史の本。店で売っているようなものではなく、時勢の詳しいところまで書かれていた。家計図には后の名前の横に選定した狼の名前が記されている。まだ、クローネの名前の隣には何も書かれていない。
かさかさと静かに落ち葉を踏む音が聞こえてユーノは顔を上げて硬直した。
乱暴に歩くジョシュアの足音ではないなと思っていたが
「殿下…。」
王子はゆっくりとした歩みでユーノに近づいた。傍らで眠るリンデを見て呟く。
「本当にリンデが懐いてる…。」
ユーノは王子があまりに綺麗な顔をしているので緊張で顔が赤くなっていないか心配だった。
「すごいね。」
「やっぱり、珍しいですか?」
眠るリンデを挟んで木の麓に彼も腰掛けた。風が吹いて彼の髪がきらきら光りながらなびく。
「うん、まず近寄らないよ。…女性が近くに寄るだけですごく唸るんだ。」
そういえば先日サービスをしていたヘレナにうなっていたのを思い出す。ヘレナはまったく気にしていなかったが。
「…。」
会話が途切れて二人はしばらくリンデのきれいな毛並みを見ているだけだったが、最初に口火を切ったのは王子のほうだった。
「あなたに、会いに行かなかったのは、その、親に反抗する私の我儘で、…決してあなたを蔑ろにしていたのではないと…理解していただけるだろうか?」
きっと許しを請う為にじっと見られているのだろうと分かってはいるが、ユーノはこんなキレイな顔の男の人にこんな近くで顔を見られたことがなくて、緊張のあまり、王子の目を見ることが出来なかった。
「は、はい…!」
必死で返事を返すことで精一杯だった。
ユーノは本を片付けるふりをして王子から少し離れた。
「あなたは、家庭教師をしているんだってね。」
「…はい。」
少し離れて、斜め後ろからなら緊張せずに話が出来た。王子の目線も距離があるとぼやけてあまり見えなくなる。
「わたしは、小さい頃から国王になる為の教育をたくさん受けてきた…。政治、経済、宗教…農工業、兵術なんかもね。」
輪郭がぼやけた王子は景色を切り取ればまるで絵画になってしまうんじゃないかというぐらいに美しかった。
「薬学もですか…?」
王子は穏やかに笑った。
「ケニス先生に会った?」
「はい。今度ハーブについてお話していただくことになっています。」
かさかさと葉が擦れる音が気持ちいい
「東方にある漢方という薬学があって、今それを先生と研究しているんだ。」
「でもまだ、全然足りない。…学んでないこと、極めたいことがたくさんあるんだ…。」
遠くを見つめる瞳に強い力がこもっていた。
「だから、お父上や、おじい様のお話に反対されたのですね。」
「…そう、父上や、リンデ…誰が選ぼうと結果は同じ…。私は、まだ、家庭を持つにふさわしくない。自分のことで精一杯なんだ。」
風で乱れた髪を片手で押さえる。乾燥した風が枯葉を上空まで飛ばしていく。
「私は、逆です。自分のことなんてあんまり考えたことないです。」
以前本に挟んでいた落ち葉を取る。セラム夫人の坊ちゃんにあげたら喜ぶかしらと思っていた。
「おじいちゃんやパパ、生徒達と過ごすのが日常で…、自分が誰かのお嫁さんになるなんて一度も考えたことないです。」
「…。」
王子がこっちを見ている。自分でも何故こんな話をしたのかよく分からなかった。
「どんなことを教えているの?」
「え?」
日が傾くのが早くなってきた。もう光は王子の肩から指している。
「家庭教師。」
逆行で見えなかったが王子は笑っているような気がした。
「え、と。ピアノとか、詩を書くこととか…あとは、外遊びとか…。」
「外遊び?」
声にくすくすと笑いが含まれる。楽しんでいるようだ。
「はい、…お勉強や躾を教えるのはやっぱり年配の人のほうが良いみたいで…忍耐力もいるし。わたしみたいな若い家庭教師はほとんど子守りに近いですよ。虫を捕まえたりもしますし。」
「虫を?あなたが?」
「はい。…こんなのとか。」
落ち葉の裏に隠れる虫をひょいと捕まえる。リンデが興味津々に鼻をよせる。
「バッタですね。」
「すごいな…。王宮じゃめったに拝めないぞ。」
バッタを見るためにまた顔が近づいてしまった。しかし王子はバッタにずいぶんはしゃいで緊張するユーノには気付いていないようだった。
「子供は喜びますけど…やっぱり奥様には怒られます。」
そういうと王子は笑った。笑うと子供のようだった。
やっと対面しました。