風船
お待たせしました。再開です。
「姫さん。」
クローネの馬に二人乗りをして花畑を抜けると騎馬したジョシュアが出迎えてくれた。
「ジョシュアさん。」
「すまねえ、姫さん。俺が付いていながら…不甲斐ねえ。」
ユーノを見失ってから、ジョシュアは侯爵領の西側に慰問と調査に出ていたクローネの元へ走り報告をした。報告を受けたクローネはすぐにリンデを連れてユーノを探しに来てくれたのだ。
ジョシュア自身も今まで別の所を探して走ったのだろう、汗だくで、ボロボロの姿だった。
「いいえ、ジョシュアさん。ご心配をかけて、ごめんなさい。」
「本当に、無事に見つかって…良かったよ。」
ジョシュアはやっと、安心したように笑った。
ユーノが見つかったのは侯爵領の境界線のあたりだった。このまま城に戻るより、侯爵領の方が近いというので、ユーノとクローネは侯爵領の西側にある集落に一晩身を寄せることにした。
元々、ケニス達が調査の際に一泊することになっていたので、宿を提供してくれた老夫婦は、二人を学者の夫婦だと誤解した。
「あらまあ、夫婦で学者だなんて、すごいわねえ。」
老婦人はユーノの痛めた足に薬草をつぶした湿布を巻きながら喋っている。
ユーノは弾んだ声で包帯を巻いてくれている老婦人に夫婦ではないと伝えようとしたが、今クローネの正体を明かして大騒ぎになるよりは、いいのかもしれない。と苦笑いで返すことにした。
「狼が出たのですって?恐ろしかったわねえ。」
「はい。リンデ…連れていた狼が追い払ってくれたので助かりました。」
「地滑りや山崩れが続いて山羊が住処を無くしたの。このあたりの狼は山羊を狙っている群れが多いから山羊を追って山から下りたのね。」
「銀色の、狼でした。」
氷や雪で作ったような冷たい表情をしていた。ユーノに向けていた怒りは獲物が居なくなった焦りだったのだろうか。
老婦人は足首の包帯をきつめに締めながら眉をひそめた
「それはこの辺りの森のリーダーだわ。この森もそろそろ崩れてしまうのかしら…。恐ろしいわ。」
手当を終えたユーノはクローネと一緒に簡単な食事とお茶をごちそうになった。
老夫婦は2年前の山崩れから、雨の度に薬草園の土が流され、なかなか根付かずに苦労しているらしい。
「最近は国から買う種も値上がりしているし、なかなか生活もうまくいかないねえ。」
「おじいさんったら、学者さんに愚痴を言っても仕方ないでしょう。」
「いえ、偉い人たちに伝えてみます。ご意見ありがとうございます。」
クローネは老夫婦にお辞儀をした。
その表情がずいぶん疲れているように見えたので、ユーノは早めに休ませて貰おうと、食卓を後にした。
夫婦だと誤解されたままだったので、当たり前と言えば当たり前なのだが、用意された寝室は一つで、ベッドも一つだった。
城での譲り合いと同じく、ユーノは自分がソファか床で寝ると主張したが、今日ばかりはクローネがそれを許さなかった。
「ユーノ。」
クローネは真剣な顔で、ユーノの両肩を掴んだ。
「はい…。」
「君は、今日とても大変な目に合ったんだよ。暴れ馬から落っこちて、捻挫した上に、冷たい水で体を冷やして、おまけに狼にまで襲われて!」
そうしてクローネはユーノをベッドに押し込んで、首元までしっかりと毛布を引き上げた。
「お願いだから、今日はちゃんとベッドで寝てくれ。」
ユーノが毛布から目だけを上げると、クローネは毛布に手を掛けたまま、何かを考えているようだった。そういえば、先ほど老夫婦と話した後も、何か思案にふけるような表情をしていた。
「殿下?」
やはりベッドを代わろうと上体を起こすが、止められる。クローネは一度目を逸らしたが、再び二人は見つめあった。
「本当に、今日は大変な日だったね。」
「…はい。」
改めて口にされると、本当に大変な一日だった。でも、探しに来てくれた。そして二人で花畑を見た。それだけで体はくたくたに疲れているのに、目を閉じたくなかった。
「ゆっくり休んで。」
閉じたくないと抵抗していた瞼がついに観念して閉じていく。
まどろむユーノにクローネの呟きがなぜかはっきりと聞こえた
「泣かせない、と決めたはずなのに。嘘をついてばかりだ。」
「わたしは、もう嘘は付きたくない。誰にも…。」
嘘は付きたくないと殿下は言った。
さっきまでふわふわと風船のように弾んでいたユーノの心に小さな穴が開いて、たちまち萎んでしまう。
知られてはいけない、非公開の婚約者なのに、結局こうして侯爵領までやってきてしまった。とても、迷惑をかけている。本当なら城に戻るジョシュアの馬に乗せてもらってしまえばいいのに。
次の選定式までは、仮の婚約者として決してユーノが困るようなことをしないと約束してくれたから、彼はここまで優しいのだ。
彼に優しくされると、胸が苦しくなる。
ふわふわ浮いて行った風船は手の届かないところに飛んで行って、やがて割れてしまう。
優しい彼を困らせてはいけない。と、ユーノは強く思った。
城のみんなや、国の人に嘘をついて、自分の心にも嘘をついて、それでも優しくしてくれる彼をこれ以上煩わせるわけにはいかない。
優しい彼の為に
私は明日から彼の家庭教師になろう。
滲んだ涙を隠すようにユーノは寝返りを打つふりをしてクローネに背を向けた。




