ピアノ
先に動いたのはクローネだった。軽い咳払いをしてピアノの傍に寄る。
ユーノもどうしたらいいか分からずまた座りなおす。
じっと見られて居心地が悪かった。開いた胸元がますます気になってどきどきと心臓の音しか聞こえなくなったように感じる。
「…驚いた…。」
小さく呟いたクローネの声は掠れてよく聞こえなかった。
「え?」
振り仰いで見ると、彼は目を逸らした。心なしか頬が赤いように見えた気がしたが、それを質問する前にクローネは話題を変えた。
「ピアノ、上手いね。」
「…そうでしょうか?子供向けの曲しか覚えてないんですけど…」
はにかんでみるとクローネがユーノの横に立ち、少し屈んで鍵盤を叩く。
「わたしも小さい頃習っていたよ。『小鳥の輪唱』とか。」
1オクターブ低い位置から始めのフレーズをクローネが叩くとユーノがそれに続いて輪唱する。子供向けの弾むようなメロディが鍵盤の上で指と一緒に踊った。
二人で目を合わせて最後のフレーズを揃えて弾き終わるとユーノは我慢できずに笑った。はしゃいだ笑顔にクローネも笑った。
ひとしきり笑った後にクローネはため息を漏らしてユーノをまた見つめた。
「…殿下?」
見つめる目が眩しいものを見るように眇められる
クローネの手のひらがユーノの頬をそっと撫でた。
「…綺麗だ。」
それだけ言ってまた黙って見つめてこられて、ユーノはどぎまぎしずぎてまたここから走って逃げ出したくなった。
「あ、あの。」
「…居るのは分かってるんですよ、母上!」
ユーノを庇うように片腕で抱き寄せてクローネはピアノの向こうにあるテラスに声をかける。
「は、ははうえ?」
ユーノのとまどいと抱き寄せられてることにビックリしてひっくり返ってしまった声と同時にミセス・ローゼリアがレースのカーテンをめくりながら部屋に戻ってきた。
「まあ、クローネ。いいところだったんだから、もっとこう…積極的に行きなさいな。」
「息子になんて事をアドバイスしてるんですか。」
夢見がちに体をくねらせるミセス・ローゼリアにクローネは呆れている。
「それにクローネ。長旅から帰ってきた母に挨拶はないの?」
「帰ってきてすぐに行方をくらませて遊んでいた人が何をおっしゃいますか。ケニスが死にそうな顔をしていましたよ…おかえりなさい。母上。」
肩をすくめてミセス・ローゼリアの頬にキスをする。
「殿下、じゃあ、この方は殿下の…」
「知らないでいたの?」
驚くユーノにクローネも驚いた。
「うふふ、人を驚かせるのは楽しいわね?」
ミセス・ローゼリアはイタズラが成功したみたいに笑った。
「王后陛下…?」
それにしては恰好がとてもラフなのだけど。
「ロゼッター!」
その時扉が壊れそうなほどに大きな音をたてて開き、父王がミセス・ローゼリアに向かって(文字通り)突進してきた。クローネはすかさずユーノを抱いて離れた。
「フィーリップ!」
ミセス・ローゼリアは両手を広げて父王に負けじと突進してその首にしがみついた。
あっけにとられるユーノをよそに、父王とミセス・ローゼリアはくるくると回っている。ついでに回る勢いに負けて二人で転がってしまう。
ユーノは慌てて助けに入ろうとしたが、クローネは呆れてこめかみを押さえる。
「いつも…こうなんですか?」
「いつもこうなんだよ。」
転げたままミセス・ローゼリアは父王の顔中に熱烈なキスをしていた。
「ロゼッタ、実家はどうだったか?姉上たちは息災だったか?」
「ええ、フィーリップ。みんな元気だったわ。」
父王はミセス・ローゼリアことロゼッタを担いで歩く。逞しい体躯の父王でないと出来ない芸当だ
「お前の帰りを待っていたんだよ。」
「そうね。お義父様の誕生日のお祝いもしないといけないし、建国記念式典の準備と…来賓の宿泊する屋敷を整理しないといけないわね。お姉さまたちは来月には来て下さるって言っていたし。」
「おお、クローネ、いたのか。そういえばお前、ロゼッタにユーノの事紹介したのか?」
「紹介ですか?式をした日に手紙を出しましたが…。」
「ユーノ、こっちへおいで。」
「…はい。陛下。」
父王に呼ばれ、大きな手を取る。パパとは違う男らしい手だ。
「手紙?わたくし貰っていないわ。ここに帰るまでにわたくし、ミキッドルの海峡まで冒険をしていたのですもの。お姉さまの屋敷に手紙を出したなら多分、すれ違いだわね。」
ロゼッタはきょとんとした顔で言った。海峡は王国のある大陸の一番西の端だ。
「お、今日はいつもよりずっと可愛いじゃないか。ユーノ。誰の見立てだ?」
「わたくしよ、フィーリップ。この子を見ていると…そうねえ、創作意欲が泉のように沸いて出てくるのよ。」
片手を父王につかまれたままロゼッタに抱きしめられる。
「わたくしとってもいい物語が浮かんだのよ。ユーノを見てピンと来たの。」
「ああ、分かった。その話はまた後で聞くよ。それよりも息子にこの子を紹介させてやってくれ。」
父王はクローネを呼び、ユーノの左手をクローネが握る。
頬が桜色に染まるのが自分でも分かった。
「クローネ?」
ロゼッタに名を呼ばれ、クローネは一度ユーノを見てこくりと喉を鳴らした。…緊張しているようだ。
「母上、この方は、」
婚約式の時よりずっと緊張する。
「このひとは、ユーノは…わたしの、ヴォルフラウです。」
父王はにこにこしていた。ロゼッタはしばらく大きく瞳を開けていたが。その表情がみるみる華やかなものに変わる。
「まあ、まあまあ!素敵!」
ロゼッタはユーノに飛びついてくるくる回る。
「あなたが、クローネの?素敵!まるで、物語みたいよ!」
「あ、あのっ、お…奥様!」
遠心力に負けて倒れそうだ。たまらず声を出す。
「奥さまだなんて…!お義母さまって呼んで頂戴!」
「えええ~?」
父王が悪ノリしてユーノとロゼッタを抱えて回る。
「そうだな!じゃあワシはお義父さまでいいぞ!」
「素敵!」
はしゃぐ両親に文字通り振り回されてユーノはへとへとになった。
その後ユーノがリンデに見初められた話を聞いたロゼッタはまた感動して大騒ぎした。




