馬上の人
少し興奮気味の馬のぶるるという鳴き声に、ユーノは首をさすってそれをなだめた。
「…やっぱり、狼の匂いが気になるんでしょうか?」
出かける前に寄った狼小屋で子おおかみ達にじゃれ付かれてしまったので馬が匂いに怯えてるのかと思ったのだ。
「…いや、手綱を引くタイミングだな。あんたは少し焦りすぎる。」
隣で栗毛の馬を駈っているジョシュアが指摘する。
ジョシュアに誘われて遠乗りにやってきた。風はあまり冷たくないが時折強く吹いて、ユーノは帽子が飛ばないように結わえられたショールを結びなおした。
一般的に貴族の女性が馬に乗るときは横向きに乗るらしい。ユーノは横乗りの経験がないので、こうしてジョシュアに指導してもらっている。
クローネが慰問に出発してから元気がなくなったユーノの気分転換にとメイドたちに無理やりに計画されたのだが、外の空気を吸って多少は落ち込んだ気分も浮かび上がったかとジョシュアは心の中で嘆息した。
「普通にまたがるのは平気なんですけど、この、乗り方だと、どうしても体がずり落ちそうになって、手綱を強く握ってしまうんですよね。」
「なるほどね…」
ジョシュアは角ばった顎に手を当て、しばらく考え事をしていた。やがておもむろに下馬してユーノの乗る灰色の馬に近づいた。
「まー、横乗りなんてのは始めは誰かに馬引いてもらわねーと出来ない乗り方だわな…っと。」
いいながらユーノの腰をつかんでひょいと持ち上げる。
「きゃあ!」
「尻と鞍があってねーからな。鞍は男用だし、…少しクッションかなんかで詰めれば固定できるか。」
鞍のことしか考えてないからだと思うが、思いっきり腰とお尻を触られまくってユーノはあたふたするしかなかった。
「あと、足は横向いてても、腰から上は前向いてないとそらバランス崩すわな。」
「あ、そ、そうか…。」
腰をひねって胸は正面を向くようにして手綱を引くと、灰色の馬はすんなりと行きたい方向に歩いてくれた。乗るほうも楽に馬の振動にあわせられた。
「いいんじゃねーか?」
「はい、上手く行きました!ありがとうございます。ジョシュアさん。」
ジョシュアは「はいはい、すごいすごい。」と子供をあやすように答えたが口の端でしっかり笑ってくれていた。
遠乗りしたのは王宮の北にある平原で、ところどころに小さな森が点在している広い草原だった。遠くに雪を被った山脈がそびえていて、壮大な景色を見ていると疲れも飛んでしまいそうだった。
「あちらが侯爵領になるんですか?」
山脈の方を見ながらユーノは問うた。
「そうだな。あの辺りの山すそからもう侯爵領になる。」
山脈の麓から降りてくる稜線から北が侯爵領。クローネはあの険しい山を越えたのだろうかと遠く離れた人に思いを馳せた
「そろそろ戻るぞ。姫さん。」
「はい。お付き合いしていただいて、ありがとうございました。」
頭を下げるとジョシュアは勝手が悪いのか頭をぼりぼりかきむしる。
「まあな。誰かしら護衛っつーか付き人はいるだろう。慣れてねんだし。ま、俺としては子守や護衛より馬上槍のほうが断然得意なんだがな。」
そういえばエドが兵舎を案内してくれた時にそんな事を言っていたのを思い出した。
「ジョシュアさんの馬上槍、わたし、まだ見たことないです。」
「…そうだっけか?収穫祭の時にしたと思うが。」
収穫祭の頃はまだレイブンのしごきやクローネの政務を手伝ってばかりいた時期でそれどころではなかったというのが本音なのだが、ユーノは曖昧に笑うしかなかった。
そのとき馬が小さな岩を踏み割った。ばきんと嫌な音が聞こえる。
音と痛みに驚いた馬がいななき、ユーノの体を振り落とそうと暴れる。
「きゃぁっ!」
「姫さん!」
ジョシュアの慌てる声が聞こえるが、ユーノは手綱を掴み損ねて前かがみに馬の首を抱き、振り落とされないようにするので精一杯だった。
「くそっ!」
ジョシュアはユーノの馬に並走して彼女を抱きかかえようとするが、暴れる馬は後ろ足を蹴り上げてジョシュアが近づくことを簡単には許さずユーノを乗せたまま何処かへ走り去ってしまった。




